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2015年5月31日日曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その3)

前回の続きです。本稿がヴェーバーの劣化コピーであることは、読者諸賢には明白だと思います。本稿は、「わが国の国家官僚は、戦後の安定期に独自の見識を深めるに至ったが、犯罪学における定量的手法に係る司法官僚の見識は、体系化された学識ではなく経験知の範疇に留まる。」という主張の最初の三分の一程度の部分になります。後段は、専門性が高く美味しい部分なので、ずるいのですが、別稿に取っておきます。

政治家のプリンシプルは、結果責任を負うことを承知で理想を示すことであり、政策分野の専門家には、この点をふまえた行動が必要とされる

社会学の泰斗であるマックス・ヴェーバーは、政治家が結果責任を引き受ける存在であると指摘しているが、この指摘が正しいならば、言論の正しさを追求すべきであるという専門家の倫理は、政治家の言論に対しては適用されない。民主主義における政治家は、現状に対する理解と理想を示し、その実現のために付託された権力を行使する存在である。その理解や予測の正否は、専門家の言論とは異なり、正しさそのものによってではなく、選挙民によって判定されるものである。それゆえ、政治家の言論も、前回に言及した掛谷氏らの提唱する評価方法の対象とするには当たらないであろう。

基本的には、実務家に対する政治家の権力が徹底した制度を有する国家では、政権交代に伴い、政策分野の学識経験者も助言者の地位を論敵と交換することになる。特に、経済学を基礎に据える分野では、おおむね健全に学派間で議論が交わされていることもあり、この交代は自然なものと受け止められているように見える。政権交代に伴い理論が実施される機会に恵まれるという前提が見込めるのであれば、政策科学を研究する研究者にとって、その機会は、自らの信ずるところに従い、自身の主張を高める誘因となるであろう。ただ、民主主義における政治家は、理想を維持するとしても、その実現のために採用する理論を交換することを躊躇するべきではないし、実際のところ特定の理論に執着することはしないだろうが、政治家と同様の気軽さで、専門家が政治に重用されようとするあまりに自身の主張を曲げるようになると、事態はややこしくなる。

どの職業にも期待されるべき役割があるが、専門家に期待される役割は、前回記事で強調したように、最良の知識に基づいたときに得られる視座から、正しいと認められる意見を述べることである。専門家のよって立つところ、すなわちプリンシプルとは、まずは、真実に基づくことであり、最良の知性にも分かりかねることについて述べなければならないときには、最善の努力に基づいて当座の結論を述べることである。他方、政治家の曲げてはならないところ、すなわちプリンシプルとは、一国なり一地域なりについての理想である。権力がなければ理想は達成できないが、権力の維持のために理想を曲げることは、選挙民の期待や支持を裏切ることになる。

政治家の理想を分かりやすく解説することはともかく、政治家の理想の当否を判定することは、学者・専門家の業務ではない。専門知を有する専門家が顕名で、ある政治家の理想を擁護したり批判するようなことがあるとすれば、その振る舞いは、すでに十分に政治的である。政治的に振る舞う専門家は、その身分を保障されている場合、選挙民による制裁を恐れることなく好き放題に振る舞えるため、ときに専門家に求められるプリンシプル、つまり真実に対して誠実であることからも逸脱することがある。ある専門家が都合良く筆を曲げたという事実が見逃され続けると、物事の真贋を見極めるのに要する労力は、相当程度まで増大してしまい、社会に混乱が生じる。

この点、政策に直結する実学を研究する者には、相当に洗練された態度が求められる。犯罪予防研究という分野は、政策上の目的を達成するための実学であり、私の専門でもあり、また私の態度が十分に洗練されたものではないことを示す好例となりうるので、説明を加えることにする。前々回で触れたマルクス主義を継承した批判のひとつ(Garland et al., 2000)には、「社会の構造的不正義に目を向けず、その構造から派生した結果に過ぎない自然犯を予防するだけでは、構造的不正義の温存に貢献するだけである」というものがある。この指摘は、犯罪の予防という目的を相対化してとらえる必要性を指摘するものであるが、自然犯が地域の荒廃を生じさせ構造的不正義の温床となり得ることまでは見通していない指摘でもある。しかし同時に、この構造的不正義となるような荒廃した地域がわが国に存在するのかという問いは、把握することが相当に困難な状態にある。直感的には「荒れた地域」は存在するが、その荒れ具合を定量的に把握するだけの道具立ては、わが国の実務家には用意されているものの、これが研究者には公開されないという問題がある。専門知に忠実な態度で、この課題に言及しようとするならば、まず、この道具立てを入手して、的確に「荒れた地域」を抽出するという作業を行う必要が生じるのである。専門家には、ここで必要な道具立てをオープンなものにするという責務が課せられる。でなければ、定量的手法に必要とされる反証可能性を確保することができない。そこまで用意することなしに、上記の批判を一蹴することは、知的に誠実であるとは言いがたいことになる。しかし実際には、わが国の犯罪予防研究は、戦前より、このような反証可能性を十分に確保することが困難な状態であり続けたままである。

