2018年7月18日水曜日

(私事)庶民の両建て戦術はマイナス収支となる

はじめに

見出しの主張は、現代の日本社会における庶民の生活に係る黄金則である。少なくとも、私は、そう信じている。「庶民の私生活における両建て戦術」とは、「私生活において、庶民が何か一つの目的を達成しようとするとき、対立的な複数の手段を自らに許すこと」を指す。具体的には、目先のカネのために兼業したり、異性と交遊したいためだけに複数の異性に対して同時に粉を掛けたり、他人様に言えない活動をしながら市民として生活しようとしてみたり、といった内容を念頭に置いている。このような行動は、「選択と集中」という成功則とは真逆に、ブレーキとアクセルを同時に踏むような効果を引き起こし、結局は、個人が何事かを成し遂げる上での妨げになろう。このような無理な生き方に対しては、自らの専門性を高め、正業に邁進するという生き方を対置できるであろう。後者の生き方は、今でも、道が随分と細くなりはしたが、成功への最も分かりやすいコンパスである。要するに、庶民にとっては、「一石二鳥」よりも「二兎を追う者は一兎をも得ず」の方が真実に近いのである。

最近では、何でもお金になることを引き受けるという「百姓」がもてはやされたりもするが、はっきり言えば、この生き方は、「追い込まれたがゆえに採らざるを得ない」、いわば、「貧乏農場」組の受動的な生き方である。ここ15年ほどの私の経歴も、この「個人の両建て戦術」とも言える生き方に含まれるものである。私は、シングルタスクをようやくこなせる程度(せいぜい2ビット・2軸の両建て)の能力しか持たないために、この生き方のデメリットに十分苦しめられてきた。持たざる者・機会に恵まれぬ者ほど、そうでない者に比べて、特段の努力を求められることになるが、何にでも低い報酬で手を出すという方法が次善の策でしかないことは、さほど、理解されていないものと見える

今回は、私の思い人に対して自分の考えを訴えるという私事を目的としながらも※1、このデメリットを、とりとめなく考察してみよう。


兼業という「両建て」的働き方のデメリット

生計手段について、同じ所得の専業者と兼業者を比較すると、兼業者に同額の所得機会がそもそも用意されているかどうかはさておき、専業者の方が楽できるし、ワーク・ライフ・バランスの実現も容易であるが、このことは、投資という副業ひとつ取ってみても明らかになることである。基本的に、個人にとって、あらゆる投資は、全く甘くない※2。株式取引の収支は、朝の寄付(8:00~9:00)と午後の寄付(12:10~12:30)までの時間を十全なネット取引環境の前で過ごすことができなければ、個人のお小遣いがマイナスへと転化する程度には悪化するであろう。このとき、非正規よりも正規労働者は、時間の調整が総じて簡単であり、結果としてお小遣い稼ぎし易い(。少なくとも体験的には正しいし、就業時間内に株や先物やFXにのめりすぎて懲戒処分を受けている公務員は、大体が正規職員のようである)。日足チャートで稼ぐ方法は、複数の著者が考案・提示しているし、テクニカルな方法の中では真っ当な稼ぎ方で、誰でも真似できそうだとも評価できるが、それでも、安定した正業=専業があってこそ、この方法を採用する気になれるというものであろう。それに何より、正社員の方が重要な仕事を任される分、インサイダーになり得る機会も多かろう。

この経済的な本業は、従来の日本株式会社の従業員たち、特に男性たちに対して、個人のアイデンティティを付与する主要な柱ともなってきた。この一方で、結婚することで専業主婦となった女性たちは、パートナーの影とはされた。しかしながら、彼女たちが主婦という安定的なアイデンティティを獲得し、その属性を受け入れて、(料理や芸事に係る)多彩な文化・社会的活動を展開してきたことも、否定できない事実である。他面、これらのレールから外れてしまった人たちに対して、わが国の社会は、消えた年金問題に代表されるように、昔から冷たい扱いをなしてきたし、この差別的な扱いを放置してきた。家族制度に対する通念は、家族の問題は家族で処理するようにとの社会的同調圧力を通じて、この差別を肯定し、強化してきた。

