2018年10月15日月曜日

(メモ)ソフトバンク株の急落(2018年10月15日)

ブルームバーグ[1]やロイター[2]は、アドナン・カショーギ氏のであるジャーナリストのジャマル・カショーギ(Jamal Khashoggi)氏が在トルコ共和国サウジアラビア王国総領事館内で殺害されたとされる事件を受けて、ソフトバンク株が急落していると伝えている。2018年10月15日(月)の日経平均株価は、ソフトバンク(9983)やファーストリテイリング(9984)が、午前の寄付直後から大きく売り込まれ、これら値嵩株の影響を被り、下落した※1。これら2銘柄は、本日、とりわけ念入りに売り込まれ、指数プレイの出汁にされたといえるのではないか。

「サウジアラビア王国関係者が犯人だ」と言わんかのような殺人劇を通じて、サウジアラビア王国に対して汚名を被せ、トルコ共和国との過剰な緊張関係を生じさせ、その影響の名の下に、アメリカへの投資も宣言しているソフトバンク株を急落させることによって、誰が得をするのであろうか。ソフトバンクの株価そのものは、とんだとばっちりである。悪影響は、それのみに留まらない。同社株が、日本の株式証券市場を代表する銘柄であるためである。

サウジアラビア王国において、権力闘争があることは事実であろうが、これらの事件をあたかも同国を専らの犯人であるかのように報道することは、日本経済全体に対する重大な挑戦と了解することも可能である。ソフトバンク株の下落を受けて、値嵩株である日経平均株価が連動して下落すると、日経平均株価に連動するETFを通じて、日経平均採用銘柄全体の株価も低下する。サウジの権力闘争の実際を正確に知らせもせずに、ソフトバンクに対する不安感を煽るだけでは、単一銘柄の株価の不正操縦に留まらない波及効果が生み出されることになる。サウジアラビア王国に見られるようなネポティズムに係る報道は、誰と誰が組んでおり、権力を掌握しているのかの分析と、事件の真犯人と下手人が誰であるのかの追及までが併せられなければ、いたずらに投資家の不安を煽るだけに終わる。わが国でも、真のジャーナリズム魂を有した人物は、相応の危険に晒されている(が、申し訳ない表現ではあるが、株価に影響を与え、一国の経済を傾かせるまでのことはなかろう)。カショーギ氏の「保険」は、サウジ関係者の躊躇を生まなかったのか。他国の介入は、単に通信傍受のみなのか。これらの疑問が追求されてもいないという事実を鑑みれば、マスゴミの影響力は、総じて、悪い方向にしか機能しておらず、命を張る(ごく少数の)同業者や彼らの安全を軽んじているとしか言いようがない。


※1 『株探』のウェブサイト[3]から、日経平均の当日引け後の当該の寄与度上位5銘柄を下に示した。

コード銘柄寄与度
9983ファストリ -93.73
9984ソフトバンク -80.56
6367ダイキン -17.78
4543テルモ -16.3
4911資生堂 -10.11

[1] ソフトバンク株が急落、サウジ記者の行方不明問題への懸念増大 - Bloomberg
(古川有希・中村友治・Peter Elstrom、2018年10月15日14:42JST、更新日時 2018年10月15日19:47JST )
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-10-15/PGMIEH6S972801

今後のビジョン・ファンドに潜在的なリスク-アナリスト
孫氏、シリコンバレーで冷遇される可能性も-キングストン教授

[2] ソフトバンクG株が反落、サウジ記者不明問題で売り圧力
(記名なし、2018年10月15日09:44)
https://jp.reuters.com/article/softbank-stock-idJPKCN1MP014

「(記者の行方不明問題について)サウジ政府の関与の疑惑が出ており、株価もネガティブに反応している」(国内証券)との声

[3] 株探 | 株価注意報 - 日経平均の寄与度ランキング
(2018年10月15日16:00)
https://kabutan.jp/warning/?mode=8_1

2018年9月17日月曜日

(私事)何ということでしょう

私は、穏やかであった今日の午後、冒頭のこの一言を、どうしても発してみたくなってしまい、そのために、今年の5月、彼女のためだけに用意していたネタを公開してしまうことにした。私がかつて記した「標準的なリフォーム」費用とは、『劇的!ビフォーアフター』の全放送回リスト[1]を参考にしており、その平均値は、1346万円である。このデータを信用すれば(、そして否定する理由もないのだが)、(2018年9月)15日の『日本経済新聞』朝刊1面「首都圏 所得減のドーナツ/迫られる「脱・ベッドタウン」」に示されたような郊外地域のものであれば、中古住宅を購入した上で、なおかつ、上掲のサイトの平均価格を参考にしたリフォームも行えるものと判断したのである。作業に使用した『R』用のスクリプトを、本稿の末尾に示した。

このような唐突な行動に駆られた理由は、日本人男性という生物の「脱・ジェンダー化」には、パートナーや家族との、継続的かつ安定的な関係こそが必要であるという思いを、新たなものとしたからである。(ただし、この話は、またの機会にしよう。興味のある人は、例によって、ちょっとした手間を掛けるのが良かろう。)

最後に、付け加えておきたい;彼女と私の過去の複数回の出会いは、「何ということでしょう」と呼ぶほかない〈偶然〉のものとして、昨年より意識されて以来、私の前に立ちはだかり続けてきた。これらの〈偶然〉から、また彼女の人となりから(私の頭の中で)導かれた彼女の生き様は、手助けせずにはいられないものとして、私を無謀にも動かし続けてきた。今の私には、彼女の沈黙に耐えながら、彼女に背を向けることを潔しとすることはできない。かといって、ここから尻尾を巻いて退散するにせよ、私には、彼女からの言葉が欠かせない。お互いに別の道を行き続けることがお互いのためであると、面と向かって彼女が私に告げるなら、私も未練を断ち切ってくれたことについて、彼女に感謝しながら身を引くことができる。しかし今後、彼女がどのように生きるにしても、現在までの生き方を続けられる時期は、終わりにきている。それは、私たちが、お互いを東京に生きる匿名者としてではなく、名のある個人として認めてしまったからでもある。この点、彼女も〈偶然〉に翻弄されている。


高積雲が広がっていた空に、積層雲が厚く立ち込めてきた。読者には、ご理解いただけたことであろうが、私は、一段だけ、ギアを上げた。今回は、これでおしまい。


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               1200, 1100, 1400, 1500, 1700, 3300, 1100, 1800, 1000, 1700,
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length(my.ranks.2) - my.ranks.2[length(my.ranks.2)] # ○位


[1] 大改造!!劇的ビフォーアフター 【番組全放送リスト】
(2018年9月17日確認)
http://dgba.ehoh.net/DGBA_OAList.htm




2018(平成30)年9月17日21時訂正・追記

一部の文言を訂正、追記した。

2018年9月8日土曜日

(メモ)正義を自認する者にどこまでの嘘は許されるのか

#手抜きも良いところであるが、とりあえず公開する。【】は、段落を構成する要素として、成立しているであろうが、文としては、放置したままのものである。


一国の国民の安全を預かる者からすれば、単なる平和主義者は楽な立場だと、プーチン大統領は、オリバー・ストーン監督に語っている(。『オリバー・ストーン・オン・プーチン』〔pp.168-169〕、ここでは「親ロシア」という用語で説明されている)。平和主義者の国民の側に、「権力者とは、何をしてでも一国の安全を維持するという任務を背負うものであり、結果で判定されざるを得ない存在である」という認識があれば、平和主義者の国民と権力者との間には、権力者がプラトンのいう「哲人王」を目指す限りにおいて、共通の了解も生まれるのかも知れないとは思う。殺されることに甘んじて耐えるということは、普通の人間には可能なことではない。私からすれば、筋金入りの平和主義者の国民もまた、その領分に留ま(り、殺されることを覚悟す)る限りにおいて、(場合によっては、権力者よりも)偉大になり得る存在であるとは思うのであるが、この考えは、下々のものであって、甘いものなのだろうか。

話の枕としては、あまり適当な事例ではなかったが、私の考察の対象は、NHK『NHKスペシャル選 未解決事件File07』「警察庁長官狙撃事件」(2018年9月2日21時、8日(本日)16時~)において紹介された、青木五郎・警視庁公安部長によるオウム真理教を犯人として名指ししたことの理由である。この発言は、警察行政に対してかねてから批判的であった言論人や組織からの反発を大きく招くものとなった。これらの批判(を無料の本ブログで収集して取り上げる努力はしないが、それら)は、至極、妥当なものである。青木氏の発言は、推定無罪の原則などの刑事司法の基礎的な考え方を知る者なら誰でも、直ちに違和感を覚えることができるほどに踏み込んだものである。結局、東京都は、オウム真理教の後継団体であるアレフに裁判を起こされて、損害賠償まで支払うことになった

【概要の説明;警察庁長官の國松孝次氏が1995年に狙撃された事件。オウム真理教関係者が教団への捜査を攪乱するために起こしたものと見立てられた。ところが、中村泰という警察官殺害事件の犯人でもあるローン・ウルフ型の犯罪者が、刑務所で誰?に向かって告白した。これを受けて、警視庁公安部・刑事部は、捜査に着手するも、中村の自供に基づく拳銃を発見することはできなかった。大島行きフェリーから海中に投棄したとするため。青色のティップを持つホローポイント弾は、LAの貸倉庫に保管していたものの、借用期限がきたために処分され、銃砲店に売却された。中村は、接触を図ってきた弁護士に対して、決定的な何かを埋めた地点に係る資料を提供、撮影班は宝探し中とのこと。】

落ち着いて状況を考えてみても、青木氏の発言は、明らかに異常さが際立つものである。【常識から外れているのは二点。刑事司法の理念である推定無罪の原則に違背していること。時効にあたってとはいえ、注意喚起としてのタイミングがあまりに遅く、不合理なこと。】

この異常な状況ゆえに、合理的な精神を持つ批判者は、なぜ、青木氏がここまで発言したのか、という疑問にも至ることができる。【さすがに、キャリアの青木氏がここまで法律の常識を知らないとは言えまい。なぜ、オウム真理教にすべての責を負わせなければならなかったのか。】青木氏自身の「テロ事件の危険性を喚起し続けるため」という趣旨の発言は、彼の意図の全部を説明するものではないが、彼の意図すべてを把握しようと努力する際のヒントとして利用可能ではある。

青木発言の意図が、警察庁長官狙撃事件ほどの重大事件を一個の個人が起こせるだけの脆弱性がわが国に存在し続けてきているという事実から日本人の聞き手の注意を逸らすために仕組まれたものだと考えてみると、このお粗末過ぎる発言の理由にも、それなりの合理性を認めることができるようになる。青木氏は、あえて、近代社会の法理念に悖る迂闊さを全面的に押し出すことによって、日本の安全を維持するための汚れ役を一身に引き受けようとしたのではないか、とも考えることができる。しかし、青木氏の発言にもかかわらず、日本社会の安全性にぽっかりと開いた深淵は、残念ながらそのままである。たとえば、着の身着のまま、今年8月12日夜に(、この表現は、正確ではないかも知れないが)脱走した樋田淳也を、大阪府警察は、今に至るまで確保できていない。中村泰にせよ、樋田にせよ、これらの個人犯罪者たちは、彼ら犯罪者個人の目的に照らせば、今も警察を出し抜いたままである。また、彼らから発せられているメッセージは、およそ30万人を擁し、自賛するのも理解できなくはない水準の治安を実現しているはずのわが国の警察組織に対して、重大な疑義を突き付けるものとなってしまっている。

犯罪者の声明・犯行に対する警察のコメント、すなわち広報活動は、単に警察の体面を維持するという問題に留まらず対テロ戦争の一環でもある。重大事件を起こした犯罪者個人の目的が売名行為にあるとすれば、彼らの意図は、犯行を通じた一種のテロ活動と言える。これら犯罪者たちの目的は、汚名とマスメディアの(真実を世に広めるという建前の下での、実際のところは経済的な利潤を目的とする)下世話趣味とをテコとした「不死の名誉」とも言い換えられる。この機能を考慮すると、犯罪者なりの「名誉」と、それらを毀損するための行政府・司法機関の組織的活動と、それらの事件から教訓を引き出すという正当な犯罪予防活動との間には、緊張関係がある(犯罪者の実名報道(の是非)は、この緊張関係に含まれる、より一般の意識が向いている話題である)。この売名行為に対して不用意に共感的な言説を寄せることは、テロへの協力にもなりかねないし、非難に値することもあろう。この危険に対する私個人の研究者としてのかつての答えは、「大文字の物語」を構成しかねない(日本国民に大きな心的影響を与えうる)重大事件についての言及をわざと欠落させ、犯罪対策と個別の事件とを分離するというものであった(。「体感治安」は、この種の言説をまぜこぜにしてしまうという点で、諸刃の剣であった。この点、一般人でしかない今の私には、この種の縛りはない)。


なお、樋田淳也の逃走に関して指摘しておけば、全防犯カメラのネットワーク化およびその映像を利用した自動人物同定システムは、技術的な問題解決を必要とすることなく、十分に実装可能である。少なくとも、十分に多数の防犯カメラをネットワーク化し、自動認識システムに対して、常時、映像なり(容貌または歩容の)特徴量を送信すべき時が来ているという意見に対して、(光学、電気・機械・情報工学に含まれる種類の)技術は、十分に対応できる程度に成熟しきっている。問題は、社会実装に(のみ)ある。この主張を補強するため、憲法上の懸念を解決する上での最も有力な(私の考えた)方法論を提示しておく;それは、防犯カメラ単体の性能を向上させ、その製品の内部で、個体に係る特徴量までを計算し、その特徴量のみを送信するというものである。ワンチップといった「一体化していて製品から分離できない」部品によって、個人の容貌を(このように呼んでしまうことにするが)ハッシュ化してしまうことにより、カメラ本体内部で、データから個人への紐付けを防ぐ作業を完結できる。複数のデータ源から収集された同一個人に係るハッシュの同一性は、常に問題となるが、時空間上で近接するという基本を考慮すれば、十分な数の画像が複数のカメラから取得できている場合、大して問題にならない。社会的な課題は、このハッシュ計算を標準化する際に、利権が生じうることである。




2018(平成30)年9月8日22時30分追記

再現ドラマにおいて、小日向文世氏が演じる警視総監は、國村隼氏の演じる刑事に対して、「オウムを叩くことと真実を追求することのどちらが大事か」という趣旨の言葉を投げ掛ける。この台詞は、どちらかと言えば、当局の意向を汲んで、脚本家が採用したものと理解して良かろう。社会安全をタブー抜きで追究している(つもりの)人物からすれば、この台詞は、問題を矮小化してしまうという点で、社会に与える影響を限定化しているために、物足りなく感じてしまう。ただし、この台詞は、底が抜けていない分、これを真に受けてしまう愚かな同業者が出てくるのではないかとも危惧してしまう程度には、良く出来てもいる。あと、嘘と真実との割合について受刑中の中村が語る台詞は、実際の発言を下敷きにしたものであろうが、統計的な考察に欠ける。




2018(平成30)年9月9日1時43分訂正

一部の表現を改めた。




2018(平成30)年9月11日8時23分追記・訂正

一部の表現を改めて、淡い橙色で示したが、意図は変えていないつもりである。

なお、単なる疑問だが、時効成立当時の報道発表において、青木五郎氏は、沈黙を保つよう試みるという方法も取り得たのではなかろうか。しかしながら、記者は、当然、中村泰の話を聞こうとしたであろうし、現時点の私には確認する術がないが、聞いていたであろう。これらの記者の質問は、職務上期待される役割から当然に生じるものであるから、それ自体を止めることはできない。中村について聞かれたらノーコメントを貫くという方法は、取り得なかったのであろうか。こればかりは、複数人が知恵を出し合わないことには、何とも言えなさそうである。今の私は、私事ゆえに想像力が減退しており、マスコミの視聴者・読者に対して、中村が本ボシであったという印象を与えてしまったのではないか、としか結論できないが、この見解が正しいなら、青木氏の選び取った言葉は、一種のノリツッコミを心に秘めて発せられたものかも知れない。

2018年8月31日金曜日

(私事)失恋もまた「別れのないさよなら」かも

ポーリン・ボス氏は、ベトナム戦争で戦死したと認められるものの遺体が見つからない米軍兵士の遺族、認知症患者の介護家族といったような、近しい人の喪失・困難に対して継続的に向き合わざるを得なくなった人々を支援し、研究を続ける中で、「あいまいな喪失(ambiguous loss)」という概念を提唱し、その内実に「さよならのない別れ(leaving without goodbye)」「別れのないさよなら(goodbye without leaving)」という二種の類型があることを指摘した[1]。「さよならのない別れ」(タイプIの別れ)とは、親しい人が亡くなっていることが客観的には確実な一方で、遺体が見つからないために生者の側が死者に未練を残す状態を指し、「別れのないさよなら」(タイプIIの別れ)とは、親しい人が生きているものの、相手とのコミュニケーションが断絶してしまう状態を指す[1]。ボス氏による分類[2]を整理し直すと、