官僚のプリンシプルは政治家の指示を効率よく実現することである

ところで、現在の民主主義国家における官僚は、本来ならば、政治家の提唱した政策を実現するための実務を効率よく実施する組織人であることが期待される存在である。言い換えると、官僚のプリンシプルとは、政治家に指示された政策をスマートに実施することである。われわれ日本人が官僚を実務家と呼ぶ場合、この呼び方には、固定化された業務を確実に遂行するという機能を期待する含みがあり、政策を企画立案するという、I種公務員に期待される役割の一部は、この呼び方の期待する内容に含まないように思う。警察組織における実務には、犯罪者を確実に検挙して十分な量刑を課せるだけの証拠を検事に届けること、110番通報に確実かつ迅速な対応を行うこと、迷子から親の氏名や連絡先をうまく聞き出し落ち着かせること、等々の業務を実行するという含みがある。しかし、昨今の凶悪事件の原因を分析し、白書で解説を加えたり、ある行為が賭博罪にあたるかどうかの判断基準を決定したり、法案をその骨格から作成したり、といった政策立案に直結する行為、あるいは政策立案行為そのものを、官僚の実務と呼ぶことには違和感が残るのである。

今まで実務家という表現を用いてきたが、その理由は、ヴェーバーの指摘した官僚制の弊害を描出するために、官僚という用語を残しておきたかったためである。ヴェーバーは、官僚制が権力の円滑な行使を目的として組織されるものの、組織後には、その維持を自己目的化する傾向があることを指摘した。官僚は、もっぱら自己保存のために、ときに政治家の理想に追従し、ときに政治家の理想追求を陰に陽に妨害するのである。また同時に、官僚は、自己の権益の維持・拡張のために専門家や学説を使い分けることもする。

わが国の官僚制は、大戦後、業務の大部分において有効に機能してきた。特に、計画経済の運営と行政指導により、横並びの繁栄を達成するという、ある種の成功モデルを確立した。カレル・ヴァン=ウォルフレン氏は、この種類の成功が、社会の木鐸であるべき報道機関までもが政・官・財の円滑な活動を支援するという相互依存的なシステムによると観察し、これを鉄の四角形と呼んだ。鉄の四角形は、わが国ないしNIES諸国の成功が計画経済と父権主義という西洋と異なる価値基準を有するシステムによることを説明する方法として、多数の論者に受容されるものとなっている。この派生形の一例として、第五の主要なプレイヤーに「学」を挙げる植草一秀氏の説を挙げることができたりもするが、植草氏のモデルは、ウォルフレン氏の説明を複雑にする割には、現状をうまく説明できないように思う。この点は後に述べよう。

わが国の官僚制の成功の主要な背景要因として、朝鮮戦争以後の冷戦という、比較的安定し、かつ、構図が明解なものに見える物語が存在し続けたことを挙げることができる。核戦争の脅威は常に指摘され続けてきたが、相互確証破壊という理論が提示され、指導者層に共有された結果、奇妙なまでの調和状態が生じることとなった。また、東西の二大陣営の下に各陣営が二分されるという理解は、少なくとも先進諸国の一般庶民層に定着した。この一見分かりやすい構図は、弁証法の図式における「合」が、悲観的な想定のものとしては最終戦争しかあり得ず、また楽観的な想定のものは世界政府しかあり得ないという共通認識を流布させることとなった。「合」となる状態の想定が極端なものであり、また、悲観的な道筋のみが分かりやすく生じやすそうだと認められる状態が継続したことは、一部にオカルトや超自然信仰に走る者たちまでを生み出す素地となった。この点については、別稿で考察したい。

(次回に続く)

2015年5月26日火曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その2)

前回の続きです。なんだか、今回は、書き上げてみて、ヴェーバーの『職業としての学問』『職業としての政治』の劣化コピーの中でも、相当拙劣なものになってしまったように思います。でも、アップすることにしました。開き直りですが、そのような印象が正しいのなら、むしろ、その骨格は間違ったものではないでしょう。

実学的な学術分野の質は実務者コミュニティの質と人数により担保される

防犯研究と防災研究は、いずれも行政実務と深い関わりを有する実学的な学問分野でもあるが、これらの分野に生じている研究事情の差には、関連する行政実務のあり方も影響している。わが国の防災行政・防災研究は、具体的な災害を受けて発展してきている。多くの災害は、それぞれが歴史・文化・地域的な事情を反映しており、次に来るべき災害への教訓となり得る。しかし、次の災害への対策は、次の災害像を想定しつつ進めるほかないが、想定と異なる災害が生じうる以上、行政は、従来の災害を下敷きとするだけでは、災害対策の責任を全うできない。この点についての共通の理解があるからこそ、行政実務者は、学問上の根拠に基づいて政策を推進する必要に迫られ、学識経験者の主張に耳を傾ける姿勢を持つようである。また、次の災害の実相が分からないからこそ、防災研究には創意工夫が求められ、結果として、新規性のある研究が行われる。

基本的に、わが国の行政制度において学識経験者が何らかの役割を果たしている場合、その制度は、米国や英国を初めとする諸国の行政制度を反映したものである。わが国では、自然災害のメカニズムは自然科学者により説明されるべきであるという合意が存在する。自然災害の被害を受ける側にある社会基盤や建築物についても、工学者や技術者により取り扱われるべきであるという合意が存在する。司法制度には、少数の異論があるものの、心理学や精神医学を修めた者が犯人の心理を取り扱う過程が組み込まれている。

