2016年1月27日水曜日

橋爪大三郎氏と島田裕巳氏の対談への批判:テロの危険と交通事故はまったく別物

 マスコミに多く出る「識者」の言説は、テロ活動を起こす者が自称イスラム国のメンバーであると想定するものだけで占められている。この言説は、完全な誤りであるとまではいえないが、ほかの集団についても注視すべきであることを、私は今冬の記事で幾度か述べてきた。テロへの懸念が現実のものとならないことを願うことは、「識者」も私も同様だとは思うのだが、イスラム国によるわが国におけるテロを最大の(差し迫った)危険として述べることは、佐藤優氏ならばまだしも※1、学者であるはずの橋爪大三郎氏と島田裕巳氏には許されることではない。学者の仕事は、正確な知識を産出することであって、独断的な情報を流通させることではないからである※2。秘匿すべき情報筋から確実な情報を入手したのであればともかく、橋爪氏と島田氏は、必要な根拠を提示することもなく、次の憶測を述べている。


日本でもテロは必ず起こる! 〜私たちはもう覚悟を決めるしかない 【特別対談】橋爪大三郎×島田裕巳 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46709?page=3

橋爪 それに「主権国家」の制度は、中東はむろん、アフリカやインド、中国でも実状に合っていません。なんとかなっているのは、欧米と日本ぐらいではないか。私たちが当たり前だと思っている国のありかたも、世界中で機能しているわけではないし、副作用もある。それを踏まえて、「イスラム世界に欧米のやり方を押し付けたのは、本当によかったのか」と反省してみなければならない。
日本でもテロは必ず起こる、と覚悟したほうがいい。テロは少人数でも起こせるので、完全に防ぐのは不可能です。だから、テロは「受忍すべきリスク」だと考えるしかない。自動車事故と同じようなものだと受け止め、たじろがないことが、テロにくじけないということだと思います。

島田 今でも日本では交通事故で年間4000人以上が亡くなっていますが、だからといって自動車を無くすと社会が成り立たない。テロによる犠牲も、私たちの生活を成り立たせるために必要な犠牲だと考えるしかない、ということですね。
#彼らの発言には、ツッコミどころがありすぎる。批判するにもどこから手を付けて良いのか、困るものである。

 本記事では、彼らの発言を批判していくが、彼らの主張は、「ゼロリスク追求を止め、テロという故意の危険を受忍せよ」と説くものと理解して良いであろう。彼らへの批判は、大きく六点に分けられる。まず、ゼロリスク追求の是非は、島田氏や橋爪氏ではなく社会が行うべき仕事である。第二に、故意の危険と過失上の危険とは、区別されなければならない。第三に、テロ対策のコストをなぜ過大なものであると断定できるのか。第四に、根拠として挙げられた交通事故死者数は、警察庁の統計であり、今回の場合は、人口動態統計を用いるのが正しい。第五に、私たちの生活自体が直ちにテロを生じさせることはない。最後に、第五の批判と同内容になるが、「イスラム世界に欧米のやり方を押し付けた」ことがテロの原因となっているわけではなく、「イスラム世界に欧米と同水準の国民国家を作る権利を認めていない」からこそ、テロが生じていることを、橋爪氏と島田氏は理解しなければならない。

 まず、社会的議論を提起する必要について言及することなしにテロの危険を受忍せよと説くことは、国民の理性を馬鹿にした発言であり、オウム真理教を擁護したことに対して、言論人として、「宗教学者」としての責任を取らない島田氏の前歴を想起せずにはいられないものである。二名の議論は、前提なし、考察なし、根拠なしに、意見を社会に一方的に押し付けるものである(第二点目以降を参照されたい)。たとえ、二名の議論がイスラム国による危険を煽るという結論ありきのものであったとしても、その論理上の瑕疵の酷さは、容易に見抜かれてしまい、かえって彼ら二名の腹に一物あることを怪しまれるレベルのものである。

 第二に、刑法学には故意と過失という概念が存在するが、彼らの議論は、この点をまったく無視して交通事故とテロ活動とを比較するものである。自動車は、事故を起こす本人にとってさえ、また社会にとっても、それぞれの効用がゼロサムとならないものである。基本的に便益が大きいことを皆が認めるゆえに、自動車の利用は容認されている。原子力発電は、そのリスクが大きいが、それでも、テロのように社会における便益が限りなくゼロに近いということはない※4。他方、テロという行為については、社会の各人の効用の非対称性が厳然と存在する。普通の人にとってみれば、テロという行動は、テロを生じさせる者にとっては、一定の効用を持つものであると考えることができよう※5。また、ごくまれに、テロが起こされることにより、そこから間接的な利益を得る者もいる。セキュリティ産業や金融取引にかかわる人物がそうであり、私も前者の一部を構成する。しかし、セキュリティ産業にかかわる者の職業倫理として、不要な紛争や軋轢を起こすことは、決して許されないことであり、禁じ手である※3。また、言うまでもないことであるが、大多数の社会の構成員にとって、テロ行為は、不利益しかもたらさない。社会におけるリスクを生じさせる主体とリスクを受忍する主体との間で行われる効用計算の性質がまったく異なる存在をもってきて、リスクを受忍せよと強いることは、功利主義を根拠に挙げるにしては、失当この上ないことである。

