2018年9月8日土曜日

(メモ)正義を自認する者にどこまでの嘘は許されるのか

#手抜きも良いところであるが、とりあえず公開する。【】は、段落を構成する要素として、成立しているであろうが、文としては、放置したままのものである。


一国の国民の安全を預かる者からすれば、単なる平和主義者は楽な立場だと、プーチン大統領は、オリバー・ストーン監督に語っている(。『オリバー・ストーン・オン・プーチン』〔pp.168-169〕、ここでは「親ロシア」という用語で説明されている)。平和主義者の国民の側に、「権力者とは、何をしてでも一国の安全を維持するという任務を背負うものであり、結果で判定されざるを得ない存在である」という認識があれば、平和主義者の国民と権力者との間には、権力者がプラトンのいう「哲人王」を目指す限りにおいて、共通の了解も生まれるのかも知れないとは思う。殺されることに甘んじて耐えるということは、普通の人間には可能なことではない。私からすれば、筋金入りの平和主義者の国民もまた、その領分に留ま(り、殺されることを覚悟す)る限りにおいて、(場合によっては、権力者よりも)偉大になり得る存在であるとは思うのであるが、この考えは、下々のものであって、甘いものなのだろうか。

話の枕としては、あまり適当な事例ではなかったが、私の考察の対象は、NHK『NHKスペシャル選 未解決事件File07』「警察庁長官狙撃事件」(2018年9月2日21時、8日(本日)16時~)において紹介された、青木五郎・警視庁公安部長によるオウム真理教を犯人として名指ししたことの理由である。この発言は、警察行政に対してかねてから批判的であった言論人や組織からの反発を大きく招くものとなった。これらの批判(を無料の本ブログで収集して取り上げる努力はしないが、それら)は、至極、妥当なものである。青木氏の発言は、推定無罪の原則などの刑事司法の基礎的な考え方を知る者なら誰でも、直ちに違和感を覚えることができるほどに踏み込んだものである。結局、東京都は、オウム真理教の後継団体であるアレフに裁判を起こされて、損害賠償まで支払うことになった

【概要の説明;警察庁長官の國松孝次氏が1995年に狙撃された事件。オウム真理教関係者が教団への捜査を攪乱するために起こしたものと見立てられた。ところが、中村泰という警察官殺害事件の犯人でもあるローン・ウルフ型の犯罪者が、刑務所で誰?に向かって告白した。これを受けて、警視庁公安部・刑事部は、捜査に着手するも、中村の自供に基づく拳銃を発見することはできなかった。大島行きフェリーから海中に投棄したとするため。青色のティップを持つホローポイント弾は、LAの貸倉庫に保管していたものの、借用期限がきたために処分され、銃砲店に売却された。中村は、接触を図ってきた弁護士に対して、決定的な何かを埋めた地点に係る資料を提供、撮影班は宝探し中とのこと。】

落ち着いて状況を考えてみても、青木氏の発言は、明らかに異常さが際立つものである。【常識から外れているのは二点。刑事司法の理念である推定無罪の原則に違背していること。時効にあたってとはいえ、注意喚起としてのタイミングがあまりに遅く、不合理なこと。】

この異常な状況ゆえに、合理的な精神を持つ批判者は、なぜ、青木氏がここまで発言したのか、という疑問にも至ることができる。【さすがに、キャリアの青木氏がここまで法律の常識を知らないとは言えまい。なぜ、オウム真理教にすべての責を負わせなければならなかったのか。】青木氏自身の「テロ事件の危険性を喚起し続けるため」という趣旨の発言は、彼の意図の全部を説明するものではないが、彼の意図すべてを把握しようと努力する際のヒントとして利用可能ではある。

青木発言の意図が、警察庁長官狙撃事件ほどの重大事件を一個の個人が起こせるだけの脆弱性がわが国に存在し続けてきているという事実から日本人の聞き手の注意を逸らすために仕組まれたものだと考えてみると、このお粗末過ぎる発言の理由にも、それなりの合理性を認めることができるようになる。青木氏は、あえて、近代社会の法理念に悖る迂闊さを全面的に押し出すことによって、日本の安全を維持するための汚れ役を一身に引き受けようとしたのではないか、とも考えることができる。しかし、青木氏の発言にもかかわらず、日本社会の安全性にぽっかりと開いた深淵は、残念ながらそのままである。たとえば、着の身着のまま、今年8月12日夜に(、この表現は、正確ではないかも知れないが)脱走した樋田淳也を、大阪府警察は、今に至るまで確保できていない。中村泰にせよ、樋田にせよ、これらの個人犯罪者たちは、彼ら犯罪者個人の目的に照らせば、今も警察を出し抜いたままである。また、彼らから発せられているメッセージは、およそ30万人を擁し、自賛するのも理解できなくはない水準の治安を実現しているはずのわが国の警察組織に対して、重大な疑義を突き付けるものとなってしまっている。

