私は、社会的な評価からすれば、はぐれゾンビ (純情派)と形容できる境遇を生きてはいるものの、本ブログを訪れる読者諸賢が予想されるであろうよりは、この暮らしを楽しんでいる。私も「可哀想な」種類の男の例に漏れず、どうにも生じてしまいがちな負の感情に悩まされてはいる。自分の不行状ゆえに大切な存在を失った(ばかりの)先進諸国の独身中年男性ほど、扱いに困るという点で、テンプレ的なキャラクターもなかろう※1。普段は、満たしようのない空虚さを埋めるために生き急ぎ、他人の迷惑を顧みず、自身の正しいと思うところを行い、そこで生じた些細な行き違いで、容易に攻撃的になる。私も、全くその例に漏れないし、その点を自覚してはいる。しかし、そこはそれ、私の信条のひとつは「勿体ない」であるから(、一部のマウンティング系男性「フェミニスト」とは異なり)、この境遇自体が、生きる実践であり、参与観察であり、リサイクルの対象となっているのである。今の私は、知ったこと・学ぶべきことが多く、やることも山積しているので、その点に慰めを得ることができている。
同時に、現時点の私は、今までのイージーゴーイングな生涯において、調査や分析や考察や思索をもっともっと進める必要があったことを痛感している。今後、思いを寄せる人から幸せを沢山受け取りたいと願う余り、向こう見ず(だが、遵法的なはずで、かつ、かの人には、明示的に制限されなかったと理解しているよう)な行動を起こすとしても、私は、それまでの準備なくして、自身の経験をその後の考察に十分に生かすことはできないものとも思っている。その準備作業を終えたり、(能力不足などから私自身が)耐えかねたりすることは、私がいくら遵法的と思う行動に留まろうと考えているとはいえ、相手のあることであるから、一定の社会的なリスクを生じさせることにはなろう。しかしながら、ネットで何かを訴え、次いで大きな(被害や不幸を意図的に生じさせるという)事件を起こす人々は、一定数いるものであるが、私は、その列には加わらない。この点だけは、重ねて強調しておきたいことである。私が本ブログを記し続けること自体を一種の自傷行為と見ることも可能ではあるが、それでも、私は、他者への不幸と自身の不幸とを分別し、他者には余分な不幸を与えないようにしているつもりである(し、重ねていうが、私は、自分も他人も身体上の危害を与えるつもりは毛頭ない。精神上の厄災とも呼べる結果は、ここまでの道行きからして、避けようがなかったとはいえ、その後については、本ブログの記述を含め、悪影響を極小化するように行動しているつもりではある)。
本ブログは、私事に言及するようにはなったものの、依然として、公開座敷牢のような場所で、公的な事柄を述べるに留まるものである。(もっぱら、私自身や日本人という社会集団に係る)不吉な予測は含むものの、私自身の具体的な行動に先立つ、いわゆる「ネット予告」の場ではない。あくまで、自身の経験をリサイクルして言論と化すのが、平和志向の(、他称では嘘吐きとされる、)陰謀論者の矜恃というものである。それよりも、本ブログは、どちらかと言えば、かつてのフリーク・ショーの現代版であり、万国博覧会の人類展示の延長である。後者は、前者よりも、多少の差別性が減じられたものであったが、依然として、優生学的な見地を有していた(#出所は、講談社学術文庫辺り?の記憶しかないが、またの機会に)。むろん、ここでの比喩は、一種の差別的表現になると知りながらも表出したものであるが、私が陰謀論者というラベリングを甘受し、同様の視線がこのレッテルに付随していることを承知している以上、その差別性を余すところなく表現する上で、最適と判断したために利用したものである。また、現代的な作品の一つとしてとらえた場合、本ブログは、リアリティ・ショーというには、読者を楽しませようという心掛けに欠けはするが、それでも、この一亜型に含めることができよう。本ブログを研究素材であると形容することは、十分に可能であろうし、当初の意図からしても、適切である。
