2017年4月22日土曜日

東京新聞によるトイレを共用させろという横浜市役所への批判は失当である

東京新聞が、2017年4月21日朝刊で横浜市役所内のセキュリティ上のデザインについて批判を加えているようである[1]が、今回に限っては、牽強付会の感が否めない。この場合の、取材の自由とセキュリティ上のデザインとは、区別して考えられるべきことである。Google+1に冗談めかして記したように、「記者出没注意」とでも張り紙すれば、業者も市職員も注意するであろう。連れションしながら不用意なことを喋ることは、あり得ないことではないから、セキュリティ上の措置が必要であるとの市側の指摘は、当然であり、センスの良いものであった。

無論、権力は腐敗するものであるから、巨大な地方公共団体である横浜市についても、報道機関による適切な監視が行われることは、建前上は良いことである。今回の報道も、内容の失当さはともかく、東京新聞の記者が市庁舎整備計画を監視していることを満天下に示す効果を有する。しかしながら、そもそも、東京新聞も排他性で有名な記者クラブ制度の主要構成員である。今回の報道には、記者室が市庁舎に設けられることを大前提とした、傲慢さが見え隠れする。フリー・ジャーナリストに加えられている不合理な排除を想起することを抜きに、今回の東京新聞の記事を読むことは、なかなか困難である。

これも悪乗りであるが、東京新聞なり他の新聞者なり、記者クラブが合同して、「大人用おむつスト」や「おまるスト」でも実施していれば、本件にも正当性が生まれたであろう。本来、記者用トイレの設置の是非は、横浜市民が決めるべきことである。記者クラブが横浜市政に対して良い仕事をしていると、横浜市民が考えているのであれば、当然、横浜市民は、記者クラブにトイレくらい使わせてやれよ、という意見を形成するであろう。専修大学教授の山田健太氏を連れてきて、「トイレを監視するのは正当だ」と言わしめたかのような印象を受けるコメントを喋らせることは、世論形成には有用でない。

一部重複するが、記者クラブが一定の実績を有するジャーナリストに開放されており、取材の便宜のために、どのジャーナリストにも平等に利用されてきたのであれば、今回の東京新聞の指摘は、真っ当なものであろう。

しかしながら、大マスコミの従業員が記者室にいつでも常駐できるがために市役所のセキュリティを低下させている原因となっているとすれば、その扱いが防犯環境設計上(あるいは防犯設備計画上)問題となる、考慮して欲しいという指摘は、至極当然のものである。外部の人物を常駐させる場所は、他の区画と物理的障壁により区別すべきである。これは、防犯環境設計上、アクセスコントロールという基礎的概念である。この基本を知らず、自分たちの利益のみを主張することは、知識の流通に携わる職業人としては、不誠実に過ぎる。


[1] 東京新聞:「情報漏れるおそれ トイレを別に」 横浜市で記者隔離要望:社会(TOKYO Web)
(記名なし、2017年4月21日朝刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201704/CK2017042102000123.html?ref=rank

横浜市が二〇二〇年の移転を予定する新市庁舎整備を巡り、米軍基地対策などを担う市政策局が「記者用のトイレを分けるべき」だと庁舎整備担当に要望していたことが分かった。




2017(平成29)年4月22日15時追記

今回、仮に、取材の自由や記者室の存在と切り離した形で、絶対的な平等の観点から、トイレ使用を認めぬようにとの市政策局側の申入れを問題提起したとすれば、私も東京新聞の主張のおかしさに気が付くことがなかったと言えよう。特権の上に胡座をかき、フリージャーナリストとの分断統治を是とするから、論理もおかしくなるし、自分たち大マスコミを除けば、誰も味方できる余地がなくなるのである。東京新聞は、大新聞の中では反原発に分類されるから、戦争屋とも対立する方向にあるとは言える(が、長谷川幸洋氏のような人物を抱えていることもまた事実である)。よって、ここで知恵を付けておくことは、社会全体の利益に適うことになろうから、追記しておく。反対する横浜市民の声を拾えば良いのである。本来なら、市民世論調査を実施するのが筋である。今後、トイレに行くのにわざわざロビー階にまで降りなければならないという不便を将来にわたり厭うか、あるいはここで手間をかけるかの二択であろう。

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