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2015年5月22日金曜日

大阪市住民投票では高齢者の反対票が帰趨を決したのか(その1・準備)

はじめに

大阪市の特別区設置住民投票の結果は世代間格差の表れである、という指摘が一部にあるという。多数の高齢者層が現状維持を選択したために、若年世代の意見が反映されなかったというのである。これに対して、エンジョウトオル氏は、ウェブサイト『リテラ』の20日記事において、世代別に出口調査への回答率が異なる可能性があること、母集団である世代別人口を考慮すべきこと、若年世代の反対の割合も高いことなどを挙げ、世代間格差を原因とみる意見こそ情報弱者のものである、と一蹴している。

エンジョウ氏の指摘は、それぞれ尤もに聞こえるものの、本件は、本件に関連する数字を精査していかないと、どちらの意見に与すべきか判断しかねる問題である。回顧調査を解釈する際、回収率などのパラメータが決定的な役割を果たしうることは、良く知られている。ひとつひとつのパラメータに対する仮定は単純なもので十分だが、その設定の有無は、結論を真逆のものに導きうるのである。エンジョウ氏自身、世代別人口と世代別投票率に言及してはいるが、一読した限りでは、世代別投票率というパラメータの影響を見極めて結論を記したわけではなさそうである。

そこで、本稿では、投票結果そのものには踏み込まないが、投票結果に付随して提起された「高齢者の反対票が帰趨を決した」という命題の是非について、考察を進めていきたい。作業は、マイペースで進める予定である。この命題は、本質的には、濃度算、異なる濃度の塩水を混ぜ合わせる計算問題と同じ形式でとらえることができる。

大阪市推計人口による世代別人口構成比の確認

まず、確認の意味で、母集団である世代別人口(日本人・外国人の総数)を大阪市のサイトから入手し、再掲することから始めよう。世代間格差という問題意識は、日本全国に共通するものとして語られることが多いようであるが、そう仮定した方が問題を定式化しやすいので、まずは、そうしておく。ところで、大都市圏の中心市街地の高齢化率は、一般に、周辺自治体に比べて低くなる。大阪市と全国の人口構成が大きく異なると、たとえ、各人の投票行動の原理が全国共通のものであろうとも、投票結果が全国からみて予想されたものと異なる。このために、本件のような話題を検討するときには、世代別人口の構成比を確認する作業が必要となるのである。

大阪市の有権者人口における高齢者人口の割合は、高齢者の定義を通常通り65歳以上とすれば、29.2%であり、全国同時期の値は、31.5%(日本人のみでは31.8%)である。高齢者を70歳以上とおくと、全国では22.7%(日本人のみでは23.0%)、大阪市では21.0%である。全国と大阪市との値に見られる差は、大阪市人口で換算して数万人規模に及ぶ。この人数は、今回の投票結果から見ると注意すべき値だが、大阪市の推計人口には、外国人と日本人の区分が含まれないという問題も見られる。ここでは、とりあえず先に進みたい。

表.大阪市 平成26年10月1日現在 世代別 推計人口
人数 構成比 有権者人口における各世代の構成比
全人口 2686246
未成年 412398 15.4%
20代 325010 12.1% 14.3%
30代 379719 14.1% 16.7%
40代 408282 15.2% 18.0%
50代 304597 11.3% 13.4%
60代 352285 13.1% 15.5%
70代以降 480003 17.9% 21.1%
(再掲)65歳以上 663364 24.7% 29.2%
(参考)年齢不詳 23952
出典:大阪市市政 年齢別推計人口 より 平成26年10月1日現在推計人口

(次回に続く)

2015年5月15日金曜日

放火研究の動向(私家版、パート2)