〔#タイプIの「あいまいな喪失」、悲惨で予期されないもの〕
  • 戦争(行方不明の兵士)
  • 自然災害(行方不明者)
  • 誘拐、人質、テロ
  • 監禁
  • 脱走、不可解な失踪
  • 身体が見つからない状況(殺人、飛行機事故など)
〔図1;p.12〕
があり[2]、ここに、東日本大震災の津波被害により行方不明となった方の遺族も含まれることが指摘されている[3]。また、タイプIIの状態の最も典型的な例は、認知症患者とその家族[4]であり、これを含めた事例には、
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、重篤な例〕
  • アルツハイマー病やその他の認知症
  • 慢性の精神障害
  • 依存症(アルコール、薬物、ギャンブルなど)
  • うつ病
  • 頭部外傷、脳外傷
  • 昏睡、意識不明
〔図1;p.12〕
がある[2]。より一般的な状況として示される場合のほとんどは、タイプIIに含まれようが、その事例には、
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、より一般的な状況〕
  • 移民、移住
  • 〔#↔〕ホームシック(移民/移住により)
  • 子どもを養子に出すこと、子どもが養子に出されること
  • 〔#↔〕子どもが養子となること
  • 離婚・再婚で親が子どもと別れること、離婚・再婚で子どもが実親と別れること
  • 〔#↔〕再婚により義理の子どもを得ること、親の再婚により子どもが義理の親を得ること
  • 転勤
  • 〔#↔〕ワーカホリック
  • 軍で派遣されること
  • 青年が家を離れて自立すること
  • 〔#↔〕コンピュータ・ゲームやインターネット、テレビへの過剰な熱中
  • 高齢の配偶者がケア施設へ入所すること
〔図1;p.12〕
がある[2]。最近読んだもののメモ代わりであるが、A・M・ナイル, (1983=2008). 『知られざるインド独立闘争 A・M・ナイル回想録』(新版), 風濤社.には、インド・ケララ州出身のナイル氏が、英国からの独立闘争に深く関与していたために、故郷に戻ることができず、老母との連絡も十分に取れない様子が記されており、ナイル氏の体験も「あいまいな喪失」の一事例に含まれるとも言えよう。


#上記引用は、転記にあたり、改変が過ぎるかも知れない。念のため。


なお、「あいまいな喪失」は、家族(遺族の置かれた継続的な環境下で生じた、家族(遺族の心の状態を表す用語である。この状態は、精神疾患ではない[4]。それがために、しばしば、家族(遺族は、サポートされるべき対象ではないと見逃され、喪失から「立ち直る」ようにと強いられてきた、とボス氏は指摘する[4]

おそらく、恋する相手から拒絶されたままの(私のような)個人もまた、先に紹介したような重篤な事例や崇高な事例に及ぶべくもないが、「別れのないさよなら」の範疇の隅っこに含めても良いのであろう※1。相思相愛の相手や家族とのコミュニケーションを失いつつある人々は、私よりも、段違いに悲しみ苦しんでいようし、周囲からの同情と共感に値しよう。けれども、現時点の私の苦しみも、私の慕う人が自らの意思で私を拒絶していることから生じているために、原因こそ全く異なるが、返事を求めても得られないという点については、タイプIIの別れと共通するのではないか。他者にとって、たかが失恋かも知れないが、色々な理由こそあれども、体脂肪率が9%程度落ちた程であるから、私の悲嘆は、「別れのないさよなら」の最もマイルドなものとしても良いだけの資格があろう。私の失恋ダイエットを主張の根拠に据えるのは、冗談が過ぎるとしても、原因が継続している「両義的な状態」は、私の状況にも共通する。愛する人が認知症に罹ったとすれば、私は、一体どうなってしまうのか、今からでも(、愛する人が傍にいてくれる訳でもないのに)、心配になってしまう。なお、

Goodbye without reason is the most painful one. Love without reason is the most beautiful one.(理由のないさよならは、もっとも心痛むものだ。理由のない愛は、もっとも美しいものだ。)
という詠み人知らずのミーム(金言)は、インターネット上では、それなりにポピュラーなようであるが、恋愛を指すものとして受け取られていて、ここでの私の主張を補強してくれるものであるとは言えよう(。5分ほどググってみたが、誰が詠んだのかは分からず仕舞いである)。


私は、かろうじて今も、お慕いする人からの連絡を、待ち続けていることができてはいる。三か月前からの私の願いは、受け入れられていないが、私のメッセージそのものは、思い人には届いている。私の願いは、かの人の心に確実な気付きをもたらしたはずであるし、変容をもたらし続けているはずである。ただ、私は、現在の苦しみに早晩耐えられなくなるという自覚を有してもいる。そうである以上、私の申出は、不定ではあるが、期日が設けられたものである。それゆえに、問題は、私がどれだけ今の状態のまま、自身の精神を、たとえ最低限の状態であるにしても、保持し続けられるかである(。あるいは、どれだけ潔く、未練を断ち切ることができるかである)。


※1 怠惰ゆえに、同種の考えがすでに表明されているか否かを確認していない。が、『認知症の人を愛すること』の訳[4]が素晴らしく柔らかいので、その正確性を信じることにすると、

〔p.6〕ふだんでも、私たちが愛する人たちと離れる事はよくあります。〔…略…〕現代のモバイル社会において、私たちのほとんどは、愛する人たちと多くの時間離れたままです。それにもかかわらず、現代の家族は、身体と心が同時に同じ場所にないことに、うまく対応しているように見えます。望めばいつでもまた一緒にいられるとわかっているからでしょうか。認知症の場合と違い、この手の喪失は、取り戻すことができるものです。〔…略…〕

恋人同士や家族が身体も心も完全に同じ場所に置くのはまれだと気づくと、分離と距離というものの(あい)(まい)さを抱えて暮らし、何とかやっていくための何らかのすべを、私たちのほとんどは備えているとわかることでしょう。この前段階の経験が、違いがあるとはいえ、認知症を患っている愛する人とどう生き延びて〔p.7〕よいかを探る手助けとなります。

(ボス(2011=2014)『認知症の人を愛すること』)
とあるから、やはり、失恋の悲しみも、「あいまいな喪失」の周縁に位置付けられると主張することはできよう。


[1] Boss, P., (1999). Ambiguous Loss: Learning to Live with Unresolved Grief, Harvard University Press.
(ポーリン・ボス〔著〕, 南山浩二〔訳〕, (2000=2005.4). 『「さよなら」のない別れ 別れのない「さよなら」:あいまいな喪失』, 東京: 学文社.)
http://id.ndl.go.jp/bib/000007706830
#リンクは、国会図書館の和訳本。

[2] ポーリン・ボス〔著〕, 中島聡美・石井千賀子〔監訳〕,(2015.2). 『あいまいな喪失とトラウマからの回復 家族とコミュニティのレジリエンス』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/026149473

[3] 中島聡美・山下和彦, 「福島におけるあいまいな喪失」, 前田正治〔編著〕, (2018.6).『福島原発事故がもたらしたもの 被災地のメンタルヘルスに何が起きているのか』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/029000937

[4] ポーリン・ボス〔著〕, 和田秀樹〔監訳〕, 森村里美〔訳〕, (2011=2014). 『認知症の人を愛すること 曖昧な喪失と悲しみに立ち向かうために』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/025454865




2018(平静30)年9月6日訂正

一部を訂正した。

2018年8月23日木曜日

(一言)ジェンダー論を利用したマウンティング

は、言説者が、異性愛秩序(heterosexual order)を至当とする当人の先入観を意識していないからこそ、表れてしまうものかも知れない。成人後の私の勉強は、常に泥縄なので、上野千鶴子『〈おんな〉の思想』のイヴ・K・セジウィック評によって、異性愛秩序という言葉をようやく理解し、拙稿(2018年08月05日)で言及した

〔…略…〕その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。〔…略…〕
と考えた内容が(恥ずべきレベルの)既出概念であったことを、遅ればせながら知った。また、同稿で言及した小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).についても、著者らが、旧来的なホモソーシャルに対する意識こそあれども、自身の中になお残存する異性愛秩序のあり方に意識的でないがゆえに、性愛の多様性に対して、自身の評価に基づく優劣を無意識に下しているものと、パラフレーズし直せよう。

#上野書については、私自身の貧困な経験から付け加えることもあるが、神奈川県央地域だと、ご覧に入れられるだけの文章を記そうと思うと、今一度、複数の公共図書館を巡らないといけないという不具合があるので、またの機会にしたい。

2018年8月11日土曜日

(メモ・一言)トルコリラ大下げ・台風13号

ポジショントークになる事を承知で記しておくが、トルコリラが大下げしており、エルドアン大統領再選後、しばらく20~22円台を保っていたところ、9日に19円台、10日に17円台まで下げた[1]。レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、ニューヨーク・タイムズ紙(NYT)に寄稿[2]し、現在の非対称的な関係を改めなければ、トルコが新たな友人を求めなければならなくなると警告している(が、掲載先がNYTになること自体、真に捻れた状況である)。ところで、日本の右翼は、常々、トルコを親日国と呼んできたが、困った時の友こそ、真の友ではないのか。私のような左翼がかった発言をなすことのあるリベラルでさえも、リラ建て債に一段目に下げた時に突っ込んだのに?などと思ってしまう。米国株にまで影響する(ということは、間違いなく、日本株にも影響する)との評価もあるのに、なぜ、ここまで売り込まれるリラの防衛役を買って出ないのだろうか。

エルドアン氏の再選後、しばらくリラが小康状態を保っていたこと、この状態に至ってもエルドアン氏が強硬姿勢を貫ける理由は、昨年9月、ロシアのミサイル防衛システムを導入配備した[3]ことにより、安全保障上の懸念なく自国の利益を主張出来るようになっていたことにもあると認められよう。エルドアン氏は、売りを仕掛けた金融勢力と連携する軍事力に対抗可能であるという自信を持つからこそ、強行姿勢を継続できているのであろう。ここまで売り込まれる可能性は、一応、懸念されていたことではある。それに、例のごとく、ここでの経済的緊張が、多くの政治上の高位の人物を巻き込んだ国際的な大仕掛けによるものであるとも考えられる。シリアという隣国の存在を考慮すれば、この売り仕掛けは、当然に、戦争屋の相乗りまで織り込まれているはずであろう。このような通貨戦争において、個人の端金など、存在しないに等しいが、わが国の政府が国レベルで(口先だけでも)介入した場合、中東地域のバランサー役として機能してきたトルコに対して、窮地に手を差し伸べたことになろう。代わりに、トランプ大統領の矛先を引き受けることにもなりかねないのであるが、仮に、この急落が一種の八百長である場合には、このような動きは、全然問題ないことにもなろう。エルドアン氏がNYTを寄稿先として選択したことも、注目されて良かろう。自由奔放に見えるトランプ氏を宥める役として、トランプ氏から批判されがちなNYTが選択されたという訳である。


台風13号は、絶妙なコース取りで、関東地方や東北地方にではなく、海上に大雨を降らせながら太平洋を北上していった(気象庁の過去の台風情報には、8月11日現在、未掲載)が、このコース取りが何を意味するものか、私には、全然分からない。ただ、私のように、気象操作を平気で攻撃に利用する連中が、日本の国土に対して攻撃を試みようとしていた、と解釈する場合、(1)何らかの理由によって今回は攻撃を手控えた、(2)ほかの主体による防衛行動があった、の2通りの理由を挙げることができよう。首都圏の停滞は、地方へのダメージとは異なり、経済活動を停滞させることで、日本株市場の全体の下落を招きうる。いくら惨事便乗型資本主義といえども、どれだけの財政出動が見込まれるのかが明らかにされない中では、攻撃しても仕方ないと見送られたのであろうか。この結果かどうかは知らないが、結局、建設株は、第一四半期の業績にかかわらず、総じて軟調である。その後の平成30年7月豪雨被害にもかかわらず、である。防災をイチオシしている飛島建設も、直近の決算が好調と見えたにもかかわらず、最近の安値から戻しきれていない。国内産業であるにもかかわらず、また、(今後大量供給されるであろう海外からの建設作業員にとって魅力的になる)円高であるにもかかわらずである。全く、私には理解できないし、懐の痛いことである。


おまけ・多少のネタバレ注意;スロバキアで、警告を受けたにもかかわらず、隣人への嫌がらせとして『椿姫(La Traviata)』の『乾杯の歌』を流し続けて収監されたという女性がいるとのニュースに接した[4]。BBCのポッドキャストで知ったことであるが、直リンがないので、該当するニュースのリンクをBBCのサイトで示しておく[5]。わが国では、類似事件がニュースになる場合にも、オリジナリティ(溢れる才能)が求められる。わが国は、女性にとって、何と生きにくい国なのであろうか。なお、『椿姫』のパーティのような場面に接するにつけ、私は、栗本薫氏の『グイン・サーガ』シリーズの登場人物の一人であるアルド・ナリスを想起してしまう。この人物造型の一側面が光源氏の「中原(グイン・サーガの舞台)」版であることは、まあ正しかろう。ミュージカル『ラ・マンチャの男』は、『椿姫』のハッピーエンド版であるという側面を有しよう。これらの作品についての知識や親しんだ経験は、他者の恋愛を追体験したことにはなってはいるが、個人的な悩みの解決には、ほとんど役立ってはいない。


[1] TRY JPY 過去データ - Investing.com
(2018年08月11日確認)
https://jp.investing.com/currencies/try-jpy-historical-data
#公的データからは、USD/JPYとTRY/USDとの組などのデータが必要。

[2] Opinion | Erdogan: How Turkey Sees the Crisis With the U.S. - The New York Times
(Recep Tayyip Erdogan、2018年08月10日)
https://www.nytimes.com/2018/08/10/opinion/turkey-erdogan-trump-crisis-sanctions.html

[3] トルコ、ロシアからミサイル購入へ 両国接近、米は懸念:朝日新聞デジタル
(イスタンブール=其山史晃、モスクワ=中川仁樹、2017年9月13日10時47分)
https://www.asahi.com/articles/ASK9F02DGK9DUHBI048.html

[4] Woman detained in Slovakia for playing Verdi for 16 years - BBC News
(News from Elsewhere as found by BBC Monitoring、2018年08月09日)
https://www.bbc.co.uk/news/blogs-news-from-elsewhere-45127006

[5] Silence finally? The owner of the “opera house” in Štúrovo detained - spectator.sme.sk
(Compiled by Spectator staff、2018年08月07日12:47)
https://spectator.sme.sk/c/20886920/silence-finally-the-owner-of-the-opera-house-in-sturovo-detained.html

2018年8月7日火曜日

(私事)日々の思いは失われるばかり

日が経つにつれて、私は、大切に思う人に向けて綴ることのできる新しい言葉を徐々に失いつつある。思いを伝えたい相手と日々の経験を共有できていなければ、誰しも、それまでの相手との交流だけを手掛かりに、相手に届くように言葉を編んでみて、放つほかない。コミュ障で生活の起伏に乏しい私であっても、相手が私の言葉に耳を傾けてくれて、返事を与えてくれるのであれば、どうにか自身の葛藤と日々の生活を、次なる言葉へと紡ぎ続けることができる。しかし、沈黙を前にしてしまうと、私は、以前から変化のない心中を繰り返すことを躊躇い、思いを伝えようとする努力をも放棄してしまいそうになる。

私は、かの人からの返事を近い内に受け取れるものと信じようとしながらも、更なる呼び掛けの言葉を紡ぐことができないでいる。私が思いを打ち明けてから2か月と2週間が過ぎたけれども、かの人は、私の与えた傷から立ち直れたのであろうか。これ以上、どのように何を記せば、今更ながらの話し合いに応じてもらえるのか。私がここに残す言葉は、かの人にとって、背中を押す力になるのか、かの人を傷付けるだけに終わるのか。私は、これらの疑問に捕らわれてしまうだけで、その先にある対話への願いを、かの人に響くものに仕上がったと自負できるまでに縒り合わせて投げ掛けることができないでいる。

私は、かの人からの助言に感謝するために直接対面したいと願いながらも、自分からは踏み出せないでいる。かの人からの助言は、今の私にとって、宝物でもあり、一人で生きる上での呪いでもある。しかしながら、私は、かの人の助言に従い、傍目にも分かるほど、自らの生活を高めることに成功している。私は、かの人に対して、あなたが現実に対して善き力を及ぼすことができると、自らを以て実例として伝え、感謝したいと願う。私自身の努力は、かの人との思い出を補助線にしてきたからこそ、継続できたものである。しかし、日本語論壇の最果ての地にあるとはいえども、本ブログのような公開の場では、自ずから制限があり、詳細を記すことは適わない。また、前稿(2018年08月05日)にも記したとおり、私から押しかけることは、望まない展開を生むことになりかねず、私は、待つほかない。

