ラベル 私事 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 私事 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年9月17日月曜日

(私事)何ということでしょう

私は、穏やかであった今日の午後、冒頭のこの一言を、どうしても発してみたくなってしまい、そのために、今年の5月、彼女のためだけに用意していたネタを公開してしまうことにした。私がかつて記した「標準的なリフォーム」費用とは、『劇的!ビフォーアフター』の全放送回リスト[1]を参考にしており、その平均値は、1346万円である。このデータを信用すれば(、そして否定する理由もないのだが)、(2018年9月)15日の『日本経済新聞』朝刊1面「首都圏 所得減のドーナツ/迫られる「脱・ベッドタウン」」に示されたような郊外地域のものであれば、中古住宅を購入した上で、なおかつ、上掲のサイトの平均価格を参考にしたリフォームも行えるものと判断したのである。作業に使用した『R』用のスクリプトを、本稿の末尾に示した。

このような唐突な行動に駆られた理由は、日本人男性という生物の「脱・ジェンダー化」には、パートナーや家族との、継続的かつ安定的な関係こそが必要であるという思いを、新たなものとしたからである。(ただし、この話は、またの機会にしよう。興味のある人は、例によって、ちょっとした手間を掛けるのが良かろう。)

最後に、付け加えておきたい;彼女と私の過去の複数回の出会いは、「何ということでしょう」と呼ぶほかない〈偶然〉のものとして、昨年より意識されて以来、私の前に立ちはだかり続けてきた。これらの〈偶然〉から、また彼女の人となりから(私の頭の中で)導かれた彼女の生き様は、手助けせずにはいられないものとして、私を無謀にも動かし続けてきた。今の私には、彼女の沈黙に耐えながら、彼女に背を向けることを潔しとすることはできない。かといって、ここから尻尾を巻いて退散するにせよ、私には、彼女からの言葉が欠かせない。お互いに別の道を行き続けることがお互いのためであると、面と向かって彼女が私に告げるなら、私も未練を断ち切ってくれたことについて、彼女に感謝しながら身を引くことができる。しかし今後、彼女がどのように生きるにしても、現在までの生き方を続けられる時期は、終わりにきている。それは、私たちが、お互いを東京に生きる匿名者としてではなく、名のある個人として認めてしまったからでもある。この点、彼女も〈偶然〉に翻弄されている。


高積雲が広がっていた空に、積層雲が厚く立ち込めてきた。読者には、ご理解いただけたことであろうが、私は、一段だけ、ギアを上げた。今回は、これでおしまい。


my.badgets <- c(180, 260, 480, 230, 350, 500, 550, 600, 200, 500,
               450, 750, 650, 700, 600, 700, 500, 450, 830, 500,
               750, 80, 100, 600, 800, 350, 600, 800, 700, 600,
               550, 700, 1200, 550, 500, 700, 800, 750, 700, 120,
               800, 700, 800, 1100, 800, 700, 1000, 150, 1200, 750,
               950, 850, 700, 900, 900, 900, 850, 650, 700, 1500,
               800, 1000, 900, 1000, 950, 1400, 850, 1100, 1000, 1000,
               1200, 800, 1000, 900, 1200, 900, 1400, 900, 1400, 950,
               900, 1200, 900, 900, 1000, 1600, 1000, 150, 1100, 600,
               1200, 1000, 1000, 1100, 1000, 1200, 1400, 1200, 1000, 1100,
               1500, 1500, 1800, 900, 1500, 900, 1000, 250, 800, 1400,
               1200, 2800, 1400, 1000, 1200, 900, 950, 1000, 1800, 800,
               1200, 300, 1200, 1100, 1200, 1200, 1200, 1500, 1300, 1300,
               1500, 1800, 1800, 1400, 600, 1200, 1500, 1700, 1000, 1200,
               1200, 1300, 1800, 1400, 150, 1200, 1000, 800, 1800, 2200,
               1400, 800, 1000, 2500, 1300, 1500, 1800, 1400, 1800, 350,
               1200, 1100, 1400, 1500, 1700, 3300, 1100, 1800, 1000, 1700,
               900, 1100, 1400, 1000, 30, 70, 80, 1300, 1900, 3000, 200,
               900, 2500, 4000, 1800, 200, 1400, 1200, 2400, 2400, 1100,
               50, 1200, 50, 1500, 1800, 1900, 1600, 950, 900, 1000,
               2000, 1200, 3000, 2100, 1200, 350, 750, 1600, 2500, 1200,
               1300, 300, 400, 1800, 3700, 1100, 1200, 2200, 1500, 1500,
               500, 1400, 2600, 100, 1800, 1500, 1500, 2500, 1300, 1400,
               2800, 1800, 2500, 2000, 1500, 1800, 500, 2000, 4000, 1200,
               2100, 2500, 2200, 1600, 1800, 1200, 800, 3000, 1100, 1600,
               3000, 1200, 2500, 1400, 3000, 3300, 2500, 2700, 3000, 2100,
               300, 2800, 4000, 100, 2800, 1600, 2000, 2000, 400, 500,
               250, 2500, 1600, 800, 1200, 1600, 1700, 2200, 50, 60,
               15000, 10000, 2000, 1500, 2200, 3600, 400, 1300, 2800, 1000,
               400, 2600, 400, 400, 1500, 200, 3000, 2350, 900, 1500,
               2500, 3500)
mean(my.badgets) # 1346.106
# my.assets <- \d+
my.badgets.2 <- c(my.badgets, my.assets)
my.ranks.2 <- rank(my.badgets.2)
length(my.ranks.2) # 全304データ中
length(my.ranks.2) - my.ranks.2[length(my.ranks.2)] # ○位


[1] 大改造!!劇的ビフォーアフター 【番組全放送リスト】
(2018年9月17日確認)
http://dgba.ehoh.net/DGBA_OAList.htm




2018(平成30)年9月17日21時訂正・追記

一部の文言を訂正、追記した。

2018年8月31日金曜日

(私事)失恋もまた「別れのないさよなら」かも

ポーリン・ボス氏は、ベトナム戦争で戦死したと認められるものの遺体が見つからない米軍兵士の遺族、認知症患者の介護家族といったような、近しい人の喪失・困難に対して継続的に向き合わざるを得なくなった人々を支援し、研究を続ける中で、「あいまいな喪失(ambiguous loss)」という概念を提唱し、その内実に「さよならのない別れ(leaving without goodbye)」「別れのないさよなら(goodbye without leaving)」という二種の類型があることを指摘した[1]。「さよならのない別れ」(タイプIの別れ)とは、親しい人が亡くなっていることが客観的には確実な一方で、遺体が見つからないために生者の側が死者に未練を残す状態を指し、「別れのないさよなら」(タイプIIの別れ)とは、親しい人が生きているものの、相手とのコミュニケーションが断絶してしまう状態を指す[1]。ボス氏による分類[2]を整理し直すと、

〔#タイプIの「あいまいな喪失」、悲惨で予期されないもの〕
  • 戦争(行方不明の兵士)
  • 自然災害(行方不明者)
  • 誘拐、人質、テロ
  • 監禁
  • 脱走、不可解な失踪
  • 身体が見つからない状況(殺人、飛行機事故など)
〔図1;p.12〕
があり[2]、ここに、東日本大震災の津波被害により行方不明となった方の遺族も含まれることが指摘されている[3]。また、タイプIIの状態の最も典型的な例は、認知症患者とその家族[4]であり、これを含めた事例には、
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、重篤な例〕
  • アルツハイマー病やその他の認知症
  • 慢性の精神障害
  • 依存症(アルコール、薬物、ギャンブルなど)
  • うつ病
  • 頭部外傷、脳外傷
  • 昏睡、意識不明
〔図1;p.12〕
がある[2]。より一般的な状況として示される場合のほとんどは、タイプIIに含まれようが、その事例には、
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、より一般的な状況〕
  • 移民、移住
  • 〔#↔〕ホームシック(移民/移住により)
  • 子どもを養子に出すこと、子どもが養子に出されること
  • 〔#↔〕子どもが養子となること
  • 離婚・再婚で親が子どもと別れること、離婚・再婚で子どもが実親と別れること
  • 〔#↔〕再婚により義理の子どもを得ること、親の再婚により子どもが義理の親を得ること
  • 転勤
  • 〔#↔〕ワーカホリック
  • 軍で派遣されること
  • 青年が家を離れて自立すること
  • 〔#↔〕コンピュータ・ゲームやインターネット、テレビへの過剰な熱中
  • 高齢の配偶者がケア施設へ入所すること
〔図1;p.12〕
がある[2]。最近読んだもののメモ代わりであるが、A・M・ナイル, (1983=2008). 『知られざるインド独立闘争 A・M・ナイル回想録』(新版), 風濤社.には、インド・ケララ州出身のナイル氏が、英国からの独立闘争に深く関与していたために、故郷に戻ることができず、老母との連絡も十分に取れない様子が記されており、ナイル氏の体験も「あいまいな喪失」の一事例に含まれるとも言えよう。


#上記引用は、転記にあたり、改変が過ぎるかも知れない。念のため。


なお、「あいまいな喪失」は、家族(遺族の置かれた継続的な環境下で生じた、家族(遺族の心の状態を表す用語である。この状態は、精神疾患ではない[4]。それがために、しばしば、家族(遺族は、サポートされるべき対象ではないと見逃され、喪失から「立ち直る」ようにと強いられてきた、とボス氏は指摘する[4]

おそらく、恋する相手から拒絶されたままの(私のような)個人もまた、先に紹介したような重篤な事例や崇高な事例に及ぶべくもないが、「別れのないさよなら」の範疇の隅っこに含めても良いのであろう※1。相思相愛の相手や家族とのコミュニケーションを失いつつある人々は、私よりも、段違いに悲しみ苦しんでいようし、周囲からの同情と共感に値しよう。けれども、現時点の私の苦しみも、私の慕う人が自らの意思で私を拒絶していることから生じているために、原因こそ全く異なるが、返事を求めても得られないという点については、タイプIIの別れと共通するのではないか。他者にとって、たかが失恋かも知れないが、色々な理由こそあれども、体脂肪率が9%程度落ちた程であるから、私の悲嘆は、「別れのないさよなら」の最もマイルドなものとしても良いだけの資格があろう。私の失恋ダイエットを主張の根拠に据えるのは、冗談が過ぎるとしても、原因が継続している「両義的な状態」は、私の状況にも共通する。愛する人が認知症に罹ったとすれば、私は、一体どうなってしまうのか、今からでも(、愛する人が傍にいてくれる訳でもないのに)、心配になってしまう。なお、

Goodbye without reason is the most painful one. Love without reason is the most beautiful one.(理由のないさよならは、もっとも心痛むものだ。理由のない愛は、もっとも美しいものだ。)
という詠み人知らずのミーム(金言)は、インターネット上では、それなりにポピュラーなようであるが、恋愛を指すものとして受け取られていて、ここでの私の主張を補強してくれるものであるとは言えよう(。5分ほどググってみたが、誰が詠んだのかは分からず仕舞いである)。


私は、かろうじて今も、お慕いする人からの連絡を、待ち続けていることができてはいる。三か月前からの私の願いは、受け入れられていないが、私のメッセージそのものは、思い人には届いている。私の願いは、かの人の心に確実な気付きをもたらしたはずであるし、変容をもたらし続けているはずである。ただ、私は、現在の苦しみに早晩耐えられなくなるという自覚を有してもいる。そうである以上、私の申出は、不定ではあるが、期日が設けられたものである。それゆえに、問題は、私がどれだけ今の状態のまま、自身の精神を、たとえ最低限の状態であるにしても、保持し続けられるかである(。あるいは、どれだけ潔く、未練を断ち切ることができるかである)。


※1 怠惰ゆえに、同種の考えがすでに表明されているか否かを確認していない。が、『認知症の人を愛すること』の訳[4]が素晴らしく柔らかいので、その正確性を信じることにすると、

〔p.6〕ふだんでも、私たちが愛する人たちと離れる事はよくあります。〔…略…〕現代のモバイル社会において、私たちのほとんどは、愛する人たちと多くの時間離れたままです。それにもかかわらず、現代の家族は、身体と心が同時に同じ場所にないことに、うまく対応しているように見えます。望めばいつでもまた一緒にいられるとわかっているからでしょうか。認知症の場合と違い、この手の喪失は、取り戻すことができるものです。〔…略…〕

恋人同士や家族が身体も心も完全に同じ場所に置くのはまれだと気づくと、分離と距離というものの(あい)(まい)さを抱えて暮らし、何とかやっていくための何らかのすべを、私たちのほとんどは備えているとわかることでしょう。この前段階の経験が、違いがあるとはいえ、認知症を患っている愛する人とどう生き延びて〔p.7〕よいかを探る手助けとなります。

(ボス(2011=2014)『認知症の人を愛すること』)
とあるから、やはり、失恋の悲しみも、「あいまいな喪失」の周縁に位置付けられると主張することはできよう。


[1] Boss, P., (1999). Ambiguous Loss: Learning to Live with Unresolved Grief, Harvard University Press.
(ポーリン・ボス〔著〕, 南山浩二〔訳〕, (2000=2005.4). 『「さよなら」のない別れ 別れのない「さよなら」:あいまいな喪失』, 東京: 学文社.)
http://id.ndl.go.jp/bib/000007706830
#リンクは、国会図書館の和訳本。

[2] ポーリン・ボス〔著〕, 中島聡美・石井千賀子〔監訳〕,(2015.2). 『あいまいな喪失とトラウマからの回復 家族とコミュニティのレジリエンス』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/026149473

[3] 中島聡美・山下和彦, 「福島におけるあいまいな喪失」, 前田正治〔編著〕, (2018.6).『福島原発事故がもたらしたもの 被災地のメンタルヘルスに何が起きているのか』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/029000937

[4] ポーリン・ボス〔著〕, 和田秀樹〔監訳〕, 森村里美〔訳〕, (2011=2014). 『認知症の人を愛すること 曖昧な喪失と悲しみに立ち向かうために』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/025454865




2018(平静30)年9月6日訂正

一部を訂正した。

2018年8月23日木曜日

(一言)ジェンダー論を利用したマウンティング

は、言説者が、異性愛秩序(heterosexual order)を至当とする当人の先入観を意識していないからこそ、表れてしまうものかも知れない。成人後の私の勉強は、常に泥縄なので、上野千鶴子『〈おんな〉の思想』のイヴ・K・セジウィック評によって、異性愛秩序という言葉をようやく理解し、拙稿(2018年08月05日)で言及した

〔…略…〕その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。〔…略…〕
と考えた内容が(恥ずべきレベルの)既出概念であったことを、遅ればせながら知った。また、同稿で言及した小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).についても、著者らが、旧来的なホモソーシャルに対する意識こそあれども、自身の中になお残存する異性愛秩序のあり方に意識的でないがゆえに、性愛の多様性に対して、自身の評価に基づく優劣を無意識に下しているものと、パラフレーズし直せよう。

#上野書については、私自身の貧困な経験から付け加えることもあるが、神奈川県央地域だと、ご覧に入れられるだけの文章を記そうと思うと、今一度、複数の公共図書館を巡らないといけないという不具合があるので、またの機会にしたい。