これら行政組織内に確立された専門的職能人を有する学術分野では、その専門的職能を有する行政職員の受入部局、つまりカウンターパートが存在するがゆえに、学識経験者との連携も円滑なものとなる。わが国では、回転ドアと呼べるような両方向の太いキャリアパスは存在しないが、行政職員から大学人へと転身する人物の専門的職能は、圧倒的に高等教育課程在学時の専門的職能と同一のものである。もっとも、防災行政という行為に求められる職能が判然としないがゆえに、わが国の防災行政職員には専門資格の修得が必ずしも求められないが、その反面、職員自身がその種の職能を向上させる際、試行錯誤を迫られることになる。

いったん行政組織内で専門的職能が確立されると、その行政分野の施策の学術的水準は、行政内の施策の水準が容易に低下しなくなるという点と、対応する学問分野の水準が低下しにくくなるという両点によって、担保されるようになる。ある行政分野において、専門的な思考様式を有する担当者がいったん多数派となれば、その行政分野における行為は、背景となる学問分野の水準に照らして明らかに程度の低い施策の採用を躊躇するようになる。また、行政実務の担当者は、指導教官なり地域の学識経験者なりに助言を求めるという行動を通じて、実務の水準をある程度のものに維持できるようになる。その職能に対応する学問分野では、人材供給先が拡大するだけでなく、同種の思考様式に共感する行政職員が増加するために、研究の糸口を見つけやすくなり、研究の遂行も円滑なものとなる。ただし、このような良い意味での官学連携が進むと、学識経験者も、行政行為に付随する結果責任を引き受けることにもなる。

実務者のコミュニティが外野の声の正しさを判定し尽くすことは難しい

ある学問的見地に基づき施策が推進されるべきという意見が外野から出された場合、ことは簡単ではない。その意見が制度上の裏付けを持たず、また圧力団体や政治家によるものでもない場合、わが国では、その意見は、良くともその場限りの調査研究として検討されるに留まる。この時点では、調査研究を通じて得られた経験は、行政組織の成員のごく一部にしか共有されない。調査研究の成果が実務担当者にとって大成功であった場合を除き、担当者が代替わりすると、行政組織としての施策の意義は失われ、学識経験者の努力は振り出しに戻ることになる。この経緯は、後任の実務担当者がリスクを避けつつ前任者との独自性を打ち出すという政治的判断のために生じる。

しかし一方で、外野の声が正しいものであるとは限らないことも、当然である。とりわけ、誰しもがウェブ上で気軽に発言できるようになった昨今では、発言する有識者に対して結果的に見れば非生産的な言いがかりを付ける匿名者には事欠かないようになっている。匿名者を相手とする場合に問題となるのは、発言者がどの程度学習しており、どのような理解の枠組を有しているかについて、推し量ることが手持ちの発言だけによらざるを得ないことである。ある有識者は、しばしば匿名のツイッターに対して「中学生からやり直せ」という具合に切り返すが、相手の短い言論だけで相手を判断し最適な回答を返すためには、やむを得ない方法なのだろう。公開の言論が円滑に機能するためには、参加者が、相手の学識と自身の学識とに対して適切な理解を有していることが必要なのである。

前例を頼りにしてはいけないという条件を課して、外部の声の正しさを判定する場合を想定してみると、実務担当者が前例を尊重する姿勢を良く理解することができる。わが国の行政組織は、明確な前例主義であり、縦割り主義でもあるが、「突拍子もない」外部の意見に左右されずに安定した行政活動を進める上で、これらの二本の柱は、きわめて重要な役割を果たしている。しかしその反面、ある施策の必要性は、縦割りの中に入ることが認められない限り、どれほど確率としては高く生じうる事象に備えるものであっても、その事象が現実のものとならない限りは問題視されない。逆に、確率的にはきわめて低く生じる事態であろうとも、ある事象が現実のものとなった場合には、対策が必要であるとする非科学的な意見に振り回されることになる。L2クラス、30mの波高の津波という事象をめぐる近年の防災行政が、この事例に該当する。

専門家集団の役割は正しい意見を確からしさとともに述べることに尽きる

それゆえ、ある社会に、妥当な見識を共有する一定人数以上の専門的集団が存在し、前例のない事象や外部の意見に対して自由で高度な検討を加えることができ、その社会がその見識を尊重できるという状態は、その社会が道を誤らないために必要である。専門的な学会とその成員は、このような機能を果たす社会的集団として期待されているはずである。しかし、知見を改善する機能を有しており、外野の知恵を拒まないという条件が満たせるのであれば、どのような存在であっても良いのかもしれない。いずれは、『創世記エヴァンゲリオン』にも描かれたような、複数の人工知能のネットワークが専門家集団よりも、よほど良い知恵を出すことになるかもしれない。

専門家集団には、外部からの意見の真偽を、先入観なく、かつタイムリーに検討できるという能力が求められる。外部からの指摘に対して自由な考察を行い、正しい結論を出すためには、専門家集団の成員は、その言論の正しさについてのみ責任を負うという形の免責を受けられる必要がある。『学者のウソ』の著者である掛谷英紀氏は、同書で構想した言論保証協会を特定非営利活動法人として設立し運営している。商業出版時に供託金を預け、誤った予測に対しては、供託金を没収するという制度を提唱するのである。しかし、ある商業出版物の正否は、『朝日新聞』の「慰安婦報道」(を放置したこと)のように、長期的にも経済的な形で評価されるわけであるから、掛谷氏らの方法は、屋上屋を架すものであるようにも思う。