手紙を認めた時には、多くの時間を掛けてもまとめかねる程の伝えたい話があった。しかし、今の私には、それらの話の続きをプライベートで伝える術もなく、日々の思いは失われていく一方である。精神の働きに緩みが生じたときには、かの人への思いが必ず湧き上がる。けれども、思いを全て書き留める訳にもいかず、私は、大切なはずの人への思いの大半を、失うに任せている。そうして私は、かの人と話をしたいという願いを叶えることもできないまま、浮かび流れる記憶を無くし続けている(。かの人や読者諸賢が、本ブログを少しなりとも後追いして下さっているのなら、ここで、私が『はてしない物語』を参照していることに気が付かれたかも知れない)。

私は今でも、見聞きする全てのものに、かの人の影を読み込んでしまい、その度に、立ち止まってしまう。私は、他者と思しき恋愛の苦しみを読むにつけても、かの人の今までの沈黙の理由を考えてしまう。私をこの上なく嫌うがゆえに罰するためなのか、あと一歩の勇気を持てないからなのか、何と切り出せば良いか分かりかねているだけなのかと、私たち自身の関係に引き寄せてしまう。その上で、私は、ただ名前を呼んで欲しい、近々会うための約束をして欲しい、と願いながらも、それ以上にできることもなく、考えを打ち切ることしかできないでいる。

どうか、会って、話をして欲しい。たとえ、その話し合いの結果、別れることを私たちが選ぶとしても。この願いは、先の手紙にも記したとおりであり、この点、私の気持ちは変わっていない。しかしながら、手紙に記した決意よりも遙かに早く、私の忍耐は磨り減ってしまっている。私は、立派に生きる(、たとえ一人で生きざるを得ないとしても)という、自分で決意して表明したはずの約束を、自分では守れなくなりつつある。

2018年8月6日月曜日

(メモ)北朝鮮が日本の核武装に言及した

と『スプートニク日本』が編集部名義での記事[1]を昨日(2018年8月5日)にアップしたが、このことは、穿ち読みすれば、北朝鮮の弾道ミサイルが東よりも西へと向けられている可能性を示すものとも解釈可能である。わが国が密かに核武装を志向してきたことは、方々で指摘されてきたことであるから、説明するまでもなかろうし、最近の直下型地震が日本の核実験を意図するという指摘も散見されるくらいである。私は、すべての直下型地震が核実験だとは思わないが、最近の地震の中から核実験と認められる程度のマグニチュードのものを見繕ってみると、7月31日17時42分頃の福島県沖の地震[2]に行き当たる。仮に、この地震が核実験のデモンストレーションであったとするならば、ロシアや北朝鮮や中国が警告を突き付けることも当然とはいえよう。

このメッセージの中身が日本国とその後ろ盾である米国だけを牽制するものではないと解釈できる点は、メッセージそのものと等しく、重要であろう。核武装を実現・維持しようとする他国にとって、福島第一原発事故の始末を付けられていない(ように見える)わが国は、使いやすい資源である。私の見立ては、核武装への意思を有するわが国の一部勢力が他国の一部勢力と結んでいるというものに過ぎない。が、この見立てが正しければ、具体的にわが国と共謀している国名を特定しないとしても、私の予想は、まあまあ分の良い賭けになる。というのも、北朝鮮から見て、世界の国の多くは、西向きに多く分布しているからである(。まあ、それだけの根拠と予想でしかないと言うこともできようが)。

本来ならば、日本人は、自力で、一部日本人を含む両建てAチームにより進められた核武装という背信行為に気付き、反原発の声を通じてこの裏切り行為を非難し、全国民的な運動により原発ゼロに成功し、わが国が核燃料物質輸送の国際的な抜け穴となっているという脆弱性を解消し、他国の邪(ではあるが、同国の生存のためとしては理解可能)な目論見から距離を置けるように身を処すべきであった。しかし、日本人の大多数は、日常業務における様々なレベルの不正に対して実効的に反抗してこなかったし、この国民に蔓延する「見て見ぬふり」という脆弱性は、他国の情報機関によって、しばしば利用されてきた(のは、本ブログからも垣間見えることと思う)。原発ムラの住人たちは、なおさら、不正を黙認してきたであろう。多くの不正告発者が、謎の死を遂げているからである。原発業界の不正行為の中には、他国に密かに核燃料物質を輸出し、それと同量の劣化したプルトニウムを輸入するという作戦が含まれていたとしても、全く不思議ではない。なお、この推測は、あくまで二次情報を集成した結果に、ほんの少しの機転を加えたものである。日本語話者なら誰でも、ほんの少しの想像力の飛躍によって、私の推測と同様の結論に至ることが可能である。が、むろん、具体的な証拠に行き当たることなど、一般の人々には、期待しようもないことである。

繰り返しとなるが、現時点では核保有国として内外に認められるに至った北朝鮮が、わざわざ、わが国の核武装だけを取り上げて非難することは、わが国のみならず、わが国の一部連中と共謀関係にある他国をも牽制する効果を有する。北朝鮮がわが国の核開発だけでも十分な脅威であると主張するとき、米国を含めた周辺国は、その言い分を認める(に留まる)ことであろう。実際、北朝鮮の声明に先立ち、中国もロシアも、日本が核武装することが脅威になると警告している。今回の北朝鮮の警告そのものは、『スプートニク日本』の指摘するとおり、米国に向けられていると解釈すれば良い。米国を通じて日本に対する圧力を掛ける、という段取りであろう。ただ、さらなる解釈を許すとすれば、わが国の核武装への意思がいかなる理路によって今まで保証されてきたのか、それは単にアメリカという国だけによるものか、と考えておくことは、日本人(のサバイバル)にとって、全く、無駄なことではない。北朝鮮は、わが国だけを、核武装の意思がある悪役として非難し続け、米国に対処を求めるという形で、自国の要求を押し通すだけであろうし、中露の二か国は、北朝鮮を押し立てたり、必要に応じて、彼らの認めた事実を公表するだけであろう。しかし他方で、中・露・北の三か国とも、日本が単独で自国の核武装を達成できないことは、十分に理解していることであろうし、わが国と他国との核燃料物質の循環関係についても、それなりに把握していよう。その上で、わが国だけが核武装の意思有りとして非難されている。このとき、最後にバッサリ斬られるのが日本国(民)だけではないのかと、私は、心配しているのである。

今日という(トルーマンが広島に原爆を投下させた8月6)日に対する大メディアの論調を見れば自明であるが、多くの日本人にとって、人間なら誰もが賛同できるはずの核廃絶でさえも、他人事であるかのように、紋切り型(=平和が大事)に、情報操作されている。ましてや、多くの日本人にとって、被爆国だからこそ核武装が必要だと考えるタカ派上級国民たちの先走った行為に対する責任は、感じる機会すらもなかろう。日本語メディアは、出版事業までを含めて、日本人が知るべき情報を総合(=止揚)して伝えるという努力を回避してきた。連合国最高司令官指令(SCAPIN)に基づく戦後占領期の新聞検閲体制(プレス・コード、SCAPIN-33)などは、自主検閲=忖度の文化を派生させながら、実効的に日本の言論空間を統制してきた。論証を端折る(し、そもそも、知識の吸収がなかなか進んでいないのだ)が、この言論封鎖の中で、日本の核武装への意思は、十分に周辺国に気付かれながらも、いくつかの理由のために手出しされないまま、存続してきたものと認められる。仮に、日本国政府(の一部)が単独でこの目論見を達成しようとしてきたのであれば、必ずや、この試みは、早期に潰えていたことであろう。わが国の両建てAチームは、提携可能なパートナーとしての他国政府と協力する程度には、目端が利いている。しかしながら、本当に、この先、わが国は、核武装に成功できるのであろうか。国連憲章の敵国条項を、今のままで、出し抜けるとでもいうのであろうか。(当然といえば当然であるが、)これらの話を、一か所の論考で、人々に分かるようにまとめて示している論者を、私は、見たことがない。この言論の焼け野原状態を意識してようがしてまいが、一般の日本人は、自らの考察のみによって、政治的に、できる限り狡猾であらねばならないという状況に追い込まれている(。そして、私の知能がポンコツであろうがなかろうが、基本的に、私の論考が一般に入手可能な情報のみで構成されている以上、残念なことに、一般の日本人が一部の上級国民による核武装計画を知りませんでした、と抗弁することはできない。つまり、国民の多くがこの計画を知っていようがいまいが、一億総懺悔という道筋がデフォルトになろう)。


#とりあえず6日にアップするのが重要だと考えたので、段落書きがなっていないが、公表した。


[1] 北朝鮮、日本に「核の野望」と批判 - Sputnik 日本
(スプートニク日本、2018年08月05日 17:05)
https://jp.sputniknews.com/asia/201808055194189/

[2] 地震情報 - Yahoo!天気・災害
(2018年7月31日17時46分)
https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/jp/earthquake/20180731174227.html

発生時刻2018年7月31日 17時42分ごろ
震源地福島県沖
最大震度4
マグニチュード5.4
深さ20km
緯度/経度北緯37.2度/東経141.3度
情報この地震による津波の心配はありません。

2018年8月5日日曜日

(私事)わが信条めいたもの

私は、社会的な評価からすれば、はぐれゾンビ (純情派)と形容できる境遇を生きてはいるものの、本ブログを訪れる読者諸賢が予想されるであろうよりは、この暮らしを楽しんでいる。私も「可哀想な」種類の男の例に漏れず、どうにも生じてしまいがちな負の感情に悩まされてはいる。自分の不行状ゆえに大切な存在を失った(ばかりの)先進諸国の独身中年男性ほど、扱いに困るという点で、テンプレ的なキャラクターもなかろう※1。普段は、満たしようのない空虚さを埋めるために生き急ぎ、他人の迷惑を顧みず、自身の正しいと思うところを行い、そこで生じた些細な行き違いで、容易に攻撃的になる。私も、全くその例に漏れないし、その点を自覚してはいる。しかし、そこはそれ、私の信条のひとつは「勿体ない」であるから(、一部のマウンティング系男性「フェミニスト」とは異なり)、この境遇自体が、生きる実践であり、参与観察であり、リサイクルの対象となっているのである。今の私は、知ったこと・学ぶべきことが多く、やることも山積しているので、その点に慰めを得ることができている。

同時に、現時点の私は、今までのイージーゴーイングな生涯において、調査や分析や考察や思索をもっともっと進める必要があったことを痛感している。今後、思いを寄せる人から幸せを沢山受け取りたいと願う余り、向こう見ず(だが、遵法的なはずで、かつ、かの人には、明示的に制限されなかったと理解しているよう)な行動を起こすとしても、私は、それまでの準備なくして、自身の経験をその後の考察に十分に生かすことはできないものとも思っている。その準備作業を終えたり、(能力不足などから私自身が)耐えかねたりすることは、私がいくら遵法的と思う行動に留まろうと考えているとはいえ、相手のあることであるから、一定の社会的なリスクを生じさせることにはなろう。しかしながら、ネットで何かを訴え、次いで大きな(被害や不幸を意図的に生じさせるという)事件を起こす人々は、一定数いるものであるが、私は、その列には加わらない。この点だけは、重ねて強調しておきたいことである。私が本ブログを記し続けること自体を一種の自傷行為と見ることも可能ではあるが、それでも、私は、他者への不幸と自身の不幸とを分別し、他者には余分な不幸を与えないようにしているつもりである(し、重ねていうが、私は、自分も他人も身体上の危害を与えるつもりは毛頭ない。精神上の厄災とも呼べる結果は、ここまでの道行きからして、避けようがなかったとはいえ、その後については、本ブログの記述を含め、悪影響を極小化するように行動しているつもりではある)。

本ブログは、私事に言及するようにはなったものの、依然として、公開座敷牢のような場所で、公的な事柄を述べるに留まるものである。(もっぱら、私自身や日本人という社会集団に係る)不吉な予測は含むものの、私自身の具体的な行動に先立つ、いわゆる「ネット予告」の場ではない。あくまで、自身の経験をリサイクルして言論と化すのが、平和志向の(、他称では嘘吐きとされる、)陰謀論者の矜恃というものである。それよりも、本ブログは、どちらかと言えば、かつてのフリーク・ショーの現代版であり、万国博覧会の人類展示の延長である。後者は、前者よりも、多少の差別性が減じられたものであったが、依然として、優生学的な見地を有していた(#出所は、講談社学術文庫辺り?の記憶しかないが、またの機会に)。むろん、ここでの比喩は、一種の差別的表現になると知りながらも表出したものであるが、私が陰謀論者というラベリングを甘受し、同様の視線がこのレッテルに付随していることを承知している以上、その差別性を余すところなく表現する上で、最適と判断したために利用したものである。また、現代的な作品の一つとしてとらえた場合、本ブログは、リアリティ・ショーというには、読者を楽しませようという心掛けに欠けはするが、それでも、この一亜型に含めることができよう。本ブログを研究素材であると形容することは、十分に可能であろうし、当初の意図からしても、適切である

私自身は、今までになく作業スピードを上げているつもりであるが、やることリストは、やればやるほど、積み上がる一方であるから、当面、私から自身の環境を大きく変えるような挙に出ることは、ないものと言えよう。このため、現時点までの表現活動の範囲に留まる作業(質問や問合せ)の影響を除けば、私のリスク判定結果は、まだまだ低いものであると思う。通俗的な社会的プロファイリングに基づけば、私は、最も危険な状態にある属性の組合せと判定されるものとは理解している(。しかし、この種のプロファイリングは、「あなたは幸せですか」「大切に思う人がいますか」「そのほかの人たちを傷付けることで、大切に思う人たちや幸せを得ることができると考えますか」という最も大事な質問を、対面的に把握しようとしないため、かなり、効率的に失敗するのである)。それでも、私は、まだまだ平和裏にやり終えたいことを、沢山、積み残してしまっている。私自身の願いを叶えるために、私は、生きた屍※2として過ごすと宣言しながらも、人間としての幸せを求めるために行動しているつもりである。

今までの記述は、全然前振りになっていないが、ここで、私事に係る私の記述を理解する上で役立ちそうな、私自身の信条を述べておくことにしよう。これでようやく、私は、自分自身を、そこまで危険ではないものと主張できようからである。


  1. 人間がその生において求めるものは、表現が異なろうとも、結局は幸せである。
  2. 幸せの具体的な中身は個人で違えども、誰しも、自身の心に嘘は吐き通せない。
  3. 人間は、一人ではたかが知れているけれども、二人だけでも随分と強くなれる。
  4. 人間は、過ちをなかったことにはできないけれども、その過ちを糧にはできる。
  5. 人間は、最期のときまで何事かをなせるし、何なら、死後にも、何かを残せる。
  6. 人間は、感情の動物でもあるけれども、理性により自身を律することもできる。
  7. 人間は、大抵、仕方ないほどに利己的だけど、ときに相手のために身を捨てる。
  8. 個人は、同時に矛盾する感情を抱くことができ、相手にその中身を伝えられる。
  9. 個人のあらゆる言葉は、呪いにも祝福にもなる。聴き方により、中身が変わる。

#取り留めがないが、本稿は、これでおしまい。


※1 私が直近で見かけた同類のキャラクターは、FOXの『HAWAII FIVE-0』のダニエル・"ダニー"・ウィリアムズ(Daniel "Danny" Williams, 俳優は、スコット・カーン(Scott Caan)氏)であるが(、原作を読んでないので、どういうキャラの変化が生じたのかも、先の展開も知らないが)、『半分、青い。』の律くんも、離婚したようである。しかしながら、これらの造型が本当に男性の心持ちを正確に描写できているのか、それらの架空の人物が何を目的として描かれているのか、それが果たして社会に良き影響をもたらしているのか、といった疑問は、私の中で解消できないでいる。日本の論文検索サービスは、CiNiiもそうである(と断定しておく)が、あまりにも一般の利用者に対して閉鎖的で、かつ、使いにくくできている。私のような無職に毛が生えたパンピーが自身の問題を解消しようと思い立ち、まともな文献に当たろうと思ったとき、怪しい(と私には思える)団体に接触する必要なくして、独習する方法に欠けているのである。世の中の半分くらいは男で出来ているのであるが、男が頼ろうと思えるだけの専門的なリソースに行き当たることは、なかなか難しいことである※3

※2 ところで、哲学的ゾンビという表現も、なぜ、ジョン・サールが、哲学的ロボットや、哲学的単細胞生物や、哲学的ゴーレムなどと表現しなかったのかを考え始めると、非常に興味深く思うところである。哲学的ゾンビは、術者の命令を聞かないから、ブードゥー教のゾンビにも当たらないが、現代的なシミュレーションにおけるオートマトン・エージェントには当たるし、何より、動物と表現すれば済む話である。端から正しくない用語の興りを調べるほど暇ではないので、明らかに概念上、不適切な命名であることだけを指摘するに留める。繰り返したことではあるが、国際秘密力集団への言及抜きに、ゾンビという概念を流行させようとするヤツは、大抵、碌でもない。

