2015年5月25日月曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その1)

ウェブ上の「情報爆発」は、今後も止まりそうには見えず、横断的かつ実学的な学問分野である、環境犯罪学・計量犯罪学の知のあり方に対して、いずれ深刻な事態をもたらすことになりそうである。本稿では、この予測を素描してみたい。もっとも、この予測は、加藤尚武氏による『価値観と科学/技術』の「今後は情報不足より情報爆発に伴う情報の取捨選択が問題となるであろう」という旨の指摘に基づけば、自然と導かれる結論であるので、私の予測は新規性のあるものではない。もっとも、この予測の誤りは、私にのみ責任が帰せられるものである。

本来ならば、科学的手法や科学と社会との関係を専門としない私が、犯罪学を取り巻く状況を俯瞰したり、今後は深刻な事態を迎えそうなどと予測することは、二重に不遜だと思われても仕方のないことである。しかも、この作業は、埋没費用となることを承知で進められたものである。大して新規性もない割に、敵ばかり作ることになる作業である。それなのになぜ?と問われた場合には、あえて、周りと空気と先行研究を読まないサービス精神ゆえであると回答したい。あえて追記すると、この分野において利用されるデータの性格に、もっと注意を払って欲しいためである。そのためには、わが国の環境犯罪学界隈では、そもそも、基軸となる技術や概念が十分に意識されていないことから指摘していかなければならない。本稿は、そのための捨て石となる議論である。

学問分野の維持には思想の見取り図と共通の思考の枠組を持つ成員が必要である

テキストデータとして蓄積され後追いできる言説が増加する一方、人が一定時間内に咀嚼できる情報量がそれほど向上していないために、どの学問分野においても、何らかの情報整理機能が確立されていない限り、いずれは情報収集作業に要する手間は、研究業務を圧迫するほどに増大するであろう。加藤氏の著書を読んだ私を例に取ると、最初に私が行うべき作業は、加藤氏の著書の参考文献を調べることであり、次いで図書館で件名検索することになる。その上で、当該の学会や研究者のゼミなどに参加するといった行動が理想なのであろうが、私には、本件でそこまで作業する必要があるものとは思わなかったので、そうしてはいない。ともあれ、これらの方法は、多くの学問分野で標準的な情報収集手法となっているが、成員がこの基本に忠実である学問分野では、これらの方法は、情報の縮約機能を同時に果たすものとなる。

伝統的な方法が根付いている学問分野では、標準的であるという評判を有する「教科書」があり、その書籍にすぐに行き当たることも期待できる。良い評判の教科書は、業界の見取り図を提示してくれるはずである。良書は、どの主張が正統で有力説であり、有力説への対抗言論にはどのようなものがあるか、またその有望性がどのようなものか、著者自身の考えをも客観的に位置付けた上で提示する。このような専門的な教科書が存在し、しかも学問分野のコミュニティでその認識が共有されている場合には、対抗言論として位置付けられている研究者であっても、その良著を尊敬し、その存在に言及する。その結果、初学者がそのような「辺境の地」であるかのような資料から出発しても、2段階ほどで「首都」の「アリーナ」に辿り着けるのである。ここで「2段階」とは、年季の入った研究者の論文→著書→教科書を指す。

ある学問分野は、分野を支える主要な言説の正しさに加えて、その成員間での理解の枠組が共通して初めて成立する。言い換えると、どの派閥に所属しようとも、業界の見取り図は一致するのである。争点があるときには、お互いの持論を良く理解した上で、相手の上を目指すのである。まるで週刊少年ジャンプにおける古き良きライバル関係のように、相手を認めているからこそ議論が成立するという点が大事である。これらの条件があってこそ、ある学問分野は、弁証法の図式に則り発展することができる。