 第三に、テロ対策のコスト計算が過大であると、なぜ彼らに断定できるのであろうか。少なくとも、現在、相応のコストがテロ対策に充当されてはいるものの、わが国では、警察官あたりの負担人口にしても、他の先進諸国と比べるとまだまだ低い。彼らは、その影響について言及もしていない。この場合、「テロ対策とコストとの関係は、分かっていない」と結論するのが真っ当な学者の役割である。コスト計算は、常に支出を削減するという結論に至るわけではない。しかし、今回の議論は、テロ対策に対する厳しい視線を削ぐことになりかねないものである。その結果は、テロ対策を現状に押しとどめることになる。さらには、テロ対策に現実に従事する実務者への正当な評価の契機を損ない、士気をかえって損なうことにもなりかねないのである。また、広範な目配りがコスト評価には求められるが、彼らがほかのテロ行為の候補者に言及しないことは、自称イスラム国以外の人物らによりテロ活動が行われた場合、その方面における対策への風当たりを強くすることにもなるのである。

 第四に、テロ対策は、所管が省庁横断的となるリスクを取り扱うものである以上、統一的な基準により比較されなければならない。この場合は、警察庁の交通事故統計ではなく、厚生労働省の人口動態統計によることが必要となる。その過程で初めて、NBCテロのそれぞれから生じるリスクの統一的な比較が可能となるのである。この点、(交通事故が天候などに大きく左右されるために翌日には公表しなければならないという宿命を持ち、)速報性が重視される交通事故統計を利用する島田氏の見識の低さには、愕然とすることしきりである。

 第五の理由と、第六の理由の詳細は、機会を見つけて検討していきたいが、それでも、私たちの生活そのものがテロの直接の原因とならないことは、自明である。個人にとって不当と感じられる生活上の、世界における格差が問題なのである。周囲と比較したときに許容できない程に生活苦や貧困が存在することが、一部の若者をテロへ走らせる遠因となるのである※6。また、テロと先進諸国の生活に対して、一点だけ先に紹介しておきたいことは、悪の枢軸として挙げられたリビアやイラクは、少なくとも西欧諸国による武力介入の以前においては、西欧諸国に対する一般市民を対象とするテロの温床とはならなかったし、曲がりなりにも主権国家として機能していたとされていることである。少なくとも、イラク戦争直前のイラクがアル・カイーダとの関係を否定しており、また、明らかなコネクションに対する証拠が得られないままにイラク戦争が開始されたことは、アメリカ自身の議会報告書によって述べられたことである。イラクにおいて、フセイン政権が崩壊させられた結果、少数民族やシーア派に対する弾圧がありながら曲がりなりにも維持されていた秩序が失われ、より混迷の状態に至ったことは、当時未成年でなければ、全員が理解している(べき)ことである。

 新たな帝国主義の時代である現代において、ある国が外国内のテロ勢力を支援することにより、工作対象国の勢力を減じようとすることは、普遍的に見られる活動である。しかし、自称イスラム国の脅威は、シリア情勢の変化を見れば明白なことであるが、その地における(国民)国家の機能が失われたことに最も大きな問題がある。その歴史上の根は、サイクス=ピコ協定にある。このため、西欧諸国は、その地におけるテロ対策に主要な責任を負うており、また彼らのテロの脅威から逃れることはできない。同様に、その地に混乱と破壊をもたらした西欧諸国に荷担する政策を取るに至った今世紀の日本国がテロの脅威から逃れられないことは、当然の帰結ではある。しかし、現況と、わが国ほどの生活水準を維持する国がテロから逃れることができないと主張することとの間には、大きな隔たりがある。「イスラム世界に欧米と同水準の国民国家を作る権利を認めないかのように、イスラムに欧米諸国が侵攻した」からこそ、テロの温床が生じたと解釈することは、無理筋ではない。

 日本国民にとって、テロ活動を行いうる組織や集団の中で、最も危険な勢力は、依然としてオウム真理教であり、極左暴力集団であり、北朝鮮の秘密部隊である。オウム真理教は、北朝鮮から薬物を購入し、旧ソ連において軍事訓練を受けていた。極左暴力集団は、パレスチナ等で軍事訓練を受け、銀行を襲撃し、一般人への殺傷事件を繰り返した。北朝鮮は、一般人を拉致し、違法薬物を流通させ、海上保安庁の巡視船を銃撃した。なお、ここで名指しした国のうち、ロシアは、ごく最近、レーニンと「革命の輸出」を否定することにより、旧ソ連と異なる国家となったことを宣言した(『スプートニク』へのリンク)。この点、わが国のインテリジェンス組織は、これらの組織や国の動向を十分に調査した上で、テロ対策上、交渉・協力可能な相手とは交渉・提携するとともに、国民にも冷静に対応できるだけの材料を提供すべきである。