2018年8月11日土曜日

(メモ・一言)トルコリラ大下げ・台風13号

ポジショントークになる事を承知で記しておくが、トルコリラが大下げしており、エルドアン大統領再選後、しばらく20~22円台を保っていたところ、9日に19円台、10日に17円台まで下げた[1]。レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、ニューヨーク・タイムズ紙(NYT)に寄稿[2]し、現在の非対称的な関係を改めなければ、トルコが新たな友人を求めなければならなくなると警告している(が、掲載先がNYTになること自体、真に捻れた状況である)。ところで、日本の右翼は、常々、トルコを親日国と呼んできたが、困った時の友こそ、真の友ではないのか。私のような左翼がかった発言をなすことのあるリベラルでさえも、リラ建て債に一段目に下げた時に突っ込んだのに?などと思ってしまう。米国株にまで影響する(ということは、間違いなく、日本株にも影響する)との評価もあるのに、なぜ、ここまで売り込まれるリラの防衛役を買って出ないのだろうか。

エルドアン氏の再選後、しばらくリラが小康状態を保っていたこと、この状態に至ってもエルドアン氏が強硬姿勢を貫ける理由は、昨年9月、ロシアのミサイル防衛システムを導入配備した[3]ことにより、安全保障上の懸念なく自国の利益を主張出来るようになっていたことにもあると認められよう。エルドアン氏は、売りを仕掛けた金融勢力と連携する軍事力に対抗可能であるという自信を持つからこそ、強行姿勢を継続できているのであろう。ここまで売り込まれる可能性は、一応、懸念されていたことではある。それに、例のごとく、ここでの経済的緊張が、多くの政治上の高位の人物を巻き込んだ国際的な大仕掛けによるものであるとも考えられる。シリアという隣国の存在を考慮すれば、この売り仕掛けは、当然に、戦争屋の相乗りまで織り込まれているはずであろう。このような通貨戦争において、個人の端金など、存在しないに等しいが、わが国の政府が国レベルで(口先だけでも)介入した場合、中東地域のバランサー役として機能してきたトルコに対して、窮地に手を差し伸べたことになろう。代わりに、トランプ大統領の矛先を引き受けることにもなりかねないのであるが、仮に、この急落が一種の八百長である場合には、このような動きは、全然問題ないことにもなろう。エルドアン氏がNYTを寄稿先として選択したことも、注目されて良かろう。自由奔放に見えるトランプ氏を宥める役として、トランプ氏から批判されがちなNYTが選択されたという訳である。


台風13号は、絶妙なコース取りで、関東地方や東北地方にではなく、海上に大雨を降らせながら太平洋を北上していった(気象庁の過去の台風情報には、8月11日現在、未掲載)が、このコース取りが何を意味するものか、私には、全然分からない。ただ、私のように、気象操作を平気で攻撃に利用する連中が、日本の国土に対して攻撃を試みようとしていた、と解釈する場合、(1)何らかの理由によって今回は攻撃を手控えた、(2)ほかの主体による防衛行動があった、の2通りの理由を挙げることができよう。首都圏の停滞は、地方へのダメージとは異なり、経済活動を停滞させることで、日本株市場の全体の下落を招きうる。いくら惨事便乗型資本主義といえども、どれだけの財政出動が見込まれるのかが明らかにされない中では、攻撃しても仕方ないと見送られたのであろうか。この結果かどうかは知らないが、結局、建設株は、第一四半期の業績にかかわらず、総じて軟調である。その後の平成30年7月豪雨被害にもかかわらず、である。防災をイチオシしている飛島建設も、直近の決算が好調と見えたにもかかわらず、最近の安値から戻しきれていない。国内産業であるにもかかわらず、また、(今後大量供給されるであろう海外からの建設作業員にとって魅力的になる)円高であるにもかかわらずである。全く、私には理解できないし、懐の痛いことである。


おまけ・多少のネタバレ注意;スロバキアで、警告を受けたにもかかわらず、隣人への嫌がらせとして『椿姫(La Traviata)』の『乾杯の歌』を流し続けて収監されたという女性がいるとのニュースに接した[4]。BBCのポッドキャストで知ったことであるが、直リンがないので、該当するニュースのリンクをBBCのサイトで示しておく[5]。わが国では、類似事件がニュースになる場合にも、オリジナリティ(溢れる才能)が求められる。わが国は、女性にとって、何と生きにくい国なのであろうか。なお、『椿姫』のパーティのような場面に接するにつけ、私は、栗本薫氏の『グイン・サーガ』シリーズの登場人物の一人であるアルド・ナリスを想起してしまう。この人物造型の一側面が光源氏の「中原(グイン・サーガの舞台)」版であることは、まあ正しかろう。ミュージカル『ラ・マンチャの男』は、『椿姫』のハッピーエンド版であるという側面を有しよう。これらの作品についての知識や親しんだ経験は、他者の恋愛を追体験したことにはなってはいるが、個人的な悩みの解決には、ほとんど役立ってはいない。


[1] TRY JPY 過去データ - Investing.com
(2018年08月11日確認)
https://jp.investing.com/currencies/try-jpy-historical-data
#公的データからは、USD/JPYとTRY/USDとの組などのデータが必要。

[2] Opinion | Erdogan: How Turkey Sees the Crisis With the U.S. - The New York Times
(Recep Tayyip Erdogan、2018年08月10日)
https://www.nytimes.com/2018/08/10/opinion/turkey-erdogan-trump-crisis-sanctions.html

[3] トルコ、ロシアからミサイル購入へ 両国接近、米は懸念:朝日新聞デジタル
(イスタンブール=其山史晃、モスクワ=中川仁樹、2017年9月13日10時47分)
https://www.asahi.com/articles/ASK9F02DGK9DUHBI048.html

[4] Woman detained in Slovakia for playing Verdi for 16 years - BBC News
(News from Elsewhere as found by BBC Monitoring、2018年08月09日)
https://www.bbc.co.uk/news/blogs-news-from-elsewhere-45127006

[5] Silence finally? The owner of the “opera house” in Štúrovo detained - spectator.sme.sk
(Compiled by Spectator staff、2018年08月07日12:47)
https://spectator.sme.sk/c/20886920/silence-finally-the-owner-of-the-opera-house-in-sturovo-detained.html

2018年8月7日火曜日

(私事)日々の思いは失われるばかり

日が経つにつれて、私は、大切に思う人に向けて綴ることのできる新しい言葉を徐々に失いつつある。思いを伝えたい相手と日々の経験を共有できていなければ、誰しも、それまでの相手との交流だけを手掛かりに、相手に届くように言葉を編んでみて、放つほかない。コミュ障で生活の起伏に乏しい私であっても、相手が私の言葉に耳を傾けてくれて、返事を与えてくれるのであれば、どうにか自身の葛藤と日々の生活を、次なる言葉へと紡ぎ続けることができる。しかし、沈黙を前にしてしまうと、私は、以前から変化のない心中を繰り返すことを躊躇い、思いを伝えようとする努力をも放棄してしまいそうになる。

私は、かの人からの返事を近い内に受け取れるものと信じようとしながらも、更なる呼び掛けの言葉を紡ぐことができないでいる。私が思いを打ち明けてから2か月と2週間が過ぎたけれども、かの人は、私の与えた傷から立ち直れたのであろうか。これ以上、どのように何を記せば、今更ながらの話し合いに応じてもらえるのか。私がここに残す言葉は、かの人にとって、背中を押す力になるのか、かの人を傷付けるだけに終わるのか。私は、これらの疑問に捕らわれてしまうだけで、その先にある対話への願いを、かの人に響くものに仕上がったと自負できるまでに縒り合わせて投げ掛けることができないでいる。

私は、かの人からの助言に感謝するために直接対面したいと願いながらも、自分からは踏み出せないでいる。かの人からの助言は、今の私にとって、宝物でもあり、一人で生きる上での呪いでもある。しかしながら、私は、かの人の助言に従い、傍目にも分かるほど、自らの生活を高めることに成功している。私は、かの人に対して、あなたが現実に対して善き力を及ぼすことができると、自らを以て実例として伝え、感謝したいと願う。私自身の努力は、かの人との思い出を補助線にしてきたからこそ、継続できたものである。しかし、日本語論壇の最果ての地にあるとはいえども、本ブログのような公開の場では、自ずから制限があり、詳細を記すことは適わない。また、前稿(2018年08月05日)にも記したとおり、私から押しかけることは、望まない展開を生むことになりかねず、私は、待つほかない。

手紙を認めた時には、多くの時間を掛けてもまとめかねる程の伝えたい話があった。しかし、今の私には、それらの話の続きをプライベートで伝える術もなく、日々の思いは失われていく一方である。精神の働きに緩みが生じたときには、かの人への思いが必ず湧き上がる。けれども、思いを全て書き留める訳にもいかず、私は、大切なはずの人への思いの大半を、失うに任せている。そうして私は、かの人と話をしたいという願いを叶えることもできないまま、浮かび流れる記憶を無くし続けている(。かの人や読者諸賢が、本ブログを少しなりとも後追いして下さっているのなら、ここで、私が『はてしない物語』を参照していることに気が付かれたかも知れない)。

私は今でも、見聞きする全てのものに、かの人の影を読み込んでしまい、その度に、立ち止まってしまう。私は、他者と思しき恋愛の苦しみを読むにつけても、かの人の今までの沈黙の理由を考えてしまう。私をこの上なく嫌うがゆえに罰するためなのか、あと一歩の勇気を持てないからなのか、何と切り出せば良いか分かりかねているだけなのかと、私たち自身の関係に引き寄せてしまう。その上で、私は、ただ名前を呼んで欲しい、近々会うための約束をして欲しい、と願いながらも、それ以上にできることもなく、考えを打ち切ることしかできないでいる。

どうか、会って、話をして欲しい。たとえ、その話し合いの結果、別れることを私たちが選ぶとしても。この願いは、先の手紙にも記したとおりであり、この点、私の気持ちは変わっていない。しかしながら、手紙に記した決意よりも遙かに早く、私の忍耐は磨り減ってしまっている。私は、立派に生きる(、たとえ一人で生きざるを得ないとしても)という、自分で決意して表明したはずの約束を、自分では守れなくなりつつある。

2018年8月5日日曜日

(私事)わが信条めいたもの

私は、社会的な評価からすれば、はぐれゾンビ (純情派)と形容できる境遇を生きてはいるものの、本ブログを訪れる読者諸賢が予想されるであろうよりは、この暮らしを楽しんでいる。私も「可哀想な」種類の男の例に漏れず、どうにも生じてしまいがちな負の感情に悩まされてはいる。自分の不行状ゆえに大切な存在を失った(ばかりの)先進諸国の独身中年男性ほど、扱いに困るという点で、テンプレ的なキャラクターもなかろう※1。普段は、満たしようのない空虚さを埋めるために生き急ぎ、他人の迷惑を顧みず、自身の正しいと思うところを行い、そこで生じた些細な行き違いで、容易に攻撃的になる。私も、全くその例に漏れないし、その点を自覚してはいる。しかし、そこはそれ、私の信条のひとつは「勿体ない」であるから(、一部のマウンティング系男性「フェミニスト」とは異なり)、この境遇自体が、生きる実践であり、参与観察であり、リサイクルの対象となっているのである。今の私は、知ったこと・学ぶべきことが多く、やることも山積しているので、その点に慰めを得ることができている。

同時に、現時点の私は、今までのイージーゴーイングな生涯において、調査や分析や考察や思索をもっともっと進める必要があったことを痛感している。今後、思いを寄せる人から幸せを沢山受け取りたいと願う余り、向こう見ず(だが、遵法的なはずで、かつ、かの人には、明示的に制限されなかったと理解しているよう)な行動を起こすとしても、私は、それまでの準備なくして、自身の経験をその後の考察に十分に生かすことはできないものとも思っている。その準備作業を終えたり、(能力不足などから私自身が)耐えかねたりすることは、私がいくら遵法的と思う行動に留まろうと考えているとはいえ、相手のあることであるから、一定の社会的なリスクを生じさせることにはなろう。しかしながら、ネットで何かを訴え、次いで大きな(被害や不幸を意図的に生じさせるという)事件を起こす人々は、一定数いるものであるが、私は、その列には加わらない。この点だけは、重ねて強調しておきたいことである。私が本ブログを記し続けること自体を一種の自傷行為と見ることも可能ではあるが、それでも、私は、他者への不幸と自身の不幸とを分別し、他者には余分な不幸を与えないようにしているつもりである(し、重ねていうが、私は、自分も他人も身体上の危害を与えるつもりは毛頭ない。精神上の厄災とも呼べる結果は、ここまでの道行きからして、避けようがなかったとはいえ、その後については、本ブログの記述を含め、悪影響を極小化するように行動しているつもりではある)。

本ブログは、私事に言及するようにはなったものの、依然として、公開座敷牢のような場所で、公的な事柄を述べるに留まるものである。(もっぱら、私自身や日本人という社会集団に係る)不吉な予測は含むものの、私自身の具体的な行動に先立つ、いわゆる「ネット予告」の場ではない。あくまで、自身の経験をリサイクルして言論と化すのが、平和志向の(、他称では嘘吐きとされる、)陰謀論者の矜恃というものである。それよりも、本ブログは、どちらかと言えば、かつてのフリーク・ショーの現代版であり、万国博覧会の人類展示の延長である。後者は、前者よりも、多少の差別性が減じられたものであったが、依然として、優生学的な見地を有していた(#出所は、講談社学術文庫辺り?の記憶しかないが、またの機会に)。むろん、ここでの比喩は、一種の差別的表現になると知りながらも表出したものであるが、私が陰謀論者というラベリングを甘受し、同様の視線がこのレッテルに付随していることを承知している以上、その差別性を余すところなく表現する上で、最適と判断したために利用したものである。また、現代的な作品の一つとしてとらえた場合、本ブログは、リアリティ・ショーというには、読者を楽しませようという心掛けに欠けはするが、それでも、この一亜型に含めることができよう。本ブログを研究素材であると形容することは、十分に可能であろうし、当初の意図からしても、適切である

私自身は、今までになく作業スピードを上げているつもりであるが、やることリストは、やればやるほど、積み上がる一方であるから、当面、私から自身の環境を大きく変えるような挙に出ることは、ないものと言えよう。このため、現時点までの表現活動の範囲に留まる作業(質問や問合せ)の影響を除けば、私のリスク判定結果は、まだまだ低いものであると思う。通俗的な社会的プロファイリングに基づけば、私は、最も危険な状態にある属性の組合せと判定されるものとは理解している(。しかし、この種のプロファイリングは、「あなたは幸せですか」「大切に思う人がいますか」「そのほかの人たちを傷付けることで、大切に思う人たちや幸せを得ることができると考えますか」という最も大事な質問を、対面的に把握しようとしないため、かなり、効率的に失敗するのである)。それでも、私は、まだまだ平和裏にやり終えたいことを、沢山、積み残してしまっている。私自身の願いを叶えるために、私は、生きた屍※2として過ごすと宣言しながらも、人間としての幸せを求めるために行動しているつもりである。

今までの記述は、全然前振りになっていないが、ここで、私事に係る私の記述を理解する上で役立ちそうな、私自身の信条を述べておくことにしよう。これでようやく、私は、自分自身を、そこまで危険ではないものと主張できようからである。


  1. 人間がその生において求めるものは、表現が異なろうとも、結局は幸せである。
  2. 幸せの具体的な中身は個人で違えども、誰しも、自身の心に嘘は吐き通せない。
  3. 人間は、一人ではたかが知れているけれども、二人だけでも随分と強くなれる。
  4. 人間は、過ちをなかったことにはできないけれども、その過ちを糧にはできる。
  5. 人間は、最期のときまで何事かをなせるし、何なら、死後にも、何かを残せる。
  6. 人間は、感情の動物でもあるけれども、理性により自身を律することもできる。
  7. 人間は、大抵、仕方ないほどに利己的だけど、ときに相手のために身を捨てる。
  8. 個人は、同時に矛盾する感情を抱くことができ、相手にその中身を伝えられる。
  9. 個人のあらゆる言葉は、呪いにも祝福にもなる。聴き方により、中身が変わる。