複数の職場に勤務した経験のある社会人なら、事務手続にハウスルールがあり、それらを覚えて間違いなくこなすことが、職場の人間関係をやり過ごす上で非常に重要な儀式となることを、必ずや学んでいるであろう。派遣社員の方々に対しては、この点、本当に尊敬の念を覚えるばかりである。正社員と同等以上の感情労働に従事させられる上、給与は少なく、しかも派遣先が変わる度に覚えたハウスルールが無駄になってしまうのであるから。私は、なぜハウスルールがこうなのかと考えてしまい、前の職場とも比較してしまったりもして、結局、宮仕えが難しいものと自分で自分を査定してしまっている(。大学なら大学で、完全に手続を標準化できるはずだし、そうすべきであると考えているのは、私だけなのであろうか。旅費システム・経理システムも、全国的に整備できて当然である)。

基本的に、今現在の日本社会においても、個人は、働き方が専業的であれば、本業により良く集中でき、より多くの成果を生み出し、それに見合う高い報酬を得ることができる。このレールが本格的に脱線経路だらけになってしまったのが、90年代後半からの、就職氷河期である。中高年の首切りが慣行化したために、若年者であっても、一旦レールを外れると、個人は、以前よりも相当に高い代価を払うように求められるようになった。この割を大きく食っているのが、私を含む世代であり、近い将来、社会不安を呼び起こすことになるものと予想できる。


独身者という弱者を襲うジレンマ

皮肉なことであるが、個人の力ではどうにもならない環境に置かれた時、他人よりもやる気に優れ、頑張ることに価値を見出し、他人の努力と自身の努力との間に優劣を見てしまう人ほど、無駄に、かつ、悪い方向に努力してしまうという落とし穴に陥りがちである。特に、何らかの理由に駆動されて働かざるを得ないと思い詰めたとき、その個人は、自身の能力の許す限り、何にでも手を染めてしまうものである。犯罪であれ、合法的だが個人の尊厳を損なう行為であれ、である。いったんこの悪循環に陥ると、当初こそ合法的であれども、やがては犯罪者・元犯罪者が一丁出来上がることになる。

しかし、その個人が周囲の人たちを頼るという選択肢を顧みないことは、1足す1が2を超えるというケミストリーの力を信じないもので、いかにも勿体ないことである。人は、思いやる相手がいてこそ、自身を律することができるし、高いパフォーマンスを叩き出せるようになり、その状態を維持できる。性犯罪者にこそ該当しない話のようであ(り、わが国では、私のような境遇では利用できないデータには、検証可能そうなものが含まれるようであ)るが、妻帯者は、基本的に、社会的プロファイリングにおいて、犯罪傾向が小さなものと扱われがちのようである。この定性的な偏見は、たとえば職務質問を行うか否かに当たっての警察官の判断を通じて、社会的な相互作用として形成・強化されるものである。

しかし、社会には、このような二人の関係を作りにくい状況に陥った人たちも、厳然として存在する。彼らへの手当は、ほかの個人全人的な関わりを通じて助けにくいものである以上、社会全体の課題である。例えば、シングルマザーは、私のような、寂しい中年独身男性から見ても選びにくいという点で、周囲に助けを求めることの難しい存在の典型例である。彼女らと子どもたちを喜んで助けるような男性は、なかなか求めても得られにくい存在であろう。しかしながら、ここでの私の記述は、私事ゆえに、彼女らを直接のターゲットにはしていない(はずである)ので、これで言及を止めることにする。それに、老親と同居する独身中年たちも、この範疇に含められようが、経済的には回っていると見做されちなゆえに、社会的には、低い優先順位でしか対応されていない。