#まったくの直感ですが、『朝日新聞』の「慰安婦報道」は、「報道」の内容そのものではなく、「訂正」に時間を要したことの方が致命的であると考えます。仮に、同紙が誤報していたとしても、その事実は、ほかの報道機関等が間違っていない保証にはならないので、その点は、重々注意すべきかと思います。ここで、同紙の報道の真偽には触れていないことに注意してください。

専門家集団の成員、つまり専門家には、自己の言論体系の正しさに対して、絶えず検証と調整を加え続ける作業が求められる。専門家集団に必要とされている社会的機能は、権力者や顧客の意思を忖度することではなく、まずは正しい見解を提示することであり、その見解の確からしさを併せて提示することである。掛谷氏らの提唱する方法は、テニュアを持つ国立大学教員に対してであれば、妥当するだろう。大学教員の身分保障は、わが国と社会のために正しい言論を提示することが期待されているゆえの制度でもある。

#第一、日本国籍の現役教員のだいたい全員が、わが国の制度の恩恵を受けて学識を身に付けたのではと思います。例外として、私が(記憶だけで)すぐに思いつくのは、安藤忠雄氏やロバート・キャンベル氏くらいです。

専門家の判断の土台となる規範や倫理は、古今東西、軽々に変わらない可能性が高いが、専門性の中核となる知識は絶えず更新されている。加えて、特定の社会の安寧を専門家としての目的に据える限りは、その社会と周辺状況の変化に絶えず追随する必要がある。それゆえ、社会政策分野では(、つまり、犯罪学界隈でも)、国を誤る判断を下さないためには、専門家集団には、タブーを設けず、物事の真贋を素早く検討できる能力が求められる。もっとも、タブーを設けないという辺りで、情報収集が必要な範囲は、一個の学問分野を簡単に超えるものとなってしまう。

各学術分野における知見の有力説は、本来、専門家以外の利用者が真偽を吟味せずとも済むよう「硬い」内容とならなければならない。他分野の専門家であれば、吟味するだけの能力があるかもしれないが、吟味に時間を取られてしまうことになり、本業に集中できなくなる。実務家の本来の仕事は、有力説の吟味ではなく、決定された政策の遂行である。政策にこれらの知見を反映するのは、本来、政治家の仕事である。

次回に続く

2015年5月25日月曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その1)

ウェブ上の「情報爆発」は、今後も止まりそうには見えず、横断的かつ実学的な学問分野である、環境犯罪学・計量犯罪学の知のあり方に対して、いずれ深刻な事態をもたらすことになりそうである。本稿では、この予測を素描してみたい。もっとも、この予測は、加藤尚武氏による『価値観と科学/技術』の「今後は情報不足より情報爆発に伴う情報の取捨選択が問題となるであろう」という旨の指摘に基づけば、自然と導かれる結論であるので、私の予測は新規性のあるものではない。もっとも、この予測の誤りは、私にのみ責任が帰せられるものである。

本来ならば、科学的手法や科学と社会との関係を専門としない私が、犯罪学を取り巻く状況を俯瞰したり、今後は深刻な事態を迎えそうなどと予測することは、二重に不遜だと思われても仕方のないことである。しかも、この作業は、埋没費用となることを承知で進められたものである。大して新規性もない割に、敵ばかり作ることになる作業である。それなのになぜ?と問われた場合には、あえて、周りと空気と先行研究を読まないサービス精神ゆえであると回答したい。あえて追記すると、この分野において利用されるデータの性格に、もっと注意を払って欲しいためである。そのためには、わが国の環境犯罪学界隈では、そもそも、基軸となる技術や概念が十分に意識されていないことから指摘していかなければならない。本稿は、そのための捨て石となる議論である。

学問分野の維持には思想の見取り図と共通の思考の枠組を持つ成員が必要である

テキストデータとして蓄積され後追いできる言説が増加する一方、人が一定時間内に咀嚼できる情報量がそれほど向上していないために、どの学問分野においても、何らかの情報整理機能が確立されていない限り、いずれは情報収集作業に要する手間は、研究業務を圧迫するほどに増大するであろう。加藤氏の著書を読んだ私を例に取ると、最初に私が行うべき作業は、加藤氏の著書の参考文献を調べることであり、次いで図書館で件名検索することになる。その上で、当該の学会や研究者のゼミなどに参加するといった行動が理想なのであろうが、私には、本件でそこまで作業する必要があるものとは思わなかったので、そうしてはいない。ともあれ、これらの方法は、多くの学問分野で標準的な情報収集手法となっているが、成員がこの基本に忠実である学問分野では、これらの方法は、情報の縮約機能を同時に果たすものとなる。

伝統的な方法が根付いている学問分野では、標準的であるという評判を有する「教科書」があり、その書籍にすぐに行き当たることも期待できる。良い評判の教科書は、業界の見取り図を提示してくれるはずである。良書は、どの主張が正統で有力説であり、有力説への対抗言論にはどのようなものがあるか、またその有望性がどのようなものか、著者自身の考えをも客観的に位置付けた上で提示する。このような専門的な教科書が存在し、しかも学問分野のコミュニティでその認識が共有されている場合には、対抗言論として位置付けられている研究者であっても、その良著を尊敬し、その存在に言及する。その結果、初学者がそのような「辺境の地」であるかのような資料から出発しても、2段階ほどで「首都」の「アリーナ」に辿り着けるのである。ここで「2段階」とは、年季の入った研究者の論文→著書→教科書を指す。