#取り留めがないが、本稿は、これでおしまい。


※1 私が直近で見かけた同類のキャラクターは、FOXの『HAWAII FIVE-0』のダニエル・"ダニー"・ウィリアムズ(Daniel "Danny" Williams, 俳優は、スコット・カーン(Scott Caan)氏)であるが(、原作を読んでないので、どういうキャラの変化が生じたのかも、先の展開も知らないが)、『半分、青い。』の律くんも、離婚したようである。しかしながら、これらの造型が本当に男性の心持ちを正確に描写できているのか、それらの架空の人物が何を目的として描かれているのか、それが果たして社会に良き影響をもたらしているのか、といった疑問は、私の中で解消できないでいる。日本の論文検索サービスは、CiNiiもそうである(と断定しておく)が、あまりにも一般の利用者に対して閉鎖的で、かつ、使いにくくできている。私のような無職に毛が生えたパンピーが自身の問題を解消しようと思い立ち、まともな文献に当たろうと思ったとき、怪しい(と私には思える)団体に接触する必要なくして、独習する方法に欠けているのである。世の中の半分くらいは男で出来ているのであるが、男が頼ろうと思えるだけの専門的なリソースに行き当たることは、なかなか難しいことである※3

※2 ところで、哲学的ゾンビという表現も、なぜ、ジョン・サールが、哲学的ロボットや、哲学的単細胞生物や、哲学的ゴーレムなどと表現しなかったのかを考え始めると、非常に興味深く思うところである。哲学的ゾンビは、術者の命令を聞かないから、ブードゥー教のゾンビにも当たらないが、現代的なシミュレーションにおけるオートマトン・エージェントには当たるし、何より、動物と表現すれば済む話である。端から正しくない用語の興りを調べるほど暇ではないので、明らかに概念上、不適切な命名であることだけを指摘するに留める。繰り返したことではあるが、国際秘密力集団への言及抜きに、ゾンビという概念を流行させようとするヤツは、大抵、碌でもない。

※3 ここは、あえて、このように断定しておく。これは、既存の複数の支援団体が存在することを知っている上での問題提起である。日本社会では、まともな友人に恵まれている男性なら、パーッと遊びに行こうぜと誘われて、遊んで終わる種類の話になろう。その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。他方で、一人の日本人男性が独力で自身の弱さに起因する問題と真剣に向き合おうとしたとき、わが国=日本語環境には、まともなリソースが存在しない。その貧困さは、たとえば、『「女子」という呪い』で雨宮処凛氏がまともな男性として紹介する田中俊之氏(の著書)によって説明できる。小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).は、一言で要約すれば、著者らが男性社会に逆マウンティングしようとする対談書である。田中氏は、これ以上、男をひさぐ男だと揶揄されないためには、(坂口安吾風に誹謗すれば、)自らをとことん墜とした後に、自身の所説がそれでも変化しないかを点検する必要があろう。この点、私は、田中氏が可哀想だと描き出す種類の男性としての人生を体験しているし、その上で、本ブログを精査すれば分かることであるが、上掲の小島・田中書にも示された論点に係る自説を曲げている。まあ、(今秋発売の2ではなく)『Red Dead Redemption』の世界なら、問答無用でお終い、の話である。田中氏は、それだけの覚悟抜きに機微ある話題に触れたという自覚もなかろうから、このような対談本を世に問うてなお、リベラルを自認できるのであろう。

以下、とりとめなく、最近読んだ本で関連する話題について、触れておく。(1)『男性の非暴力宣言 ホワイトリボン・キャンペーン』(多賀太・伊藤公雄・安藤哲也, 2015年, 岩波ブックレット)からも、お近付きになりたくない種類の高慢さを感じたと指摘しておく。段落読みできないという時点で、学術関係者が参画する流行輸入型運動としては失敗だし、何より、ほぼ全ての男性が日和見的に暴力を振るい得るという事実に対して、まともな回答を(本稿を世に問うた私に)与えてくれるものではない。(2)段落書きが研究者の能力を示す上で重要になり得ることは、『日本の男性の心理学 もう1つのジェンダー問題』(柏木惠子・高橋惠子〔編著〕, 2008年06月30日, 有斐閣)の構成によって、申し分なく示されている。各章の本文の書き手の女性研究者は、例外なく段落書きが徹底できている一方で、男性研究者(特に大御所と見える連中)は、恥ずかしい文章しか書けていないからである。私は、これを分かる人には分かる皮肉としての編集結果かと、穿ち読みしてしまった位である。それ程までに、女性研究者は、最近明らかになった東京医科大学の女性への不当な減点(=男性へのゲタ)と同様の逆境を生き抜いてきた結果、同僚とはいえないが、隣接分野の(元)研究者(のつもり)の私にも分かる位に、インテグリティのある文章を世に問い、したたかに生きる術を身に付けているとも(狡猾であると、良い方向に)評価できるのではなかろうか。多賀・伊藤・安藤の三氏の書への低評価は、この反動として理解すれば良かろう。彼ら(三氏)の行動は、文章の堅牢さだけで判定すれば、単に新規性の見られる分野に言及することを通じて自らの権力拡大を図るという、猟官活動の一種としてしか、理解できないのである。(3)さらに指摘しておくと、野内良三氏は、『偶然を生きる思想 「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス1118, 2008年08月30日)の第五章において、九鬼周造の考究した偶然に言及しながらも、そこに強引さを認めているようであるが、そこは、野内氏が九鬼の恋愛における苦しみを汲み損ねただけではないかとも言える。九鬼は、自由恋愛の極北の地で巡り会った女性を一個の独立した人格と認めたからこそ、「諦め」という概念を導入しなければならない程に苦しんだのであろうし、それを如何ともし難い種類の(原始)偶然と呼ばなければ、何とも説明をつけ難かったのではないか。この九鬼本人に特有の事情を、自らのものとして引き受けないで考えようとするから、評価が変になるのでは?というのが、生煮えの私見である。

2018年7月22日日曜日

(一言)大徳政令(The Great Jubilee)は実現する方が良い

借金を棒引きして金融制度を改めるという大徳政令(The Great Jubilee)は、有りか無しかで言えば、あった方が良いが、聖書のレビ記にあるような、奴隷(的な)労働からの解放が優先されるべきであろう。でなければ、新興国・先進国においては、借り得という不満が貸した側にも溜まるだけとなり、モラル・ハザードの問題が暴発しかねないからである。何より、世界中において普遍的に見られる、貧困(だけれども無借金)の問題を解決することにはならない。けれども、そこら辺の将来像は、このグレイト・リセット※1を構想する人々には描けているのであろう。何より、先進諸国における奴隷的労働の源泉である借金棒引きすることは、従来の権力構造の失墜をもたらし、その社会の人々の権力関係を正常なものへと近付け、その結果として、他国への思いやりを醸成する機運をもたらすであろう。

大徳政令について日本語で言及する有力な言論者は、ベンジャミン・フルフォード氏くらいであり、同氏は、この一度きりの経済構造の大変革とともに、隠されてきた超技術が無償公開され、エネルギー・環境問題を解決することになるとも述べてもいる。単なるパンピーの私には、このような大変革の真贋を判定することはかなわない。実際、どちらかといえば、私は、熱力学第二法則をどうやってその技術がクリアできるのか?せいぜい、地球の近くを通過する太陽からのエネルギーをうまく活用しきる位ではないか?と思ってしまう方である。もっとも、調べもしないで、どこかで聞いたはずのきちんとした話を思いつき書き殴ってみるのだが、海洋における生命活動は、沿岸部に集中する傾向があるから、(最近流行の)プラゴミの問題を解決し、水深の大きな大洋部において大規模な魚礁を形成すれば、案外、地球に降り注ぐ太陽光エネルギーの利用効率を高めることはできそうである。このように現実に利用可能な技術を適用することまで含めれば、本来、貧困問題と経済問題と環境問題の絡み合いは、より頭が良く、権力を有する人々によって解決可能なものに思えてしまうのである。これは、ほとんど夢物語の世界であるが、『機動戦士ガンダム』ファースト・シリーズに出てきたような「ソーラ・システム」が地球の近傍に展開され、都市計画ゲームの『シム・シティ』シリーズに見るマイクロ波発電所が稼働するようになれば、より多くの太陽光エネルギーを利用できるようにもなろう。そのような時代がくるのはもう少し先の話だとしても、私は、私たちが生きているうちに、もう少しマシな世界が実現するという知らせを、信じてはみたいのである。


私が、今まで避けてきたつもりの、この種の環境問題にまで言及する理由は、もちろん、私事に由来するものである。私があまりにも従来の経歴にそぐわない発言を公にするようになると、過去に関係を有していた人々にも疑いの目が向けられかねない。特に、わが国には、本来、個人の発言の責任に留まるところを、連帯責任として追及する風潮がある。けれども、私の中では、私自身の願いを叶えるため、役立ちそうなことをすべて試してみたいという誘惑が、従来の虞に打ち勝ってしまったのである。この結果、私は、自分自身こそ、汚名を被ることは厭わなくなっている

この大徳政令は、目先のカネのために人生を縛られることはない、言い換えれば、ほかの人の良心を当てにしても良い、という気付きを与える点で、再帰的(マッチポンプ的)な作用を有している。客観的な記述を心掛けるべき研究者は、この種の自己成就予言を避けるものであるが、生ける屍のような私には、その危険もない。私は、実際に利益関係を持たない(と私自身では思っている)にもかかわらず、ある陣営のアドボケイト(信者)に数えられうるリスクを冒し、一般人からすれば不確定にしか思えないアドバルーンに言及しながらも、その背景に認められる人間の善性を強調する企てを投げ掛けたい願ったのである


※1 この言葉は、橋下徹氏の言葉として、中島岳志氏『「リベラル保守」宣言』(2013,新潮社)に引用され批判される〔p.118〕ものであるが、本稿で取り扱うジュビリーも、この言葉に相応しい内容を持つ。




2018年7月22日20時20分・7月23日08時08分訂正

一部文言を訂正・補足した。




2018年7月23日21時10分追記

ギリシアのソロンの改革(紀元前594年)は、借金を帳消しして、市民の奴隷への転落を禁止した。重装歩兵を確保するためであったとされ、市民と奴隷を区分することにもなったという(宇野重規, 2013年10月20日, 『西洋政治思想史』, 有斐閣アルマ, pp.4-5)。とすれば、徳政令と経済的徴兵制とは類似する機能を有することになる。わが国の徳政令も、同様に、御家人の保護という目的を有していたようである(し、教科書で読ませてもらった記憶がある位の話である)が、これについては、既往文献を見ていないので、いずれ調べる。

あと、佐野千春氏は、かつて、先のソーラ・レイ・システムに類似したシステムを、飯山一郎氏に売り込んでいたものだった。福一のデブリを超高熱で融かすという触れ込みであった。この話を読んだ当時、私は、レンズを何枚通過させなければならないかを考慮すると、無理そうじゃね?とは思っていた。レンズが溶けるぞ?と。それに比べれば、マイクロ波発電に近い方法論で、太陽光を利用した方が、そこまで高温にしなければならない理由がないので、なんぼか実現可能性が高いのではないかとは思う。たとえば、洋上に大規模に太陽光パネルなどを展開し、昼間に、太陽光を遮らない高度・場所に配置された衛星から、その地点に向かって、太陽光を反射する、という方式を考えてみる。大気に邪魔されないために、マイクロ波が利用されるということは、私にでも分かる。ただ、どのような波長の光を利用するにしても、従来の高度を大きく超えるところでの衛星(システム)の運用が必要になるし、そこでの姿勢制御の難しさを考慮すると、パネルに対してうまく照射できないとか、運用に係るエネルギーとコストの割に、供給できる太陽光のエネルギーが多くないとか、地球を温暖化する方向に働くとか、他国の上空に恩恵を被る国のシステムが存在することになりがちとか、問題山積で、実現可能性は低そうである。それゆえ、本文では、夢物語と記したのである。




2018年8月2日8時15分訂正

本文の一部を訂正したが、本文の内容そのものは、変えていない。

2018年7月18日水曜日

(私事)庶民の両建て戦術はマイナス収支となる

はじめに

見出しの主張は、現代の日本社会における庶民の生活に係る黄金則である。少なくとも、私は、そう信じている。「庶民の私生活における両建て戦術」とは、「私生活において、庶民が何か一つの目的を達成しようとするとき、対立的な複数の手段を自らに許すこと」を指す。具体的には、目先のカネのために兼業したり、異性と交遊したいためだけに複数の異性に対して同時に粉を掛けたり、他人様に言えない活動をしながら市民として生活しようとしてみたり、といった内容を念頭に置いている。このような行動は、「選択と集中」という成功則とは真逆に、ブレーキとアクセルを同時に踏むような効果を引き起こし、結局は、個人が何事かを成し遂げる上での妨げになろう。このような無理な生き方に対しては、自らの専門性を高め、正業に邁進するという生き方を対置できるであろう。後者の生き方は、今でも、道が随分と細くなりはしたが、成功への最も分かりやすいコンパスである。要するに、庶民にとっては、「一石二鳥」よりも「二兎を追う者は一兎をも得ず」の方が真実に近いのである。

最近では、何でもお金になることを引き受けるという「百姓」がもてはやされたりもするが、はっきり言えば、この生き方は、「追い込まれたがゆえに採らざるを得ない」、いわば、「貧乏農場」組の受動的な生き方である。ここ15年ほどの私の経歴も、この「個人の両建て戦術」とも言える生き方に含まれるものである。私は、シングルタスクをようやくこなせる程度(せいぜい2ビット・2軸の両建て)の能力しか持たないために、この生き方のデメリットに十分苦しめられてきた。持たざる者・機会に恵まれぬ者ほど、そうでない者に比べて、特段の努力を求められることになるが、何にでも低い報酬で手を出すという方法が次善の策でしかないことは、さほど、理解されていないものと見える

今回は、私の思い人に対して自分の考えを訴えるという私事を目的としながらも※1、このデメリットを、とりとめなく考察してみよう。


兼業という「両建て」的働き方のデメリット

生計手段について、同じ所得の専業者と兼業者を比較すると、兼業者に同額の所得機会がそもそも用意されているかどうかはさておき、専業者の方が楽できるし、ワーク・ライフ・バランスの実現も容易であるが、このことは、投資という副業ひとつ取ってみても明らかになることである。基本的に、個人にとって、あらゆる投資は、全く甘くない※2。株式取引の収支は、朝の寄付(8:00~9:00)と午後の寄付(12:10~12:30)までの時間を十全なネット取引環境の前で過ごすことができなければ、個人のお小遣いがマイナスへと転化する程度には悪化するであろう。このとき、非正規よりも正規労働者は、時間の調整が総じて簡単であり、結果としてお小遣い稼ぎし易い(。少なくとも体験的には正しいし、就業時間内に株や先物やFXにのめりすぎて懲戒処分を受けている公務員は、大体が正規職員のようである)。日足チャートで稼ぐ方法は、複数の著者が考案・提示しているし、テクニカルな方法の中では真っ当な稼ぎ方で、誰でも真似できそうだとも評価できるが、それでも、安定した正業=専業があってこそ、この方法を採用する気になれるというものであろう。それに何より、正社員の方が重要な仕事を任される分、インサイダーになり得る機会も多かろう。