犯罪者の声明・犯行に対する警察のコメント、すなわち広報活動は、単に警察の体面を維持するという問題に留まらず対テロ戦争の一環でもある。重大事件を起こした犯罪者個人の目的が売名行為にあるとすれば、彼らの意図は、犯行を通じた一種のテロ活動と言える。これら犯罪者たちの目的は、汚名とマスメディアの(真実を世に広めるという建前の下での、実際のところは経済的な利潤を目的とする)下世話趣味とをテコとした「不死の名誉」とも言い換えられる。この機能を考慮すると、犯罪者なりの「名誉」と、それらを毀損するための行政府・司法機関の組織的活動と、それらの事件から教訓を引き出すという正当な犯罪予防活動との間には、緊張関係がある(犯罪者の実名報道(の是非)は、この緊張関係に含まれる、より一般の意識が向いている話題である)。この売名行為に対して不用意に共感的な言説を寄せることは、テロへの協力にもなりかねないし、非難に値することもあろう。この危険に対する私個人の研究者としてのかつての答えは、「大文字の物語」を構成しかねない(日本国民に大きな心的影響を与えうる)重大事件についての言及をわざと欠落させ、犯罪対策と個別の事件とを分離するというものであった(。「体感治安」は、この種の言説をまぜこぜにしてしまうという点で、諸刃の剣であった。この点、一般人でしかない今の私には、この種の縛りはない)。


なお、樋田淳也の逃走に関して指摘しておけば、全防犯カメラのネットワーク化およびその映像を利用した自動人物同定システムは、技術的な問題解決を必要とすることなく、十分に実装可能である。少なくとも、十分に多数の防犯カメラをネットワーク化し、自動認識システムに対して、常時、映像なり(容貌または歩容の)特徴量を送信すべき時が来ているという意見に対して、(光学、電気・機械・情報工学に含まれる種類の)技術は、十分に対応できる程度に成熟しきっている。問題は、社会実装に(のみ)ある。この主張を補強するため、憲法上の懸念を解決する上での最も有力な(私の考えた)方法論を提示しておく;それは、防犯カメラ単体の性能を向上させ、その製品の内部で、個体に係る特徴量までを計算し、その特徴量のみを送信するというものである。ワンチップといった「一体化していて製品から分離できない」部品によって、個人の容貌を(このように呼んでしまうことにするが)ハッシュ化してしまうことにより、カメラ本体内部で、データから個人への紐付けを防ぐ作業を完結できる。複数のデータ源から収集された同一個人に係るハッシュの同一性は、常に問題となるが、時空間上で近接するという基本を考慮すれば、十分な数の画像が複数のカメラから取得できている場合、大して問題にならない。社会的な課題は、このハッシュ計算を標準化する際に、利権が生じうることである。




2018(平成30)年9月8日22時30分追記

再現ドラマにおいて、小日向文世氏が演じる警視総監は、國村隼氏の演じる刑事に対して、「オウムを叩くことと真実を追求することのどちらが大事か」という趣旨の言葉を投げ掛ける。この台詞は、どちらかと言えば、当局の意向を汲んで、脚本家が採用したものと理解して良かろう。社会安全をタブー抜きで追究している(つもりの)人物からすれば、この台詞は、問題を矮小化してしまうという点で、社会に与える影響を限定化しているために、物足りなく感じてしまう。ただし、この台詞は、底が抜けていない分、これを真に受けてしまう愚かな同業者が出てくるのではないかとも危惧してしまう程度には、良く出来てもいる。あと、嘘と真実との割合について受刑中の中村が語る台詞は、実際の発言を下敷きにしたものであろうが、統計的な考察に欠ける。




2018(平成30)年9月9日1時43分訂正

一部の表現を改めた。




2018(平成30)年9月11日8時23分追記・訂正

一部の表現を改めて、淡い橙色で示したが、意図は変えていないつもりである。

なお、単なる疑問だが、時効成立当時の報道発表において、青木五郎氏は、沈黙を保つよう試みるという方法も取り得たのではなかろうか。しかしながら、記者は、当然、中村泰の話を聞こうとしたであろうし、現時点の私には確認する術がないが、聞いていたであろう。これらの記者の質問は、職務上期待される役割から当然に生じるものであるから、それ自体を止めることはできない。中村について聞かれたらノーコメントを貫くという方法は、取り得なかったのであろうか。こればかりは、複数人が知恵を出し合わないことには、何とも言えなさそうである。今の私は、私事ゆえに想像力が減退しており、マスコミの視聴者・読者に対して、中村が本ボシであったという印象を与えてしまったのではないか、としか結論できないが、この見解が正しいなら、青木氏の選び取った言葉は、一種のノリツッコミを心に秘めて発せられたものかも知れない。

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