※3 ここは、あえて、このように断定しておく。これは、既存の複数の支援団体が存在することを知っている上での問題提起である。日本社会では、まともな友人に恵まれている男性なら、パーッと遊びに行こうぜと誘われて、遊んで終わる種類の話になろう。その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。他方で、一人の日本人男性が独力で自身の弱さに起因する問題と真剣に向き合おうとしたとき、わが国=日本語環境には、まともなリソースが存在しない。その貧困さは、たとえば、『「女子」という呪い』で雨宮処凛氏がまともな男性として紹介する田中俊之氏(の著書)によって説明できる。小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).は、一言で要約すれば、著者らが男性社会に逆マウンティングしようとする対談書である。田中氏は、これ以上、男をひさぐ男だと揶揄されないためには、(坂口安吾風に誹謗すれば、)自らをとことん墜とした後に、自身の所説がそれでも変化しないかを点検する必要があろう。この点、私は、田中氏が可哀想だと描き出す種類の男性としての人生を体験しているし、その上で、本ブログを精査すれば分かることであるが、上掲の小島・田中書にも示された論点に係る自説を曲げている。まあ、(今秋発売の2ではなく)『Red Dead Redemption』の世界なら、問答無用でお終い、の話である。田中氏は、それだけの覚悟抜きに機微ある話題に触れたという自覚もなかろうから、このような対談本を世に問うてなお、リベラルを自認できるのであろう。

以下、とりとめなく、最近読んだ本で関連する話題について、触れておく。(1)『男性の非暴力宣言 ホワイトリボン・キャンペーン』(多賀太・伊藤公雄・安藤哲也, 2015年, 岩波ブックレット)からも、お近付きになりたくない種類の高慢さを感じたと指摘しておく。段落読みできないという時点で、学術関係者が参画する流行輸入型運動としては失敗だし、何より、ほぼ全ての男性が日和見的に暴力を振るい得るという事実に対して、まともな回答を(本稿を世に問うた私に)与えてくれるものではない。(2)段落書きが研究者の能力を示す上で重要になり得ることは、『日本の男性の心理学 もう1つのジェンダー問題』(柏木惠子・高橋惠子〔編著〕, 2008年06月30日, 有斐閣)の構成によって、申し分なく示されている。各章の本文の書き手の女性研究者は、例外なく段落書きが徹底できている一方で、男性研究者(特に大御所と見える連中)は、恥ずかしい文章しか書けていないからである。私は、これを分かる人には分かる皮肉としての編集結果かと、穿ち読みしてしまった位である。それ程までに、女性研究者は、最近明らかになった東京医科大学の女性への不当な減点(=男性へのゲタ)と同様の逆境を生き抜いてきた結果、同僚とはいえないが、隣接分野の(元)研究者(のつもり)の私にも分かる位に、インテグリティのある文章を世に問い、したたかに生きる術を身に付けているとも(狡猾であると、良い方向に)評価できるのではなかろうか。多賀・伊藤・安藤の三氏の書への低評価は、この反動として理解すれば良かろう。彼ら(三氏)の行動は、文章の堅牢さだけで判定すれば、単に新規性の見られる分野に言及することを通じて自らの権力拡大を図るという、猟官活動の一種としてしか、理解できないのである。(3)さらに指摘しておくと、野内良三氏は、『偶然を生きる思想 「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス1118, 2008年08月30日)の第五章において、九鬼周造の考究した偶然に言及しながらも、そこに強引さを認めているようであるが、そこは、野内氏が九鬼の恋愛における苦しみを汲み損ねただけではないかとも言える。九鬼は、自由恋愛の極北の地で巡り会った女性を一個の独立した人格と認めたからこそ、「諦め」という概念を導入しなければならない程に苦しんだのであろうし、それを如何ともし難い種類の(原始)偶然と呼ばなければ、何とも説明をつけ難かったのではないか。この九鬼本人に特有の事情を、自らのものとして引き受けないで考えようとするから、評価が変になるのでは?というのが、生煮えの私見である。

2018年8月3日金曜日

(メモ)異常気象の偏在は続いているようである

北朝鮮で干魃被害があり[1]※1、韓国でも111年振りの猛暑だという[2]。前稿(2018年7月30日)では、陰謀論者たる者、気象兵器を論じるからには、世界のどこが異常気象に晒されているのかを把握せねばならない旨を指摘した。朝鮮半島においても熱波の被害があることは、彼らが犯人と言いにくい事情があることが示唆される。仮に、極東アジア全般を襲う異常気象を、すべて気象兵器によるものと考えると、その犯人として相応しい連中は、北朝鮮問題を契機として、極東アジアに戦争を起こしたい者たちだけが残されることになる。なぜなら、極東アジアの関係各国は、すべて異常気象に見舞われており、どの国も、戦争を起こす気などないからである。私の見立ては、本ブログに散々示したとおりであるが、わが国の官僚組織も、表向きこそ意気軒昂であれども、内心では戦争に賛同していないようである。このため、関係各国が異常気象の影響下にあることは、北朝鮮ともども、両建てAチーム側の企画=最終戦争には乗るつもりがない、と解釈できる証拠となろう。私を含むパンピーは、冷房をエコモードで付けることを厭わずに、気楽に過ごすのが吉ということであろう。

なお、山の高いところは涼しそうである。ただ、大陸ヨーロッパは、国境を越えた電力網が形成されているから、そこでの電力収支が分からないことには、特定国を切り取って犯人として名指しする訳にもいくまい。逆にいえば、各国の電力事業関係者は、分離された電源によって現今の気象操作が行われていない限り、犯人に気が付く余地があることになる。犯人の特定と追込みは、その筋の人々の仕事である。二次情報(又聞き)しか得られない一般庶民の考察では、ここまでがせいぜいである。


※1 BBC World Serviceの『Global News Podcast』でも、北朝鮮の干魃について、放送されていたはずなのだが、一覧性が悪いので、ここ数日間の番組の一つだとしか言えない。8月3日早版(earlier version)?では、ポルトガルとイギリスも、熱波の影響下にあるという。なお、BBCの表現では、ヨーロッパ全体が熱波の影響下にあるかのように聞こえてしまったが、調べてみると、パリはまだ過ごしやすそうである[3]

[1] 北朝鮮でも猛暑、40度超も=干ばつ被害、警戒呼び掛け:時事ドットコム
(2018年08月02日17:54)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018080201024&g=prk

[2] 韓国、111年ぶりの猛暑…各地で停電事故など「安全な生活」に脅威(1) | Joongang Ilbo | 中央日報
(記名なし、2018年08月02日10時13分)
http://japanese.joins.com/article/676/243676.html?servcode=400§code=400

[3] Paris, France 10-Day Weather Forecast - The Weather Channel | Weather.com
(2018年08月03日確認)
https://weather.com/weather/tenday/l/FRXX0076:1:FR

2018年7月30日月曜日

気象改変技術の存在を前提とした考察が求められている

#本稿は、「たられば」の世界で、考えを深めてみただけの話である。最近の本ブログの内容とは、大きく異なる。この種の前提を置いて、考えを展開し、その結果を表明することは、私生活にも悪影響を及ぼしうる。本稿は、このリスクを踏まえた上で、世に問うたものである。どれも私自身の心の働きであるが、それでも、少しばかり悩むところがある。


わが国の陰謀論者たちは、今般の台風12号などを気象操作によるものと考え、その責めを、彼ら自身が疑いを掛けた相手だけにぶつけてきているようであるが、世界の多くの地域で異常気象が同時的に発生していることを考えると、この作戦の実行犯たちの正体については(、私が賛同できる意見も見られるとはいえ)、慎重に考えるべきであろう。気象操作技術が現実のものであるにせよ、また、一部に放火などの犯罪の痕跡を認めることができ、そこには、単なる個人の嗜癖以上のものが認められる可能性が残るにせよ、である。たとえば、7月26日、ギリシャのニコス・トスカス(Nikos Toskas)副内務相は、7月23日の森林火災の原因が放火とみられると公表した[1]が、同時に、スクオッター(不法占拠地区)が焼失したことにも、注意が払われて良いであろう。わが国でも、バブル期、退去を拒む都心部の住宅に対する放火火災が見られたことを想起せよ。また先月25日、カリフォルニアの森林火災に関連し、複数の放火の容疑で、32歳のブランドン・N・マクグロバー(Brandon N. McGlover)が逮捕された[2]。いずれの放火も、折からの猛暑により、被害が拡大したとみられている。イギリスでも摂氏35度、熱波と呼べる状態が到来したと聞く(29日のNHK『日曜討論』だが、私は、この番組に落胆した。一般向けの番組にしては、説明が分かりにく過ぎる)。

興味深いことに、今般の異常気象は、国際秘密力集団の最終戦争というアジェンダの下にあるように見える国に対しては、認められない。エマニュエル・マクロン氏のパリ[3]は、それなりに快適そうであるし、(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地の)エルサレム[4]も、平年並みのように見える。これらの二か国は、中東におけるシリア紛争に積極的に関与し、シリア国軍を攻撃してもきた。しかしながら、これら二か国についても、シリアを支援するイラン・ロシアの二か国を相手に、先制攻撃を通じた全面戦争に踏み切る姿勢までは、認められない。

消極的にしか説明できないが、主要な被害国と本稿に挙げた非被害国との差異は、ほとんど、ハルマゲドン(最終戦争=第三次世界大戦)志向に(表向き)従っているのか、そうでないかの違いしか、ありそうにない。超・大雑把な理解では、また、一般人にはこれ以上の確認のしようもないのであるが、ハルマゲドン=核戦争を通じた人口削減は、国際秘密力集団による両建て構造におけるAチームのアジェンダとされる。シリアを舞台とした仕込みに対して、アメリカは、今現在のところ、同地から撤退する気満々であるし、わが国も、南スーダンからのフェイドアウトに成功して※1、中東地域における戦闘に参加する必然性を失ったように見える。北朝鮮についても、雪解けムードが演出されており、この点、少なくとも、トランプ大統領は、Aチームのアジェンダを上手くいなしたように見える。(大規模な放火火災を起こされた)ギリシャは、キプロスを巡り、トルコと対立関係にあり続けてきたし、EU諸国からはお荷物に見られてきた。なお、放火といえば、安藤ハザマが施工していたビルの火災も、万が一、近年の大放火ラッシュに関係しているやも知れないが、そうでないことも十分に考えられよう(。ギリシャやカリフォルニア州について明言されたように、許容できない程にお粗末な施工管理により生じたものと確定されなければ、一般人には、何とも判定できない種類の話である)。(この緯度にしては、例外的な)熱波に襲われたイギリス(の金融街シティ)は、ブレクジットにより、EUと金融政策における競合関係に入りそうである(ということになっている)。この書きぶりだと、何だかEUが悪者に見えてしまうが、しかし、EUは、わが国とEPA調印式を東京にて実施した(2018年7月17日[5])ばかりで、しかも、平成30年7月豪雨のため、ブリュッセルでの調印式が見送られたという経緯がある。つまり、国際秘密力集団の諸アジェンダのうち、一時的にせよ、Bチーム系の目標が邪魔されたことになる。このため、今般の異常気象の原因が気象兵器によるものであるとすれば、その犯人は、素直に考えると、Aチームによるものと推論できる。アメリカとわが国も、経済的な利益において(、少なくともトランプ大統領の側から見れば)、競合関係にあるが、この競合性は、両国ともが異常気象の影響下にある理由にはならない。中国は、豪雨を迎えており、ロシアは、酷暑にある。これらの状況は、中東地域における大戦争というアジェンダに後ろ向きな諸国に対して、気象攻撃が仕掛けられているかに見えるという(、世界に目を向ける陰謀論者から見れば、お粗末な)結果を生み出している。マクロン氏がシリア攻撃を明言して実行したことを想起せよ。気象兵器を利用可能な各国が、お互いに鞘当てしているという場合も想定できるが、そうであるなら、被害の様相は、より全球的に予期されない結果を生み出しているであろう。北極の氷が溶け出しているという話もあるが。これ以上、ハルマゲドンを志向するAチームの一部による仕業という見立てを否定するような証拠を探すこともしないが、Aチームの仕業を否定する証拠がない、という点は重要である。

地球温暖化だけを今般の異常気象の原因としたい者は、上に見たような形で、世界の各国に異なる結果が(偶然)生じた理由までを説明する必要があろう。2018年7月時点で、マスコミが喧伝するようには、地球の全陸地が異常気象に晒された訳でもないからである。結局、わが国の異常気象については、気象改変技術の存在を認め、HAARPなり、これに類する機器により、瀬戸内海を中心とする地域の大気が上空に押し上げられたとの説明を受け入れた方が、素直な説明になろう。偶然のアンサンブルによって、台風12号が東から西へと逆行するかのコースを辿ったと説明するよりは、そのような形で高気圧が形成されるように電磁波が照射されたと考えた方が、説明がし易いであろう。どのくらいの確率で、このような狙った形の逆コースが偶然生まれるのかは、何百万回もの大気シミュレーションを実行すれば、検証可能であろう。当然、大気が押し上げられるメカニズムを込みにして、である。私は、いったん気象改変技術の存在を認めた上で、それを否定してみせるという、自称「デバンク筋」や「御用学者」のロジックを、見かけたことがない。私が指摘した方法までを考慮に入れて、分析を設計して実施してくれていたとすれば、誰もが、異常気象の原因を、地球温暖化だけによるものと認めざるを得ないことになる、と思うのであるが。なお、私は、人間の活動に伴う地球温暖化そのものを否定しているのではなく、気象改変技術の影響をも込みにせよ、(つまり、どちらとも否定するのではなく、どちらとも肯定した上で研究せよ、)と述べているだけである。

「環境改変技術の軍事的使用その他の敵対的使用の禁止に関する条約」[6]の存在は、気象兵器を現実に使用する相手がより強大な武力、つまり大量破壊兵器を保有していることを示唆する。わが国についても、1982年6月9日に効力が発生しているが、わが国でも気象改変技術が運用されているとすれば、これらの技術を防御的に利用することまでは、(国民の目には見えにくい形の)自衛権の行使として認められよう。大阪北部地震(本年6月18日午前7時58分)や平成30年7月豪雨災害や台風12号が、これらの技術によって惹起されたとすれば、それは、すでに攻撃と見做して良いものであろう。他国に属する組織・人物らによって、これらの技術が悪用されてきたとすれば、すでに、わが国は、ステルス戦争状態にあると言って良い。それとは別に、他国籍を有する組織や人物が、わが国に対して被害を与える結果を生じるように地球上の特定地域に気象改変技術を適用する事態は、可能性として想定しておくべきことである。しかし同時に、わが国の周辺諸国(米国、中国、韓国、北朝鮮、ロシア)は、条約に加盟している※2。気象改変技術をわが国に対して悪用することは、目に見える反撃の虞がないにせよ、気象改変技術の存在を肯定する(ごく一部の)日本人からの敵意を得ることになるから、どの集団がこの技術を悪用するにせよ、そこには、敵方であるわれわれ日本人にも納得できそうな、何らかの確固たる理由がなければなるまい。上掲の諸外国については、確固たる理由を挙げることができないという消極的な理由から、ここ最近の「天災」の数々の実行ではない、と認めることができよう。そうでなくとも、これらの周辺諸国は、わが国を締め上げる方法をいくらでも用意できよう(し、わが国は、天災によらない圧力に対して、効果的な反撃を統御的に実行できていないように見える)。人命への損害を現実に与える気象兵器の使用は、一般人には気付かれにくいとはいえども、この存在を前提とする人々にとっては、大量破壊兵器の使用(や、それに準ずるR攻撃にもなり得る原発への攻撃)を次なる脅しとして匂わせることにもつながろう。でなければ、これだけの被害を生じさせた武力攻撃に対して、いくらわが国といえども、攻撃者を特定できた場合には、各種の(非戦闘行為を通じた)反撃を講じることもできようからである。気象兵器の実行犯が次なる(、同時に最終的)手段である大量破壊兵器を保有しているからこそ、これほどのあからさまな気象攻撃も可能となる。このように考えた方が、通りが良くなろう。現に、一般人の人命が数百人単位で失われているのであるから、現時点でも、気象兵器を利用した連中は、許されないことをしたことになる。この一方で、大量破壊兵器に対しては、大量破壊兵器による報復という恐怖の均衡が成立する。ここまで考察を進めると、ようやく、わが国は、いわゆる国連の敵国条項も込みにして考えると、反撃可能であるという意思表示を公にすることすら、躊躇してしまうという状況に落とし込まれていることが明らかになる、と言えそうである※3