この経済的な本業は、従来の日本株式会社の従業員たち、特に男性たちに対して、個人のアイデンティティを付与する主要な柱ともなってきた。この一方で、結婚することで専業主婦となった女性たちは、パートナーの影とはされた。しかしながら、彼女たちが主婦という安定的なアイデンティティを獲得し、その属性を受け入れて、(料理や芸事に係る)多彩な文化・社会的活動を展開してきたことも、否定できない事実である。他面、これらのレールから外れてしまった人たちに対して、わが国の社会は、消えた年金問題に代表されるように、昔から冷たい扱いをなしてきたし、この差別的な扱いを放置してきた。家族制度に対する通念は、家族の問題は家族で処理するようにとの社会的同調圧力を通じて、この差別を肯定し、強化してきた。

複数の職場に勤務した経験のある社会人なら、事務手続にハウスルールがあり、それらを覚えて間違いなくこなすことが、職場の人間関係をやり過ごす上で非常に重要な儀式となることを、必ずや学んでいるであろう。派遣社員の方々に対しては、この点、本当に尊敬の念を覚えるばかりである。正社員と同等以上の感情労働に従事させられる上、給与は少なく、しかも派遣先が変わる度に覚えたハウスルールが無駄になってしまうのであるから。私は、なぜハウスルールがこうなのかと考えてしまい、前の職場とも比較してしまったりもして、結局、宮仕えが難しいものと自分で自分を査定してしまっている(。大学なら大学で、完全に手続を標準化できるはずだし、そうすべきであると考えているのは、私だけなのであろうか。旅費システム・経理システムも、全国的に整備できて当然である)。

基本的に、今現在の日本社会においても、個人は、働き方が専業的であれば、本業により良く集中でき、より多くの成果を生み出し、それに見合う高い報酬を得ることができる。このレールが本格的に脱線経路だらけになってしまったのが、90年代後半からの、就職氷河期である。中高年の首切りが慣行化したために、若年者であっても、一旦レールを外れると、個人は、以前よりも相当に高い代価を払うように求められるようになった。この割を大きく食っているのが、私を含む世代であり、近い将来、社会不安を呼び起こすことになるものと予想できる。


独身者という弱者を襲うジレンマ

皮肉なことであるが、個人の力ではどうにもならない環境に置かれた時、他人よりもやる気に優れ、頑張ることに価値を見出し、他人の努力と自身の努力との間に優劣を見てしまう人ほど、無駄に、かつ、悪い方向に努力してしまうという落とし穴に陥りがちである。特に、何らかの理由に駆動されて働かざるを得ないと思い詰めたとき、その個人は、自身の能力の許す限り、何にでも手を染めてしまうものである。犯罪であれ、合法的だが個人の尊厳を損なう行為であれ、である。いったんこの悪循環に陥ると、当初こそ合法的であれども、やがては犯罪者・元犯罪者が一丁出来上がることになる。

しかし、その個人が周囲の人たちを頼るという選択肢を顧みないことは、1足す1が2を超えるというケミストリーの力を信じないもので、いかにも勿体ないことである。人は、思いやる相手がいてこそ、自身を律することができるし、高いパフォーマンスを叩き出せるようになり、その状態を維持できる。性犯罪者にこそ該当しない話のようであ(り、わが国では、私のような境遇では利用できないデータには、検証可能そうなものが含まれるようであ)るが、妻帯者は、基本的に、社会的プロファイリングにおいて、犯罪傾向が小さなものと扱われがちのようである。この定性的な偏見は、たとえば職務質問を行うか否かに当たっての警察官の判断を通じて、社会的な相互作用として形成・強化されるものである。

しかし、社会には、このような二人の関係を作りにくい状況に陥った人たちも、厳然として存在する。彼らへの手当は、ほかの個人全人的な関わりを通じて助けにくいものである以上、社会全体の課題である。例えば、シングルマザーは、私のような、寂しい中年独身男性から見ても選びにくいという点で、周囲に助けを求めることの難しい存在の典型例である。彼女らと子どもたちを喜んで助けるような男性は、なかなか求めても得られにくい存在であろう。しかしながら、ここでの私の記述は、私事ゆえに、彼女らを直接のターゲットにはしていない(はずである)ので、これで言及を止めることにする。それに、老親と同居する独身中年たちも、この範疇に含められようが、経済的には回っていると見做されちなゆえに、社会的には、低い優先順位でしか対応されていない。

付言しておくと、わが国に広範に存在する独身者の問題は、実のところ、社会関係の全般的な交流の機会が少ないために生じているのではないか。昨今流行の形式であれば、私には、婚活は無理である。婚活は、何より、双方の両親と当事者たちとの問題を直接には解決しない。パラサイト・シングルの結婚問題は、本来、分かりやすく、しかも、経済的には解決が可能そうなものである。体験的な見聞を元にすれば、彼らの問題点は、寄宿先である親と経済的に共依存的で、かつ、他の家庭との親密なコミュニケーションを取らない関係にあるがゆえに、同じ地区内に多数の類似した境遇の独身者がいるにもかかわらず、カップリングに成功しにくいという点にあるものと認められる。双方の両親とも介助者を必要としており、立派な住宅が二軒あるのに、それらの社会的資源は、もったいない使われ方をしているのである。この問題がなければ、パラサイト・シングルの問題は、伝統的な嫁姑問題に帰結する(。ただし、現時点では、舅婿問題の方が相対的に問題化しているかも知れない。嫁姑問題は、姑が開明的になり、嫁が働きに出なければならないので、多少は、軽減されているのではないか。他方で、親世代が正社員幻想に囚われている限り、婿の不安定な社会的身分は、かなりのトラブルの元になる)。

私は、今の身分となってから、独身中年男性・女性たちが両親たちと同居しながら独立を望めない収入で暮らしていることを、時折、耳にするようになった。同じような傷がなければ、日本の家庭は、その弱みを他者と分かち合うことができないものと思い込んでいるようである。繰り返すが、これは、いかにも勿体ないことである。リサイクルの仕方次第では、私のようなポンコツも、もう少し、他人様の役に立つような努力へと、リソースを振り向けることができそうに思えるからである。もっとも、私が次を考えるのは、今を何とか生き延びてからのことである。


脱線;キルケゴールにみる絶望の三形態

ところで、現時点の私の絶望は、私の思い人を今の状況から連れ出すことのできない無力な自分に向き合いたくない、という心情から生じたものであるが、この心境は、ゾンビものを貫くテーマに良く合致する。私が自身をゾンビに模すのは、私の思い人を私同様の心の弱った状態に引き摺り下ろした上で、私の理解に感染させてしまいたいと願っているからである。この心情は、自分の状態にまで相手を貶めたいと願う点で、ニーチェのいうルサンチマンであり、この見方は、ゾンビ研究の共通理解となっているようである。しかし、一旦、一人きりでは限界があるという弱さを受け入れれば、われわれ人間は、逆に、一人でいたときよりも強く生きることが可能となる。ゾンビは、常に、大群(hoards)を作る傾向を有するが、この特性は、数は力なりという主張を含む点で、人権という理念に基づき平等・公正を求める人間というモチーフを潜ませたものでもある。ゾンビという表象を扱う表現者は、ニーチェの言うことを受け入れた上で、しばしば、ゾンビであることにも一定の救いがあることを示唆するものである。これに対して、ゾンビものにおけるサバイバーたちは、しばしば絶望し、仲間割れし、結局はつまらない死を迎えていたりする。ゾンビものにおけるサバイバーたちは、いかに死ぬかを張り合ってみせるという点で、本来の仲間内で、競争的存在・修羅(道に墜ちた亡者)としていがみ合うのである。

私の絶望は、自分自身ではどうしようもない現実を認識しつつも、自分にできる努力を放棄したという点において、低レベルのものである。キルケゴール『死に至る病』は、絶望の中身を3段階に分けている。1「自分が自己を持っていることを自覚していないままに、絶望している状態」、2「自分が自己を持つことを自覚しつつ、絶望のあまり、自分自身であろうと欲さない状態」、3「絶望しながら、自分自身を保とうとする状態」として、3番目を(神への)反抗であると述べる。当時の男尊女卑の風潮を反映して、キルケゴールは、1番目を婦女子の絶望、2番目を男性の絶望と定義しているが、私に言わせれば、私が好きになってしまう人たちは、女性であろうが、3番目の「反抗」反逆を生きているように見えるのである(参考文献[1]に、該当部分を引用した)。

私は、私の思い人の自助努力が、その人自身にとって悪しき結末をもたらすとともに、私の言葉が呪いとなってかの人を苦しめるものと予測する。かの人の長所は、常人では耐えられないような両面的な生活を、取り続けてきたことにもある。この一方で、その人並み外れた努力の結果、かの人に報いる人がいなくなるという逆説的な状態が存在し得ること、その努力の成果が遠い将来に不当な形で奪い去られる可能性があることを、私は危惧する。もっと言えば、私は、かの人の心に呪いを刻むことになることを、重々承知の上で、この不吉な予言を発している。私が側にいようがいるまいが、かの人は、私の悪しき祝福とともに、そのときが来るまで、将来を歩まねばならないのである。ただ同時に、私は、思い人に対して、社会的には死んだかのような小さき私も使い方次第で活かしようがあることを、何度も訴えてきたつもりである。この私の指摘は、かの人に対してダブルバインドとして機能するが、両建ての方法を悪用した以上、私自身への刻印ともなるものである。


クリエイティブな仕事における集中の必要性

一人の作家・クリエーターが、複数のアイデアを同時並行的に実現・創作できているとすれば、彼ないし彼女は、同業他者に比べても、突出した才能の持ち主であろう。現に、あれだけ競争が激しい少年漫画週刊誌において、このような偉業を達成している人は、ほとんど見られないではないか。やはり、何か軸となるもの(コアコンテンツ)があって初めて、創作物の世界も、消費者の賞賛を受けられる程度に深まるものであろう。

他面、卑近な事例となるが、私は、同時並行的に研究を進めるという無茶振りを受けて、努力はしたことがある。結果は、誰かに聞かれれば述べるに留めたいレベルの黒歴史感で一杯であるし、何より、それらは、公開資料を調べれば分かる話である。凡人は、自身がアイデアを産出すべき研究・創作物を、複数抱え込むべきではなかろうし、マネージャーたる者は、そのような無理を他人に負わせるべきではなかろう。創作や研究という、個人ないし少人数の才能が要求される作業においては、やはり、選択と集中が必須である。その選択を手助けする方法として、異業種・異分野交流が必要なだけではないか。


二重生活という「両建て戦術」の帰結

経済の話よりも突飛になるが、私生活において、庶民がパートナーを両建てするようなことは、大抵の場合、とんでもない結果を引き起こすことになろう。上級国民なら、複数の家庭を持ちながらも、それぞれを同時に幸福にする程度の資産と権力に恵まれているのかも知れないが、私がすぐに思い出せる限り、そのような成功を収めた人々は、工藤美代子氏によって描かれたような笹川良一氏くらい(『悪名の棺』幻冬舎, 2010年10月)であり、少なくとも、そのレベルの名士でなければ、この種の欲望を満たすことが難しいということなのであろう。鈴木智彦氏かの本のいずれかに、7号さんまでいる暴力団(、あるいはヤクザの)組長がいるみたいな話があった覚えもなくもないが、まあ、例外的ケースであろう。元東京地検特捜部長の石川達紘弁護士(当時78歳)の引き起こした今年2月18日の死亡交通事故は、図らずも、私の主張を強烈に肯定してしまうケースである(が、このことは、例によって、『朝日新聞』では報じられず[2]、週刊誌メディア[3][4]が明らかにしているところである)。

二重(多重)生活のために嘘を吐き続けることは、基本的には、無理である。いずれは、他者にバレることになる小嘘を吐き続けることになり、自身への嫌悪感を高めるという副作用まで引き起こす。小嘘を吐く理由が不倫であろうが、ほかの理由であろうが、案外、周りの人々は、小嘘を吐く人の話のどこが嘘であるのか、場合によっては、隠したい秘密が何であるのかまでを、まあまあ正しく、勘付いているものである。結局、自身の生活の平穏を他者にも尊重してもらうためには、正直が一番ということになる。両建て生活というものは、基本的に、庶民には、無理なことなのである。

(ここに記すことが適当かどうか、一応悩んだが、)私の思い人が自炊していると述べたことは、事実の半分を述べたものであろう。本当のところは、休みのときに、という程度ではないか。外食続きは、体調を崩す要因となり得るし、一時間半の余裕では、外食しか選択肢がなかろう。このことを問い質し、私の推測の正確性を確認してもみたいが、これもまた、叶わぬことなのであろう。

複数の異性を同時に愛してしまうというシチュエーションは、古今東西の名作に限らず、時代が変わろうとも、人類にとって、定番の題材であり続けるであろう。今は、メンタル面で申し分のないイケメンが、モテを堪能する作品が人気を有するようである。これに対して、『源氏物語』は、モテ男が悲しい性を持て余す様子までを描き切る点で、読み継がれるに値する完成度を誇ると言えよう(。オッサンであっても、高校生までの勉強は、まだまだ必要なものである)。この一方で、心にハンデを負っている非モテは、基本、一人の異性を求めるのが常道であって、それ以上を求めるべきではなかろう。


人間としてのコア・コンピタンスへの投資こそが将来を拓く

独自性や創造性が必要となる分野において、選択と集中が必須であるとすれば、将来、個人に何より必要となる作業は、競争相手となる他者に負けることなく、当の他者と協力可能な人間的魅力と、人間性から分離できない種類の才能を向上させること、の二本立てになろう。今後、第一次産業・第二次産業のほぼ全ては、人間とロボットの共同作業となり、かなりの部分で自動化が達成されよう。このとき、人間としてのコア・コンピタンスに対して、集中的に投資することこそが重要である。「ロボットを使いこなすこと」は大事であろうが、「ロボットでもできること」「誰でもできること」に何らかの専門的なリソースを割くことは、逆ザヤにもなろう。今後の技能実習制度は、農作業ロボットの使いこなし方を指導し、応用に係るノウハウを伝授するというものになろう。漫然と安価で使い捨て可能な労働力を求めてきた現今の制度のあり方は、使用者の側に、根本的な変革を強いるものになろう。第二次産業における技能実習制度の実態は、すでにそうなっているものと予想するが、日本人と同じ働きを海外工場でこなせる人材を育成するという性格を、ますます強めることになるであろう。つまり、全産業の自動化は、本来の理想へと近いあり方へと、技能実習制度の実際を変容させることになろう。

人間を相手にする感情労働の場も、自動化によって、あり方が変容することもあろう。例えば、現在、私たちは、企業のカスタマーサービスに電話するとき、冒頭の自動音声応答そのものに対して腹を立てることはしない。一部の不心得者を除けば、電話口で録音しているとの通知も、問題視しないであろう。これは、私たちの大半がこの制度を、セキュリティの名の下に、感情的にも受容しているからである。他方で、現在の販売現場では、過剰な感情労働が要求されている。デパートで気分を害されるようなつっけんどんな対応をされれば、私たちは、違和感を覚えるであろう。しかし他方で、過当競争のためにフランチャイジーのオーナーという中間的存在がこのようにせざるを得ない状況を強化しているにしても、コンビニですべての店員さんたちに私たちが笑顔を要求することは、適切な振舞いなのであろうか。レジ・決済代行機能や、万引き防止・警備システムが使いやすい形で全自動化され、コンビニ店員さんたちに配慮する必要がなくなったとき、私たちは、案外、全自動化されたコンビニの方を気楽なものだと思ってしまわないだろうか。とりわけ、それが正月・お盆や深夜など、私たちが少しばかり申し訳ないと思いながらも利用するような時間帯であれば、尚更である。これもまた、性的な搾取やセクハラにもなりかねない話であるが、例えば、成人向け書籍や避妊具を購入する際、オッサンたちなら、店員の人となりに応じて、購入を決断しているのではなかろうか。