私自身は、今までになく作業スピードを上げているつもりであるが、やることリストは、やればやるほど、積み上がる一方であるから、当面、私から自身の環境を大きく変えるような挙に出ることは、ないものと言えよう。このため、現時点までの表現活動の範囲に留まる作業(質問や問合せ)の影響を除けば、私のリスク判定結果は、まだまだ低いものであると思う。通俗的な社会的プロファイリングに基づけば、私は、最も危険な状態にある属性の組合せと判定されるものとは理解している(。しかし、この種のプロファイリングは、「あなたは幸せですか」「大切に思う人がいますか」「そのほかの人たちを傷付けることで、大切に思う人たちや幸せを得ることができると考えますか」という最も大事な質問を、対面的に把握しようとしないため、かなり、効率的に失敗するのである)。それでも、私は、まだまだ平和裏にやり終えたいことを、沢山、積み残してしまっている。私自身の願いを叶えるために、私は、生きた屍※2として過ごすと宣言しながらも、人間としての幸せを求めるために行動しているつもりである。
今までの記述は、全然前振りになっていないが、ここで、私事に係る私の記述を理解する上で役立ちそうな、私自身の信条を述べておくことにしよう。これでようやく、私は、自分自身を、そこまで危険ではないものと主張できようからである。
- 人間がその生において求めるものは、表現が異なろうとも、結局は幸せである。
- 幸せの具体的な中身は個人で違えども、誰しも、自身の心に嘘は吐き通せない。
- 人間は、一人ではたかが知れているけれども、二人だけでも随分と強くなれる。
- 人間は、過ちをなかったことにはできないけれども、その過ちを糧にはできる。
- 人間は、最期のときまで何事かをなせるし、何なら、死後にも、何かを残せる。
- 人間は、感情の動物でもあるけれども、理性により自身を律することもできる。
- 人間は、大抵、仕方ないほどに利己的だけど、ときに相手のために身を捨てる。
- 個人は、同時に矛盾する感情を抱くことができ、相手にその中身を伝えられる。
- 個人のあらゆる言葉は、呪いにも祝福にもなる。聴き方により、中身が変わる。
#取り留めがないが、本稿は、これでおしまい。
※1 私が直近で見かけた同類のキャラクターは、FOXの『HAWAII FIVE-0』のダニエル・"ダニー"・ウィリアムズ(Daniel "Danny" Williams, 俳優は、スコット・カーン(Scott Caan)氏)であるが(、原作を読んでないので、どういうキャラの変化が生じたのかも、先の展開も知らないが)、『半分、青い。』の律くんも、離婚したようである。しかしながら、これらの造型が本当に男性の心持ちを正確に描写できているのか、それらの架空の人物が何を目的として描かれているのか、それが果たして社会に良き影響をもたらしているのか、といった疑問は、私の中で解消できないでいる。日本の論文検索サービスは、CiNiiもそうである(と断定しておく)が、あまりにも一般の利用者に対して閉鎖的で、かつ、使いにくくできている。私のような無職に毛が生えたパンピーが自身の問題を解消しようと思い立ち、まともな文献に当たろうと思ったとき、怪しい(と私には思える)団体に接触する必要なくして、独習する方法に欠けているのである。世の中の半分くらいは男で出来ているのであるが、男が頼ろうと思えるだけの専門的なリソースに行き当たることは、なかなか難しいことである※3。
※2 ところで、哲学的ゾンビという表現も、なぜ、ジョン・サールが、哲学的ロボットや、哲学的単細胞生物や、哲学的ゴーレムなどと表現しなかったのかを考え始めると、非常に興味深く思うところである。哲学的ゾンビは、術者の命令を聞かないから、ブードゥー教のゾンビにも当たらないが、現代的なシミュレーションにおけるオートマトン・エージェントには当たるし、何より、動物と表現すれば済む話である。端から正しくない用語の興りを調べるほど暇ではないので、明らかに概念上、不適切な命名であることだけを指摘するに留める。繰り返したことではあるが、国際秘密力集団への言及抜きに、ゾンビという概念を流行させようとするヤツは、大抵、碌でもない。