ただ同時に、現実に人命に影響するまでの天候による攻撃は、気象改変技術を悪用した相手(両建てAチーム)が追い詰められている兆候であるとも考えられる。現実に人命に被害を及ぼした以上、これを償う方法は、人命によってしかあり得ないからである。「戦後」処理において、このジュネーブ条約違反は、重大な戦争犯罪として処断されるであろう。その時に下される罰の重さを考えると、この種の一般人には気付かれにくい技術の実行は、次なる攻撃を予告する意味合いを有するものと考えられる。脅しとなるような犯人からの言明は、間違いなく、届けられるべき所には届けられているのであろう。公開の連絡伝達手段としてのわが国のBチーム系メディアを見れば、この予想は、間違いないものと言える。これら(何故か)Bチームメディアは、今般の政争に絡めて、自民党内のA2チーム(同党内ではBチーム、しかし、このチームがかつてのハト派とは異なる位置付けにあることは、わが国の困難をいよいよ深めている。)の声を借りる形で、防災政策上の不備を指弾しているのである。しかしながら、わが国の防災体制は、一応、基礎的自治体が第一義的に対応するものとなっており、広域的な対応は、都道府県が第二義的に対応することとなっている。3.11を経て、国からの働きかけが制度化されたが、それでも、対処の順序を大きく変えるものとまでは言えない。それに、水害については、平成30年7月豪雨災害に際して予想された数百年に一度という頻度よりも苛烈なものとして、千年に一度という頻度のものもある。この点、他国のAチーム系に使嗾された、わが国ではBチーム系に見えるメディアが発した非難は、阪神・淡路大震災における対応への非難と共通しており、わが国の危機管理のあり方を説明しないまま、こじつけた感を拭えないものである。政治は、結果責任を免れないであろうが、結果責任と故意の不作為とは、切り分けるべきである

ところで、電磁波の利用を基本とする環境改変技術を大規模に適用可能な国は、大規模な発電能力を運用できる国に限定されるものと認められる。言い換えれば、原発を保有している国か、好き放題に火力=石油を利用可能な国に限定されよう。原発による電力は、ベースロード電源という名を冠せられており、あたかも常に有効活用されてきたかのような印象を与えてきたが、かつてのわが国については、夜間、余剰気味であった。各国とも、原発による電力について、このような側面を否定できないとすれば、この部分の電力が秘密作戦に活用可能であることは、言うまでもなかろう。電力会社を黙らせれば良いだけであるし、原発は、民営であるとしても、例外なく国策の一環として運用されており、国家的な情報管理の対象となっている。出力を少しだけ変えることは、上手く隠蔽されることであろう。


以上の推論は、我ながら雑駁であるが、どの国に対して戦争屋が影響力を保持できており、気象改変技術を未だに悪用しているのかのヒントを与えるものであると思う。どの国にも、完全に国(民の利)益に逆らう売国奴が存在する一方で、それに対峙する勢力もいるものである。外部からは静かに見える対決を通じて、異常気象を巡る問題も、一部は解決されることになるのであろう。われわれは、一国主義が台頭する中では、自国内の安全を確保しながら、他国の良心的な勢力を自国に許された方法で支援するほかなかろう※4。日本の庶民が日々の生活を頑張るほかに可能なことは、異常気象を巡る言説について、大マスコミに二枚舌がないか否かを批判的に検証することであろう。本稿の読者に対しては繰り返すことでもなかろうが、マスコミに対する批判的な態度こそは、わが国を草の根から良い方向へと変えるための確かな第一歩である。


※1 私には、実相を把握するだけのリソースがないが、実務サイドが上手いことフェイドアウトするように仕組んだような印象を受ける。政治主導であったのか否かの経緯は、遠い将来の(わが国の「文系」の研究業界では、希少種である誠実な)研究者が「発見」することであろう。

※2 台湾は、国連における地位ゆえに、私には、調べ切れていない。台湾は、核兵器保有を目指したことがあり、また、ベースロード電源を保有しているという、気象改変技術にも手を出すだけの履歴を有しているが、わが国に喧嘩を売ることまでは、考えにくい。すごく適当な表現に頼れば、台湾の利益は、わが国の利益とまあまあベクトルを同じくするものと考えられるためである。それに、台湾も地震国であり、水害国である。

※3 核武装論は、この八方塞がりをふまえ、すべてを見通した上で、より狡猾に提案されるべきであるのだが、そのような悪知恵を発揮できるだけのキレッキレな日本人の核武装論者を、私は、今現在、見出せていない。彼(女)には、もちろん、勇気も清廉さも公正さも必要となる。狭き道である。それゆえに、私は、核武装不要論を通じて独立を志向した方が、遙かに楽だとも思うのである。すでに、わが国は、核武装を後戻りできない程度に進めてしまっていると認められもするのであるが。

※4 実は、私も、先月辺りに、自分の中長期的な投資ポジションを通じて、その協力をなしたつもりである、が、2018年7月30日現在、反対側の勢いが強すぎて、おいおい待ってくれという気持ちでもいる。


[1] 83人死亡のギリシャ森林火災、放火の「重大な兆候」=閣僚 - BBCニュース
(記名なし、2018年07月27日)
https://www.bbc.com/japanese/44976556

[2] California Wildfires: Arson Suspect Arrested, TV Anchors Flee | PEOPLE.com
(Dave Quinn、2018年07月27日16:31)
https://people.com/human-interest/california-wildfires-brandon-mcglover-arson-suspect-arrested/

[3] Paris 04 Hotel-de-Ville, France 10-Day Weather Forecast - The Weather Channel | Weather.com
(2018年07月29日確認)
https://weather.com/weather/tenday/l/FRIF1168:1:FR

[4] Jerusalem, Israel 10-Day Weather Forecast - The Weather Channel | Weather.com
(2018年07月29日確認)
https://weather.com/weather/tenday/l/ISXX0010:1:IS

[5] 平成30年7月17日 日EU共同記者会見 | 平成30年 | 総理の演説・記者会見など | 記者会見 | 首相官邸ホームページ
(2018年07月17日、2018年07月29日確認)
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2018/0717eu_kaiken.html

[6] 環境改変技術の軍事的使用その他の敵対的使用の禁止に関する条約 - Wikipedia
(2018年07月29日確認)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A2%83%E6%94%B9%E5%A4%89%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E7%9A%84%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96%E3%81%AE%E6%95%B5%E5%AF%BE%E7%9A%84%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%AE%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
#とりあえず調査の入口としては十分であろう。




2018(平成30)年7月30日9時35分・15時30分訂正

文章を一部訂正した(が、訂正しただけの価値はないかも知れない)。なお、イラン国営放送麾下の『Pars Today』は、特に異常気象を伝えてはいない[7]。気象庁は、世界の季節毎の異常気象をまとめて公開している[8]が、ここ2か月の異常気象については、まだ公表時期ではないようである。

[7] ホーム - Pars Today
(2018年07月30日確認)
http://parstoday.com/ja

[8] 世界の季節ごとの異常気象
(2018年07月30日確認)
http://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/monitor/seasonal/

2018年7月26日木曜日

(書評)絶対と信仰という概念抜きには、西洋哲学を理解できないだろうに

#あまりに駄文であるとは思いながら、そこはそれ、恥を書き捨てるつもりで公開した。

甲田純生氏の『1日で学び直す哲学 常識を打ち破る思考力をつける』(光文社新書657, 2018年8月20日)は、全体を通して、キリスト教と哲学的思索との緊張関係(の歴史)を十分に取り上げない。キリスト教は、誕生した後、接触した哲学に対して、宗教としてのみならず、絶対という概念の別名としても機能してきた。プラトン以後の西洋式の哲学がイデアリズム(観念至上主義)に支配されてきたことは、一応、同書でも言及されてはいるが、これを補強するのが信仰であるという点は、十分に説明されてはいない。私が勝手に理解するところでは、(自覚的で強い)信仰とは、人生における意思決定を必要とするもので、心に思い切り(跳躍)を必要とする。この機制を有している人々にとって当然の心境は、そうでない人たちにとって、いわば彼岸に行ってしまった人のものであるので、理解できないものだとしても仕方なかろう。しかし、同書では、キリスト教が省略されたために、同書は、(野内良三氏の言葉を借りると、「超現実主義者」[1]としての感性を有する日本人)読者に対して、この世に対置される真の世があるという考え方が信仰によって強化されているという理解を、伝え損ねているのである。

この関係性を説明しないのは、21世紀初頭に生きる哲学者として、あんまりな態度である。なぜなら、この無視・切捨ての姿勢は、世の中の大多数の他者を、何らかの心の働きを有する個人として認めないことにもなるのだから。また、この省略は、学問としての存立基盤である一般性を掘り崩しかねないほどに、キリスト教という(内部に、相応の多様性を含む世界的宗教の)特殊性を認めないものでもある。ともかく、同書は、キリスト教を考察の対象から捨象したことにより、哲学の全体系という壮麗な殿堂の一翼(と主殿)を、完全に瓦解させたものとなっている※1。わが国でも、浄土宗や浄土真宗などの、信じる者が救われるとする大乗的な性格は、本稿に係るキリスト教の精神に共通すると認められるから、これらの宗教の信仰者にならば、私の言わんとすることが通じるかも知れない。

同書は、題名にもかかわらず、結局、哲学を学び直す上での妨げになる。同じ一日を費やすなら、ほかの本を読む方が断然良い。キリスト教を切り捨てた割に、甲田氏の著書には、思い切りの良さという評価点から見て、判断を失敗した箇所がほかにも見られる。たとえば、ハイデガーについて不満を挙げると、甲田氏の説明よりも、筒井康隆氏の『誰にもわかるハイデガー 文学部只野教授・最終講義』(2018年05月20日, 河出書房新社. 1990年講演の再構成)の方が、間違いを犯すリスクを取りながらも、結果として成功しており、よほど分かりやすい※2。ハイデガーに係る甲田氏の歯切れの悪さに接する限り、私には、甲田氏がキリスト教を捨象した意図を汲み取り切れないのである。

甲田氏は、ハイデガーに関連して、

人間だけが「死ぬ」

人生の終着点――。それは、「死」以外の何ものでもありません。生と死はひとつです。

私たちは186ページのヘーゲルの『小論理学』引用文から、生命の存在には最初から死が組み込まれている、ということを確認しました。〔…略…;以上、p.216〕

と表現するが、私は、この言葉使いに本当にイラッときた。生と死は、一続きのもの、一揃いのもの、一対のもの、一組のものではあるが、生があって初めて死があるという点で、不可逆であり、単なる一体のものではない。重点的に取り上げる7名の中にヘーゲルを指定しながら、生と死(の順序の大事さ)を論じない○○味噌ぶりは、頭が良く相手の愚かさを指摘しがちな哲学者という人種〔pp.53-54〕が用いた表現としては、随分と不用意なものである。先にも言及した書籍において、野内良三氏は、偶然について、

想えば、人間は自分の意志ではいかんともしがたい、誕生と死という大きな二つの偶然に支配された存在である。どんなに神に愛された人間でもこの二つの偶然からだけは免れることはできない。〔…略…;p.15〕[1]

と説明するが、野内氏の考察において、人間の誕生と死は、分かたれた形の二種類のイベントである※3

キリスト教への言及という点、宇野重規氏の『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ, 2013年10月20日)は、題名ゆえにそうせざるを得ないのであるが、ほぼ全編がキリスト教(権力)との競合と棲み分けの歴史を腰を据えた形で記しており、有用である。野内氏の文章とは異なり、甲田・宇野両氏の文章とも、段落読みできるものではない。それでも、全体の構成を比較の対象とすれば、宇野氏の書籍は、甲田氏の書籍に比べて、われわれが知るべき(と私が考える)内容に対して、偏りのない理解を与えるものである。宇野氏の文章では、一段落一主題も守られている。なお、面白いことに、哲学という分野においては、科学哲学・政治哲学といった学際的な分野に、なぜか(というか、これ自体が考究の対象になるはずであるが)、段落書きを徹底する著作者が多く分布しているように見える。


なお、本ブログでは何度も繰り返したことであるが、段落書きの有無は、学術研究者としての誠実さ・サービス精神の表れでもある。段落書きしてこなかった学術研究者にとって、この指摘は、消え入りたいものとして感じられるであろう(。なぜなら、段落書きは、読者の利便を増進するものであり、何なら、特定言語において、集合的知性を高めるための社会的装置ともなるためである。これ以上の論証は、本ブログを精査されたい)。私も、研究経歴の半分程度の間、この作法に気付かずに過ごしてしまい、ゴミのような文章を産出してきた以上、人のことをさほど非難できないが、この恥ずかしさに気付けたのは、自身に課したハック志向=エンジニア志向ゆえと思っている。また、気付いてからは、少なくとも周囲の人々に対しては、この作法を積極的に伝授してきたつもりである。段落書きできていない研究者は、所属する研究コミュニティにもそれなりの原因があるのだが、結局のところ、自身の努力不足と怠慢を、世界に向けて、後戻りできない形[2]で、示してしまっているのである。単なる書き損じのみならず、文章の並べ方でさえも批判の対象となるとは、現代は、真に面倒な時代ではある。けれども、言語集団としての日本語話者たちの生き残りを思いやるのであれば、これくらいの配慮は、書き手に当然求められるエチケットである。わが国の多くの「文系」の研究者は、ともすれば、情報流通業者に堕しがちなどと揶揄されるが、文章作法までを劣化コピーするとすれば、彼らは、社会防衛主義的な見地からすれば、真に罪深い存在というほかなかろう。

ところで、多くの個人は、人生を送る中、何かを契機として、死と向き合うことになろうが、その作業は、私を含め、結構な数の人々にとって、難事というべきであろう。この困難に対して、単独で立ち向かうことは、普通の人に可能であろうか。私たちは、この災難を何らかの方法でやり過ごさねば、どうにもならずに、死(とそれまでの生)がもたらす恐怖と不安に、囚われてしまうことになろう。また、愛する人を事故や事件や災害などで失った人は、何年経過しても、救われない気持ちとともに生きていくことになりかねない(。最近の私は、一人でいることの恐怖に立ち向かいかねた挙げ句、周囲の人々をも、この種の恐怖に直面させるような言動を重ねてしまっている。私自身は、相手にもよるが、私をその人の人生に組み入れ直すことにより、この巻添え被害を埋合せできるものと信じている。また、そうして欲しいと願っているのであるが)。

死に向き合うという困難は、究極的には、死ぬまでの間、その人が単独で向き合うしかないものであるが、しかし同時に、世の中には、この至上の恐怖・不安に向き合うための知恵が用意されている。たとえば、この困難に向き合うために、本稿でも触れたような、宗教の役割がある。保守思想は、この宗教や家庭の役目を重んじることができる。たとえば、キリスト教は、この困難を超えるために、父である神がひとり子であるイエス・キリストをあなたの元に遣わしたと説明する。保守主義からいえば、人生の困難を乗り越える上で、個人は、他人に重大な脅威を与えない限りは、宗教の助力を得ても全然構わないのである(。私個人は、特定の宗教の信仰を避けてきており、この点、具体的な宗教への勧誘は、意図していない。また、ここら辺の知識への投資は、不足気味であり、正確性すら保証しかねる。死に向き合う困難と対峙した(初期)近代の哲学者には、キルケゴールやハイデガーやニーチェがいるように思うが、この中で、ニーチェの主張は、私にはあんまりなものに思えてしまう。結局のところ、彼自身が自分の主張に押し潰されてしまったかのように見えてしまうからでもある)。


このとき、かなりの強引な展開だと自覚はするが、段落書きという切り口によっても、死に向き合うことの難しさは、明らかにすることができる。それは、西部邁氏の自死である。私は、『保守の真髄』(講談社現代新書, 2017年12月20日)を読み、西部氏の行動を評価しないようになった。なんと勿体なく、社会に迷惑を掛ける決定を下したのか、と思ったのである。正確には、その幇助者を通じてであるが。西部氏は、(一応、同氏の記述を尊重して、このように表現するが、)自死の過程において、覚悟の定まらない人物2名を相棒として選択したが、この決定は、結果的には、幇助者たちをしてイエスを知らないと三度述べたペテロのように振舞わせ、貴重な警察力を無駄にして、遺族を悲しませたり疑いの対象と見做すような報道によって、二次被害を生じた。『保守の真髄』は、長女に聞き書きさせたものである〔pp.10-11, pp.264-265〕が、それゆえか、私の中では、最も段落読みできるものとして感じられたのである。保守の真髄を実現する方法が「漸進改良主義」=「フェビアン主義」=「(カール・ポパーのいう)ピースミール工学」であるとするなら、同書は、西部氏が将来にわたり、読者に対して、より良質の書籍を供給できたはずの証拠として採用できよう。この事実にリアルタイムで私が気付かなかったことは、本ブログの座敷牢的性格ゆえに、結果に対して影響を及ぼさなかったはずであると断定できよう。しかし他方で、世の中のAチーム系学者に連なる編集者の一人でも、私の指摘したような評価を西部氏に与えることができていたならば、果たして何が起こったのであろうかとも、私は考えてしまうのである。私のポリシーの一つは、「勿体ない」と「リサイクル」であり、これは、明らかに、Bチーム的な理念・志向である。それでも、周囲の人たちの助力を仰いだ結果、西部氏の最後の業績がより良いものに進化したことを思えば、逮捕された人物たちは、なんと勿体ないことへの手助けをしたのか。私は、このように結論せざるを得ないのである(。中身そのものについては、結構な異論を感じるが、それにしてもである)。私は、だからこそ、自死なり自殺なりを容認しない。人は、生きている限り、何をなし得るのか分からないからである(。当然、殺人なり傷害致死なりも容認しない)。