これらの現実を考慮するとき、究極の感情労働である性風俗産業の一部がセクソロイドによって代替されることもまた必然であるし、社会防衛主義者なら、希少な社会的資源である女性や若者たちを徹底活用する方策を、間違いなく模索するであろう。このとき、必要悪として容認されてきた性風俗産業のあり方もまた、「最小限度の業界規模」という理念に限りなく接近するように要求されよう。前稿(2018年6月30日)でも前振りしたが、理念的には、性風俗産業は、商売相手の固定制という究極のディストピア的な理念を導入すれば、限りなく最適化することもできる。戦闘的=破壊的=国際秘密力集団的な自称フェミニスト(、内実は利己主義者・新自由主義者)が指弾するように、結婚という制度が限りなく固定化された売春制度であるとするならば、なぜ、売春制度が限りなく固定化されてはいけないのか。性感染症の問題も限定的となり、常に両者の要求が満たされることを期待できるのに?私の指摘で見過ごされていると反論されるであろうことは、売春側の経済的要求であるが、これは、経済的要求である以上、個人破産の要件を限りなく緩和化すれば十分であり、この問題こそが問題の根にある。この点、宇都宮健児氏の業績を、私は、非常に尊敬しているとも付け加えておく。なぜ、私がわざわざこのように言及するのかと言えば、政治的立場と経済的立場は、本来、自由な組合せがあり得ることを、指摘したいがためである。つまり、健全な性風俗環境の形成(=性風俗営業の撲滅)は、党派を超えて協調可能なアジェンダともなり得る一方で、常に、リベラルの側にも、獅子身中の虫がいることを指摘したいがためである

なお、私が生業としてきた犯罪予防という研究分野は、今後を生き抜く上で必要とされる才能の裏返しと呼べるもので(しかなく)、慎重な運用が必要とされるもの(の割に、わが国では、追究することが報われないもの)である。犯罪予防の要諦は、人の嫌がることを、その人の身になって考えることに尽きる※4。人の嫌がることを突き詰めていくと、ニーチェが警告したように「深淵を覗き込む」ことになる。深淵を真直ぐに覗き込んだ挙げ句に戻って来られなくなることは、サイコパスの精神鑑定に立ち会うことなどせずとも、十分に可能なことである。そうでなければ、精神鑑定の必要な人物が重大犯罪を敢行した後に初めて精神科医のお世話になるというサイクルは、どうして成立し得るのであろうか。人が死ななければ理解しようともしないわが国の社会は、かくして、私の本業であったような、成果が目に見えにくい働きを、不釣り合いなまでに軽視するのである。同業者である研究者までもが、このような態度を日常化しており、挙げ句に、研究者を管轄する省の局長が裏口入学を堂々と要求できるのであるから、まあ、おめでたいことである(。なお、本件は、現在進行中の権力闘争の一環であるから、文科省を入口としながら、政体の中枢へと触手を伸ばす種類の動きを見せることになろう)。


私の思い人は、私には、個人的な「両建て戦術」を良しとして過剰な努力を費やしてきたと見えるが、この助言を受け入れ、私をも受け入れることのメリットを理解し、行動してくれるのであろうか。理解してくれることまでは、私も信じているのであるが。ただ、かの人は、誰にも相手をされない卑小な私がお願いしているにせよ、話をして欲しいという私の願いを無視し続けてきた。私の思い人は、薄々であるかも知れないが、無視するという決定自体、かの人にとってのリスクとなることを理解してもいよう。ただ、私を無視する実績を重ね続けたとき、かの人は、将来、自分を誇りにできるのであろうか。かの人は、私の期待だけではなく、かの人を大切に思う周囲の人の期待を裏切り続けていることにもなるが、その事実に耐えながら生きることは、案外と辛いものであろう。私自身、20代を相当に無駄と言える形で過ごしてきたことを、常に後悔しながら生きてきている


おわりに

本稿では、良く言えばオムニバス式に、庶民に相応しい振舞いが、両建てによらないものであることを確認した。言い換えれば、一つの得意分野に集中し、一人の愛する人を求めよ、というものである。てんでバラバラな内容であるし、実力不足のままに記したものであるが、仕方ない。これをまとめれば、およそ包括的な生活上の哲学が出来上がるであろうし、私の人生経験は、そのような作業に挑戦する上で、年齢の割には、全く不足気味である。私には、到底、このような作業を一人ではこなせそうにない。だから、かの人にどうか振り向いて欲しいというのが、本稿のオチである。


※1 もちろん、「私事」と銘打ちながらも、公開のブログで本点を考察するのは、それなりの意図がある。私には、公開の場でしか、話を伝えられない人がいるからである。本稿も、オリジナルな内容であり、一応、陰謀論とされる分野の考え方に基づき、何らかの教訓・事実を一般化するという作業をこなしてはいる。しかしそれでも、本記事の目的は、私事の範疇を出ないものである。

私自身の煩悶は、たかが無職に毛が生えた位のオッサンの贅沢な悩みの一つに過ぎない。それでも、記録され続ける世界において、私自身による感情の記録は、わが国のロスジェネの一例として、何らかの爪痕になるものと期待している。この時代の人間には、何事かを成し遂げたい、幸せになりたいという要求が、絶えずメディアを通して注入され続けている。私も、この現代人の例に漏れないが、同時に、二人でいることにより幸せを感じ、一人だけでは望み得ない実力を発揮できることをも主張したいのである。つまり、成功と幸せを同時に獲得する方法として、まずパートナーを得ることのメリットを強く訴えたいと願うあまり、本稿を記そうと思い立ったのである。

※2 その傍証として、ホットな話題であるが、投資信託のパフォーマンスが個人資産の5割でマイナスだとする金融庁の調査を挙げる[5]ことができる。この調査は、金融庁の発表の次週、日経平均がおかしな値動きをしていた最中に、日経[6]が取り上げたことで、業界を震撼させ、ニッセイ基礎研による「そんなことないよ」との波及的な記事も産むに至っている[7]。それに、重み付き平均値ではどうなのかとか、大口個人投資家に対する優遇はどうなのかとか、色々と疑問を指摘することはできよう。これとは別に、この記事をさらに流通させているのが、株式市場でかなりのボラティリティを誇り、デイトレ銘柄として言及されるZUUであったりする[8]ところは、何というやけっぱちな個人投資家への誘いであろうとも思ってしまうところでもある。

私も、その例に漏れないが、金融市場に参加する個人が火傷しない保証はなく、ファンダメンタルズでは日足を説明することは相当に難しいから、本来、このような鉄火場に参入する人物は、名のある金融企業に勤務し、その業界の鉄則を身に付けた上で、コネを活かして立ち回るべきなのであろう。しかし、このようなしっかりした準備の機会のないまま、退職後にこの道に直行する人も多かったのであろう。それが、現今の個人投資家の取引額の低迷につながっているのであろう。日興アセットマネジメントの2016年11月のブログ記事[9]は、日銀ETFが市場を歪めてないことを示すものであるが、中ほどのグラフ「日銀ETF買付開始以降の累積主体別株式売買動向(2010年12月から2016年8月)」では、個人の売買高だけが、マイナス19兆円となっている。この結果は、個人投資家たちが負けて退場したためと見ることも可能である)。

※3 キルケゴールの『死に至る病』[1]の「死んだように生きる」という表現のニュアンスは、訳注に示されている〔pp.255-257〕が、ここでのゾンビの比喩とは、全く異なるものである。キルケゴールの意図は、「死ぬ間際の者のように生きる」「神に迎え入れられんとする者のように生きる」の意味であり、類似概念を探せば、メメント・モリ、『葉隠』の「死ぬ事と見つけたり」になろう。

※4 私は、犯罪予防を一応の専門としてきた。そこではまず、犯罪企図者が考えるであろうことを考える。犯罪企図者は、一般人の嫌うことを考えており、私は、その考えをトレースする。私はまた、犯罪企図者の考え方に基づき、彼らがやられたら嫌なことを考える。その作業を繰り返してきたのである。つまり、私は、人の嫌がることだけを真剣に、かつ、実践しないように、実践できないように、と考え続けてきたのである。


[1] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#何故か、国会図書館に所蔵されていないかの検索結果が帰ってきたので、アフィリエイトがないことが分かる形で、アマゾンへのリンクを張っておいた。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。この絶望は、ストア哲学者流に自分自身に惚れ込んだり、自己を神格化したりして、自己自身であろうと欲するのでもない。〔…略…〕そうではなくて、この絶望は、人世を憎悪しつつ自己自身であろうと欲するのであり、自分の惨めさのままに自己自身であろうと欲するのである。この絶望は、〔…略…〕反抗のために自己自身であろうと欲するのである。それは自分の自己を、それを措定した力から反抗して引き離そうと欲するのでもない、それは反抗のためにその力に迫り、そ力に挑戦し、悪意をもってその力にしがみついていようと欲するのである――いうまでもないことだが、悪意ある抗議というものは、なによりもまず、その抗議の向けられる相手をしっかりつかまえておくことに留意しなければならぬのである。この絶望は、全人世に対して反逆しながら、全人世に対する反証を、全人世の善意に反対する反証を、握っているつもりでいる。絶望者は自分自身がその反証であると思っており、かつ、彼はそうありたいと欲しているのである。それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。〔…略…〕

[2] 元東京地検特捜部長が運転する車にはねられ、男性死亡:朝日新聞デジタル
(記名なし、2018年2月18日14時56分)
https://www.asahi.com/articles/ASL2L4Q47L2LUTIL012.html

[3] 20代女性と早朝ゴルフで「暴走ひき殺し」超有名弁護士・78歳の転落(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
(2018年03月15日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54650

[4] 速報・新型レクサスで通行人を轢き殺す――かつてロッキード事件で名を馳せた元鬼検事といた「謎の女性」
(中山桃子、2018年02月21日)
http://tablo.jp/case/news002906.html

銀座に足繁く店に通い、高級クラブをハシゴする悠々自適な生活を送っていたというのだ。前出の社会部記者によると、交通事故を引き起こしたのは早朝7時だが、その日は〝深い仲〟のホステスとゴルフ場に向かう予定だったという。

「現在、石川弁護士は奥さんとは熟年離婚に向けて話し合いをしている最中と聞きましたが...」(前出・社会部記者)

〝老いらくの恋〟に落ちた鬼検事は今後、どのような身の振り方をするのか。

[5] 投資信託の販売会社における比較可能な共通KPIについて
(金融庁総務企画局市場課、2018年06月29日)
https://www.fsa.go.jp/news/30/sonota/20180629-3/20180629-3.html

[6] 投信で損失、個人の半数 金融庁調査  :日本経済新聞
(記名なし、2018年07月04日22:00、日本経済新聞 電子版 )
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32607510U8A700C1EE9000/

[7] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について:基礎研レター
(ニッセイ基礎研究所、2018年07月13日11時02分JST)
https://www.huffingtonpost.jp/nissei-kisokenkyujyo/investigation-bank_a_23479206/

[8] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について~- 記事詳細|Infoseekニュース
(ZUU online、2018年7月9日19時50分)
https://news.infoseek.co.jp/article/zuuonline_186946/

[9] No.41 日銀のETF買付から学ぶ株式市場とETF投資(1) ~市場の歪みの検証からわかったこと | コラム もっと知りたいETF | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント
(今井幸英、2016年11月17日)
https://www.nikkoam.com/products/etf/column/column41




2018(平成30)年7月19日訂正・追記

適当であるが、内容を追記した。私事に係らない部分の話は、まだまだ、追究しがいがあることなので、別稿を立てるなどしたい気持ちがある。




2018(平成30)年7月21日7時40分訂正・追記

なるべく文の意味を変えないように、文言を訂正・追記した。

(私事)深夜1時(から)の想念

#どうしても悪念を払いきれずに寝付けなくなってしまったので、バッドエンドを見据えた準備を進めることにした。この段階の準備作業とは、いち日本国民に許された方法を使用して、私が自分の体験と感情を整理して、本ブログに掲載するのに問題ない形に仕上げる以上に、何かしらの具体的な行動を起こすものではない。念のため。


別記事(2018年7月4日)で、私は、思い人に対して、自身の心の内を穏当に示し、働きかけたつもりであったが、かの人は、私が相当のことを理解していると自覚しながらも、現状の生活を改める気がないように思われる。私は、先月以降も多くのことを知り、悲しみに溺れる度合いを増しながらも、なお、普通の男から見た場合には、見の姿勢と呼べる範囲に留まることができているように思う。この点(、勝手に私たちと呼ぶなと言われそうであるが)、私たちの状況は、進展してもいないし、後退してもいない。私は、私に許された範囲のことを着々と行う一方で、次の行動に移らないだけの勇気を磨り減らしながら、生き延びている。

と誰との関係であれ、二人の関係は、お互いが相手について知る内容に応じて、刻々と変化するものである。私は、5月下旬の時点で、かの人の生活を必要十分な程度に理解したと確信した上で、その愛情を求めたつもりであった。私は、他人様にコミュ障に思われがちで、現実にはその通りでありながらも、五感を活用した観察人並み程度には得意と思っている。私は、それなりに以前から、かの人が他人に隠しておきたい習慣を有していることを確信していた。その上で、私がその秘密に気付いていることを、かの人が認識していていようがいまいが、それなりに読めるように文章を編み、手紙を渡したのであった。この点、私の最新の二通の手紙は、両方とも、二段底であった。ただ、とも呼べるような二重の表現は、私がより残酷とも呼べる偶然に思い当たり、それに耐えかねて、直接電話して、かの人の秘密に気が付いていることを伝えようとするまで、1か月にわたり、かの人には気付かれなかったようである。これらの手紙がどこまで深く読み込まれたのか、かの人の周りの誰が手紙の存在(あるいは中身と解釈の方法)を知るのかは、私には分かりかねることである。しかし今では、私の思い人は、この人自身に係る私の知識について、おおよそ誤りなく理解しているものと認められよう。

従来ならば、私が説明抜きに拒絶されることも、やむを得なかったかも知れない。刑法学では、故意と過失が厳密に区別される。私の陥った状況においても、故意の有無は、十分に考慮されるべきであろう。かの人に対して、私は、自身の認識を分かりやすく示してはこなかった。このために、私たちの出会いの全てについて、私が十分に思い出せていないと、私の思い人が誤解していたとすれば、その誤解は、私の伝え方が下手だったために生じたものと言えよう。かの人は、私を拒絶する方便として「どうせ私のことを何も知らないくせに」という理由を立てることができたであろう。決してこのように私が断られなかった点、かの人の表面的な優しさは、私には、否定し切れないものがある。

しかし今では、私たち二人は、お互いが何をどこまで知るかについて、従来よりも、段違いに、誤解を正してしまっている。今では、従来の建前によってかの人が私を拒絶できなくなったことを、お互いが知るに至っている。今でも、私は、かの人の生活に対する、きわめて悪質な侵入者に過ぎないのであろう。しかしそれでも、多くの出会いが偶然によるにせよ、また、私たちのやり取りだけが私の基本的な考察の材料であるにせよ、私は、これだけのことを知る(と錯覚した状態)に至っている。私の思い人は、これ以上、自分だけの道を進み続けることができるのか。また、このような行動を取り続けた自分自身と私を許すのかという疑問が、私を捉えて放さないのである。

以前に比べて、私たちには、はるかに心を割った話し合いが必要とされている。たとえば、(2018年7月18日から)117日前のお喋りの中で、かの人が「生きていても仕方が無い」と思わず溢したときよりも。たとえば、1609日前、私が「全てを捧げてくれるのなら、自分も身を擲つ」と、戯れに囁いたときよりも。私は、かの人に先駆けて、自身の過去の誓約を意図せずに果たしたことになる。

