2016年1月8日金曜日

大国の「1%の国民」の役割は、99%の利益を図ることに尽きる

#以下は、私の平成28年の所信表明演説でもあるエッセイである。従来の記事と重複が多いものの、どこかの政党のTPPに対する態度に比べれば、内容はブレていないはずである。

 本ブログでは、さんざん国際的な事件に対して、他国についての踏み込んだ言及を重ねているが、それでも、一応の私のブログにおける言論は、日本国内の現況へのフィードバックを念頭に置いているつもりである。私は、何らかの国際的な関係に言及する際、その内容が日本(語)の犯罪予防研究や計量犯罪学的手法にとって、なにがしかの利益があるように、文章を記してきたつもりである。他国の行動を批判的に記す場合、その行動が日本にとって直接の利害を生じさせる場合を除けば、他国を批判すること自体に重点が置かれるというよりも、他山の石とするために、その行動を取り上げているつもりではある。もちろん、筆が滑りがちなので、読者がそう受け取れないところがあったとしたら、話の対象となった他国(民)に対して申し訳なく思う。

 大抵の研究者は、1%側に含められる存在であるが、その利益の還元先は、本来ならば99%の国民とすべきである。1%には1%の役割があるが、現時点のわが国では多くの1%が期待される役目を果たしていないので、その利益は、顧慮するに及ばない。TPPは、いざというときに日本国内の1%が尻をまくってシンガポールやブルネイにでもトンズラするためのツールでもある。TPPは、アメリカ国民に奉仕するはずのアメリカの1%層にとっては、いざというときに汚染された日本国内に建設された要塞のような別荘へと落ち延びるためのツールである。TPPは、どこに逃げても同様のサービスを享受できるようにするための保険としても機能するものである。本来ならば、大多数の国民がそれなりに生活していける状態を維持しているという実績を挙げてこそ、99%は、1%が1%にふさわしい特権を享受することを容認するのである。「貧乏になる自由がある」のではなく、「そこそこ、つまり文化的な水準で、安全に安心して暮らせる自由がある」のである。ただし、希望はゼロではなく、ごくまれな割合で、わが国の精神面でのトップを含め、99%のために尽力される方々もいらっしゃることは確かである。そうした状況下、本来の「御用」学者の役割は、国民の安全を守ることのできない1%に逃げ道を与えることではなく、物事の正道を示すことにある。

 日本人研究者の発言が日本国民の利益に適わないか、逆らうものであるか、もしくは国民益の向上に代替策よりも貢献しないものである場合、その発言がいくら正しい内容を述べているように聞こえたとしても、日本国民に対して損失を与える虞があることを併せて伝えない限り、その研究者の議論は、偏ったものとして批判されるべきだろう。事実であり公益に資するものであり事実と信じるだけの根拠を合わせて記す限り、エッセイを書いてもかまわないだろうし、私も現にそうしているが、同時に、現代の研究者という職業は、国民という限定された利益共同体の付託を受けて成立している職業であることにも留意すべきである。私のような三下でも分かる詭弁を、私よりもよほど社会に貢献すべき地位にある人物が弄することは、国民の利益を損なう。福島第一原発事故については、そのような利益競合や、将来の利益を見込んだ発言が多く見られる。事後収賄という犯罪が存在することを、研究者は理解すべきである。

 いま現在、海外経験のある企業人に比べ、海外経験のある研究者の発言の方が、よほど私益を優先させた発言を流布しているのは、面白いことである。企業人は、第一に私益を追求するのが仕事であり、税金や寄付という形で公に利益を還元するのは副次的な役目に過ぎない。しかるに、日本人社会を見るところ、企業人たちは、公益を追求すると期待されているはずの者たちよりも、よほど公益に資するという概念を体現しているように見える。