※1 ただし、筒井氏の書籍の大澤真幸氏による解説は、「わかる人にだけわかる」と題されているだけあって、おそろしく人を躓かせるものに仕上がっている。良心と名声の双方を備えるキリスト者は、自らの宗教を大事に思うのであれば、大澤氏の記述の欠落を指摘して、それを悪意によるものか、無知によるものか、いずれかであるのか、と迫るべきであろう。私は、陰謀論者としての良心にかけて、この欠落の存在および攻め方を指南したことにより、自らの任を終えたものと思う。これ以上具体的に指南するには、私にも準備が必要である。また、ここら辺の考察は、私の実存と陰謀論者としての思索の双方に利益をもたらすが、この分野は、私の専門とは言えない。このために、誰にでも大澤氏に対する反論の機会が開かれているとしておいた方が、健全な競争と批判が生まれ、結果として、私のここでの指摘も、利益を得ると思うところである。

※2 ここでの表現は、キルケゴール『死にいたる病』[2]における、ヘーゲルに対する批判を利用した。

〔p.84〕

ほんとうに、誤謬のなかにいるということは、まったく非ソクラテス的なことにも、人々がいちばん恐れない事柄なのである。ここの事実を驚くべき程度において明らかにしている驚嘆すべき実例がある。或る思想家が巨大な殿堂を、体系を、全人世と世界史やその他のものを包括する体系を築き上げている――ところが、その思想家の個人的な生活を見てみると、驚くべきことに、彼は自分自身ではこの巨大な、高い丸天井のついた御殿に住まないで、かたわらの物置き小屋か犬小屋か、あるいは、せいぜい門番小屋に住んでいるという、実に恐るべくもまた笑うべきことが発見されるのである。たった一言でもこの矛盾に気づかせるようなことを言おうものなら、彼は感情を害することであろう。なぜかというに、体系さえちゃんと出来上がりさえすれば――それは誤謬のなかにいるおかげでできるわけなのだ――、彼は誤謬のなかにいることなど恐れはしないからである。

※3 もっとも、私からすれば、野内氏の論考は、咲く勢いがあってこそ散り際の儚さを感じられるという桜(ソメイヨシノ)についての考察が、人間一般に対する生と死の対比や無常観に係る記述に、十分に生かされていないように思えてしまう。その原因として、日本列島において生きることが相対的に容易であったという事実、その容易さが死に対する儚さを愛でるという姿勢を可能にしたという、和辻哲郎氏が指摘したような観点が、野内氏の論考では、見逃されていないであろうか。相対的に恵まれた生があってこそ、死の儚さに思いを致す余裕が生じるのではないか私は思う。また、、私生活において、他者がこの余裕を有しているのかどうかを考慮しなかったのではないかと、今更ながら後悔しているのである。


[1] 野内良三, (2008.8).『偶然を生きる思想:「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス 1118), 東京: 日本放送出版協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/000009491566
#同書は、冒頭のエッセイ風に見える部分まで、しっかり段落読みができるように作り込まれた文章である。

[2] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#アマゾンへのリンクであるが、アフィリエイトはない。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。〔…略…〕それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。弱さの絶望者は、永遠が自分にとってどのような慰めをもっているかについて、まるで耳をかそうとしないが、このような絶望者も、それに耳をかたむけようとしない。しかしその理由は違っている。後者は、全人世に対する抗議なのであるから、そのような慰めは、まさに彼の破滅となるだろうからなのである。比喩的に言えば、それは或る著作家がうっかり書きそこないをし、その書きそこないが自分を書きそこないとして意識するにいたった場合のようなものである――けれども、実をいえば、それはおそらく誤りなのではなくて、はるかに高い意味では、全体の叙述の本質的な一部をなすものであったかもしれないのである――そこで、この書きそこないは、著者に反逆を企て、著者に対する憎しみから訂正をこばみ、狂気のような反抗をしながら著者に向かってこう言うようなものである。いや、おれは消してもらいたくない、おれはおまえを反証する証人として、おまえが平凡な作家であるということの証人として、ここに立っていたいのだ、と。




2018年7月27日14時32分訂正

一部の文言を訂正した。

2018年7月22日日曜日

(一言)大徳政令(The Great Jubilee)は実現する方が良い

借金を棒引きして金融制度を改めるという大徳政令(The Great Jubilee)は、有りか無しかで言えば、あった方が良いが、聖書のレビ記にあるような、奴隷(的な)労働からの解放が優先されるべきであろう。でなければ、新興国・先進国においては、借り得という不満が貸した側にも溜まるだけとなり、モラル・ハザードの問題が暴発しかねないからである。何より、世界中において普遍的に見られる、貧困(だけれども無借金)の問題を解決することにはならない。けれども、そこら辺の将来像は、このグレイト・リセット※1を構想する人々には描けているのであろう。何より、先進諸国における奴隷的労働の源泉である借金棒引きすることは、従来の権力構造の失墜をもたらし、その社会の人々の権力関係を正常なものへと近付け、その結果として、他国への思いやりを醸成する機運をもたらすであろう。

大徳政令について日本語で言及する有力な言論者は、ベンジャミン・フルフォード氏くらいであり、同氏は、この一度きりの経済構造の大変革とともに、隠されてきた超技術が無償公開され、エネルギー・環境問題を解決することになるとも述べてもいる。単なるパンピーの私には、このような大変革の真贋を判定することはかなわない。実際、どちらかといえば、私は、熱力学第二法則をどうやってその技術がクリアできるのか?せいぜい、地球の近くを通過する太陽からのエネルギーをうまく活用しきる位ではないか?と思ってしまう方である。もっとも、調べもしないで、どこかで聞いたはずのきちんとした話を思いつき書き殴ってみるのだが、海洋における生命活動は、沿岸部に集中する傾向があるから、(最近流行の)プラゴミの問題を解決し、水深の大きな大洋部において大規模な魚礁を形成すれば、案外、地球に降り注ぐ太陽光エネルギーの利用効率を高めることはできそうである。このように現実に利用可能な技術を適用することまで含めれば、本来、貧困問題と経済問題と環境問題の絡み合いは、より頭が良く、権力を有する人々によって解決可能なものに思えてしまうのである。これは、ほとんど夢物語の世界であるが、『機動戦士ガンダム』ファースト・シリーズに出てきたような「ソーラ・システム」が地球の近傍に展開され、都市計画ゲームの『シム・シティ』シリーズに見るマイクロ波発電所が稼働するようになれば、より多くの太陽光エネルギーを利用できるようにもなろう。そのような時代がくるのはもう少し先の話だとしても、私は、私たちが生きているうちに、もう少しマシな世界が実現するという知らせを、信じてはみたいのである。


私が、今まで避けてきたつもりの、この種の環境問題にまで言及する理由は、もちろん、私事に由来するものである。私があまりにも従来の経歴にそぐわない発言を公にするようになると、過去に関係を有していた人々にも疑いの目が向けられかねない。特に、わが国には、本来、個人の発言の責任に留まるところを、連帯責任として追及する風潮がある。けれども、私の中では、私自身の願いを叶えるため、役立ちそうなことをすべて試してみたいという誘惑が、従来の虞に打ち勝ってしまったのである。この結果、私は、自分自身こそ、汚名を被ることは厭わなくなっている

この大徳政令は、目先のカネのために人生を縛られることはない、言い換えれば、ほかの人の良心を当てにしても良い、という気付きを与える点で、再帰的(マッチポンプ的)な作用を有している。客観的な記述を心掛けるべき研究者は、この種の自己成就予言を避けるものであるが、生ける屍のような私には、その危険もない。私は、実際に利益関係を持たない(と私自身では思っている)にもかかわらず、ある陣営のアドボケイト(信者)に数えられうるリスクを冒し、一般人からすれば不確定にしか思えないアドバルーンに言及しながらも、その背景に認められる人間の善性を強調する企てを投げ掛けたい願ったのである


※1 この言葉は、橋下徹氏の言葉として、中島岳志氏『「リベラル保守」宣言』(2013,新潮社)に引用され批判される〔p.118〕ものであるが、本稿で取り扱うジュビリーも、この言葉に相応しい内容を持つ。




2018年7月22日20時20分・7月23日08時08分訂正

一部文言を訂正・補足した。




2018年7月23日21時10分追記

ギリシアのソロンの改革(紀元前594年)は、借金を帳消しして、市民の奴隷への転落を禁止した。重装歩兵を確保するためであったとされ、市民と奴隷を区分することにもなったという(宇野重規, 2013年10月20日, 『西洋政治思想史』, 有斐閣アルマ, pp.4-5)。とすれば、徳政令と経済的徴兵制とは類似する機能を有することになる。わが国の徳政令も、同様に、御家人の保護という目的を有していたようである(し、教科書で読ませてもらった記憶がある位の話である)が、これについては、既往文献を見ていないので、いずれ調べる。

あと、佐野千春氏は、かつて、先のソーラ・レイ・システムに類似したシステムを、飯山一郎氏に売り込んでいたものだった。福一のデブリを超高熱で融かすという触れ込みであった。この話を読んだ当時、私は、レンズを何枚通過させなければならないかを考慮すると、無理そうじゃね?とは思っていた。レンズが溶けるぞ?と。それに比べれば、マイクロ波発電に近い方法論で、太陽光を利用した方が、そこまで高温にしなければならない理由がないので、なんぼか実現可能性が高いのではないかとは思う。たとえば、洋上に大規模に太陽光パネルなどを展開し、昼間に、太陽光を遮らない高度・場所に配置された衛星から、その地点に向かって、太陽光を反射する、という方式を考えてみる。大気に邪魔されないために、マイクロ波が利用されるということは、私にでも分かる。ただ、どのような波長の光を利用するにしても、従来の高度を大きく超えるところでの衛星(システム)の運用が必要になるし、そこでの姿勢制御の難しさを考慮すると、パネルに対してうまく照射できないとか、運用に係るエネルギーとコストの割に、供給できる太陽光のエネルギーが多くないとか、地球を温暖化する方向に働くとか、他国の上空に恩恵を被る国のシステムが存在することになりがちとか、問題山積で、実現可能性は低そうである。それゆえ、本文では、夢物語と記したのである。




2018年8月2日8時15分訂正

本文の一部を訂正したが、本文の内容そのものは、変えていない。

2018年7月21日土曜日

(書評)今秋の自民党総裁選に係る偶然?の一致について

今朝(2018年7月21日)の『日本経済新聞』4面(13版総合3)は、「自民党総裁選へ号砲/首相「憲法改正、大きな争点」/国会が事実上閉幕」という記事で、(言及した順に)安倍晋三・石破茂・岸田文雄の三氏の動向を解説しているが、これに先立つ『文春オンライン』[1]と『プレジデントオンライン』[2]の記事は、石破氏と小泉進次郎氏の両名が共闘することで、小泉純一郎氏が総裁の座を射止めたときのような逆転劇が起こるのでは、と示唆している。私から見れば、石破氏と進次郎氏の政策体系は、安倍氏のものとさほど変わらない。経済については、石破氏は、4月、持続可能性を考慮しながら、徐々に経済政策を変更する、と述べている[3]に留まる。憲法改正に係る内容とタイミングについて、石破氏と安倍氏には、相違点が見られるようであるが、本稿では立ち入らない。進次郎氏は、父親とは異なり、原発に対する明確な反対を表明するには至っていないし、石破氏も安倍氏も、原発賛成である。現時点のわが国の安全保障を考慮する上で、とりわけ、ロシア国防省特別管理局長のイーゴリ・トカレフ大佐が核実験を誤魔化す方法に言及している[4]現在では、プルトニウム爆弾の材料となり得る核燃料物質を国内に確保できるという点において、原発賛成・反対以外の差は、些事というべきでもあろう。

面白いのは、佐々淳行氏が『私を通りすぎた政治家たち』(2014年08月30日、文藝春秋)[5]において、将来に期待する政治家(ステイツマン)として、安倍氏・石破氏・進次郎氏の三名を挙げているところである。佐々氏は、同書において、原発ゼロを唱える純一郎氏について、晩節を汚すものと評価している〔pp.79-80〕。表向きゴリゴリのタカ派と呼べそうな元・高級官僚である佐々氏を、仮に、両建てのいずれに区分するかを考えれば、当然、Aチームとなろう。この佐々氏がステイツマン、すなわち「権力に付随する責任を自覚している人」〔p.8〕として推奨するのが、石破茂・安倍晋三・小泉進次郎・橋下徹・長島昭久の五氏である〔p.273の章扉の上から順〕。ここに見る一致は、偶然のものなのか、文藝春秋社の編集担当ラインとの共同作業によるものなのか。決して、佐々氏の見識だけに由来すると断言しないところが、私の見解における最重要点である。

両建て構造を運営する人物らの息のかかったイヌたちが社会の要所を押さえている環境において、政治家としての決定を下さざるを得ない人物は、真に優秀であるならば、この構造を乗りこなすことを前提に、言動を注意深く選び取るものである。佐々氏によれば、加藤紘一氏は、国を潰す種類の政治屋(ポリティシャン)であるそうだが、私には、佐々氏に口を極めて非難されるほどとは思えない(。人格的な非難は、どの人がどの人に対して行うに応じて、第三者からの印象を大きく変えるものである)。加藤氏が防衛庁の参事官会議に初参加したとき、

〔p.108〕

「若いころマルクス・レーニンにかぶれないのは頭が悪い人です。それから六〇を超えてもまだマ〔p.109〕ルクス・レーニンという人はもっと頭の悪い人です」という発言をした。〔…略…〕

という※1。しかし、仮にも佐々氏が、私ほどにゴリゴリの陰謀論者であり、社会に対して両建て構造を乗りこなす術を伝えようとしていたのであれば、加藤紘一氏に対する佐々氏の筆誅のあり方は、随分とマイルドになっていたであろう。というのも、この加藤氏の発言が本当であれば(、また私は、その内実を確認するのが億劫なので、このまま引用部分を信じてみるのだが)、この発言に対して、私なら、「百歩譲って、敵の論理を内在化しておくこと自体は有用であるにしても...」くらいの鷹揚さで、さりげなく加藤氏の発言を誘い受けするものであると匂わせておくからである。直情型の非難を加えることが、果たして、(元)インテリジェンス・オフィサーを自認する人物にとって、また、その経歴自体がわが国のトップ・インテリジェンス・オフィサーならびにトップ・エリート官僚を体現する人物にとって、相応しい振舞いであるのか。私は、佐々氏のこの記述に対して、随分と稚拙なものだなと感じてしまうのである。このように断定的な記述によって、読者に対して、逆に反発心と穿ち読みへの機運を覚えさせることが佐々氏なりの優しさであれば良いが、庶民と呼びうる程度に低い階級の多くの公務員たちは、佐々氏の記述を、容易に読み誤るのではないか。

佐々氏ほどに書けば売れるはずの人物であれば、もう少し、誰が読んでも立ち所に理解できるように、両建てを乗りこなすためのヒントを散りばめるべきであったろう。両建てを乗りこなすことは、日本国民にとって、今でも、相当に遠い目標なのだから。両建てのイヌと見える人々を摘示することは、まま大事ではあるが、普段のマスコミ情報だけでも(、私がまあまあ良く指摘できていると自認するように)、外形的にイヌと見える人々を嗅ぎ分けることは、そこまでは難しくないはずである(し、ほかの陰謀論者と呼べる人々も、それだけの結論に自力で到達していよう)。情報コミュニティの先達・第一人者を自認する人物であれば、そのような些末なアンチョコの類いよりも、より重要な心構え、すなわち、イヌと見える人たちの内心がいかなるものであるのかが、マスコミという情報中間業者の存在ゆえに、庶民にはなかなか読めないことをも指摘し、誰にでも分かるように、現時点のマスコミ=情報流通業者を的確に排除するための知恵を、後進に与えようと努力すべきではないか。ここに指摘するような、情報を取り扱う人物のプリンシプルを教示しようとする努力こそは、ノブレス・オブリージュというものでないか。ただ、ひょっとしてひょっとするとではあるし、私は、佐々氏が自身で訴えたように私費で本業を回す〔p.135〕ことにも賛成しないが、佐々氏は、同書の脱稿以後、私のような三下に非難されることまでを予期しながらも、汚れ仕事に徹しようとしているのかも知れない。しかし、重ねて指摘しておくが、私としては、この書籍を読み解けるだけの人物が、どこにどれだけいることなのやらと、随分と心許なく覚えてしまうのである(。しかも、本稿は、インフラこそ、Google様のおかげで無償で運用できているのであるが、現時点では、一文の得にもならないものである。)。