ある学問分野は、分野を支える主要な言説の正しさに加えて、その成員間での理解の枠組が共通して初めて成立する。言い換えると、どの派閥に所属しようとも、業界の見取り図は一致するのである。争点があるときには、お互いの持論を良く理解した上で、相手の上を目指すのである。まるで週刊少年ジャンプにおける古き良きライバル関係のように、相手を認めているからこそ議論が成立するという点が大事である。これらの条件があってこそ、ある学問分野は、弁証法の図式に則り発展することができる。

ある学問分野が実質的に存続し続けるためには、ある問題が解決方法(の大枠らしきもの)とともに提示されており、その組合せが問題の解決に有望であると共感する者が集まり続けることが必要であるが、そこには、問題と研究者との力関係が介在する。問題の体系が一人の人物で扱うには大きすぎる場合には、その学問分野には、一時的に多数の研究者が集まることになる。参入の結果、問題が解決でき、知識を集約できれば良いが、そうでない場合、問題の全貌を把握する上で必要な知識や能力が増大することになる。その学問分野を見渡すための知識量や労力が増大すると、かえって、その学問分野の存続に必要な共通理解は、失われてしまうことになる。

この図式に則り衰退した学問分野の好例として、マルクス主義を挙げることができる。マルクス主義は、犯罪学にも、左派犯罪学と呼びうる分野を形成する程の影響を与えている。それら左派犯罪学から出発した研究者による、構築主義を援用した言説のいくつかは、現在のわが国における有力説となっている。マルクス主義と構築主義的な考察を行うこととの間には、明らかに区別を付けられる。しかし、これらの思考の枠組は、わが国の犯罪学関連の行政実務において、明らかに混同されている。場合によっては、社会防衛説のような極論を採る者でなければ敵である、という拙劣な見解がまかり通るほどである。この点を細かく検討する作業は、専門的で先進的な内容になり得るし、わが国が開発独裁的であるとする近時の危機意識にも通じる話になるため、できるだけ早い時期に取り組みたいことではある。しかし、本稿では、ひとまず、全体を素描することを優先しよう。

ついでに脱線しておくと、犯罪学関連のわが国の研究者にとって、マルクス主義に対する自分なりの(批判的な)見取り図を作っておくことは、必須の作業であり、決して無駄とはならない。マルクス主義は、社会の発展段階なるものを仮定して、これにヘーゲルの弁証法を適用したものと解釈できる。同時に、マルクス主義の提唱自体を、ヘーゲル式の弁証法の「正→反→合」図式にいう「反=アンチテーゼ」の段階であると見ることも可能ではある。それはさておき、本稿としては、マルクス主義の盛衰から、当初の物語がそれなりにシンプルであったにもかかわらず、その後に信条が分派しガラパゴス化したという教訓を読み取ることができる。また、隣国であるロシア・中国が異なる形態のマルクス主義を採用していたこと、今後もその影響は継続するであろうこと、さらには、弁証法のテーゼに則る形でコーポレートクラシーがわが国を席巻しようとしていること、などなど、犯罪学が真正面から対象としうる素材を理解する上で、マルクス主義への理解は欠かせないものなのである。

問題を解くための専門分化は避けられないがその成果は一般化されなければならない

問題と解決方法との組合せが一個人が扱うには巨大になりすぎた場合、必然的に研究分野の蛸壺化が生じる。蛸壺化の背景には、我々が万能の存在ではないという、どうしようもない事情が存在する。蛸壺化を避けるためには、問題を局所的に解決して、その問題についての知識を正確なものとしつつ、同時に、その解法の習得を容易なものとすることが一つの方法となる。知識の一般化という作業は、知識を正確なものとする上で必要だが、同時に、解法の習得を容易なものとするという点でも有用である。

興味が蛸壺化した結果、自分たちの学術活動に支障を来すことが明らかな場合、ある学問分野が共通の看板を掲げる一方で、内部に分科会などを形成して、特定の主題の深化に必要な議論の質と量を確保するということが普遍的に行われる。この行動は、学問の対象である問題群を俯瞰し、その解決に取り組み続けることからの逃げとも見えるが、問題解決の責務を組織化して安定化するという機能も有している。研究活動が大衆社会に組み込まれている現代では、安定して成果を産出し続けることが多くの研究者生活の維持に求められる。問題を限定化して解決方法を深めるという局所最適を目指す戦略は、たとえ問題の本質から目を背けていようとも、庶民出の研究者が当座の糊口をしのぐ上では必要不可欠な作業でもある。

研究分野の専門化という戦略は、教育学にいうenhancement教育に相当し、横断化はenrichment教育に相当する。後者の語義から受ける印象は「多様な種類の知識がある」というものであるが、横断化の機能は多量の知識を揃えることではない。横断化は、別個に深掘りされてきた先進的研究を通覧して、類似した成果を一般化し、共通基盤となる知識を整備し縮約するという機能を有しているはずであり、この縮約するという機能こそが期待されている。この点が強調されるようになったのは、私の狭い見識では、わが国では、ここ10年ほどのことであるように思う。