付言しておくと、わが国に広範に存在する独身者の問題は、実のところ、社会関係の全般的な交流の機会が少ないために生じているのではないか。昨今流行の形式であれば、私には、婚活は無理である。婚活は、何より、双方の両親と当事者たちとの問題を直接には解決しない。パラサイト・シングルの結婚問題は、本来、分かりやすく、しかも、経済的には解決が可能そうなものである。体験的な見聞を元にすれば、彼らの問題点は、寄宿先である親と経済的に共依存的で、かつ、他の家庭との親密なコミュニケーションを取らない関係にあるがゆえに、同じ地区内に多数の類似した境遇の独身者がいるにもかかわらず、カップリングに成功しにくいという点にあるものと認められる。双方の両親とも介助者を必要としており、立派な住宅が二軒あるのに、それらの社会的資源は、もったいない使われ方をしているのである。この問題がなければ、パラサイト・シングルの問題は、伝統的な嫁姑問題に帰結する(。ただし、現時点では、舅婿問題の方が相対的に問題化しているかも知れない。嫁姑問題は、姑が開明的になり、嫁が働きに出なければならないので、多少は、軽減されているのではないか。他方で、親世代が正社員幻想に囚われている限り、婿の不安定な社会的身分は、かなりのトラブルの元になる)。

私は、今の身分となってから、独身中年男性・女性たちが両親たちと同居しながら独立を望めない収入で暮らしていることを、時折、耳にするようになった。同じような傷がなければ、日本の家庭は、その弱みを他者と分かち合うことができないものと思い込んでいるようである。繰り返すが、これは、いかにも勿体ないことである。リサイクルの仕方次第では、私のようなポンコツも、もう少し、他人様の役に立つような努力へと、リソースを振り向けることができそうに思えるからである。もっとも、私が次を考えるのは、今を何とか生き延びてからのことである。


脱線;キルケゴールにみる絶望の三形態

ところで、現時点の私の絶望は、私の思い人を今の状況から連れ出すことのできない無力な自分に向き合いたくない、という心情から生じたものであるが、この心境は、ゾンビものを貫くテーマに良く合致する。私が自身をゾンビに模すのは、私の思い人を私同様の心の弱った状態に引き摺り下ろした上で、私の理解に感染させてしまいたいと願っているからである。この心情は、自分の状態にまで相手を貶めたいと願う点で、ニーチェのいうルサンチマンであり、この見方は、ゾンビ研究の共通理解となっているようである。しかし、一旦、一人きりでは限界があるという弱さを受け入れれば、われわれ人間は、逆に、一人でいたときよりも強く生きることが可能となる。ゾンビは、常に、大群(hoards)を作る傾向を有するが、この特性は、数は力なりという主張を含む点で、人権という理念に基づき平等・公正を求める人間というモチーフを潜ませたものでもある。ゾンビという表象を扱う表現者は、ニーチェの言うことを受け入れた上で、しばしば、ゾンビであることにも一定の救いがあることを示唆するものである。これに対して、ゾンビものにおけるサバイバーたちは、しばしば絶望し、仲間割れし、結局はつまらない死を迎えていたりする。ゾンビものにおけるサバイバーたちは、いかに死ぬかを張り合ってみせるという点で、本来の仲間内で、競争的存在・修羅(道に墜ちた亡者)としていがみ合うのである。

私の絶望は、自分自身ではどうしようもない現実を認識しつつも、自分にできる努力を放棄したという点において、低レベルのものである。キルケゴール『死に至る病』は、絶望の中身を3段階に分けている。1「自分が自己を持っていることを自覚していないままに、絶望している状態」、2「自分が自己を持つことを自覚しつつ、絶望のあまり、自分自身であろうと欲さない状態」、3「絶望しながら、自分自身を保とうとする状態」として、3番目を(神への)反抗であると述べる。当時の男尊女卑の風潮を反映して、キルケゴールは、1番目を婦女子の絶望、2番目を男性の絶望と定義しているが、私に言わせれば、私が好きになってしまう人たちは、女性であろうが、3番目の「反抗」反逆を生きているように見えるのである(参考文献[1]に、該当部分を引用した)。