前回より


放火の環境犯罪学的研究と火災研究との精度感の違いは問題にはならない

不穏当な表現になるが、従来型の回帰分析を用いた政策科学系の放火研究は、火災研究者には、実に怪しげなものであると、適切に理解されてきたようである。少なくとも、その精度が低いことを理解してもらえてはいるようではある。自然現象を相手にするための道具立てを学習する課程は、モデルというものを利用する場合の相場観を養う機会となる。ある研究の正当性は、その研究を評価する研究コミュニティを離れて成立することはないから、怪しげな環境犯罪学研究が「放火に対する建築防火政策の効果はまったくない」と主張しても、火災研究コミュニティからは、健全な反論が提起されることが期待されよう。つまり、環境犯罪学者は、研究上の努力を節約していても、いずれは、それぞれの研究の正しさが見極められることを期待しても良いということになる。将来において、環境犯罪学上の誤りは、自然に淘汰されるものと期待できるということである。

ところがそもそも、火災そのものを研究対象とする研究者の承認は、環境犯罪学的な放火研究の成功条件には含まれない。つまり、従来の統計的手法を利用した、環境犯罪学的な放火研究が内包する限界について、共通の理解に至る必要性は、端から存在しない。放火研究という学際的研究において、知識の相違により軋轢が生じる蓋然性は、十分に高い。にもかかわらず、現実には、この辺の難しさを通過しなければならないことは、第一点目の「もったいない」事実である。「放火犯がまさに火を点けようとする環境」の空間スケールは、「可燃物及び着火源が容易に入手可能な現代」というマクロ環境をふまえると、直感的には「放火犯のパーソナルスペース」程度である。その空間スケールは、大きなものであるとしても「放火犯の視界の範囲」程度である。清永賢二氏らの「侵入盗の目の付け所」に関する研究にいう「向こう三軒両隣」程度の大きさの空間が最大のスケール感である。その「向こう三軒両隣」内に可燃物がないという状況は、わが国の「都市空間」では、きわめて考えにくいことである。放火犯になったつもりで考えれば、可燃物は身の周りにあふれているし、マッチやライターもありふれているから、われわれは、誰もが「放火しようと思えばいつでもできる環境」に囲まれて生活していると言っても良い。マンションが立ち並ぶ地域でも、オフィス街でさえも、可燃物はそこかしこに見つかるし、ホームレスを糾弾する気はないが、彼らがしばしば可燃物を不燃建築物の周辺に持ち込むこと自体は、事実である。

「いつ・誰が・何を用いて・どの物品に最初に火を点けたのか」という点の解明は、火災調査の焦点であり、火災研究者の腕の見せ所であろうが、環境犯罪学者の興味を満たすには、「現実の都市のミクロ空間下に火を点けるものがあるかどうか」が分かれば、十分である。両者の興味には、一種の断絶が存在するのである。このため、火災調査に見られるような厳密性は、正確な放火地点の把握に必須ではあるが、仮に、火災調査に現在ほどの厳密性がなかったとしても、環境犯罪学研究に必要な精度感が左右されることはない。(消防署の)予防課の担当者の説明は、信用できるものとして受け入れられ、そのまま研究に利用されて構わないであろう。その上、放火事件の現場には、素人目にも分かるほど、数ヶ月前もの燃焼地点の痕跡が残されていることがあるから、回顧的に放火地点を特定することは、不可能とは言えない。


警察側の情報が研究の精度感を決定的に左右する

その一方で、放火の統計的研究や、あるいは(地理的)プロファイリングなどの成否を決定的に左右するのは、犯人と事件のリンク分析、つまり、どの事件がどの犯人によるものであるのかを紐付ける作業である。にもかかわらず、警察の犯罪統計やリンク分析結果が外部の研究者に公開される公的な仕組みは、存在しない。外部の研究者は、裁判を傍聴し続けるという方法により、データを収集することが原理的には可能であるものの、現実的な手段ではない。次善の方法として、裁判記録を入手するよう努力するというものもあるが、これも系統性という点では、難がある。結局、回顧調査の枠組みに基づき、不完全な報道記事を元に、連続犯と事件との対応関係を調査するしかない。この作業も面倒くさいし、何より、リンク分析としての正確性を保証する役目が研究者に課せられるため、再現性に問題がある。