知見を広く収集し、良質の成果を選別して整理、統合するという技能は、サイエンス・ライターや科学部記者に期待される職能でもあるが、本来なら、横断的分野の研究者や論文の査読者にも必要となる素養である。そして、先に言及したように、この作業は、成功しなければ埋没費用となる。また、成功したかどうかの判定は、常に作業者にとって厳しい側に下される。それら横断的分野における知見は、整理・統合された状態にこそ新規性があるのだが、基礎研究分野の研究者にとっては、どこかで聞いたことのある話にしか聞こえないためである。

わが国のいくつかの横断的な学問分野では、先進性という概念に対する十分な合意がないために、良心的なレビューにより周辺分野を理解して、その理解の枠組を共有するという行為が生じにくい。レビューという作業が報われないことになる見込みが高いという状態が続くと、研究コミュニティの構成員の多数がレビューを怠るようになり、終いには、レビューが専門誌に投稿されたとしても、その適否を確認する作業自体が忌避されがちとなる。過去の論文数がゼロというわけではないので、それらに言及するだけで十分だと、投稿者・査読者の双方が判断するようになると、その学問分野の進化の方向は、かくして、ガラパゴス化へと舵を切るようになる。その学問分野の過去の主要な論文が適切な理解の下に執筆されていない場合には、今後の方向が歪なものになる事態は避けられない。

わが国の横断的学問分野では、多少なりとも、異分野の成果を顧みないという意味で、ガラパゴス化が進みつつあると思われるが、ガラパゴス化は、必ずしも研究の質の低下に直結はしない。この事情は、防犯・防災などと並べられることの多い二つの研究分野を比較すると、直ちに了解できることである。防災研究は、成果を世界に発信すると世界でも先進的な内容であると認められるものを多く含むが、防犯研究のほぼすべては、英語圏の研究の二番煎じと解釈して良いものに留まる。同じガラパゴス状態であっても、進化を続ける中心地となっている防災研究では、和文論文を参照するに留まったとしても、新規性の高い内容へと発展する余地があるが、辺境の地に過ぎないわが国の防犯研究は、参照し続けたところで、下手をすると「四角い車輪を二度発明する」ことになりかねない。

ある学問分野において研究の質が低下する条件には、その学問分野における低質な研究の量が増加すること、研究の質を判別できない成員が多数となること、の2点があると予想できる。低質な研究が蓄積されると、参入障壁は低下する。低質な成員による研究が低質となることはもちろんであるが、低質な成員が多数派であることを認識した成員の研究の質も、競争のために低下しうる。すると、いったん質が低下すると、質の向上は望みにくいこと、また、当初の研究の質が低下する原因がキーポイントとなることが分かる。良質の前例が少なければ、その後投稿される低質の研究を低質であると判定しにくくなるであろうし、参照すべき先行研究の本数が少なくても許容されるようであれば、短期間にたまたま集中した低質の研究によって、続く研究が低質であっても採用されるという機序が働くことが考えられる。これらの条件は、必ずしも横断的な学問分野だけに特有なものではないが、基礎研究分野では、良質な先行研究が多く存在すること、参入に一定のノウハウと予算と設備が必要であること、などが考えられる一方で、横断的な学問分野の大半が新規領域であり、基軸となる技法や知識の吟味が甘いという事情があるために、横断的な学問分野に生じがちな問題であるとも言える。

次回に続く

2015年5月15日金曜日

放火研究の動向(私家版、パート2)

前回より


放火の環境犯罪学的研究と火災研究との精度感の違いは問題にはならない

不穏当な表現になるが、従来型の回帰分析を用いた政策科学系の放火研究は、火災研究者には、実に怪しげなものであると、適切に理解されてきたようである。少なくとも、その精度が低いことを理解してもらえてはいるようではある。自然現象を相手にするための道具立てを学習する課程は、モデルというものを利用する場合の相場観を養う機会となる。ある研究の正当性は、その研究を評価する研究コミュニティを離れて成立することはないから、怪しげな環境犯罪学研究が「放火に対する建築防火政策の効果はまったくない」と主張しても、火災研究コミュニティからは、健全な反論が提起されることが期待されよう。つまり、環境犯罪学者は、研究上の努力を節約していても、いずれは、それぞれの研究の正しさが見極められることを期待しても良いということになる。将来において、環境犯罪学上の誤りは、自然に淘汰されるものと期待できるということである。

ところがそもそも、火災そのものを研究対象とする研究者の承認は、環境犯罪学的な放火研究の成功条件には含まれない。つまり、従来の統計的手法を利用した、環境犯罪学的な放火研究が内包する限界について、共通の理解に至る必要性は、端から存在しない。放火研究という学際的研究において、知識の相違により軋轢が生じる蓋然性は、十分に高い。にもかかわらず、現実には、この辺の難しさを通過しなければならないことは、第一点目の「もったいない」事実である。「放火犯がまさに火を点けようとする環境」の空間スケールは、「可燃物及び着火源が容易に入手可能な現代」というマクロ環境をふまえると、直感的には「放火犯のパーソナルスペース」程度である。その空間スケールは、大きなものであるとしても「放火犯の視界の範囲」程度である。清永賢二氏らの「侵入盗の目の付け所」に関する研究にいう「向こう三軒両隣」程度の大きさの空間が最大のスケール感である。その「向こう三軒両隣」内に可燃物がないという状況は、わが国の「都市空間」では、きわめて考えにくいことである。放火犯になったつもりで考えれば、可燃物は身の周りにあふれているし、マッチやライターもありふれているから、われわれは、誰もが「放火しようと思えばいつでもできる環境」に囲まれて生活していると言っても良い。マンションが立ち並ぶ地域でも、オフィス街でさえも、可燃物はそこかしこに見つかるし、ホームレスを糾弾する気はないが、彼らがしばしば可燃物を不燃建築物の周辺に持ち込むこと自体は、事実である。