私は、私の思い人の自助努力が、その人自身にとって悪しき結末をもたらすとともに、私の言葉が呪いとなってかの人を苦しめるものと予測する。かの人の長所は、常人では耐えられないような両面的な生活を、取り続けてきたことにもある。この一方で、その人並み外れた努力の結果、かの人に報いる人がいなくなるという逆説的な状態が存在し得ること、その努力の成果が遠い将来に不当な形で奪い去られる可能性があることを、私は危惧する。もっと言えば、私は、かの人の心に呪いを刻むことになることを、重々承知の上で、この不吉な予言を発している。私が側にいようがいるまいが、かの人は、私の悪しき祝福とともに、そのときが来るまで、将来を歩まねばならないのである。ただ同時に、私は、思い人に対して、社会的には死んだかのような小さき私も使い方次第で活かしようがあることを、何度も訴えてきたつもりである。この私の指摘は、かの人に対してダブルバインドとして機能するが、両建ての方法を悪用した以上、私自身への刻印ともなるものである。


クリエイティブな仕事における集中の必要性

一人の作家・クリエーターが、複数のアイデアを同時並行的に実現・創作できているとすれば、彼ないし彼女は、同業他者に比べても、突出した才能の持ち主であろう。現に、あれだけ競争が激しい少年漫画週刊誌において、このような偉業を達成している人は、ほとんど見られないではないか。やはり、何か軸となるもの(コアコンテンツ)があって初めて、創作物の世界も、消費者の賞賛を受けられる程度に深まるものであろう。

他面、卑近な事例となるが、私は、同時並行的に研究を進めるという無茶振りを受けて、努力はしたことがある。結果は、誰かに聞かれれば述べるに留めたいレベルの黒歴史感で一杯であるし、何より、それらは、公開資料を調べれば分かる話である。凡人は、自身がアイデアを産出すべき研究・創作物を、複数抱え込むべきではなかろうし、マネージャーたる者は、そのような無理を他人に負わせるべきではなかろう。創作や研究という、個人ないし少人数の才能が要求される作業においては、やはり、選択と集中が必須である。その選択を手助けする方法として、異業種・異分野交流が必要なだけではないか。


二重生活という「両建て戦術」の帰結

経済の話よりも突飛になるが、私生活において、庶民がパートナーを両建てするようなことは、大抵の場合、とんでもない結果を引き起こすことになろう。上級国民なら、複数の家庭を持ちながらも、それぞれを同時に幸福にする程度の資産と権力に恵まれているのかも知れないが、私がすぐに思い出せる限り、そのような成功を収めた人々は、工藤美代子氏によって描かれたような笹川良一氏くらい(『悪名の棺』幻冬舎, 2010年10月)であり、少なくとも、そのレベルの名士でなければ、この種の欲望を満たすことが難しいということなのであろう。鈴木智彦氏かの本のいずれかに、7号さんまでいる暴力団(、あるいはヤクザの)組長がいるみたいな話があった覚えもなくもないが、まあ、例外的ケースであろう。元東京地検特捜部長の石川達紘弁護士(当時78歳)の引き起こした今年2月18日の死亡交通事故は、図らずも、私の主張を強烈に肯定してしまうケースである(が、このことは、例によって、『朝日新聞』では報じられず[2]、週刊誌メディア[3][4]が明らかにしているところである)。

二重(多重)生活のために嘘を吐き続けることは、基本的には、無理である。いずれは、他者にバレることになる小嘘を吐き続けることになり、自身への嫌悪感を高めるという副作用まで引き起こす。小嘘を吐く理由が不倫であろうが、ほかの理由であろうが、案外、周りの人々は、小嘘を吐く人の話のどこが嘘であるのか、場合によっては、隠したい秘密が何であるのかまでを、まあまあ正しく、勘付いているものである。結局、自身の生活の平穏を他者にも尊重してもらうためには、正直が一番ということになる。両建て生活というものは、基本的に、庶民には、無理なことなのである。