この事情は、「警察外部の研究者が放火犯と事件の対応関係を知るために報道記事を利用するしかない」という第二点目の「もったいない」事実を生起させる。警察関係者は、警察のデータが権力の源泉となり得ることを、報道関係者とのやりとりを通じて、重々承知している。私のブログ記事は、報道関係者への批判に満ちているが、それでもなお、通常の研究者に比べて、共生関係という観点から見て、彼ら報道関係者が多大な成功を組織として収めていることに、間違いはない。他方で、研究者にデータを公開(あるいは提供)して、彼らからの信頼と社会からの名声を獲得するという警察の作法は、お世辞にも洗練されたものとはなっていないし、現実に、そのような努力に見合う利益もごく小さなものである。「データの共有を進めれば、犯罪学はより進歩するのに」という研究者の嘆息は、数十年前から見出すことができる。これらの諫言は、研究者当人にとって、このような表出が利益にならないことを思えば、相当に根深い事情を指すものであり、社会が傾聴すべきものであると理解すべきであろう。




2017年9月9日修正

多くの理由から、一旦公開を見合わせていたところ、再度公開することとした。これに伴い、若干の修正を加えているが、大意に変更はない。合わせて、タグの体裁も変更した。

2015年5月14日木曜日

放火研究の動向(私家版、パート1)

#放火(火災)研究の動向を、通常のレビュー論文よりもメタな観点から、自戒を込めて短時間で不遜に記したいと思います。レビューとしても落第点の手抜き状態で、先進性もなく、生煮え状態のくせに、明日のわが身を考えずに顕名で各業界に喧嘩を売りまくりました。しかし、含みを持たせて表現しない方がわが国と後進のためになると都合良く考えてみましたので、ブログに記すことにしました。なお、括弧書きは、学術的な用法ではない(誰かの引用を表さない)ので、その点、ご容赦ください。


放火「火災」という表現

放火「火災」とは、消防法の所管する(消火活動の専門家でなければ手の付けられなくなった状態の)現象である。「放火火災」を「放火」と記しても、おそらく、消防関係者のほかは、気に留めることはあるまい。消防関係者も、(私の存じ上げる方々は、相対的に心が広めで熱いので、)問題視することはあるまいとも思われる。しかし、このように説明した上で、改めて「放火火災」と表記すると、読者の皆様には、研究者の自主規制を含みうる表現なのだなあ、とご賢察いただけるものと期待するのである。

社会学では、構築主義の観点から、この種の表現(の経緯や差異)を研究対象の範囲に含めている。「放火罪」と記すと、これは、法学者の専門領域になる。精神医学は、抽象的な意味での「放火犯」を相手にする。「放火犯」というように、表現を括弧書きとしたのは、精神疾患などによる責任無能力状態の者も含むためである。「放火火災」と「放火罪」という表現の違いは、実務についてみれば、「消火活動を優先させる」消防関係者と、「放火犯の検挙を目的とする」警察関係者との違いでもある。

「放火」や、その上位概念の「防犯」のような、組織間の連携・協調が必要な研究分野では、表現ひとつにも留意することが必要であるし、また、そうして初めて、総合的で効率的な対策の糸口も開けようというものである。しかし、幸か不幸か、これらの要素にまんべんなく目配りし、総合的に実務への還元効率を測定できるまでに入念に実施された放火の(また防犯の)政策評価研究は、今までに存在しない。放火犯一人や不燃建築物一棟についての限界効用を計測できるようになってしまうと、個別の研究分野には都合が悪い。放火に関わる多くの学問分野では、手弁当で実施可能な研究は限られており、追加的な研究予算を獲得することが必須業務であるためである


放火に係る政策評価研究の袋小路

困ったことに、私が学んだ環境犯罪学は、このような要素間の兼ね合いを理解の基本に据えている。環境犯罪学に基づく放火研究では、放火を、「放火犯が、放火しやすいところで、放火しやすい物品に火を点ける」というイベントとして理解して予防しようとする。「放火犯(犯行企図者)、放火対象物及び着火物(潜在的な対象物)、ご近所の目(抑止する存在の欠如)」という三要素のいずれに公的な資源を集中すべきかという問題は、それほど話題に上らないものの、実際、解答が必要である。人口減を受けて経済が(ほぼ必然的に)縮小する中、公共が支出できる予算も人員も減少するのが当然であるからである。

