2018年8月23日木曜日

(一言)ジェンダー論を利用したマウンティング

は、言説者が、異性愛秩序(heterosexual order)を至当とする当人の先入観を意識していないからこそ、表れてしまうものかも知れない。成人後の私の勉強は、常に泥縄なので、上野千鶴子『〈おんな〉の思想』のイヴ・K・セジウィック評によって、異性愛秩序という言葉をようやく理解し、拙稿(2018年08月05日)で言及した

〔…略…〕その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。〔…略…〕
と考えた内容が(恥ずべきレベルの)既出概念であったことを、遅ればせながら知った。また、同稿で言及した小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).についても、著者らが、旧来的なホモソーシャルに対する意識こそあれども、自身の中になお残存する異性愛秩序のあり方に意識的でないがゆえに、性愛の多様性に対して、自身の評価に基づく優劣を無意識に下しているものと、パラフレーズし直せよう。

#上野書については、私自身の貧困な経験から付け加えることもあるが、神奈川県央地域だと、ご覧に入れられるだけの文章を記そうと思うと、今一度、複数の公共図書館を巡らないといけないという不具合があるので、またの機会にしたい。

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