(ここに記すことが適当かどうか、一応悩んだが、)私の思い人が自炊していると述べたことは、事実の半分を述べたものであろう。本当のところは、休みのときに、という程度ではないか。外食続きは、体調を崩す要因となり得るし、一時間半の余裕では、外食しか選択肢がなかろう。このことを問い質し、私の推測の正確性を確認してもみたいが、これもまた、叶わぬことなのであろう。

複数の異性を同時に愛してしまうというシチュエーションは、古今東西の名作に限らず、時代が変わろうとも、人類にとって、定番の題材であり続けるであろう。今は、メンタル面で申し分のないイケメンが、モテを堪能する作品が人気を有するようである。これに対して、『源氏物語』は、モテ男が悲しい性を持て余す様子までを描き切る点で、読み継がれるに値する完成度を誇ると言えよう(。オッサンであっても、高校生までの勉強は、まだまだ必要なものである)。この一方で、心にハンデを負っている非モテは、基本、一人の異性を求めるのが常道であって、それ以上を求めるべきではなかろう。


人間としてのコア・コンピタンスへの投資こそが将来を拓く

独自性や創造性が必要となる分野において、選択と集中が必須であるとすれば、将来、個人に何より必要となる作業は、競争相手となる他者に負けることなく、当の他者と協力可能な人間的魅力と、人間性から分離できない種類の才能を向上させること、の二本立てになろう。今後、第一次産業・第二次産業のほぼ全ては、人間とロボットの共同作業となり、かなりの部分で自動化が達成されよう。このとき、人間としてのコア・コンピタンスに対して、集中的に投資することこそが重要である。「ロボットを使いこなすこと」は大事であろうが、「ロボットでもできること」「誰でもできること」に何らかの専門的なリソースを割くことは、逆ザヤにもなろう。今後の技能実習制度は、農作業ロボットの使いこなし方を指導し、応用に係るノウハウを伝授するというものになろう。漫然と安価で使い捨て可能な労働力を求めてきた現今の制度のあり方は、使用者の側に、根本的な変革を強いるものになろう。第二次産業における技能実習制度の実態は、すでにそうなっているものと予想するが、日本人と同じ働きを海外工場でこなせる人材を育成するという性格を、ますます強めることになるであろう。つまり、全産業の自動化は、本来の理想へと近いあり方へと、技能実習制度の実際を変容させることになろう。

人間を相手にする感情労働の場も、自動化によって、あり方が変容することもあろう。例えば、現在、私たちは、企業のカスタマーサービスに電話するとき、冒頭の自動音声応答そのものに対して腹を立てることはしない。一部の不心得者を除けば、電話口で録音しているとの通知も、問題視しないであろう。これは、私たちの大半がこの制度を、セキュリティの名の下に、感情的にも受容しているからである。他方で、現在の販売現場では、過剰な感情労働が要求されている。デパートで気分を害されるようなつっけんどんな対応をされれば、私たちは、違和感を覚えるであろう。しかし他方で、過当競争のためにフランチャイジーのオーナーという中間的存在がこのようにせざるを得ない状況を強化しているにしても、コンビニですべての店員さんたちに私たちが笑顔を要求することは、適切な振舞いなのであろうか。レジ・決済代行機能や、万引き防止・警備システムが使いやすい形で全自動化され、コンビニ店員さんたちに配慮する必要がなくなったとき、私たちは、案外、全自動化されたコンビニの方を気楽なものだと思ってしまわないだろうか。とりわけ、それが正月・お盆や深夜など、私たちが少しばかり申し訳ないと思いながらも利用するような時間帯であれば、尚更である。これもまた、性的な搾取やセクハラにもなりかねない話であるが、例えば、成人向け書籍や避妊具を購入する際、オッサンたちなら、店員の人となりに応じて、購入を決断しているのではなかろうか。