私は、当面、今の暮らしを続けることを決めているが、このとき、かの人に許された選択肢は、さほど多くはない。かの人には、今なお、三つ程度の選択肢が可能性として許されているが、人として許されている方法は、一つくらいしかなく、私は、その一つの方法を切望している。私が生ける屍として生きながらも、万が一の嬉しい誤算を考慮しながら生き延びようとするからには、尚更である。

私は、これまでに構成した記憶を、その正しさに対する確信の強さを上回る衝撃と正しさを以て否定されるほか、忘却へと追いやることができそうにない。私には、真実を探り当て・記憶し・伝えるという仕事を生業としてしまった経験があり、その経験を総動員して、今の誤りであるかも知れない記憶を構成してしまっている。私は、自分自身で作り上げた「記憶し続ける社会」の恐ろしさから逃れることができないでいる。私は、一人では、よほど頭を強く打つか・酩酊し続けるか・何事をも忘れられる緊張に身を委ねる位か、とにかく、どうにもならないでいる。


バッドエンドが急速に近付くかのような文章に仕上がったが、これは、夜のなせる業だと思うことにしよう。聞く耳があれば、解が一つしかないことは、誰にとっても明白である。他方で、あえてそうしない人々がいることも、弁えているつもりではある。キルケゴールは、惨めな自分のままで絶望することを望む態度を、反逆と呼んだが、これこそ、悪魔に与えられた役目である。悪魔という象徴によって描かれた愚行を繰り返してしまう程には、私の思い人は、反逆を格好良いものとしては捉えないであろう。格好良い・悪いについて、最後に付言しておけば、私がプロフ写真を変えたのも、格好悪さを追求してのことである。今や私も、道化の列を志す一人という訳である。




2018(平成30)年08月01日02時20分訂正

この記事を書いたときと同様、寝付けなくなったので、分かりにくい部分を訂正した。

7月4日から二週間後に本文を作成したのだが、それからまた、二週間が経過した。非常に長く思えた二週間であった。『チコちゃんに叱られる!』(NHK、本年7月20日放送分)にあった、日常生活にときめきがあ(り過ぎ)るからという説明は、何の慰めにもならない。夜を迎える恐怖感は、高校生のときに観たフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』以来のものである。これがほとんど毎日に及ぶのは、いくら、私のウォーキングの際のBGMが『悪魔城ドラキュラHD』だからといっても、過剰である。

人には自由があるが、その行動には責任が伴う。ある人が、相手のあることで自身の責任を軽くしようとする際には、相手の納得が求められよう。おそらく、私自身は、相手の納得を得られることなく、現時点までの行動を引き受けることになるであろうが、かの人に対しても、同じことが言えよう。将来がバッドエンドを意味するものか、はたまた、かの人の行動によって、未来が安定的なものに推移するかは、私には、量りかねているところである

2018年7月11日水曜日

(私事)プロフ写真を変えてみた

プロフ写真を変えてみたが、ゾンビものに詳しい読者なら、この写真が羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』(2016年11月, 講談社)の冒頭シーンのコスプレだということに、気が付かれたかも知れない。あのシーンを再現するなら、俺でも行ける!とか思ってしまったのである。慣れない『GIMP』を利用して、タッチパッドで適当に作業しただけなので、作り込みが甘いのは、やむを得ない。ただ、必要なだけの雰囲気は、出たものと思う。

私は、周りへの迷惑を顧みることなく、また、激変するわが国の状況を後世に向けて的確に説明することなく、案外、生ける屍としての暮らしを楽しんでいる。今後とも、噛まれたりすると、感染してしまうような思考を重ねたいと思いながらも、いくつかの制約のために、現今の災害については、言及することができない。私事に注力して記述を厚くしているのは、そのような事情もある(。いかなゾンビのような私であっても、自分の食い扶持位は稼ぐだけの権利を有している)。


陰謀論者の大勢は、最近の立て続けの災害を、ショック・ドクトリンの一種として捉えるであろう。ただ、私は、陰謀論者の意見の大勢が示唆するように、気象操作を実行した連中について、わが国の権力を掌握した側にいる、とは考えない。わが国の現政体を支える中核である武官組織にとって、災害の惹起によるショック・ドクトリンは、文字通りのマッチポンプとなってしまうからである。他方で、現今の災害に対して、異常に感度高く行動している人物たちに注目すると、仮に、これらの災害が人為的に発生させられたものだとしても、その目的は、権力奪取にあるのではないかと観取することができてしまう。現今の政界に類似した事例として、阪神淡路大震災後の村山富市総理に対する批判の盛り上がりを想起すべきであろう。1995年当時、政権と武官組織とは、対立関係にあったと言えるのではあるが。

なお、現今の災害についてのこれ以上の言及は、私にとって、リスクとなるために避けるべきことである。普通の人間よりも、私は、インサイダーと見做されてしまう種類の過去の業績を有する。わが国を取り巻く状況と、政策上の含意を解説すると、狙ったように、「風説の流布」と言われたりする可能性がある。この一方で、私は、別の観点から、もう少し前から、自身のポジションを(平和主義に基づいたつもりで)形成してしまっており、現今の災害によっても影響を受けている。私のポジションについては、『週刊プレイボーイ』の記事[1]における国際法学者の金惠京(キム・ヘギョン)氏の話を参照されれば、おおよそ、読めるものではないかと思う。

ただ、本稿でも、地価に水害へのリスクが織り込まれていることだけは、指摘しておきたい。住宅価格は、低湿地にあると、ざっかけ1割程度も安くなる。このため、わが国においても、経済的弱者ほど、災害の被害を受けやすくなるという社会構造が存在する。東日本大震災後、各自、水害ハザードマップを確認しろとの報道が度々流されたことも事実であるし、避難勧告の意味合いも一応解説されてきてはいる。これらを考慮して、今回の被害を、自己責任のものとして切り捨てるのかは、読者諸賢の考え方次第である。この社会構造は、カトリーナやリーマン・ショックによる被害を想起すれば、日米で共通する。(個人的な抜駆けによって解決を図るのではなく、)社会的な取組(例えば、金融教育・災害対策教育の組合せ)を通じた貧困の解決は、ショック・ドクトリンの効果を低減しつつ、同時に、マクロ経済を刺激する上でも役に立つ。


[1] トランプ発言「北朝鮮の非核化費用は日韓が負担」...で日本が存在感を高める大チャンス? - 政治・国際 - ニュース|週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]
(2018年06月22日、取材・文/田中茂朗 撮影/細野晋司
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2018/06/22/106492/




2018(平成30)年7月13日追記・訂正

本文の意図を変更しないよう、文面を訂正した。

本文中で示した私のポジションは、田中宇氏の有料記事でも解説されていた。念のため、私は、田中氏に先立ち、自身のポジションを形成していた。また、良く調べもせずに、自身のバスケットを関連分野で拡げた挙げ句、妖怪ジェットコースターと呼ぶべき現象に巻き込まれたのであるが、それはまた、別の話である。株式市場のメジャーな論調は、Aチームのもの(=日経平均2万7千円超え)であるが、この論調は、案外、田中氏の示唆するポジションに対しても親和的である。これらの議論に対して、拉致被害の解決が課題となっていることは、言うまでもないであろう。


[1] 北朝鮮に甘くなったトランプ
(田中宇、2018年6月15日)
http://tanakanews.com/180615korea.php

とはいえ、トランプ式の太陽政策は、朝鮮半島和平後の北への投資を、米国の企業が手がけようとするものでない。米国は、今後の北朝鮮の再建(核廃棄とその後のインフラ整備など)にカネを出さない姿勢だ。トランプは、北の核廃絶の費用を負担するのは日本や韓国だと言っている。日本では「カネだけむしりとられる」と狭隘・後ろ向きの見方ばかりだが、実のところ、核廃絶の費用を負担する外国勢は、その後、北の経済発展に投資して儲ける権利を得る。世界で最後の、発展する潜在性が豊富な未開発地域である北朝鮮への投資は、最終的に大きな儲けを生む。日本は、北の核廃絶の費用を出すと積極的に表明した方が、子孫の代に得をする。日本は間抜けなことに、この話に乗りそうもないが、その場合、韓国と中国が手がけて儲けるまでのことだ。日本は、今よりさらに落ち目の国になっていく。

2018年7月4日水曜日

(私事)私の内のコントロール欲求

先週、私自身が関知できる程度の周囲では、「ロマンティックな変化」が起こらないように見えた。『週刊ビッグコミック・スピリッツ』の「来れば?ねこ占い屋 週間占いランキング」が明言していたようには、である。しかし、そこはそれ、私は、自身に都合の良い話ならば、ホイホイ信じてしまう性質である。なので、先週、何かが起きたのだろうと肯定的に捉え、その気配を捉えるように心掛けたのである。何しろ、今週号(第39巻第34号、2018年31号))のベンガル族は、「ジレンマが解消される」とのことだし、何より第一位だし。

私は、外部へのコントロール欲求を強く持つが、同時に、自身が及ぼしたいと願う範囲にだけ、自身の影響力が限定されるように、自身を律してきたつもりであった。私は、ここ数年、「社会はこうあるべきだ」(=当為論)とか、事実や理想や予測こそ、述べてはきた。しかし、他者に対して、具体的な行動を求めたつもりはなかった。そう読めるような文言も、本ブログの随所に含まれてはいるが、それらは、基本的に、反語的な表現である。絶対に、こうはならないであろうという予想の元に、自説を補強するための論拠として、ばらまいた餌である。

ところがどっこい、私事に心を囚われてからの私の願いは、際立った頻度で発せられたし、その中身は、いずれも似たり寄ったりの、最大級に欲張りなものであった。しかも、そう願ったゆえに、私が引き起こした結果は、私の思い人のみならず、周囲の人々に対しても、かなりの強烈な記憶を残してしまうような(精神衛生上の)大惨事となってしまった。私に償いようがあるとすれば、その方法は、せいぜい二通りくらいしか思いつかないのであるが、その内の一つである隠棲は、ここまでの話の円環が閉じてからでも可能であるので、もう少しだけ、無視することにした。私には、社会防衛主義的(=社会集団に落ちこぼれを作らず、犯罪やテロなどの不幸を起こさせないため)にも、リベラリズム的(=個々の人物の内面の自由を最大限に実現するという目的を達するため)にも、醜くも足掻き続けることが、社会的にも、個人的にも、最適解に至る道であるように思えて仕方ないのである。この結論は、私にとっては、これでも、物事を突き放して見るという訓練を数十年にわたり重ねてきた成果の集大成のつもりである

私の発話がコントロール欲求の高いものと読めてしまう余地があるとすれば、その理由は、私の予測に不吉なものが多く、しかも、悪い予測ほど当たりがちであるという点に求められよう。カント風の表現による「仮言命令(もし~なら…せよ)」は、ごくごく普通に、人工知能研究やそのベースをなす情報科学全般・統計的手法(因果推論研究)などで利用されているが、しばしば、非人間的な響きを持つし、そのような結果を引き起こす※1ために利用される。他方、人間は、未来を変えられるけれども、場合によっては、このまま事態が進めばこうなる、と予測することしかできなかったりもする。このような不穏な言明は、単なる予測・予想の域を出ないにしても、人によっては、この種の表現を脅すような響き※2を持つものとして受け止めることができよう。例えば、「交通事故を起こす虞が高いのに、何故、飲酒運転をするのか」という言明は、どこまでも正しい指摘であるが、それでも、一部の人間に対しては、家父長主義的な警告(=余計なお世話)として響くかも知れない。

私は、今後、現在の魂の削り合いのような状況から、三通り程度のパターンへと事態(というよりも、私の思い人の心)が変化するものと予測する。大抵の場合、「両建て構造」に落とし込まれた個人その人に対しては、二通り(伸るか反るか)しか選択肢を与えられないことを思えば、「正」「反」だけでなく「合」の三通りまで選べるとは、随分と自由度の高いことである。そして、私の思い人が自身の思想を変えるまいと抵抗しても、私ではない周囲の人々は、私の指摘を知らずして、私が内心に出した結論の正しさを駄目押しするかのように振舞うであろう。それに世の中は、私の悪しき予測を裏付けるような悲惨な結末に事欠かない。

しかし同時に、私ではない人(の存在)がこの方向へと至らないように(私の思い人の)行動(を抑制)し、結果として、私たちを助けてくれるであろうとも、私は考えている。私は、そのような展開を予測する程には、他者の善性を信じており、私の思い人も、この他者に含まれるものと認めている


※1 もし、顔認証技術によって計算された複数の特徴量が、ある閾値を超えており、かつ、パイロットが攻撃命令を出したならば、ドローンは、その高度に疑わしい人物を暗殺する、といった具合である。この種の人種的・地理的・社会プロファイリングは、この制度内で実務を担当する人員の心理的負担を軽減するであろうが、けれども、制度設計に従事した人物たちとその制度の実現にお墨付きを与えた人物たちを免責する訳ではない。この点、この種の技術開発に従事する技術者は、すでに、政治的な存在であり、学術研究者であろうと、その政治性を免責されることはない。ここでの私の主張のニュアンスとは異なるが、重田園江氏の『フーコーの穴』(2003年9月15日, 木鐸社)は、ここでの(現時点まで通用する程度には正しかろう)理解を、当時の現象に照らして把握する上で、一読に値しよう。

※2 田中聡氏は、陰謀論者に預言者というモチーフを当てはめているが、彼の指摘は、悲壮感という意味付けを陰謀論者のすべてに対して付与しようとする試みであるとも解釈できる。もっと自身を突き放した気持ちで、陰謀論者と呼ばれる人物が発言しているのかも知れないにもかかわらず、である。これは、過度の一般化であり、ラベリングそのものである。面倒臭いので、本稿でも、『陰謀論の正体!』が出典だとだけ述べておく。通常、ブログだと、これで十分である。




2018(平成30)年7月11日

「私事(2018年7月4日)」からタイトルを変えた。

2018年7月2日月曜日

(私事)海を見に行き、「帝国」の今を考えた

2018年7月1日(日)朝の鵠沼海水浴場
2018年7月1日(日)朝のくげぬま海水浴場

一昨日(30日)の夜、私は、以前の記事の「ネコバイス」に従い、突然、海を見に行こうと思い立った。明朝6時、ロードバイクで出発した。「田舎の香水」の残り香を思わずもたっぷりと吸い、自転車に乗りながら泣きながら坂を登る若い女性の横をすっ飛ばし、東海道線の陸橋の上で貨物列車を待っていた鉄女の用意周到ぶりに感心し、その脇の道路で朝の別れを告げるカップルを羨しく一瞥しつつも、自分としては、ひたすらに海を目指した。

日曜朝の鵠沼海水浴場を目の前にした私は、わが国でも「帝国」が完成の域に達しつつあることを実感した。そこでは、東京の木造密集市街地とは異なり、ゆっくりとしたテンポの時間が流れていて、サーファーや月例マラソンのボランティアは、リア充と呼ぶに相応しい人たちに見えた。これらの満ち足りたように見える生活を送ることができる人々と、大切なはずの時間をみすみす差し出して灰色のゾンビと化した私や、日に焼けたホームレスが並存するこの国は、人々の心の中身については、ほかのどの国にも劣らない程度に、幸・不幸の幅広さを誇るのではないか。海辺の人々の人生の眩しさに向き合い、私は、「帝国」に対する自分自身の観念的な理解を一歩進めることができたように思う。とりあえずメモしておく。