「いつ・誰が・何を用いて・どの物品に最初に火を点けたのか」という点の解明は、火災調査の焦点であり、火災研究者の腕の見せ所であろうが、環境犯罪学者の興味を満たすには、「現実の都市のミクロ空間下に火を点けるものがあるかどうか」が分かれば、十分である。両者の興味には、一種の断絶が存在するのである。このため、火災調査に見られるような厳密性は、正確な放火地点の把握に必須ではあるが、仮に、火災調査に現在ほどの厳密性がなかったとしても、環境犯罪学研究に必要な精度感が左右されることはない。(消防署の)予防課の担当者の説明は、信用できるものとして受け入れられ、そのまま研究に利用されて構わないであろう。その上、放火事件の現場には、素人目にも分かるほど、数ヶ月前もの燃焼地点の痕跡が残されていることがあるから、回顧的に放火地点を特定することは、不可能とは言えない。


警察側の情報が研究の精度感を決定的に左右する

その一方で、放火の統計的研究や、あるいは(地理的)プロファイリングなどの成否を決定的に左右するのは、犯人と事件のリンク分析、つまり、どの事件がどの犯人によるものであるのかを紐付ける作業である。にもかかわらず、警察の犯罪統計やリンク分析結果が外部の研究者に公開される公的な仕組みは、存在しない。外部の研究者は、裁判を傍聴し続けるという方法により、データを収集することが原理的には可能であるものの、現実的な手段ではない。次善の方法として、裁判記録を入手するよう努力するというものもあるが、これも系統性という点では、難がある。結局、回顧調査の枠組みに基づき、不完全な報道記事を元に、連続犯と事件との対応関係を調査するしかない。この作業も面倒くさいし、何より、リンク分析としての正確性を保証する役目が研究者に課せられるため、再現性に問題がある。

この事情は、「警察外部の研究者が放火犯と事件の対応関係を知るために報道記事を利用するしかない」という第二点目の「もったいない」事実を生起させる。警察関係者は、警察のデータが権力の源泉となり得ることを、報道関係者とのやりとりを通じて、重々承知している。私のブログ記事は、報道関係者への批判に満ちているが、それでもなお、通常の研究者に比べて、共生関係という観点から見て、彼ら報道関係者が多大な成功を組織として収めていることに、間違いはない。他方で、研究者にデータを公開(あるいは提供)して、彼らからの信頼と社会からの名声を獲得するという警察の作法は、お世辞にも洗練されたものとはなっていないし、現実に、そのような努力に見合う利益もごく小さなものである。「データの共有を進めれば、犯罪学はより進歩するのに」という研究者の嘆息は、数十年前から見出すことができる。これらの諫言は、研究者当人にとって、このような表出が利益にならないことを思えば、相当に根深い事情を指すものであり、社会が傾聴すべきものであると理解すべきであろう。




2017年9月9日修正

多くの理由から、一旦公開を見合わせていたところ、再度公開することとした。これに伴い、若干の修正を加えているが、大意に変更はない。合わせて、タグの体裁も変更した。

2015年5月14日木曜日

放火研究の動向(私家版、パート1)

#放火(火災)研究の動向を、通常のレビュー論文よりもメタな観点から、自戒を込めて短時間で不遜に記したいと思います。レビューとしても落第点の手抜き状態で、先進性もなく、生煮え状態のくせに、明日のわが身を考えずに顕名で各業界に喧嘩を売りまくりました。しかし、含みを持たせて表現しない方がわが国と後進のためになると都合良く考えてみましたので、ブログに記すことにしました。なお、括弧書きは、学術的な用法ではない(誰かの引用を表さない)ので、その点、ご容赦ください。


放火「火災」という表現

放火「火災」とは、消防法の所管する(消火活動の専門家でなければ手の付けられなくなった状態の)現象である。「放火火災」を「放火」と記しても、おそらく、消防関係者のほかは、気に留めることはあるまい。消防関係者も、(私の存じ上げる方々は、相対的に心が広めで熱いので、)問題視することはあるまいとも思われる。しかし、このように説明した上で、改めて「放火火災」と表記すると、読者の皆様には、研究者の自主規制を含みうる表現なのだなあ、とご賢察いただけるものと期待するのである。

社会学では、構築主義の観点から、この種の表現(の経緯や差異)を研究対象の範囲に含めている。「放火罪」と記すと、これは、法学者の専門領域になる。精神医学は、抽象的な意味での「放火犯」を相手にする。「放火犯」というように、表現を括弧書きとしたのは、精神疾患などによる責任無能力状態の者も含むためである。「放火火災」と「放火罪」という表現の違いは、実務についてみれば、「消火活動を優先させる」消防関係者と、「放火犯の検挙を目的とする」警察関係者との違いでもある。