これらの現実を考慮するとき、究極の感情労働である性風俗産業の一部がセクソロイドによって代替されることもまた必然であるし、社会防衛主義者なら、希少な社会的資源である女性や若者たちを徹底活用する方策を、間違いなく模索するであろう。このとき、必要悪として容認されてきた性風俗産業のあり方もまた、「最小限度の業界規模」という理念に限りなく接近するように要求されよう。前稿(2018年6月30日)でも前振りしたが、理念的には、性風俗産業は、商売相手の固定制という究極のディストピア的な理念を導入すれば、限りなく最適化することもできる。戦闘的=破壊的=国際秘密力集団的な自称フェミニスト(、内実は利己主義者・新自由主義者)が指弾するように、結婚という制度が限りなく固定化された売春制度であるとするならば、なぜ、売春制度が限りなく固定化されてはいけないのか。性感染症の問題も限定的となり、常に両者の要求が満たされることを期待できるのに?私の指摘で見過ごされていると反論されるであろうことは、売春側の経済的要求であるが、これは、経済的要求である以上、個人破産の要件を限りなく緩和化すれば十分であり、この問題こそが問題の根にある。この点、宇都宮健児氏の業績を、私は、非常に尊敬しているとも付け加えておく。なぜ、私がわざわざこのように言及するのかと言えば、政治的立場と経済的立場は、本来、自由な組合せがあり得ることを、指摘したいがためである。つまり、健全な性風俗環境の形成(=性風俗営業の撲滅)は、党派を超えて協調可能なアジェンダともなり得る一方で、常に、リベラルの側にも、獅子身中の虫がいることを指摘したいがためである

なお、私が生業としてきた犯罪予防という研究分野は、今後を生き抜く上で必要とされる才能の裏返しと呼べるもので(しかなく)、慎重な運用が必要とされるもの(の割に、わが国では、追究することが報われないもの)である。犯罪予防の要諦は、人の嫌がることを、その人の身になって考えることに尽きる※4。人の嫌がることを突き詰めていくと、ニーチェが警告したように「深淵を覗き込む」ことになる。深淵を真直ぐに覗き込んだ挙げ句に戻って来られなくなることは、サイコパスの精神鑑定に立ち会うことなどせずとも、十分に可能なことである。そうでなければ、精神鑑定の必要な人物が重大犯罪を敢行した後に初めて精神科医のお世話になるというサイクルは、どうして成立し得るのであろうか。人が死ななければ理解しようともしないわが国の社会は、かくして、私の本業であったような、成果が目に見えにくい働きを、不釣り合いなまでに軽視するのである。同業者である研究者までもが、このような態度を日常化しており、挙げ句に、研究者を管轄する省の局長が裏口入学を堂々と要求できるのであるから、まあ、おめでたいことである(。なお、本件は、現在進行中の権力闘争の一環であるから、文科省を入口としながら、政体の中枢へと触手を伸ばす種類の動きを見せることになろう)。


私の思い人は、私には、個人的な「両建て戦術」を良しとして過剰な努力を費やしてきたと見えるが、この助言を受け入れ、私をも受け入れることのメリットを理解し、行動してくれるのであろうか。理解してくれることまでは、私も信じているのであるが。ただ、かの人は、誰にも相手をされない卑小な私がお願いしているにせよ、話をして欲しいという私の願いを無視し続けてきた。私の思い人は、薄々であるかも知れないが、無視するという決定自体、かの人にとってのリスクとなることを理解してもいよう。ただ、私を無視する実績を重ね続けたとき、かの人は、将来、自分を誇りにできるのであろうか。かの人は、私の期待だけではなく、かの人を大切に思う周囲の人の期待を裏切り続けていることにもなるが、その事実に耐えながら生きることは、案外と辛いものであろう。私自身、20代を相当に無駄と言える形で過ごしてきたことを、常に後悔しながら生きてきている