#なお、すっかり私事めいた記事が続き、申し訳なく思い、本稿を記してみた


[1] 安倍晋三首相の総裁選3選の唯一のリスクは小泉進次郎氏による石破茂氏支持の可能性か|ニフティニュース
(文春オンライン、2018年07月10日23時50分)
https://news.nifty.com/article/item/neta/12113-054764/

  • 安倍首相は出身派閥の細田派、麻生太郎氏の麻生派、二階俊博氏の二階派を固めたという
  • しかし、首相は焦っているらしく、旗幟を鮮明にしない岸田文雄氏に激怒したらしい
  • 首相の総裁選3選のリスクは小泉進次郎氏による石破茂氏支持で、焦りの淵源だという

[2] 安倍総裁3選を阻止するただひとつの方法 | プレジデントオンライン
(プレジデントオンライン編集部、2018年07月16日)
http://president.jp/articles/-/25637?page=3

17年前を知るベテランの自民党関係者の間では「当時の橋本氏と今の安倍氏が似ている」というささやきが漏れる。橋本氏は、永田町内の「数の力」では圧倒的優位に立っていたが、熱狂的な支持はなかった。今の安倍氏も「ほかにいい人がいない」という消極的な支持に支えられている。別に魅力的な選択肢が出れば形勢が一気に変わるかもしれないのだ。〔#記事終〕

[3] 財政・金融政策の激変策は採らない=石破元自民幹事長 | ロイター
(竹本能文、編集:田巻一彦、2018年04月06日15:02)
https://jp.reuters.com/article/ishiba-financial-policy-idJPKCN1HD0KD

自民党の石破茂・元幹事長は6日都内で講演し、「(首相が)石破になると消費税を上げ、金融緩和をやめて、世の中大不況になると言う人がいるが、そのようなことは言っていない。激変するような政策を採って良いとは思っていない」と述べた。政権運営への意欲を示すと同時に、アベノミクスの経済政策に急激なブレーキはかけない意向を示した。

同時に「大胆な金融緩和も機動的財政出動も、未来永劫続くものではない」と述べ、政策の持続可能性を重視した。

[4] 核保有国はどうやって核爆弾の実験を隠しているか 露国防省が明かす - Sputnik 日本
(スプートニク日本、2018年05月11日21:58)
https://jp.sputniknews.com/world/201805114869300/

[5] 佐々淳行, (2014.8). 『私を通りすぎた政治家たち』, 東京: 文藝春秋.
http://id.ndl.go.jp/bib/025647994




2018(平成30)年08月13日追記

※1 加藤紘一氏のマルクス・レーニンへの評価は、ウィンストン・チャーチルによるとされることもある、社会主義に対する金言[1]をもじったものかも知れない。


[1] Unquotes - MarkShirey
(2018年08月13日確認、Mark T. Shirey)
https://sites.google.com/site/markshirey/unquotes
なお、マーク・シェリー氏のブログの存在は、ケイト・カルザース氏のブログ経由[2]で知った(。両名ともカタカナ読みとして正しいか、心許ない)。

[2] Alleged quote by Churchill: on being a socialist or conservative | Aide Memoire
(Kate Carruthers、2005年02月11日)
https://katecarruthers.com/2005/02/alleged-quote-by-churchill-on-being-a-socialist-or-conservative/

2018年7月18日水曜日

(私事)庶民の両建て戦術はマイナス収支となる

はじめに

見出しの主張は、現代の日本社会における庶民の生活に係る黄金則である。少なくとも、私は、そう信じている。「庶民の私生活における両建て戦術」とは、「私生活において、庶民が何か一つの目的を達成しようとするとき、対立的な複数の手段を自らに許すこと」を指す。具体的には、目先のカネのために兼業したり、異性と交遊したいためだけに複数の異性に対して同時に粉を掛けたり、他人様に言えない活動をしながら市民として生活しようとしてみたり、といった内容を念頭に置いている。このような行動は、「選択と集中」という成功則とは真逆に、ブレーキとアクセルを同時に踏むような効果を引き起こし、結局は、個人が何事かを成し遂げる上での妨げになろう。このような無理な生き方に対しては、自らの専門性を高め、正業に邁進するという生き方を対置できるであろう。後者の生き方は、今でも、道が随分と細くなりはしたが、成功への最も分かりやすいコンパスである。要するに、庶民にとっては、「一石二鳥」よりも「二兎を追う者は一兎をも得ず」の方が真実に近いのである。

最近では、何でもお金になることを引き受けるという「百姓」がもてはやされたりもするが、はっきり言えば、この生き方は、「追い込まれたがゆえに採らざるを得ない」、いわば、「貧乏農場」組の受動的な生き方である。ここ15年ほどの私の経歴も、この「個人の両建て戦術」とも言える生き方に含まれるものである。私は、シングルタスクをようやくこなせる程度(せいぜい2ビット・2軸の両建て)の能力しか持たないために、この生き方のデメリットに十分苦しめられてきた。持たざる者・機会に恵まれぬ者ほど、そうでない者に比べて、特段の努力を求められることになるが、何にでも低い報酬で手を出すという方法が次善の策でしかないことは、さほど、理解されていないものと見える

今回は、私の思い人に対して自分の考えを訴えるという私事を目的としながらも※1、このデメリットを、とりとめなく考察してみよう。


兼業という「両建て」的働き方のデメリット

生計手段について、同じ所得の専業者と兼業者を比較すると、兼業者に同額の所得機会がそもそも用意されているかどうかはさておき、専業者の方が楽できるし、ワーク・ライフ・バランスの実現も容易であるが、このことは、投資という副業ひとつ取ってみても明らかになることである。基本的に、個人にとって、あらゆる投資は、全く甘くない※2。株式取引の収支は、朝の寄付(8:00~9:00)と午後の寄付(12:10~12:30)までの時間を十全なネット取引環境の前で過ごすことができなければ、個人のお小遣いがマイナスへと転化する程度には悪化するであろう。このとき、非正規よりも正規労働者は、時間の調整が総じて簡単であり、結果としてお小遣い稼ぎし易い(。少なくとも体験的には正しいし、就業時間内に株や先物やFXにのめりすぎて懲戒処分を受けている公務員は、大体が正規職員のようである)。日足チャートで稼ぐ方法は、複数の著者が考案・提示しているし、テクニカルな方法の中では真っ当な稼ぎ方で、誰でも真似できそうだとも評価できるが、それでも、安定した正業=専業があってこそ、この方法を採用する気になれるというものであろう。それに何より、正社員の方が重要な仕事を任される分、インサイダーになり得る機会も多かろう。

この経済的な本業は、従来の日本株式会社の従業員たち、特に男性たちに対して、個人のアイデンティティを付与する主要な柱ともなってきた。この一方で、結婚することで専業主婦となった女性たちは、パートナーの影とはされた。しかしながら、彼女たちが主婦という安定的なアイデンティティを獲得し、その属性を受け入れて、(料理や芸事に係る)多彩な文化・社会的活動を展開してきたことも、否定できない事実である。他面、これらのレールから外れてしまった人たちに対して、わが国の社会は、消えた年金問題に代表されるように、昔から冷たい扱いをなしてきたし、この差別的な扱いを放置してきた。家族制度に対する通念は、家族の問題は家族で処理するようにとの社会的同調圧力を通じて、この差別を肯定し、強化してきた。

複数の職場に勤務した経験のある社会人なら、事務手続にハウスルールがあり、それらを覚えて間違いなくこなすことが、職場の人間関係をやり過ごす上で非常に重要な儀式となることを、必ずや学んでいるであろう。派遣社員の方々に対しては、この点、本当に尊敬の念を覚えるばかりである。正社員と同等以上の感情労働に従事させられる上、給与は少なく、しかも派遣先が変わる度に覚えたハウスルールが無駄になってしまうのであるから。私は、なぜハウスルールがこうなのかと考えてしまい、前の職場とも比較してしまったりもして、結局、宮仕えが難しいものと自分で自分を査定してしまっている(。大学なら大学で、完全に手続を標準化できるはずだし、そうすべきであると考えているのは、私だけなのであろうか。旅費システム・経理システムも、全国的に整備できて当然である)。

基本的に、今現在の日本社会においても、個人は、働き方が専業的であれば、本業により良く集中でき、より多くの成果を生み出し、それに見合う高い報酬を得ることができる。このレールが本格的に脱線経路だらけになってしまったのが、90年代後半からの、就職氷河期である。中高年の首切りが慣行化したために、若年者であっても、一旦レールを外れると、個人は、以前よりも相当に高い代価を払うように求められるようになった。この割を大きく食っているのが、私を含む世代であり、近い将来、社会不安を呼び起こすことになるものと予想できる。


独身者という弱者を襲うジレンマ

皮肉なことであるが、個人の力ではどうにもならない環境に置かれた時、他人よりもやる気に優れ、頑張ることに価値を見出し、他人の努力と自身の努力との間に優劣を見てしまう人ほど、無駄に、かつ、悪い方向に努力してしまうという落とし穴に陥りがちである。特に、何らかの理由に駆動されて働かざるを得ないと思い詰めたとき、その個人は、自身の能力の許す限り、何にでも手を染めてしまうものである。犯罪であれ、合法的だが個人の尊厳を損なう行為であれ、である。いったんこの悪循環に陥ると、当初こそ合法的であれども、やがては犯罪者・元犯罪者が一丁出来上がることになる。

しかし、その個人が周囲の人たちを頼るという選択肢を顧みないことは、1足す1が2を超えるというケミストリーの力を信じないもので、いかにも勿体ないことである。人は、思いやる相手がいてこそ、自身を律することができるし、高いパフォーマンスを叩き出せるようになり、その状態を維持できる。性犯罪者にこそ該当しない話のようであ(り、わが国では、私のような境遇では利用できないデータには、検証可能そうなものが含まれるようであ)るが、妻帯者は、基本的に、社会的プロファイリングにおいて、犯罪傾向が小さなものと扱われがちのようである。この定性的な偏見は、たとえば職務質問を行うか否かに当たっての警察官の判断を通じて、社会的な相互作用として形成・強化されるものである。

しかし、社会には、このような二人の関係を作りにくい状況に陥った人たちも、厳然として存在する。彼らへの手当は、ほかの個人全人的な関わりを通じて助けにくいものである以上、社会全体の課題である。例えば、シングルマザーは、私のような、寂しい中年独身男性から見ても選びにくいという点で、周囲に助けを求めることの難しい存在の典型例である。彼女らと子どもたちを喜んで助けるような男性は、なかなか求めても得られにくい存在であろう。しかしながら、ここでの私の記述は、私事ゆえに、彼女らを直接のターゲットにはしていない(はずである)ので、これで言及を止めることにする。それに、老親と同居する独身中年たちも、この範疇に含められようが、経済的には回っていると見做されちなゆえに、社会的には、低い優先順位でしか対応されていない。

付言しておくと、わが国に広範に存在する独身者の問題は、実のところ、社会関係の全般的な交流の機会が少ないために生じているのではないか。昨今流行の形式であれば、私には、婚活は無理である。婚活は、何より、双方の両親と当事者たちとの問題を直接には解決しない。パラサイト・シングルの結婚問題は、本来、分かりやすく、しかも、経済的には解決が可能そうなものである。体験的な見聞を元にすれば、彼らの問題点は、寄宿先である親と経済的に共依存的で、かつ、他の家庭との親密なコミュニケーションを取らない関係にあるがゆえに、同じ地区内に多数の類似した境遇の独身者がいるにもかかわらず、カップリングに成功しにくいという点にあるものと認められる。双方の両親とも介助者を必要としており、立派な住宅が二軒あるのに、それらの社会的資源は、もったいない使われ方をしているのである。この問題がなければ、パラサイト・シングルの問題は、伝統的な嫁姑問題に帰結する(。ただし、現時点では、舅婿問題の方が相対的に問題化しているかも知れない。嫁姑問題は、姑が開明的になり、嫁が働きに出なければならないので、多少は、軽減されているのではないか。他方で、親世代が正社員幻想に囚われている限り、婿の不安定な社会的身分は、かなりのトラブルの元になる)。

私は、今の身分となってから、独身中年男性・女性たちが両親たちと同居しながら独立を望めない収入で暮らしていることを、時折、耳にするようになった。同じような傷がなければ、日本の家庭は、その弱みを他者と分かち合うことができないものと思い込んでいるようである。繰り返すが、これは、いかにも勿体ないことである。リサイクルの仕方次第では、私のようなポンコツも、もう少し、他人様の役に立つような努力へと、リソースを振り向けることができそうに思えるからである。もっとも、私が次を考えるのは、今を何とか生き延びてからのことである。


脱線;キルケゴールにみる絶望の三形態

ところで、現時点の私の絶望は、私の思い人を今の状況から連れ出すことのできない無力な自分に向き合いたくない、という心情から生じたものであるが、この心境は、ゾンビものを貫くテーマに良く合致する。私が自身をゾンビに模すのは、私の思い人を私同様の心の弱った状態に引き摺り下ろした上で、私の理解に感染させてしまいたいと願っているからである。この心情は、自分の状態にまで相手を貶めたいと願う点で、ニーチェのいうルサンチマンであり、この見方は、ゾンビ研究の共通理解となっているようである。しかし、一旦、一人きりでは限界があるという弱さを受け入れれば、われわれ人間は、逆に、一人でいたときよりも強く生きることが可能となる。ゾンビは、常に、大群(hoards)を作る傾向を有するが、この特性は、数は力なりという主張を含む点で、人権という理念に基づき平等・公正を求める人間というモチーフを潜ませたものでもある。ゾンビという表象を扱う表現者は、ニーチェの言うことを受け入れた上で、しばしば、ゾンビであることにも一定の救いがあることを示唆するものである。これに対して、ゾンビものにおけるサバイバーたちは、しばしば絶望し、仲間割れし、結局はつまらない死を迎えていたりする。ゾンビものにおけるサバイバーたちは、いかに死ぬかを張り合ってみせるという点で、本来の仲間内で、競争的存在・修羅(道に墜ちた亡者)としていがみ合うのである。

私の絶望は、自分自身ではどうしようもない現実を認識しつつも、自分にできる努力を放棄したという点において、低レベルのものである。キルケゴール『死に至る病』は、絶望の中身を3段階に分けている。1「自分が自己を持っていることを自覚していないままに、絶望している状態」、2「自分が自己を持つことを自覚しつつ、絶望のあまり、自分自身であろうと欲さない状態」、3「絶望しながら、自分自身を保とうとする状態」として、3番目を(神への)反抗であると述べる。当時の男尊女卑の風潮を反映して、キルケゴールは、1番目を婦女子の絶望、2番目を男性の絶望と定義しているが、私に言わせれば、私が好きになってしまう人たちは、女性であろうが、3番目の「反抗」反逆を生きているように見えるのである(参考文献[1]に、該当部分を引用した)。

私は、私の思い人の自助努力が、その人自身にとって悪しき結末をもたらすとともに、私の言葉が呪いとなってかの人を苦しめるものと予測する。かの人の長所は、常人では耐えられないような両面的な生活を、取り続けてきたことにもある。この一方で、その人並み外れた努力の結果、かの人に報いる人がいなくなるという逆説的な状態が存在し得ること、その努力の成果が遠い将来に不当な形で奪い去られる可能性があることを、私は危惧する。もっと言えば、私は、かの人の心に呪いを刻むことになることを、重々承知の上で、この不吉な予言を発している。私が側にいようがいるまいが、かの人は、私の悪しき祝福とともに、そのときが来るまで、将来を歩まねばならないのである。ただ同時に、私は、思い人に対して、社会的には死んだかのような小さき私も使い方次第で活かしようがあることを、何度も訴えてきたつもりである。この私の指摘は、かの人に対してダブルバインドとして機能するが、両建ての方法を悪用した以上、私自身への刻印ともなるものである。


クリエイティブな仕事における集中の必要性

一人の作家・クリエーターが、複数のアイデアを同時並行的に実現・創作できているとすれば、彼ないし彼女は、同業他者に比べても、突出した才能の持ち主であろう。現に、あれだけ競争が激しい少年漫画週刊誌において、このような偉業を達成している人は、ほとんど見られないではないか。やはり、何か軸となるもの(コアコンテンツ)があって初めて、創作物の世界も、消費者の賞賛を受けられる程度に深まるものであろう。

他面、卑近な事例となるが、私は、同時並行的に研究を進めるという無茶振りを受けて、努力はしたことがある。結果は、誰かに聞かれれば述べるに留めたいレベルの黒歴史感で一杯であるし、何より、それらは、公開資料を調べれば分かる話である。凡人は、自身がアイデアを産出すべき研究・創作物を、複数抱え込むべきではなかろうし、マネージャーたる者は、そのような無理を他人に負わせるべきではなかろう。創作や研究という、個人ないし少人数の才能が要求される作業においては、やはり、選択と集中が必須である。その選択を手助けする方法として、異業種・異分野交流が必要なだけではないか。