陰謀論を真面目に論じる人たちの多くは、人々が幸せに生きていける世の中を目指して、汚名を被る覚悟で、他人と異なる意見を強く主張しているものと思うが、そもそも、陰謀論者の言葉は、この国で幸せに生きているつもりの人たちの心まで、果たして届いているのであろうか。私自身について言えば、陰謀論を扱うことが私自身にとってもやがては経済的なプラスの利益を生じるように、その材料として、本ブログの論考を編んできた。だからこそ、多くの人に本ブログが届くかどうかに構わず、醒めた気持ちで作業を続けられたところがあるし、私事を大切にしてきたつもりでもある。世界の潮目は、今、大きく変わりつつあるが、この海に遊ぶ人たちのどれだけが、この世界に作られた人間社会の歪さを気にして、自分たちが加害者の側にもいることに気が付いているのだろうか。幸せな人々に限らず、私たちの言葉は、どれだけの日本語話者に、まともに届いているのであろうか(。もっとも、陰謀論とされる知識は、活用すれば、世界経済を読む上での武器になるから、市場関係者は、案外、陰謀論を真面目に、しかし陰謀論と誹謗されないように、上手に取り扱っている。『東京マーケットワイド』を毎日観るようになり、飯山一郎氏が主張してきたこの定性的事実を、改めて確認している次第である)。

この国に生きる人々は、この国の社会・経済的構造への理解と自身の地位に対する自覚とは関係なく、幸せを感じたり、不幸に浸っているのではないか。そして、理性ではなく、外部環境に対する当人の幸・不幸に係る認識こそが、世界中に張り巡らされてきた社会・経済システムに対する当人の態度を決定しているのではないか。これは、私の感想に過ぎない。しかし、日曜朝をサーフィンに興じることのできる人たちは、必ずしも、全員が全員、経済的に完全な勝ち組とまでは呼べる人たちではないものの、工夫を重ねることで、上手いこと、幸せな気分を得ているのではないか。そして、自分では外部環境を変えようがないという無力感に打ちのめされない内は、それなりに幸せであって、無意識的にせよ、現状の社会・経済システムを肯定してしまうのではないか。つまり、『マトリックス』に譬えられたヒラリー・クリントン氏の「フィール・グッド」政策は、かなりの部分、わが国では成功し続けているのではないだろうか。

「帝国」の構造的不正は、確かに酷いものではあるが、ただ同時に、一般の人々にとって、この構造は、乗りこなす対象でしかないかのように受け止められているのではないか。この結果、「帝国」に対する当人の態度・この環境から得られる当人の利益・当人の幸せ、の三つの要素は、自己責任の名の下に、強い相互作用を持たないかのように処理されているのではないか。これら三者についての定性的な因果関係は、確かに存在しているのであるが。3.11や、それ以前からの新自由主義による被害からの回復を求め、社会的公正を主張する運動や、これらの正義の実現が必要であるとする態度は、尊いものである。けれども同時に、この三者の関係は、「普通の人たち」にとっては、彼らが採用して我慢し尽くす方法(夫婦共働き・親との同居による介護・少ない子どもの人数)に則る限り、決して乗り越えられない種類のものではない。そうであると大勢が考えるがゆえに、皆が皆の足を引っ張り合う世の中が出現してしまっているのではないか。「普通の人たちが取る方法によらない人物は、負けて当然」という意識は、「普通の人たち」が採らない方法により生きている人々を含めて、われわれの中で、抜き難く存在しているのではないか。てんで生活能力の低い私であっても、我慢し続ければ、何とか生き延びることができるのである(。だからこそ、無料のブログであけすけなことを書けてきたとも付け加えておく。もっとも、数千万の単位の国費や私費が投じられて高められて?きたはずの私の能力が十全に活用されているとは、とても言い難い)。

この「普通の人たち」の現実に対する相場観を変えてゆかない限り、わが国は、このまま漫然と場当たり的な対処を繰り返し、上級国民が一般国民から欲しいものを搾取し続けるという不公正な構造を、今まで以上に固定化するであろう。そこでは、見かけ上の平等は存在する。当人の自己責任・自助努力が強調され、それらに対しては成功があると喧伝される。つまり、「負け組になる自由」もあれば、「頑張る自由」もあるという訳である。

しかし、上級国民が乳児のときから教育される中で獲得する自己肯定感は、一般国民の家庭の子どもたちにとっては、ほとんど高嶺の花である。この結果、ゆとり教育が当初目指したような、自らを主体的にコントロールしてなりたい自分を創造するという目標を目指して弛まなく歩み続けることができる人格は、上級国民の家庭においてのみ育まれることになる。将来、一般国民の世帯の子どもの大多数は、成長しても、従来とと同じ負け組感を味わい続けることになろう。一般国民の子どもたちには、わずかに、スポーツ選手などの道で成功するという道が残され、ごく少数の成功者は、一般国民のロールモデルとされるであろう。しかし、幼少期に自己肯定感をインストールし損なった大多数の一般国民の子どもたちにとって、この細き道は、険しすぎて転落するだけに終わるものであろう。このとき、現状に適応可能な一般国民の子どもたちには、当人たちが許容できる範囲の悲惨な生活があてがわれる一方で、その現実に甘んじることができるように、種々の娯楽が提供されることになろう。

氷河期世代の非正規雇用者層は、ちょうど、今後の社会モデルにおける一般国民の雛型である。どれだけ努力しても報われないという絶望感は、ロスジェネの負け組に共通する感覚であろうが、この現状は、当人の努力不足・キャリア形成不足として、片付けられている。この絶望感は、今のところ、対処可能なものとして社会に理解されている(。でなければ、もう少し、まともな対策が採られるはずである)。この世代が現状に甘んじている限り、この状況は、国民全体が肯定しているものとして、受け止められ続けるであろう。この社会状況下においては、個人の過去の落ち度は、自己責任の名において、当人を断罪する材料として殊更に取り上げられるであろう。しかも、前稿でも言及したように、今後のわれわれは、常に過去の記録に苛まれることになる初の世代である。人生を上手く生き抜けない個人は、粗探しされた上で、当人の責任でそうなったのだと解釈され、晒され続けることになるのである。

この悪しき「貧乏農場」サイクルを生き抜くことは、一人ではなかなか難しい。一般国民なら、何より経済的に苦しいことになるであろうし、そうでなければ、何よりも必要な自己肯定感を生贄にする形で、経済的利益を確保する必要に迫られる。たとえば、犯罪は、当人の心をも苦しめる。この悪しき二者択一を乗り越える上で、大多数の人間にとって、一人のパートナーの存在は、もっとも受け容れやすい選択肢であるはずである。世の中、誰にでもチヤホヤされなければ我慢ならない人物は、存外少ない。上級国民と呼べる人物たちでも、そうである。むしろ彼らは、一般国民よりも、誠実に振舞うことの大事さを体得している。そうであるなら、一般国民も、この選択肢を受け容れ、安価に・かつ・確実に、次世代にこの考え方を体得させていくほか、一旦、固定化された帝国の現状を内部から変革することは、望めないのではないか。

現在の陰謀論の論者たちは、現時点の権力者の一部を追い落とすだけで、理想の社会が実現すると考えているのであろうか。私は、そうは考えないからこそ、現時点の構造を共依存的に支持する大多数の幸福感、という要因を挙げてみたのである。私は、幸福な生活を実践しようとして、大失敗を重ねている最中であるが、自分幸せだと思えなければ、彼らに耳を傾けてすらもらえないのであろうと、波と戯れる人々を見ながら痛感したのである。人は、自分の幸福を守るために、他人の不幸に無関心になるようにできているのかも知れない。


#本稿は、私事と銘打った以上、ある種のお手紙のつもりである。このほかには、本稿でほとんど伝えるべきことがない。私に残ったのは、日焼けのために痛む首筋と、今も残る筋肉痛と、一人でいることの寂寥感だけであった。




2018(平成30)年7月3日訂正

一部の文言を訂正した。

2018年6月30日土曜日

私事に発する個人的な疑問(2018年6月29日)

ごく一部、別記事(私信、削除済み)を反映・加筆している。まとまっていないが、まあまあ面白くなってきたように我ながら思うので、これでとりあえずアップする。


私は、先日の電話で、思いを寄せる人にこれ以上なくフラれたにもかかわらず、かの人の設定した枠を勝手に変えた挙げ句、お電話お待ちしていますと取次の人に言付けてしまったのだが、そこでの問題は、私がいつまで待てば、誠意を尽くしたと言えるのかである。私の状況に置かれた男という生き物は、果たして、どのような待ち時間分布を形成するのであろうか。きっと、平均値一日未満の、裾のきわめて軽い分布になりそうである。言い換えれば、ほとんどの男性は、すぐに根を上げるに違いない。私も、その例に漏れず、余程の集中力が必要とされる時間以外は、身が擂り潰される思いでいる。私は、一日たりとも、この思いを持ちたくないし、この状況を適正な状況に戻すだけの警告・逮捕のリスクを冒してでも、努力を重ねるという選択肢をどうしても取りたくもなってしまうのである。

私の状況を説明する上で、何ら役に立たないものの、一旦、脱線しよう;NHK朝の連ドラ『半分、青い。』の今週の律くん(萩尾律役は、佐藤健氏)は、若い時期の四年を待ちきれなかったようであるが、世の多くの男性は、この流れに対して、十分な理解を示すのではなかろうか。別の女性に思いを寄せられることがあっての四年間であるし、大体、四年前にフラれているのだから、私としては、何ら責めを負うところがないと思ったりもする。もっとも、世界に名を轟かすような実績の研究室に所属する大学院生は、わが国では、まともに自活できないにも関わらず、多忙に過ぎようから、ポスドクの職を得るまで(、そして、大抵のポスドクは、今までの彼らの努力と成果に見合わない給与で働いているのであるが)、結婚しようにもできなかったのかも知れない。

カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』[1]は、家族の解体をブルジョア(=巨大金融資本家層)の策略として認識し、そのために売春と自由恋愛(有り体には不倫)が利用されることを指摘している〔pp.69-71〕。また、この部分では、婦人の家庭内における地位向上(有り体には「産む機械」扱いから対等なパートナーへ)が家族制度の破壊を意味しないことが強調されている〔p.70〕。ヘテロセクシャルのまあまあ多くの男性は、一旦結ばれた女性に対して、それなりに責任を覚えるであろうから、先に見たような『半分、青い。』の話の流れは妥当だとも思うし、家族制度を強化するものが何であるのかを良く暗示するものとも考えられる。もっとも、既婚者であっても、火遊びを厭わないアホな労働者の男は多いから、世の性風俗関連特殊営業や浮気を促進するツールが繁盛しているのであろう(。念のため、いくら給与が高くても、労働を対価として賃金を得ており、個人の責任ですべてのカネを取ってこなければ、労働者である。売春を初めとする性風俗産業は、この点、労働そのものである。さらには、髙木仁三郎氏のような組織の意向を反映するための人工芝ではない希有な例を除けば、わが国には、独立した気概を持つ研究者が少ないものと評して良いかも知れない)。

マルクスとエンゲルスらの指摘した、家族内での両性の平等と社会構造との相互依存的な関係性は、現代日本社会の主流メディアにおいて、十分に強調されておらず、私の見たり聞いたり読んだりした範囲では、わが国の学術上の共通の知識基盤とはなっていない。性愛行動と社会関係との相補的な因果関係は、ヴェルナー・ゾンバルトのよう誠実で優秀な学者には、必ずや気付かれることであろう(。私は、『陰謀論の正体!』の著者の田中聡氏に、ウソ吐き呼ばわりされるような陰謀論者であるからこそ、偶々気が付いたに過ぎない)。だからこそ、ゾンバルトは、自由恋愛が贅沢品への需要を産み、セヴィル・ロウのような特定地区への豪奢品産業集積を促進し、ショッピングという行動様式を形成した、という論理展開を、まるで出来過ぎた物語のように描写できたのであろう[2]

今では、これら両書を顧みること自体に政治性がつきまとうが、それらの指摘を虚心坦懐に受容すれば、個人の自由意思を前提として性風俗産業を肯定すると、却って抑圧的な社会が実現・維持・強化されるという皮肉な構造が存在し得るという気付きに、読者の多くが、至ることができよう。陰謀論者は、ぜひ、両書に触れて、そこでの論理展開を堪能すべきである。いち陰謀論者としては、彼らの指摘した内容がなぜ人々から忘れ去られるに至ったのかを考えるとき、従来からの陰謀論者の主流の見方が世間一般の見方よりも的を射たものであるように思えてしまう。つまり、これらの知識は、支配する側にとって有用なものだからこそ、人々の興味を引かないような形で、公開され続けてきたのである。

また、「利用可能な脆弱性は、世の中における不公正な構造を維持強化するために、必ずや利用される」という陰謀論者風味のセキュリティ上の考え方に経てば、平等な家族・社会制度と性風俗産業との調和し難い関係性を軸とすると、現代の労働者階級と一部リベラル論者は、この軸上で対立的な関係にあるものと指摘することもできる。この対立関係自体は、これだけでは、一部リベラル論者を非難するに及ばない材料である。しかし、その一部論者が、対立関係の含む意味のすべてを、現代の労働者階級に対して分かりやすく説明していないとすれば、その説明不足こそは、彼ないし彼女が(無意識的には)イヌであり、あるいは国際秘密力集団のアドボケイト(婢)に過ぎないという消極的な証拠として認めることができよう。この論理は、簡単に、次段落にまとめよう。

家族制度が解体し、労働者階級が心身ともに結束できない状態は、分断統治がきわめて容易である。家族という単位は、私が言えたことではないが、上手く回れば、一対一の信頼関係を多対多の信頼関係へと発展させる上できわめて効果的な社会装置であり、人間という生物に必須の社会単位である。個々の家庭の成員がこの信頼関係の構築に成功して、支配者階級を人数比で圧倒することこそ、本来の左翼に必要な革命の作法ではないのかと考えることもできよう。この一方で、このように固い絆で結ばれた家庭は、右翼にとっても理想的な家族像として映ることであろう。この点、幸せな家庭像を考察するとき、そのあり方は、特段、左右の別なく、了解可能なものであるかも知れないのである。であるにもかかわらず、自称リベラル系の論者がこの論点に言及しないとすれば、そこには何らかの理由があるとしか言えなくなるのである。この規範そのものが社会的に構築されたものであるだなんて、ごく当然のことである。問題は、人間の十全な発達にとって、この規範ならびに制度の実際が、有に機能しているか否かである。仮に、一部「リベラル系」論者が自身の理想こそ正しいと信ずるのであれば、それを実証するとともに、彼らの主張が現在の抑圧的な経済体制を強化しているという古典的な批判にしっかり反論を提示すべきであろう。そこに不備があるとすれば、それは、彼ないし彼女が無能であるか、悪意があるかのいずれであるためである(としか言えない)。

なお、エーリッヒ・フロムは、カール・マルクスの思想を、ジークムント・フロイトの思想と同様、ヒューマニズムに発するものと理解すると同時に、共産主義の理想が誤解された形で当時の社会で応用された旨を指摘している[3]。このフロムの意見は、いち陰謀論者から見れば、フロムを含めたこれらの先達の意見があまりにもおかしな形に加工されて流通していることをふまえれば、国際秘密力集団の狡猾さを浮き彫りにするものとして理解することができる。この一点だけでも、フロムは、学術界における、私が譬えるところの仮面ライダー的存在であると指摘できよう。