※3 ここは、あえて、このように断定しておく。これは、既存の複数の支援団体が存在することを知っている上での問題提起である。日本社会では、まともな友人に恵まれている男性なら、パーッと遊びに行こうぜと誘われて、遊んで終わる種類の話になろう。その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。他方で、一人の日本人男性が独力で自身の弱さに起因する問題と真剣に向き合おうとしたとき、わが国=日本語環境には、まともなリソースが存在しない。その貧困さは、たとえば、『「女子」という呪い』で雨宮処凛氏がまともな男性として紹介する田中俊之氏(の著書)によって説明できる。小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).は、一言で要約すれば、著者らが男性社会に逆マウンティングしようとする対談書である。田中氏は、これ以上、男をひさぐ男だと揶揄されないためには、(坂口安吾風に誹謗すれば、)自らをとことん墜とした後に、自身の所説がそれでも変化しないかを点検する必要があろう。この点、私は、田中氏が可哀想だと描き出す種類の男性としての人生を体験しているし、その上で、本ブログを精査すれば分かることであるが、上掲の小島・田中書にも示された論点に係る自説を曲げている。まあ、(今秋発売の2ではなく)『Red Dead Redemption』の世界なら、問答無用でお終い、の話である。田中氏は、それだけの覚悟抜きに機微ある話題に触れたという自覚もなかろうから、このような対談本を世に問うてなお、リベラルを自認できるのであろう。
以下、とりとめなく、最近読んだ本で関連する話題について、触れておく。(1)『男性の非暴力宣言 ホワイトリボン・キャンペーン』(多賀太・伊藤公雄・安藤哲也, 2015年, 岩波ブックレット)からも、お近付きになりたくない種類の高慢さを感じたと指摘しておく。段落読みできないという時点で、学術関係者が参画する流行輸入型運動としては失敗だし、何より、ほぼ全ての男性が日和見的に暴力を振るい得るという事実に対して、まともな回答を(本稿を世に問うた私に)与えてくれるものではない。(2)段落書きが研究者の能力を示す上で重要になり得ることは、『日本の男性の心理学 もう1つのジェンダー問題』(柏木惠子・高橋惠子〔編著〕, 2008年06月30日, 有斐閣)の構成によって、申し分なく示されている。各章の本文の書き手の女性研究者は、例外なく段落書きが徹底できている一方で、男性研究者(特に大御所と見える連中)は、恥ずかしい文章しか書けていないからである。私は、これを分かる人には分かる皮肉としての編集結果かと、穿ち読みしてしまった位である。それ程までに、女性研究者は、最近明らかになった東京医科大学の女性への不当な減点(=男性へのゲタ)と同様の逆境を生き抜いてきた結果、同僚とはいえないが、隣接分野の(元)研究者(のつもり)の私にも分かる位に、インテグリティのある文章を世に問い、したたかに生きる術を身に付けているとも(狡猾であると、良い方向に)評価できるのではなかろうか。多賀・伊藤・安藤の三氏の書への低評価は、この反動として理解すれば良かろう。彼ら(三氏)の行動は、文章の堅牢さだけで判定すれば、単に新規性の見られる分野に言及することを通じて自らの権力拡大を図るという、猟官活動の一種としてしか、理解できないのである。(3)さらに指摘しておくと、野内良三氏は、『偶然を生きる思想 「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス1118, 2008年08月30日)の第五章において、九鬼周造の考究した偶然に言及しながらも、そこに強引さを認めているようであるが、そこは、野内氏が九鬼の恋愛における苦しみを汲み損ねただけではないかとも言える。九鬼は、自由恋愛の極北の地で巡り会った女性を一個の独立した人格と認めたからこそ、「諦め」という概念を導入しなければならない程に苦しんだのであろうし、それを如何ともし難い種類の(原始)偶然と呼ばなければ、何とも説明をつけ難かったのではないか。この九鬼本人に特有の事情を、自らのものとして引き受けないで考えようとするから、評価が変になるのでは?というのが、生煮えの私見である。
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