 ところで、兵卒が精強で将校が無能という先人たちの評価は、日本の公的組織に対しては、現在も通用すると言えるかも知れない。トップの能力差は、『エコノミスト 2016 世界はこうなる』における並び順、カラーと白黒の別が暗示するように評価されているのだろう。それにしても、同誌の尻尾の振り方が面白い。ともかく、2015年は、いろいろな物事の趨勢が国際関係に注目する者ならば誰でも分かる程度に決定的になった年として、今後に記憶されることと思われる。それに対して、わが国は、報道統制をかけることにより対応しよう、と無駄なことをしているようである。

 国際関係におけるトップの能力について、一点、私は自身の不明を恥じている。もののついでだし、本件に関連しているとは言えるので、あえて言及しておこうと思う。その誤りとは、安倍晋三氏に対する「ヒトラーのようである」という評価に対して、「習近平氏こそヒトラーだ」という趣旨の反論をどこかで読んだが、この指摘に対して、私が「センス悪いなあ」と密かに抱いていた感想である。その感想とは、習近平氏は、むしろ恰幅の良さ・体格の良さやヘアスタイルなどから、スターリンに似てるだろう、というものだ。そうしたならば、第二次世界大戦を彷彿とさせる役者が対峙するという構図を再現できるわけだ。ところが、ヒトラーに擬せられた側はきわめて挑発的であるものの、そのカウンターパートとして立てられた?はずの習近平氏は、北朝鮮というジョーカーに手こずらされているように、いち日本人の目からは見えはするが、第三次世界大戦にならないような流れを国際的に形成することに成功しつつあるようにも見える。また、内政では、腐敗によって大がかりな謀略を働くだけの不正蓄財を進めてきた勢力を、反腐敗のスローガンの元に抑えつつあるようだ。

 現在の中国政治にせよ、またロシアにしても、一国の歴史には流れがある。昨年一年のうちにも、相当の出来事が生じている。堅実に現在の地位まで上り詰めた習近平氏は、腐敗層の追及の手を緩めず、改革開放の成功の立役者ともいえる上海閥までターゲットに含めているがゆえに、現在も上海株式市場は急降下、ということもあるのだろう。ロシアでは、ウラジーミル・プーチン氏は、功罪両面の評価が確定しつつあるボリス・エリツィン氏に抜擢されたわけであるが、ソ連邦崩壊後に国富を簒奪したオリガルヒを屈服させ、また追放などしたがゆえに、ウクライナや中央アジアにおいて、その経緯を快く思わない者たちからの反撃を受けているのであろう。『エコノミスト 2016 世界はこうなる』の中央に陣取るアンジェラ・メルケル氏も、EU加盟国の経済を担う国のトップとして、ギリシアの債務問題を乗り切り、フォルクスワーゲン社の不正という問題(の仕掛け)に対応しつつ、わが国を損なう勢力が原発に固執する姿勢をも正そうとしてきた。前年3月の訪問は、AIIBについてよりも、おそらく原発がらみの話である、という見立てがすでに多くの人から指摘されているが、そのことに対して、私は納得を覚えている。(申し訳ないが、その考察の起源について把握していないので、リンクは省略する。)

 大国の指導者は、その地位に就いただけの実力を備えているのならば、仮に、その地位に上り詰める過程において、第三次世界大戦などと言う絵空事を現実に目論む、金力豊富な「黒幕」との関係が生じたことがあろうとも、権力の掌握後には難しい関係を上手に扱い、「黒幕」の「陰謀」を逆手にとり、国民の安全と利益の確保に転換するのだろう。「黒幕」は、「歴史が繰り返す」かのように見せかけるべく、前回、つまり第二次世界大戦のイメージを想起させるべく、キャスティングにも介入したのであろう。しかし、その「黒幕」は、習近平氏には、まんまとしてやられたというわけであろう。以上が、良い方に転んだという意味ではほっとできる、私の見込み違いである。漫画で喩えるのもどうなのか、というツッコミは抜きにして、習氏やプーチン氏のノリは、配役という意味では、『ベルセルク』に出てくる髑髏の騎士のようなものだと勝手にこじつけているところである。われわれ大多数の日本人は、俎上の鯉であるが、ぴちぴちもがけば、水滴くらいは大河に落ちるかもしれない、といったところだろうか。

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