2018年8月7日火曜日

(私事)日々の思いは失われるばかり

日が経つにつれて、私は、大切に思う人に向けて綴ることのできる新しい言葉を徐々に失いつつある。思いを伝えたい相手と日々の経験を共有できていなければ、誰しも、それまでの相手との交流だけを手掛かりに、相手に届くように言葉を編んでみて、放つほかない。コミュ障で生活の起伏に乏しい私であっても、相手が私の言葉に耳を傾けてくれて、返事を与えてくれるのであれば、どうにか自身の葛藤と日々の生活を、次なる言葉へと紡ぎ続けることができる。しかし、沈黙を前にしてしまうと、私は、以前から変化のない心中を繰り返すことを躊躇い、思いを伝えようとする努力をも放棄してしまいそうになる。

私は、かの人からの返事を近い内に受け取れるものと信じようとしながらも、更なる呼び掛けの言葉を紡ぐことができないでいる。私が思いを打ち明けてから2か月と2週間が過ぎたけれども、かの人は、私の与えた傷から立ち直れたのであろうか。これ以上、どのように何を記せば、今更ながらの話し合いに応じてもらえるのか。私がここに残す言葉は、かの人にとって、背中を押す力になるのか、かの人を傷付けるだけに終わるのか。私は、これらの疑問に捕らわれてしまうだけで、その先にある対話への願いを、かの人に響くものに仕上がったと自負できるまでに縒り合わせて投げ掛けることができないでいる。

私は、かの人からの助言に感謝するために直接対面したいと願いながらも、自分からは踏み出せないでいる。かの人からの助言は、今の私にとって、宝物でもあり、一人で生きる上での呪いでもある。しかしながら、私は、かの人の助言に従い、傍目にも分かるほど、自らの生活を高めることに成功している。私は、かの人に対して、あなたが現実に対して善き力を及ぼすことができると、自らを以て実例として伝え、感謝したいと願う。私自身の努力は、かの人との思い出を補助線にしてきたからこそ、継続できたものである。しかし、日本語論壇の最果ての地にあるとはいえども、本ブログのような公開の場では、自ずから制限があり、詳細を記すことは適わない。また、前稿(2018年08月05日)にも記したとおり、私から押しかけることは、望まない展開を生むことになりかねず、私は、待つほかない。

手紙を認めた時には、多くの時間を掛けてもまとめかねる程の伝えたい話があった。しかし、今の私には、それらの話の続きをプライベートで伝える術もなく、日々の思いは失われていく一方である。精神の働きに緩みが生じたときには、かの人への思いが必ず湧き上がる。けれども、思いを全て書き留める訳にもいかず、私は、大切なはずの人への思いの大半を、失うに任せている。そうして私は、かの人と話をしたいという願いを叶えることもできないまま、浮かび流れる記憶を無くし続けている(。かの人や読者諸賢が、本ブログを少しなりとも後追いして下さっているのなら、ここで、私が『はてしない物語』を参照していることに気が付かれたかも知れない)。

私は今でも、見聞きする全てのものに、かの人の影を読み込んでしまい、その度に、立ち止まってしまう。私は、他者と思しき恋愛の苦しみを読むにつけても、かの人の今までの沈黙の理由を考えてしまう。私をこの上なく嫌うがゆえに罰するためなのか、あと一歩の勇気を持てないからなのか、何と切り出せば良いか分かりかねているだけなのかと、私たち自身の関係に引き寄せてしまう。その上で、私は、ただ名前を呼んで欲しい、近々会うための約束をして欲しい、と願いながらも、それ以上にできることもなく、考えを打ち切ることしかできないでいる。

どうか、会って、話をして欲しい。たとえ、その話し合いの結果、別れることを私たちが選ぶとしても。この願いは、先の手紙にも記したとおりであり、この点、私の気持ちは変わっていない。しかしながら、手紙に記した決意よりも遙かに早く、私の忍耐は磨り減ってしまっている。私は、立派に生きる(、たとえ一人で生きざるを得ないとしても)という、自分で決意して表明したはずの約束を、自分では守れなくなりつつある。

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