「放火」や、その上位概念の「防犯」のような、組織間の連携・協調が必要な研究分野では、表現ひとつにも留意することが必要であるし、また、そうして初めて、総合的で効率的な対策の糸口も開けようというものである。しかし、幸か不幸か、これらの要素にまんべんなく目配りし、総合的に実務への還元効率を測定できるまでに入念に実施された放火の(また防犯の)政策評価研究は、今までに存在しない。放火犯一人や不燃建築物一棟についての限界効用を計測できるようになってしまうと、個別の研究分野には都合が悪い。放火に関わる多くの学問分野では、手弁当で実施可能な研究は限られており、追加的な研究予算を獲得することが必須業務であるためである


放火に係る政策評価研究の袋小路

困ったことに、私が学んだ環境犯罪学は、このような要素間の兼ね合いを理解の基本に据えている。環境犯罪学に基づく放火研究では、放火を、「放火犯が、放火しやすいところで、放火しやすい物品に火を点ける」というイベントとして理解して予防しようとする。「放火犯(犯行企図者)、放火対象物及び着火物(潜在的な対象物)、ご近所の目(抑止する存在の欠如)」という三要素のいずれに公的な資源を集中すべきかという問題は、それほど話題に上らないものの、実際、解答が必要である。人口減を受けて経済が(ほぼ必然的に)縮小する中、公共が支出できる予算も人員も減少するのが当然であるからである。

ただ、「こうした三種類の要素のうち、どの要素が効果的であるのか」という問いを立てることは、今のところ、現在のわが国の犯罪学界隈で利用されている標準的な回帰分析による限り、かなり無謀である。本点に係る現時点の環境犯罪学研究では、要素の組合せ(交互作用という。)に対する考察が不十分である。この課題を解決するためには、従来使われてきた手法を新規性のあるものに変えるか、または、優れた考察によって不要な交互作用を捨象するという作業が必要とされている。そもそも、従来の回帰分析による環境犯罪学研究では、交互作用は、ほぼ忘れ去られている。

従来型の回帰分析により先の問いを力押しで解くことが無理なことを、数字で示そう。ABC三種の要素を挙げた場合、ABCすべての組合せによる交互作用項(A:B:C,1種※1)、要素2種類からなる交互作用項(A:B,B:C,C:Aの3種)+要素一種のみの独立項(A,B,Cの3種)という、計7種類の影響を考えることができる。しかし、3種の要素に正確に対応する統計を収集することは、無理な話であるから、適当に3種類の統計によって各要素を代表させることを考えてみよう。すると、計9種類の要素では、合計で511(=2の9乗-1)通りの項が式に含まれることになる。これだけの項を含む式を十分な精度で分析するには、伝統的な方法では、2の511乗の個数以上のデータが欲しいところである。しかし、これは、約6.7*10^153であり、とても用意することができない数である。

従来型の方法では、程度の差こそあれ、どのみち直感に頼って作り上げられたモデルを元にする以上、利用する統計の種類が分析の見た目を左右する。もはや統計分析ソフトウェアを一から開発する必要はないし、そのような必要を強く主張する研究者もいないであろうから、誰でも、同じ統計を用いれば、同じような結果に辿り着ける※2。良心的に先行研究を読み込んで変数の集合を選択しても、分析結果は大差ないように見える。結局、使える統計が同じだと、事前の考察の深浅にかかわらず、誰もが同じような結果を得ることになりがちである。

疎行列を取り扱うことができる統計パッケージを用いたり、マルコフ連鎖モンテカルロ法を援用して交互作用を絞り込む統計パッケージを用いれば、ここで見たような直感的なモデル構築を避けられるかもしれない。ただし、期待されるような結果が得られるかどうかは、試してみなければ分からないし、後者は、人間の頭脳で交互作用を取捨選択した結果と比べて優れているかどうか、保証されるわけではなさそうである。新規性のある手法が成功したように見えるか否かは、分析したい現象の構造が事前に知られているかどうかに依存しそうである。

放火研究の評価というよりも、より包括的に、犯罪研究の評価について語っている塩梅になってきたが、これでようやく説明のお膳立ての元となる「政策科学系の放火研究の怪しさ・相場観」の説明が終わったと思うので、次回は、放火研究の評価に話の焦点を戻すことにしたい。繰り返しになるが、ルーティン・アクティビティ理論がいくら直感的に優れているように見えても、これを従来の統計的手法により説明しようとする試みは、いかにも無謀である。しかし、少なくとも、わが国における環境犯罪学界隈で、この事実は真剣かつ深刻に受け止められていない。これは、新規性のある知見ではなく、どちらかといえば常識の部類に入る。


※1 ここでの表記は、Rの記法に従う。Rのlm関数では、A*B*Cと表記すると、全交互作用項を自動的に推定してくれる。個別に交互作用項を設定したい場合は、A:Bのように表記する。

※2 だからこそ、GNUライセンスであるRは、大変ありがたいプラットフォームであり、今や、必須の研究インフラであると思う。しかし、それだけに、青木繁伸先生がRやExcelの関数におかしなところがある場合に警告されてきたことには、注意しておきたいとも思う。

次回に続く


2017年9月9日訂正

語尾の「だ」と「である」の混在を解消した。brタグをpタグに変更した。リンク切れを解消した。