おわりに

本稿では、良く言えばオムニバス式に、庶民に相応しい振舞いが、両建てによらないものであることを確認した。言い換えれば、一つの得意分野に集中し、一人の愛する人を求めよ、というものである。てんでバラバラな内容であるし、実力不足のままに記したものであるが、仕方ない。これをまとめれば、およそ包括的な生活上の哲学が出来上がるであろうし、私の人生経験は、そのような作業に挑戦する上で、年齢の割には、全く不足気味である。私には、到底、このような作業を一人ではこなせそうにない。だから、かの人にどうか振り向いて欲しいというのが、本稿のオチである。


※1 もちろん、「私事」と銘打ちながらも、公開のブログで本点を考察するのは、それなりの意図がある。私には、公開の場でしか、話を伝えられない人がいるからである。本稿も、オリジナルな内容であり、一応、陰謀論とされる分野の考え方に基づき、何らかの教訓・事実を一般化するという作業をこなしてはいる。しかしそれでも、本記事の目的は、私事の範疇を出ないものである。

私自身の煩悶は、たかが無職に毛が生えた位のオッサンの贅沢な悩みの一つに過ぎない。それでも、記録され続ける世界において、私自身による感情の記録は、わが国のロスジェネの一例として、何らかの爪痕になるものと期待している。この時代の人間には、何事かを成し遂げたい、幸せになりたいという要求が、絶えずメディアを通して注入され続けている。私も、この現代人の例に漏れないが、同時に、二人でいることにより幸せを感じ、一人だけでは望み得ない実力を発揮できることをも主張したいのである。つまり、成功と幸せを同時に獲得する方法として、まずパートナーを得ることのメリットを強く訴えたいと願うあまり、本稿を記そうと思い立ったのである。

※2 その傍証として、ホットな話題であるが、投資信託のパフォーマンスが個人資産の5割でマイナスだとする金融庁の調査を挙げる[5]ことができる。この調査は、金融庁の発表の次週、日経平均がおかしな値動きをしていた最中に、日経[6]が取り上げたことで、業界を震撼させ、ニッセイ基礎研による「そんなことないよ」との波及的な記事も産むに至っている[7]。それに、重み付き平均値ではどうなのかとか、大口個人投資家に対する優遇はどうなのかとか、色々と疑問を指摘することはできよう。これとは別に、この記事をさらに流通させているのが、株式市場でかなりのボラティリティを誇り、デイトレ銘柄として言及されるZUUであったりする[8]ところは、何というやけっぱちな個人投資家への誘いであろうとも思ってしまうところでもある。

私も、その例に漏れないが、金融市場に参加する個人が火傷しない保証はなく、ファンダメンタルズでは日足を説明することは相当に難しいから、本来、このような鉄火場に参入する人物は、名のある金融企業に勤務し、その業界の鉄則を身に付けた上で、コネを活かして立ち回るべきなのであろう。しかし、このようなしっかりした準備の機会のないまま、退職後にこの道に直行する人も多かったのであろう。それが、現今の個人投資家の取引額の低迷につながっているのであろう。日興アセットマネジメントの2016年11月のブログ記事[9]は、日銀ETFが市場を歪めてないことを示すものであるが、中ほどのグラフ「日銀ETF買付開始以降の累積主体別株式売買動向(2010年12月から2016年8月)」では、個人の売買高だけが、マイナス19兆円となっている。この結果は、個人投資家たちが負けて退場したためと見ることも可能である)。

※3 キルケゴールの『死に至る病』[1]の「死んだように生きる」という表現のニュアンスは、訳注に示されている〔pp.255-257〕が、ここでのゾンビの比喩とは、全く異なるものである。キルケゴールの意図は、「死ぬ間際の者のように生きる」「神に迎え入れられんとする者のように生きる」の意味であり、類似概念を探せば、メメント・モリ、『葉隠』の「死ぬ事と見つけたり」になろう。