ある学問分野が実質的に存続し続けるためには、ある問題が解決方法(の大枠らしきもの)とともに提示されており、その組合せが問題の解決に有望であると共感する者が集まり続けることが必要であるが、そこには、問題と研究者との力関係が介在する。問題の体系が一人の人物で扱うには大きすぎる場合には、その学問分野には、一時的に多数の研究者が集まることになる。参入の結果、問題が解決でき、知識を集約できれば良いが、そうでない場合、問題の全貌を把握する上で必要な知識や能力が増大することになる。その学問分野を見渡すための知識量や労力が増大すると、かえって、その学問分野の存続に必要な共通理解は、失われてしまうことになる。

この図式に則り衰退した学問分野の好例として、マルクス主義を挙げることができる。マルクス主義は、犯罪学にも、左派犯罪学と呼びうる分野を形成する程の影響を与えている。それら左派犯罪学から出発した研究者による、構築主義を援用した言説のいくつかは、現在のわが国における有力説となっている。マルクス主義と構築主義的な考察を行うこととの間には、明らかに区別を付けられる。しかし、これらの思考の枠組は、わが国の犯罪学関連の行政実務において、明らかに混同されている。場合によっては、社会防衛説のような極論を採る者でなければ敵である、という拙劣な見解がまかり通るほどである。この点を細かく検討する作業は、専門的で先進的な内容になり得るし、わが国が開発独裁的であるとする近時の危機意識にも通じる話になるため、できるだけ早い時期に取り組みたいことではある。しかし、本稿では、ひとまず、全体を素描することを優先しよう。

ついでに脱線しておくと、犯罪学関連のわが国の研究者にとって、マルクス主義に対する自分なりの(批判的な)見取り図を作っておくことは、必須の作業であり、決して無駄とはならない。マルクス主義は、社会の発展段階なるものを仮定して、これにヘーゲルの弁証法を適用したものと解釈できる。同時に、マルクス主義の提唱自体を、ヘーゲル式の弁証法の「正→反→合」図式にいう「反=アンチテーゼ」の段階であると見ることも可能ではある。それはさておき、本稿としては、マルクス主義の盛衰から、当初の物語がそれなりにシンプルであったにもかかわらず、その後に信条が分派しガラパゴス化したという教訓を読み取ることができる。また、隣国であるロシア・中国が異なる形態のマルクス主義を採用していたこと、今後もその影響は継続するであろうこと、さらには、弁証法のテーゼに則る形でコーポレートクラシーがわが国を席巻しようとしていること、などなど、犯罪学が真正面から対象としうる素材を理解する上で、マルクス主義への理解は欠かせないものなのである。

問題を解くための専門分化は避けられないがその成果は一般化されなければならない

問題と解決方法との組合せが一個人が扱うには巨大になりすぎた場合、必然的に研究分野の蛸壺化が生じる。蛸壺化の背景には、我々が万能の存在ではないという、どうしようもない事情が存在する。蛸壺化を避けるためには、問題を局所的に解決して、その問題についての知識を正確なものとしつつ、同時に、その解法の習得を容易なものとすることが一つの方法となる。知識の一般化という作業は、知識を正確なものとする上で必要だが、同時に、解法の習得を容易なものとするという点でも有用である。

興味が蛸壺化した結果、自分たちの学術活動に支障を来すことが明らかな場合、ある学問分野が共通の看板を掲げる一方で、内部に分科会などを形成して、特定の主題の深化に必要な議論の質と量を確保するということが普遍的に行われる。この行動は、学問の対象である問題群を俯瞰し、その解決に取り組み続けることからの逃げとも見えるが、問題解決の責務を組織化して安定化するという機能も有している。研究活動が大衆社会に組み込まれている現代では、安定して成果を産出し続けることが多くの研究者生活の維持に求められる。問題を限定化して解決方法を深めるという局所最適を目指す戦略は、たとえ問題の本質から目を背けていようとも、庶民出の研究者が当座の糊口をしのぐ上では必要不可欠な作業でもある。

