(前回より)
放火の環境犯罪学的研究と火災研究との精度感の違いは問題にはならない
不穏当な表現になるが、従来型の回帰分析を用いた政策科学系の放火研究は、火災研究者には、実に怪しげなものであると、適切に理解されてきたようである。少なくとも、その精度が低いことを理解してもらえてはいるようではある。自然現象を相手にするための道具立てを学習する課程は、モデルというものを利用する場合の相場観を養う機会となる。ある研究の正当性は、その研究を評価する研究コミュニティを離れて成立することはないから、怪しげな環境犯罪学研究が「放火に対する建築防火政策の効果はまったくない」と主張しても、火災研究コミュニティからは、健全な反論が提起されることが期待されよう。つまり、環境犯罪学者は、研究上の努力を節約していても、いずれは、それぞれの研究の正しさが見極められることを期待しても良いということになる。将来において、環境犯罪学上の誤りは、自然に淘汰されるものと期待できるということである。
ところがそもそも、火災そのものを研究対象とする研究者の承認は、環境犯罪学的な放火研究の成功条件には含まれない。つまり、従来の統計的手法を利用した、環境犯罪学的な放火研究が内包する限界について、共通の理解に至る必要性は、端から存在しない。放火研究という学際的研究において、知識の相違により軋轢が生じる蓋然性は、十分に高い。にもかかわらず、現実には、この辺の難しさを通過しなければならないことは、第一点目の「もったいない」事実である。「放火犯がまさに火を点けようとする環境」の空間スケールは、「可燃物及び着火源が容易に入手可能な現代」というマクロ環境をふまえると、直感的には「放火犯のパーソナルスペース」程度である。その空間スケールは、大きなものであるとしても「放火犯の視界の範囲」程度である。清永賢二氏らの「侵入盗の目の付け所」に関する研究にいう「向こう三軒両隣」程度の大きさの空間が最大のスケール感である。その「向こう三軒両隣」内に可燃物がないという状況は、わが国の「都市空間」では、きわめて考えにくいことである。放火犯になったつもりで考えれば、可燃物は身の周りにあふれているし、マッチやライターもありふれているから、われわれは、誰もが「放火しようと思えばいつでもできる環境」に囲まれて生活していると言っても良い。マンションが立ち並ぶ地域でも、オフィス街でさえも、可燃物はそこかしこに見つかるし、ホームレスを糾弾する気はないが、彼らがしばしば可燃物を不燃建築物の周辺に持ち込むこと自体は、事実である。
「いつ・誰が・何を用いて・どの物品に最初に火を点けたのか」という点の解明は、火災調査の焦点であり、火災研究者の腕の見せ所であろうが、環境犯罪学者の興味を満たすには、「現実の都市のミクロ空間下に火を点けるものがあるかどうか」が分かれば、十分である。両者の興味には、一種の断絶が存在するのである。このため、火災調査に見られるような厳密性は、正確な放火地点の把握に必須ではあるが、仮に、火災調査に現在ほどの厳密性がなかったとしても、環境犯罪学研究に必要な精度感が左右されることはない。(消防署の)予防課の担当者の説明は、信用できるものとして受け入れられ、そのまま研究に利用されて構わないであろう。その上、放火事件の現場には、素人目にも分かるほど、数ヶ月前もの燃焼地点の痕跡が残されていることがあるから、回顧的に放火地点を特定することは、不可能とは言えない。
警察側の情報が研究の精度感を決定的に左右する
その一方で、放火の統計的研究や、あるいは(地理的)プロファイリングなどの成否を決定的に左右するのは、犯人と事件のリンク分析、つまり、どの事件がどの犯人によるものであるのかを紐付ける作業である。にもかかわらず、警察の犯罪統計やリンク分析結果が外部の研究者に公開される公的な仕組みは、存在しない。外部の研究者は、裁判を傍聴し続けるという方法により、データを収集することが原理的には可能であるものの、現実的な手段ではない。次善の方法として、裁判記録を入手するよう努力するというものもあるが、これも系統性という点では、難がある。結局、回顧調査の枠組みに基づき、不完全な報道記事を元に、連続犯と事件との対応関係を調査するしかない。この作業も面倒くさいし、何より、リンク分析としての正確性を保証する役目が研究者に課せられるため、再現性に問題がある。
この事情は、「警察外部の研究者が放火犯と事件の対応関係を知るために報道記事を利用するしかない」という第二点目の「もったいない」事実を生起させる。警察関係者は、警察のデータが権力の源泉となり得ることを、報道関係者とのやりとりを通じて、重々承知している。私のブログ記事は、報道関係者への批判に満ちているが、それでもなお、通常の研究者に比べて、共生関係という観点から見て、彼ら報道関係者が多大な成功を組織として収めていることに、間違いはない。他方で、研究者にデータを公開(あるいは提供)して、彼らからの信頼と社会からの名声を獲得するという警察の作法は、お世辞にも洗練されたものとはなっていないし、現実に、そのような努力に見合う利益もごく小さなものである。「データの共有を進めれば、犯罪学はより進歩するのに」という研究者の嘆息は、数十年前から見出すことができる。これらの諫言は、研究者当人にとって、このような表出が利益にならないことを思えば、相当に根深い事情を指すものであり、社会が傾聴すべきものであると理解すべきであろう。
2017年9月9日修正
多くの理由から、一旦公開を見合わせていたところ、再度公開することとした。これに伴い、若干の修正を加えているが、大意に変更はない。合わせて、タグの体裁も変更した。
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