※4 私は、犯罪予防を一応の専門としてきた。そこではまず、犯罪企図者が考えるであろうことを考える。犯罪企図者は、一般人の嫌うことを考えており、私は、その考えをトレースする。私はまた、犯罪企図者の考え方に基づき、彼らがやられたら嫌なことを考える。その作業を繰り返してきたのである。つまり、私は、人の嫌がることだけを真剣に、かつ、実践しないように、実践できないように、と考え続けてきたのである。


[1] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#何故か、国会図書館に所蔵されていないかの検索結果が帰ってきたので、アフィリエイトがないことが分かる形で、アマゾンへのリンクを張っておいた。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。この絶望は、ストア哲学者流に自分自身に惚れ込んだり、自己を神格化したりして、自己自身であろうと欲するのでもない。〔…略…〕そうではなくて、この絶望は、人世を憎悪しつつ自己自身であろうと欲するのであり、自分の惨めさのままに自己自身であろうと欲するのである。この絶望は、〔…略…〕反抗のために自己自身であろうと欲するのである。それは自分の自己を、それを措定した力から反抗して引き離そうと欲するのでもない、それは反抗のためにその力に迫り、そ力に挑戦し、悪意をもってその力にしがみついていようと欲するのである――いうまでもないことだが、悪意ある抗議というものは、なによりもまず、その抗議の向けられる相手をしっかりつかまえておくことに留意しなければならぬのである。この絶望は、全人世に対して反逆しながら、全人世に対する反証を、全人世の善意に反対する反証を、握っているつもりでいる。絶望者は自分自身がその反証であると思っており、かつ、彼はそうありたいと欲しているのである。それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。〔…略…〕

[2] 元東京地検特捜部長が運転する車にはねられ、男性死亡:朝日新聞デジタル
(記名なし、2018年2月18日14時56分)
https://www.asahi.com/articles/ASL2L4Q47L2LUTIL012.html

[3] 20代女性と早朝ゴルフで「暴走ひき殺し」超有名弁護士・78歳の転落(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
(2018年03月15日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54650

[4] 速報・新型レクサスで通行人を轢き殺す――かつてロッキード事件で名を馳せた元鬼検事といた「謎の女性」
(中山桃子、2018年02月21日)
http://tablo.jp/case/news002906.html

銀座に足繁く店に通い、高級クラブをハシゴする悠々自適な生活を送っていたというのだ。前出の社会部記者によると、交通事故を引き起こしたのは早朝7時だが、その日は〝深い仲〟のホステスとゴルフ場に向かう予定だったという。

「現在、石川弁護士は奥さんとは熟年離婚に向けて話し合いをしている最中と聞きましたが...」(前出・社会部記者)

〝老いらくの恋〟に落ちた鬼検事は今後、どのような身の振り方をするのか。

[5] 投資信託の販売会社における比較可能な共通KPIについて
(金融庁総務企画局市場課、2018年06月29日)
https://www.fsa.go.jp/news/30/sonota/20180629-3/20180629-3.html

[6] 投信で損失、個人の半数 金融庁調査  :日本経済新聞
(記名なし、2018年07月04日22:00、日本経済新聞 電子版 )
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32607510U8A700C1EE9000/

[7] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について:基礎研レター
(ニッセイ基礎研究所、2018年07月13日11時02分JST)
https://www.huffingtonpost.jp/nissei-kisokenkyujyo/investigation-bank_a_23479206/

[8] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について~- 記事詳細|Infoseekニュース
(ZUU online、2018年7月9日19時50分)
https://news.infoseek.co.jp/article/zuuonline_186946/

[9] No.41 日銀のETF買付から学ぶ株式市場とETF投資(1) ~市場の歪みの検証からわかったこと | コラム もっと知りたいETF | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント
(今井幸英、2016年11月17日)
https://www.nikkoam.com/products/etf/column/column41




2018(平成30)年7月19日訂正・追記

適当であるが、内容を追記した。私事に係らない部分の話は、まだまだ、追究しがいがあることなので、別稿を立てるなどしたい気持ちがある。




2018(平成30)年7月21日7時40分訂正・追記

なるべく文の意味を変えないように、文言を訂正・追記した。

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