ただ、「こうした三種類の要素のうち、どの要素が効果的であるのか」という問いを立てることは、今のところ、現在のわが国の犯罪学界隈で利用されている標準的な回帰分析による限り、かなり無謀である。本点に係る現時点の環境犯罪学研究では、要素の組合せ(交互作用という。)に対する考察が不十分である。この課題を解決するためには、従来使われてきた手法を新規性のあるものに変えるか、または、優れた考察によって不要な交互作用を捨象するという作業が必要とされている。そもそも、従来の回帰分析による環境犯罪学研究では、交互作用は、ほぼ忘れ去られている。

従来型の回帰分析により先の問いを力押しで解くことが無理なことを、数字で示そう。ABC三種の要素を挙げた場合、ABCすべての組合せによる交互作用項(A:B:C,1種※1)、要素2種類からなる交互作用項(A:B,B:C,C:Aの3種)+要素一種のみの独立項(A,B,Cの3種)という、計7種類の影響を考えることができる。しかし、3種の要素に正確に対応する統計を収集することは、無理な話であるから、適当に3種類の統計によって各要素を代表させることを考えてみよう。すると、計9種類の要素では、合計で511(=2の9乗-1)通りの項が式に含まれることになる。これだけの項を含む式を十分な精度で分析するには、伝統的な方法では、2の511乗の個数以上のデータが欲しいところである。しかし、これは、約6.7*10^153であり、とても用意することができない数である。

従来型の方法では、程度の差こそあれ、どのみち直感に頼って作り上げられたモデルを元にする以上、利用する統計の種類が分析の見た目を左右する。もはや統計分析ソフトウェアを一から開発する必要はないし、そのような必要を強く主張する研究者もいないであろうから、誰でも、同じ統計を用いれば、同じような結果に辿り着ける※2。良心的に先行研究を読み込んで変数の集合を選択しても、分析結果は大差ないように見える。結局、使える統計が同じだと、事前の考察の深浅にかかわらず、誰もが同じような結果を得ることになりがちである。

疎行列を取り扱うことができる統計パッケージを用いたり、マルコフ連鎖モンテカルロ法を援用して交互作用を絞り込む統計パッケージを用いれば、ここで見たような直感的なモデル構築を避けられるかもしれない。ただし、期待されるような結果が得られるかどうかは、試してみなければ分からないし、後者は、人間の頭脳で交互作用を取捨選択した結果と比べて優れているかどうか、保証されるわけではなさそうである。新規性のある手法が成功したように見えるか否かは、分析したい現象の構造が事前に知られているかどうかに依存しそうである。

放火研究の評価というよりも、より包括的に、犯罪研究の評価について語っている塩梅になってきたが、これでようやく説明のお膳立ての元となる「政策科学系の放火研究の怪しさ・相場観」の説明が終わったと思うので、次回は、放火研究の評価に話の焦点を戻すことにしたい。繰り返しになるが、ルーティン・アクティビティ理論がいくら直感的に優れているように見えても、これを従来の統計的手法により説明しようとする試みは、いかにも無謀である。しかし、少なくとも、わが国における環境犯罪学界隈で、この事実は真剣かつ深刻に受け止められていない。これは、新規性のある知見ではなく、どちらかといえば常識の部類に入る。


※1 ここでの表記は、Rの記法に従う。Rのlm関数では、A*B*Cと表記すると、全交互作用項を自動的に推定してくれる。個別に交互作用項を設定したい場合は、A:Bのように表記する。

※2 だからこそ、GNUライセンスであるRは、大変ありがたいプラットフォームであり、今や、必須の研究インフラであると思う。しかし、それだけに、青木繁伸先生がRやExcelの関数におかしなところがある場合に警告されてきたことには、注意しておきたいとも思う。

次回に続く


2017年9月9日訂正

語尾の「だ」と「である」の混在を解消した。brタグをpタグに変更した。リンク切れを解消した。