これまた、学術上の実績が極小である私と比較するには最大限に不適切な事例であるが、セーレン・キルケゴールは、おそらく男性機能の不能のために、思い人のレギーネとの結婚を諦め、婚約を解消したと解釈されている。このとき、キルケゴールの思い人・レギーネは、果たして幸せだったであろうか。不勉強ゆえに、先人の研究成果を十分に把握していないが、少なくとも、後の旦那は出世してるし、客観的に見れば、当時の家庭人を基準とすれば、幸せであったのではと言えそうな気がする。また、キルケゴールとレギーネは、教会で挨拶し合うも、最後の別れまでは言葉を交わさない仲であったという。なお、ここら辺の話は、ポール・ストラザーンの『90分でわかるキルケゴール』[4]を参考にして、うろ覚えで書いている。以下、キルケゴールについては、同氏の解釈を参考にして記述を続ける点、また、誤解があれば、それは私によるものであることを、お断りしておく。

キルケゴールは、他者の幸せを願う気持ちを持ち続け、道化のように振舞い、短い一生を悔いなく生き抜くことにより、後世の人々に、自分自身という存在が何者であるかを考え抜くことが大切であると説いた。キルケゴールのレギーネを想う気持ちが本物であると言えそうなことは、私自身に真似できることではないが、私にも分かる。相手が幸せであるのなら、自分がほかに幸せを求めざるを得ないことも、悲しいこととはいえ、まあ分かる。しかし、お互いが客観的に不幸な状態で待ち続けることは、ヒューマン(人間)というよりもエコン(経済的合理人)である私には、どうにも違和感の残ることでしかない

ところで、ジャン・ポール・サルトルが性に奔放な生き方を通じて「実存主義」を謳い、生存中に時代の寵児となったことは、かつての婚約者を偲ぶキルケゴールの一途さを思うとき、あまりにも皮肉なことである。陰謀論者であれば、この換骨奪胎ぶりに、何らかのカネの臭いを嗅ぎ付けることは、さほど難しくはないであろう。家族という制度・構造・規範に着目するとき、サルトルの行為は、実存主義という語の「背乗り」であるとも解釈できる。なぜ、サルトルがキルケゴールをサルトル自身の「実存主義」の先駆者であると認めなかったのかは、陰謀論者風に解釈を進めることもできる。サルトルが自身を作られた偶像であると認識していたとすれば、また、家族という伝統を軸に置いたとき、キルケゴールの主張とは異なり、サルトルの主張が権力集団に傅く方向で作用することにサルトル自身が自覚的であったとすれば、サルトル自身の強弁は、彼の学問に対する悪行を、ひねくれた形で懺悔したものと解釈することも可能である。私は、初めて彼らの思想に接したときの違和感を、ようやく、陰謀論という思惟形式の助けを借りて、整合的に解釈できたように思うところである。

刹那の快楽に慰めを見出すサルトルの姿勢は、待ち時間モデルの時間に係るパラメータが限りなくゼロに近いものと評することができようし、その対極に、キルケゴールの一生という待ち時間を対置することができよう。人間の一生は有限であるから、時間パラメータも有限でしかなく、人間は、せいぜい、その時間に見合うだけの誠意しか見せることができない。ただ、自身の残り時間のすべてを同じ人に捧げることができる人は、幸いというほかなかろう。このとき、私は、どうしたものかと考え込んでしまう程度に、ダメ男なのである。

これら先達の思想を並べてみたとき、ある意味、合理的(=非人間的)でもある私は、今の状態からの脱却を図る上で、どうしても既存の法秩序に違和感を覚えてしまい、何とかして、キルケゴールの「正」とサルトルの「反」を経て、「止揚」を果たすことができないのか、と思ってしまったりもするのである。その一つとして、自由な性風俗産業という市場を改造するという、ちゃぶ台返しを空想してしまったりもするのである。この考え方は、空想的社会科学主義者でポリアモリーのはしりとも言うべきフーリエ(、建築・土木・都市計画分野では、ファランステールの構想と監督で有名、資金をブルジョアにねだるなと『共産党宣言』で批判される)のライフスタイルとは対極にあり、カルト宗教のいくつかに酷似した思想でもある。

20世紀後半以降の哲学は、ソクラテスの時代に立ち戻り、二人(2集団)が、お互い納得できるまでの対話を大前提とするようになったが、この流れには、非暴力主義の目標である「和解」が深く影響しているようにも思われる。古代ギリシャでは、奴隷や男女格差を前提とした「市民」同士の対等な関係の構築が目指された。これに対して、非暴力抵抗の教えは、黒﨑真氏の説明を借りると、差別の解消というゴールに至るために、お互いが相手を打ち負かして上下関係を作ろうとするのではなく、異なる条件を持つ両者がお互いを対等な人間と認め、和解するほかないことを強調する〔pp.72-75〕[5]。武力・暴力は、勝ち負けを通じて、敗者には覆しようのない上下関係を人間社会に作り出す。国際連合で主唱されてきた「差異ある平等」は、この理念を前提として編み出されたキーワードであるが、この組織のはしりが第二次世界大戦の戦勝国すなわち連合国であったことは、善い意味で捻れた話である。

当然ながら、和解しようとする二人(2集団)が求める内容は、お互いが納得できるだけの幸せな状態であるはずであろうが、しかし対話がなければ、お互いに損な状態を続けてしまうという誤謬がある。ゲーム理論にいう「囚人のジレンマ」である。囚人のジレンマでは、被疑者(あるいは被告)の二人がお互いに申し合わせることができないからこそ、疑心暗鬼に陥り、お互いをチクリ合い、重罪に処せられることになる。現在の世界もまた、それぞれに不幸せな国民が分断統治された状態にあると言うことができるかも知れない。もっとも、TPP11のように、強者である無国籍大企業群が自由に国境を超えることができる現在では、国民国家が強化されることは、ほぼ唯一の、同毒療法の前提でもある。

カネの力で好き放題する連中がのさばってきた中、大勢の弱者に与えられた対抗手段は、本稿に示した解体されつつある家族制度に留意して、共通の成熟した意識を持ち、圧倒的な人数比で、カネの力で靡かせようとする人物たちの影響力を封じ込めることしかなかろう。人権という概念が世界的に認知されるようにはなった(、ただし、わが国では、実践されていない)という事実を前提とすれば、現代における人海戦術は、現代的な権力構造に対する必要十分な理解を前提とした上で、パートナー間の愛情によって実践される必要があるのであろう。このとき、人間の弱さ・愚かさに配慮するなら、人権を自ら損なう種類の個人の自由は、対話を通じて、抑制される必要があろう。対話でもダメであれば、そのときどうするのかは、私には分かりかねるのであるが。

私は、身勝手にも、以上のように考えみたが、結局、冒頭の疑問に対して、自分の答えを見つけられないでいる。結局、待つことについては、頑張れるだけ頑張ろうとも思うが、早くもメンタル崩壊寸前であることも自覚している。本稿は、自身の執着心(のみ)から生じた自身への責め苦に対する、せめてもの気晴らしから編まれたものでもある。完成度に難があることは自覚しているが、陰謀論者がこの辺の考察を行った形跡はないから、ここら辺の悩みをきちんと整理して提示した先行研究が存在するものかを後ほど探した後、有用であるかどうかの結論を出すことにしよう。キルケゴールによれば、私自身が考え抜くことが大事ということになるが、それを公開してしまうことは、また別の機会に考察すべき話にもなろう。


おまけ

戦後のわが国においては、日本人女性への性暴力を低減するという建前で、売春制度が整備・運用される一方で、残る国民に対しては、夫婦関係における貞節が強調され、明示的・非明示的な方法を通じて、人口増が奨励された。この取合せは、二枚舌というに相応しいものであり、女性全般に対する官民共同型の性の管理と搾取の両輪であったと言うべきであろう(。ここでも、従軍慰安婦と同じく、官民パートナーシップ(PPP)が機能している)。その後の経済成長を通じて、色町の発展は継続した。色町における人間関係は、被差別民であった民族集団の一部の特権集団化を補助線として、日本の権力構造を裏から規定した(。誰がどう言おうが、これは事実に近い表現である)。その世界の様子の一端は、古くは松本清張により、近年では多くの優れた劇画やノンフィクションにより良好に表現されているから、その筋の人間の言葉を直接に聞かずとも、一般人でも、十分に警戒心を抱くことができるであろう。

このやり口の問題は、夜の街を構成する私的な社会集団に(進んで)身を投じた経験のある人々は、インサイダーとみなされ、いつまでも搾取の対象とされる羽目に陥ることである。前稿で指摘した「いつまでも記録の残る社会」において、この種の関係性は、よほどの飛躍によらなければ、いついつまでも、個人を縛ることになる。この実例として、政界を例にとれば、小池百合子氏に対する文藝春秋の記事や、朝日新聞による細野豪志氏の記事を挙げることができる。これと同様の搾取が裏社会に近い業界で行われていることは、単に知られることなく、細く長く、認知されない犯罪として行われているものと容易に推測できるし、脆弱性として現実に存在するものであることは、否定しようのない事実である。搾取的な社会構造を変えることを個人が願うのであれば、その個人は、できる限り狡猾であらねばならないのであろう。


[1] カール・マルクス, フリードリヒ・エンゲルス, 大内兵衛・向坂逸郎〔訳〕, (1848=2007). 『共産党宣言』(改訳改版), 東京:岩波書店(岩波文庫).

[2] ヴェルナー・ゾンバルト, 金森誠也〔訳〕,(和書・たしか改訳2000).『恋愛と贅沢と資本主義』, 東京:講談社(講談社学術文庫版).

[3] エーリッヒ・フロム, 阪本健二・志貴春彦〔共訳〕,(1962=1965).『疑惑と行動 マルクスとフロイトとわたくし』, 東京:創元新社.

[4] ポール・ストラザーン, 浅見昇吾〔訳〕, (1997=1998). 『90分でわかるキルケゴール』, 東京:青山出版社.

[5] 黒﨑真, (2018). 『マーティン・ルーサー・キング 非暴力の闘士』, 東京:岩波書店(岩波新書).




2018(平成30)年6月30日12時35分追記・訂正

本文の表現を一部改めるなどした。

本日、自由民主党幹事長の二階俊博氏の少子化に係る発言を批判する記事を見かけたが、この二階氏の発言に対する林泰人氏の批判には、性と経済との抜き差しならない関係への言及がない[6]。この欠如は、林氏が忠誠を誓う勢力を推量する上で、確定的な材料とはならない。しかし、林氏が引用する外国人の意見を並べてみる限り、この記事は、両建て構造のBチームとしての機能を果たし、対立を煽るだけに終わっている。少なくとも、林氏の記事には、この解釈そのものを許す余地が認められる。

両建て構造において、Aチームの支配原理は、強者の論理を反映したものであり、暴力・金力こそが正義を体現しているが、この一方で、Bチームの支配原理は、愛と公正を連帯により求めるという弱者の論理を反映したものである。ときにBチームは、Aチームの支配を打ち砕こうとするあまり、性の解放を過剰に主張する論者の意見をそのまま利用することがある。この陥穽は、もちろん、『共産党宣言』の当初から気付かれていたことであるが、またもや、過ちが繰り返されようとしているということもできよう。それに、同書にも元ネタがあることは、陰謀論者なら、良く知るところであろう。


なお、本稿に関連して、生煮えであるが、指摘しておきたい;赤尾光春・向井直己の両氏の編集による『ユダヤ人と自治 中東欧・ロシアにおけるディアスポラ共同体の興亡』[7]は、11章「「捕囚の中の捕囚」の地としてのロシア――ソ連邦におけるユダヤ教の自治とハバド・ハシディズムの地神学」(赤尾光春)を含むが、同章は、ソヴィエト・ロシアにおけるユダヤ人の弾圧を加速したのが、ユダヤ人社会の革命化を目的として1918年に共産党内に設置されたユダヤ人部会(Yevsektsiia、イェフセクツィヤ)であったことを指摘する〔p.303〕。他方で、この弾圧は、同書の序章に見る限り、ロシア革命当初時点では、必ずしも予定されていなかったもののようにも読めてしまうものである。つまり、同書の

一九十七年の二度にわたる革命によってようやく市民として解放されたロシアのユダヤ人は、歴史上類を見ない特異な状況に置かれた。ヘブライ語を基盤とするラビ・ユダヤ教とシオニズムが「ブルジョワ的反動」という烙印を押されて過酷な弾圧に晒される一方で、イディッシュ語を母語とするユダヤ人の世俗的な大衆文化は公的に認められたばかりか、国家の後援によって発展を保証されたのである。内戦の終結と諸共和国の編入を契機に、ソヴィエト政権は、「土地に根差すこと」という意味の「土着化(korenizatsiia)」政策を採り、「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という党路線に沿う限りにおいて、ロシア以外の諸共和国における民族文化の自治政策を推し進めた。〔以上、p.14〕このような政治的背景の中で問題となったのは、この民族文化が根差すべき土地をもたないユダヤ人大衆であった。そこでソヴィエト当局の間で浮上したのが、極東のビロビジャン地方にユダヤ人の自治州を創設し、移住を促進するという計画だった。〔…略…〕縁もゆかりもない土地に、ほとんど開拓者のようにして送り出されたユダヤ人が、ビロビジャンを「乳と蜜の流れる地」へと変容させていくという、メシアニズムともユートピアニズムとも呼べるようなモチーフは、「ディアスポラへの定住」という、シオニズムとはおよそ対極の理想の表現でもあった。

「ディアスポラへの定住」、ないしは「ディアスポラのユダヤ化」ともいうべきこの思想は、無論、ビロビジャン自治州の構想を受けて突然作られたものではない。第一一章〔…略…〕は、ハバド=ルバーヴィチと呼ばれるハシディズムの一派において、ロシアというディアスポラの地への固着・愛着がいかに形成されてきたかを跡づける。著名ではあれ必ずしも主流とは言えないこの一派が帝政ロシアからソヴィエト体制にかけて採ってきた生存のためのしたたかな闘争――それは今日のロシアでの活動にも形を変えて継承されている――は、アシュケナージの近代における「自治」の歴史を再考する上で示唆に富むものである。

〔pp.14-15、序章「隷属と独立のはざまで」(赤尾光春・向井直己)〕
という記述は、民族や宗教によって画一的に個人を規定してしまう人種・宗教プロファイリングの恐ろしさを示唆する材料になりこそすれども、ユダヤ人社会の全体が世界的な陰謀を企画実行してきたという見解を肯定する材料には、到底なり得ないものである。

しばしば、陰謀論を批判する側の論者の記述は、陰謀論者が一面的で雑駁な見方をするものと決めつけるようなものとして公表され、その雑駁さにもかかわらず、なぜか大いに流通し、受容されている。この種の論者の手になる書籍の中では、田中聡氏の『陰謀論の正体!』は、まだ、陰謀論の中身に多様性があることを指摘している分、マシというべきではあろう。しかし、本稿でいち陰謀論者である私が示すことができたものと思うように、最早、陰謀論者を画一的に規定すること自体、時代遅れというべきであろう。もちろん、私の田中氏に対する評価が二段底であることは、言うまでもないのであるが、それは、またまた次の機会ということにしておきたい。


[6] 日本が抱える少子化問題の真の原因が海外に拡散。二階幹事長の“身勝手”発言 | ハーバービジネスオンライン
(2018年06月29日、取材・文・訳/林泰人)
https://hbol.jp/169324

[7] 赤尾光春・向井直己〔編〕, (20170315). 『ユダヤ人と自治 中東欧・ロシアにおけるディアスポラ共同体の興亡』, 東京:岩波書店.




2018(平成30)年7月2日訂正

誤字・脱字の多さが気になったので、一部訂正した。まだ、新規性や面白さについては自己評価を下せていないが、本稿の射程が陰謀論と呼ばれる分野の範囲に留まることは、間違いのない事実である。




2018(平成30)年8月2日12時10分訂正

一部を訂正し、淡い橙色で示したが、本筋には影響ないはずである。