注:2016年8月26日に蛍光ペン部分を追記した。原文の意図をより明確にするためである。

 島田氏と橋爪氏がけしかけるような、テロに対する国民の「諦め」は、結局、テロ対策への期待を減じることになり、テロ対策を低調なものにして、結果、テロを蔓延させることになる。島田氏は、オウム真理教を擁護してオウム真理教によるテロを招いたが、今度はムスリムを悪魔化して自称イスラム国によるテロを招くような真似をしている。彼のセンスの悪さは、もしかすると、テロを招来させるという役割から来るものなのであろうか、と不信感を抱く水準に達している。彼を重用するマスコミも、「識者」の鑑定眼を向上させる必要があろう。そのためにも、テロ対策に携わる公的機関は、よりオープンに国民的議論が成熟する手助けを行う必要がある。


#情報の世界においては、個人の理性の集合的作用によって、良貨で悪貨を駆逐することが可能である、と私は信じている。明らかに、島田氏と橋爪氏と の対談は、悪貨であるが、現に流通してしまっている。私の意見が絶対評価として良貨の水準に達しているというつもりは全くないが、相対的な比較において は、これら二名の対談よりも、勉学の基本に忠実であるという観点において、私の意見がはるかに優れたものであると自負する次第である。


※1 佐藤優氏は、インテリジェンス・オフィサーが死ぬまでその身分から逃れられないことを述べている。(記憶だけで記しているので出典は勘弁願いたい。ただ、その正確性については、自信がある。)また、発言することにより社会に影響を与えることが彼の仕事であり、願いでもあるようであるから、イスラム国の危険をメインに据えた発言を行うことにより、社会の諸力の調整を図っている可能性も十分に認められる。

※2 佐藤氏のような骨の髄からの実務者とは異なり、元来、研究者には、正確な知識の産出こそが求められる。この本来の責務と社会に発信することにより生じる社会との相互作用(再帰性)との整合性を図るため、研究者は、自身の仕事に専念するほかないのである、とマックス・ヴェーバーは述べていた(ように、私は理解している)のである。

※3 セキュリティ産業におけるマッチポンプが禁じ手であることは、前記事などでも言葉を変えて主張してきた。

※4 原子力発電は、リスクも大きく、便益もそれなりに大きい技術なのである。ただし、わが国のリスク管理の無節操ぶりでは、リスクが過大になるために許容できない。他国では、そのリスク管理によって便益が損害を上回る条件を実現しているところもあろうから、それはその国の判断によることになろう。わが国のリスク管理の粗末さは、いぜんとして、わが国における原子力発電の実施に疑問符を付けるものとなっている。

※5 実のところ、テロを起こす者にとっても、テロの効用がプラスであるとは言い難い側面がある。多くのテロ実行犯は、事件を通じて死亡する。死後の世界は、われわれには現在のところ分からない。トマス・カイトリー『中世の秘密結社』は、「アサッシン団」のやり口を、麻薬で眠らされた後に別の場所に運び込まれ、美女に性的サービスを受け、美味い物をたらふく喰い、また麻薬で眠らされ、それを死後の世界だと思わされるというものであると解説している。しかし、死後の世界で、そのような天国での生活を享受できるのかわれわれには分からないことを考慮すると、テロ実行犯自身の現実世界におけるテロ行為の効用は、一回限りの「天国」体験に依拠することから、主観的なものであればともかく、客観的に見れば、案外、小さなものになることが予想されるのである。それに、分別の付かない子供がテロにも少年兵にも用いられてきたことは、よく知られたことである。

※6 もちろん、中産階級以上の子女が犯罪に走るのと同様、手っ取り早く利益にありつけるなど、何らかの理由でテロ活動に身を投じることはあり得る。ただし、世界に存在する格差自体がテロの大義名分になることは、まず間違いのないことである。なお、ここでの格差についての私の表現は曖昧さが残るものである。第一に、絶対的貧困が問題であるのか、相対的貧困が問題であるのか、といった評価における技術上の課題がある。誰から見た場合の何に対する格差であるのか、という点も疑問が残る。貧困研究は、まだ、個人を単位として社会関係を個人に付随するパラメータとして見て、社会の動きを複雑系として見た場合の貧困指標を開発しきれていないようである。こうしたとき、「貧困がテロを引き起こす」という表現は、定量的研究から見てあまりにも曖昧に過ぎるかもしれない。(今世紀の研究についての私の不勉強ぶりは、ここでの誤解の原因として存在しうる。)

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