研究分野の専門化という戦略は、教育学にいうenhancement教育に相当し、横断化はenrichment教育に相当する。後者の語義から受ける印象は「多様な種類の知識がある」というものであるが、横断化の機能は多量の知識を揃えることではない。横断化は、別個に深掘りされてきた先進的研究を通覧して、類似した成果を一般化し、共通基盤となる知識を整備し縮約するという機能を有しているはずであり、この縮約するという機能こそが期待されている。この点が強調されるようになったのは、私の狭い見識では、わが国では、ここ10年ほどのことであるように思う。

知見を広く収集し、良質の成果を選別して整理、統合するという技能は、サイエンス・ライターや科学部記者に期待される職能でもあるが、本来なら、横断的分野の研究者や論文の査読者にも必要となる素養である。そして、先に言及したように、この作業は、成功しなければ埋没費用となる。また、成功したかどうかの判定は、常に作業者にとって厳しい側に下される。それら横断的分野における知見は、整理・統合された状態にこそ新規性があるのだが、基礎研究分野の研究者にとっては、どこかで聞いたことのある話にしか聞こえないためである。

わが国のいくつかの横断的な学問分野では、先進性という概念に対する十分な合意がないために、良心的なレビューにより周辺分野を理解して、その理解の枠組を共有するという行為が生じにくい。レビューという作業が報われないことになる見込みが高いという状態が続くと、研究コミュニティの構成員の多数がレビューを怠るようになり、終いには、レビューが専門誌に投稿されたとしても、その適否を確認する作業自体が忌避されがちとなる。過去の論文数がゼロというわけではないので、それらに言及するだけで十分だと、投稿者・査読者の双方が判断するようになると、その学問分野の進化の方向は、かくして、ガラパゴス化へと舵を切るようになる。その学問分野の過去の主要な論文が適切な理解の下に執筆されていない場合には、今後の方向が歪なものになる事態は避けられない。

わが国の横断的学問分野では、多少なりとも、異分野の成果を顧みないという意味で、ガラパゴス化が進みつつあると思われるが、ガラパゴス化は、必ずしも研究の質の低下に直結はしない。この事情は、防犯・防災などと並べられることの多い二つの研究分野を比較すると、直ちに了解できることである。防災研究は、成果を世界に発信すると世界でも先進的な内容であると認められるものを多く含むが、防犯研究のほぼすべては、英語圏の研究の二番煎じと解釈して良いものに留まる。同じガラパゴス状態であっても、進化を続ける中心地となっている防災研究では、和文論文を参照するに留まったとしても、新規性の高い内容へと発展する余地があるが、辺境の地に過ぎないわが国の防犯研究は、参照し続けたところで、下手をすると「四角い車輪を二度発明する」ことになりかねない。

ある学問分野において研究の質が低下する条件には、その学問分野における低質な研究の量が増加すること、研究の質を判別できない成員が多数となること、の2点があると予想できる。低質な研究が蓄積されると、参入障壁は低下する。低質な成員による研究が低質となることはもちろんであるが、低質な成員が多数派であることを認識した成員の研究の質も、競争のために低下しうる。すると、いったん質が低下すると、質の向上は望みにくいこと、また、当初の研究の質が低下する原因がキーポイントとなることが分かる。良質の前例が少なければ、その後投稿される低質の研究を低質であると判定しにくくなるであろうし、参照すべき先行研究の本数が少なくても許容されるようであれば、短期間にたまたま集中した低質の研究によって、続く研究が低質であっても採用されるという機序が働くことが考えられる。これらの条件は、必ずしも横断的な学問分野だけに特有なものではないが、基礎研究分野では、良質な先行研究が多く存在すること、参入に一定のノウハウと予算と設備が必要であること、などが考えられる一方で、横断的な学問分野の大半が新規領域であり、基軸となる技法や知識の吟味が甘いという事情があるために、横断的な学問分野に生じがちな問題であるとも言える。

次回に続く

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