二重生活という「両建て戦術」の帰結

経済の話よりも突飛になるが、私生活において、庶民がパートナーを両建てするようなことは、大抵の場合、とんでもない結果を引き起こすことになろう。上級国民なら、複数の家庭を持ちながらも、それぞれを同時に幸福にする程度の資産と権力に恵まれているのかも知れないが、私がすぐに思い出せる限り、そのような成功を収めた人々は、工藤美代子氏によって描かれたような笹川良一氏くらい(『悪名の棺』幻冬舎, 2010年10月)であり、少なくとも、そのレベルの名士でなければ、この種の欲望を満たすことが難しいということなのであろう。鈴木智彦氏かの本のいずれかに、7号さんまでいる暴力団(、あるいはヤクザの)組長がいるみたいな話があった覚えもなくもないが、まあ、例外的ケースであろう。元東京地検特捜部長の石川達紘弁護士(当時78歳)の引き起こした今年2月18日の死亡交通事故は、図らずも、私の主張を強烈に肯定してしまうケースである(が、このことは、例によって、『朝日新聞』では報じられず[2]、週刊誌メディア[3][4]が明らかにしているところである)。

二重(多重)生活のために嘘を吐き続けることは、基本的には、無理である。いずれは、他者にバレることになる小嘘を吐き続けることになり、自身への嫌悪感を高めるという副作用まで引き起こす。小嘘を吐く理由が不倫であろうが、ほかの理由であろうが、案外、周りの人々は、小嘘を吐く人の話のどこが嘘であるのか、場合によっては、隠したい秘密が何であるのかまでを、まあまあ正しく、勘付いているものである。結局、自身の生活の平穏を他者にも尊重してもらうためには、正直が一番ということになる。両建て生活というものは、基本的に、庶民には、無理なことなのである。

(ここに記すことが適当かどうか、一応悩んだが、)私の思い人が自炊していると述べたことは、事実の半分を述べたものであろう。本当のところは、休みのときに、という程度ではないか。外食続きは、体調を崩す要因となり得るし、一時間半の余裕では、外食しか選択肢がなかろう。このことを問い質し、私の推測の正確性を確認してもみたいが、これもまた、叶わぬことなのであろう。

複数の異性を同時に愛してしまうというシチュエーションは、古今東西の名作に限らず、時代が変わろうとも、人類にとって、定番の題材であり続けるであろう。今は、メンタル面で申し分のないイケメンが、モテを堪能する作品が人気を有するようである。これに対して、『源氏物語』は、モテ男が悲しい性を持て余す様子までを描き切る点で、読み継がれるに値する完成度を誇ると言えよう(。オッサンであっても、高校生までの勉強は、まだまだ必要なものである)。この一方で、心にハンデを負っている非モテは、基本、一人の異性を求めるのが常道であって、それ以上を求めるべきではなかろう。


人間としてのコア・コンピタンスへの投資こそが将来を拓く

独自性や創造性が必要となる分野において、選択と集中が必須であるとすれば、将来、個人に何より必要となる作業は、競争相手となる他者に負けることなく、当の他者と協力可能な人間的魅力と、人間性から分離できない種類の才能を向上させること、の二本立てになろう。今後、第一次産業・第二次産業のほぼ全ては、人間とロボットの共同作業となり、かなりの部分で自動化が達成されよう。このとき、人間としてのコア・コンピタンスに対して、集中的に投資することこそが重要である。「ロボットを使いこなすこと」は大事であろうが、「ロボットでもできること」「誰でもできること」に何らかの専門的なリソースを割くことは、逆ザヤにもなろう。今後の技能実習制度は、農作業ロボットの使いこなし方を指導し、応用に係るノウハウを伝授するというものになろう。漫然と安価で使い捨て可能な労働力を求めてきた現今の制度のあり方は、使用者の側に、根本的な変革を強いるものになろう。第二次産業における技能実習制度の実態は、すでにそうなっているものと予想するが、日本人と同じ働きを海外工場でこなせる人材を育成するという性格を、ますます強めることになるであろう。つまり、全産業の自動化は、本来の理想へと近いあり方へと、技能実習制度の実際を変容させることになろう。

人間を相手にする感情労働の場も、自動化によって、あり方が変容することもあろう。例えば、現在、私たちは、企業のカスタマーサービスに電話するとき、冒頭の自動音声応答そのものに対して腹を立てることはしない。一部の不心得者を除けば、電話口で録音しているとの通知も、問題視しないであろう。これは、私たちの大半がこの制度を、セキュリティの名の下に、感情的にも受容しているからである。他方で、現在の販売現場では、過剰な感情労働が要求されている。デパートで気分を害されるようなつっけんどんな対応をされれば、私たちは、違和感を覚えるであろう。しかし他方で、過当競争のためにフランチャイジーのオーナーという中間的存在がこのようにせざるを得ない状況を強化しているにしても、コンビニですべての店員さんたちに私たちが笑顔を要求することは、適切な振舞いなのであろうか。レジ・決済代行機能や、万引き防止・警備システムが使いやすい形で全自動化され、コンビニ店員さんたちに配慮する必要がなくなったとき、私たちは、案外、全自動化されたコンビニの方を気楽なものだと思ってしまわないだろうか。とりわけ、それが正月・お盆や深夜など、私たちが少しばかり申し訳ないと思いながらも利用するような時間帯であれば、尚更である。これもまた、性的な搾取やセクハラにもなりかねない話であるが、例えば、成人向け書籍や避妊具を購入する際、オッサンたちなら、店員の人となりに応じて、購入を決断しているのではなかろうか。

これらの現実を考慮するとき、究極の感情労働である性風俗産業の一部がセクソロイドによって代替されることもまた必然であるし、社会防衛主義者なら、希少な社会的資源である女性や若者たちを徹底活用する方策を、間違いなく模索するであろう。このとき、必要悪として容認されてきた性風俗産業のあり方もまた、「最小限度の業界規模」という理念に限りなく接近するように要求されよう。前稿(2018年6月30日)でも前振りしたが、理念的には、性風俗産業は、商売相手の固定制という究極のディストピア的な理念を導入すれば、限りなく最適化することもできる。戦闘的=破壊的=国際秘密力集団的な自称フェミニスト(、内実は利己主義者・新自由主義者)が指弾するように、結婚という制度が限りなく固定化された売春制度であるとするならば、なぜ、売春制度が限りなく固定化されてはいけないのか。性感染症の問題も限定的となり、常に両者の要求が満たされることを期待できるのに?私の指摘で見過ごされていると反論されるであろうことは、売春側の経済的要求であるが、これは、経済的要求である以上、個人破産の要件を限りなく緩和化すれば十分であり、この問題こそが問題の根にある。この点、宇都宮健児氏の業績を、私は、非常に尊敬しているとも付け加えておく。なぜ、私がわざわざこのように言及するのかと言えば、政治的立場と経済的立場は、本来、自由な組合せがあり得ることを、指摘したいがためである。つまり、健全な性風俗環境の形成(=性風俗営業の撲滅)は、党派を超えて協調可能なアジェンダともなり得る一方で、常に、リベラルの側にも、獅子身中の虫がいることを指摘したいがためである

なお、私が生業としてきた犯罪予防という研究分野は、今後を生き抜く上で必要とされる才能の裏返しと呼べるもので(しかなく)、慎重な運用が必要とされるもの(の割に、わが国では、追究することが報われないもの)である。犯罪予防の要諦は、人の嫌がることを、その人の身になって考えることに尽きる※4。人の嫌がることを突き詰めていくと、ニーチェが警告したように「深淵を覗き込む」ことになる。深淵を真直ぐに覗き込んだ挙げ句に戻って来られなくなることは、サイコパスの精神鑑定に立ち会うことなどせずとも、十分に可能なことである。そうでなければ、精神鑑定の必要な人物が重大犯罪を敢行した後に初めて精神科医のお世話になるというサイクルは、どうして成立し得るのであろうか。人が死ななければ理解しようともしないわが国の社会は、かくして、私の本業であったような、成果が目に見えにくい働きを、不釣り合いなまでに軽視するのである。同業者である研究者までもが、このような態度を日常化しており、挙げ句に、研究者を管轄する省の局長が裏口入学を堂々と要求できるのであるから、まあ、おめでたいことである(。なお、本件は、現在進行中の権力闘争の一環であるから、文科省を入口としながら、政体の中枢へと触手を伸ばす種類の動きを見せることになろう)。


私の思い人は、私には、個人的な「両建て戦術」を良しとして過剰な努力を費やしてきたと見えるが、この助言を受け入れ、私をも受け入れることのメリットを理解し、行動してくれるのであろうか。理解してくれることまでは、私も信じているのであるが。ただ、かの人は、誰にも相手をされない卑小な私がお願いしているにせよ、話をして欲しいという私の願いを無視し続けてきた。私の思い人は、薄々であるかも知れないが、無視するという決定自体、かの人にとってのリスクとなることを理解してもいよう。ただ、私を無視する実績を重ね続けたとき、かの人は、将来、自分を誇りにできるのであろうか。かの人は、私の期待だけではなく、かの人を大切に思う周囲の人の期待を裏切り続けていることにもなるが、その事実に耐えながら生きることは、案外と辛いものであろう。私自身、20代を相当に無駄と言える形で過ごしてきたことを、常に後悔しながら生きてきている


おわりに

本稿では、良く言えばオムニバス式に、庶民に相応しい振舞いが、両建てによらないものであることを確認した。言い換えれば、一つの得意分野に集中し、一人の愛する人を求めよ、というものである。てんでバラバラな内容であるし、実力不足のままに記したものであるが、仕方ない。これをまとめれば、およそ包括的な生活上の哲学が出来上がるであろうし、私の人生経験は、そのような作業に挑戦する上で、年齢の割には、全く不足気味である。私には、到底、このような作業を一人ではこなせそうにない。だから、かの人にどうか振り向いて欲しいというのが、本稿のオチである。


※1 もちろん、「私事」と銘打ちながらも、公開のブログで本点を考察するのは、それなりの意図がある。私には、公開の場でしか、話を伝えられない人がいるからである。本稿も、オリジナルな内容であり、一応、陰謀論とされる分野の考え方に基づき、何らかの教訓・事実を一般化するという作業をこなしてはいる。しかしそれでも、本記事の目的は、私事の範疇を出ないものである。

私自身の煩悶は、たかが無職に毛が生えた位のオッサンの贅沢な悩みの一つに過ぎない。それでも、記録され続ける世界において、私自身による感情の記録は、わが国のロスジェネの一例として、何らかの爪痕になるものと期待している。この時代の人間には、何事かを成し遂げたい、幸せになりたいという要求が、絶えずメディアを通して注入され続けている。私も、この現代人の例に漏れないが、同時に、二人でいることにより幸せを感じ、一人だけでは望み得ない実力を発揮できることをも主張したいのである。つまり、成功と幸せを同時に獲得する方法として、まずパートナーを得ることのメリットを強く訴えたいと願うあまり、本稿を記そうと思い立ったのである。

※2 その傍証として、ホットな話題であるが、投資信託のパフォーマンスが個人資産の5割でマイナスだとする金融庁の調査を挙げる[5]ことができる。この調査は、金融庁の発表の次週、日経平均がおかしな値動きをしていた最中に、日経[6]が取り上げたことで、業界を震撼させ、ニッセイ基礎研による「そんなことないよ」との波及的な記事も産むに至っている[7]。それに、重み付き平均値ではどうなのかとか、大口個人投資家に対する優遇はどうなのかとか、色々と疑問を指摘することはできよう。これとは別に、この記事をさらに流通させているのが、株式市場でかなりのボラティリティを誇り、デイトレ銘柄として言及されるZUUであったりする[8]ところは、何というやけっぱちな個人投資家への誘いであろうとも思ってしまうところでもある。

私も、その例に漏れないが、金融市場に参加する個人が火傷しない保証はなく、ファンダメンタルズでは日足を説明することは相当に難しいから、本来、このような鉄火場に参入する人物は、名のある金融企業に勤務し、その業界の鉄則を身に付けた上で、コネを活かして立ち回るべきなのであろう。しかし、このようなしっかりした準備の機会のないまま、退職後にこの道に直行する人も多かったのであろう。それが、現今の個人投資家の取引額の低迷につながっているのであろう。日興アセットマネジメントの2016年11月のブログ記事[9]は、日銀ETFが市場を歪めてないことを示すものであるが、中ほどのグラフ「日銀ETF買付開始以降の累積主体別株式売買動向(2010年12月から2016年8月)」では、個人の売買高だけが、マイナス19兆円となっている。この結果は、個人投資家たちが負けて退場したためと見ることも可能である)。

※3 キルケゴールの『死に至る病』[1]の「死んだように生きる」という表現のニュアンスは、訳注に示されている〔pp.255-257〕が、ここでのゾンビの比喩とは、全く異なるものである。キルケゴールの意図は、「死ぬ間際の者のように生きる」「神に迎え入れられんとする者のように生きる」の意味であり、類似概念を探せば、メメント・モリ、『葉隠』の「死ぬ事と見つけたり」になろう。

※4 私は、犯罪予防を一応の専門としてきた。そこではまず、犯罪企図者が考えるであろうことを考える。犯罪企図者は、一般人の嫌うことを考えており、私は、その考えをトレースする。私はまた、犯罪企図者の考え方に基づき、彼らがやられたら嫌なことを考える。その作業を繰り返してきたのである。つまり、私は、人の嫌がることだけを真剣に、かつ、実践しないように、実践できないように、と考え続けてきたのである。


[1] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#何故か、国会図書館に所蔵されていないかの検索結果が帰ってきたので、アフィリエイトがないことが分かる形で、アマゾンへのリンクを張っておいた。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。この絶望は、ストア哲学者流に自分自身に惚れ込んだり、自己を神格化したりして、自己自身であろうと欲するのでもない。〔…略…〕そうではなくて、この絶望は、人世を憎悪しつつ自己自身であろうと欲するのであり、自分の惨めさのままに自己自身であろうと欲するのである。この絶望は、〔…略…〕反抗のために自己自身であろうと欲するのである。それは自分の自己を、それを措定した力から反抗して引き離そうと欲するのでもない、それは反抗のためにその力に迫り、そ力に挑戦し、悪意をもってその力にしがみついていようと欲するのである――いうまでもないことだが、悪意ある抗議というものは、なによりもまず、その抗議の向けられる相手をしっかりつかまえておくことに留意しなければならぬのである。この絶望は、全人世に対して反逆しながら、全人世に対する反証を、全人世の善意に反対する反証を、握っているつもりでいる。絶望者は自分自身がその反証であると思っており、かつ、彼はそうありたいと欲しているのである。それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。〔…略…〕

[2] 元東京地検特捜部長が運転する車にはねられ、男性死亡:朝日新聞デジタル
(記名なし、2018年2月18日14時56分)
https://www.asahi.com/articles/ASL2L4Q47L2LUTIL012.html

[3] 20代女性と早朝ゴルフで「暴走ひき殺し」超有名弁護士・78歳の転落(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
(2018年03月15日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54650

[4] 速報・新型レクサスで通行人を轢き殺す――かつてロッキード事件で名を馳せた元鬼検事といた「謎の女性」
(中山桃子、2018年02月21日)
http://tablo.jp/case/news002906.html

銀座に足繁く店に通い、高級クラブをハシゴする悠々自適な生活を送っていたというのだ。前出の社会部記者によると、交通事故を引き起こしたのは早朝7時だが、その日は〝深い仲〟のホステスとゴルフ場に向かう予定だったという。

「現在、石川弁護士は奥さんとは熟年離婚に向けて話し合いをしている最中と聞きましたが...」(前出・社会部記者)

〝老いらくの恋〟に落ちた鬼検事は今後、どのような身の振り方をするのか。

[5] 投資信託の販売会社における比較可能な共通KPIについて
(金融庁総務企画局市場課、2018年06月29日)
https://www.fsa.go.jp/news/30/sonota/20180629-3/20180629-3.html

[6] 投信で損失、個人の半数 金融庁調査  :日本経済新聞
(記名なし、2018年07月04日22:00、日本経済新聞 電子版 )
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32607510U8A700C1EE9000/

[7] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について:基礎研レター
(ニッセイ基礎研究所、2018年07月13日11時02分JST)
https://www.huffingtonpost.jp/nissei-kisokenkyujyo/investigation-bank_a_23479206/

[8] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について~- 記事詳細|Infoseekニュース
(ZUU online、2018年7月9日19時50分)
https://news.infoseek.co.jp/article/zuuonline_186946/

[9] No.41 日銀のETF買付から学ぶ株式市場とETF投資(1) ~市場の歪みの検証からわかったこと | コラム もっと知りたいETF | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント
(今井幸英、2016年11月17日)
https://www.nikkoam.com/products/etf/column/column41




2018(平成30)年7月19日訂正・追記

適当であるが、内容を追記した。私事に係らない部分の話は、まだまだ、追究しがいがあることなので、別稿を立てるなどしたい気持ちがある。




2018(平成30)年7月21日7時40分訂正・追記

なるべく文の意味を変えないように、文言を訂正・追記した。