2017年4月1日土曜日

寺銭の割合が小さいギャンブルが万人にとって良いギャンブルという訳ではない

本稿では、「寺銭」を「ギャンブル運営者の徴収する手数料(金額そのもの)、単位は貨幣単位(円やドルなど)」と定義して記述する。「寺銭」の語は、「賭金中に占める手数料の割合、単位は無次元(パーセント等)」として使用されることもあるが、本稿では、これを「寺銭の割合」と表現する。私の定義した用法は、通常の用法と異なることになるが、社会防衛的見地からギャンブル運営を検討する場合、両者を区別することは、きわめて重要である。このため、通常の語感と異なるものになるとはいえ、冒頭の定義に拠って本稿を検証されるよう、お願いしたい。あと、本稿が取り扱う話題がパラメータ依存であるにもかかわらず、まったく定式化していないのは、例によって、手抜きである。(ただ、本稿の指摘は、文章だけでも成立しているとは思う。)




金融取引市場は、マネロン装置として見た場合の有用性、社会防衛的見地からすれば脆弱性が、極めて大きなままに稼働する社会的装置であり、その性能は、FX市場の実現に見られるように、現在まで、ますます加速する方向にある。とはいえ、市場が所在する各国において、金融取引を監視する公的な組織が稼働しているから、建前上、露骨な不公正取引は発覚し処罰されるものと期待されている。怪しげな取引を連絡・密告する制度も存在はする。犯罪組織に加盟する人物を排除する法律も、あるにはある。ただ、どのような制度を整えたとしても、参加者の情報格差をゼロにすることは不可能であるし、その情報格差をテコにしたインサイダー等の不公正取引の危険性を、全人類が公平と思えるまでに低減することは不可能である。現実に、9.11前のユナイテッド航空株の大量の売り注文など、明らかに不審な証券取引についての真相追及がなされていなかったり、タイのバーツ危機のような国家を脅かすほどの危険な取引が仕掛けた側にとって大成功したという実績がある以上、各種の公正さを担保する制度は、巨悪に対して、機能不全であり続けてきた。(田中角栄氏は、巨悪と呼ぶには、善玉過ぎる存在である。)証券市場や銀行や通貨発行の仕組みが現行の不具合を放置されつつも稼働し続けてしまっているのは、これらの仕組みが現に稼働中であり、その状態から全人類が足抜けすることが適わないからであると考えることができる。が、金融取引の構造上の問題は、今回のギャンブルにまつわる話の前振りであって、本稿では、これ以上取扱うことはしない。

ギャンブル運営をマネロン装置として見た場合、その優秀さは、一回の賭けを通じて特定の参加者に支払可能な金額の大きさ(あるいは徴収可能な金額の大きさ)と、どれだけ多数の賭金のやり取りが短時間のうちに行われるか、の二点の要素に規定される。この主張は、マネロン装置としての証券市場の優秀さを参照すれば、ごく自然に導かれるものである。一回の勝金の大きさは、一回ごとにロンダリングされるカネの出口側の大きさに等しい。また、多数の取引がバラバラのタイミングで実行されることは、ロンダリングに係る取引を発覚しにくくするという効果を生じさせる。(証券取引は、売り注文・買い注文がバラバラに出され、成立するタイミングが注文のタイミングと異なりうるという点においても、ゲームより遙かに後追いしにくい性質を有している。)犯罪の実行者にとっては、多少実入りが減ったとしても、後追いできないことが大事なのである。後者が重要であること、つまり、勝金の大きさより発覚のしにくさが重要であることは、犯罪企図者の合理性から説明可能である。犯罪であっても、まっとうなビジネスと同様、長期にわたり堅実に営めることが、実行者にとっては大事なのである。経済学をベースとする犯罪学では、強盗犯も、窃盗犯も、長期的には割に合わないという試算を得てきた。皮肉なことであるが、今までの(戦争屋に代表されるような)ホワイトカラー犯罪は、その教訓を内面化して繁栄してきたかのようである。

ギャンブル運営は、ゲームという閉じた行為によって公正さが定められるため、金融取引よりも公正となる条件を整備しやすい。どの公営ギャンブルについても、また、カジノにおいてどのゲームが採用されるにしても、この条件の良さは、金融取引市場よりも優れたものである。ゲームのルールは、金融市場に比べて、はるかに明確で閉じたものである。また、カジノで行われるルーレット・ポーカー・ブラックジャック等であろうと、あるいは丁半であろうと、またはeスポーツであろうと、参加者の期待値を計算することは、金融取引市場よりも、はるかに容易である。というより、社会への影響まで考慮した場合には、つまり、市場外部における参加者の社会生活まで加味した場合には、(そして、金融取引市場が外部経済に与えてきた影響の大きさを鑑みれば、金融取引市場への参入により見込まれる期待値を推定する上では、そのように計算すべきであるが、)金融取引市場における特定個人の収益の期待値を確定することは、実際のところ不可能である。むろん、ディーラーや壺振りの技芸は、各ゲームにおいて、プレイヤーの期待を裏切るだけの威力を発揮するであろうが、現行の金融取引における情報格差の不公正さに比較すれば、まったく公平と呼べる範囲のものである。カジノのエンターテインメントにマジックが多く見られることは、偶然ではなかろう。カジノの顧客は、見事な技に幻惑されるという体験を求めて、カジノを訪れているのかも知れないのである。何にせよ、ギャンブラーは、金融取引市場に比べて、予見可能性が高い市場へと参加していることになる。

他方で、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、不公正であるとの批判に晒されてきた。谷岡一郎氏は、「ギャンブルに詳しい」学識経験者とされるが、その意見は、主流であるかのように見做されてきた。「名乗りは姐さん、中身はオッサン」の『きっこのブログ』(2016年12月3日)[1]は、ウェブ上で寺銭について見かける意見の典型例である。「きっこ」氏は、「宝くじから競馬まで」の公営ギャンブルの寺銭の割合が高いと指摘した上で、既得権益者である公営ギャンブル関係者が寺銭の割合の低いカジノに反対しているのではないか、と批判する。プレイヤーにとって、寺銭の割合が高いことは、自身の期待値が下がることに直結する。また、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、公知の事実である。プレイヤーが公営ギャンブルの寺銭の割合の高さを不愉快に思うのは、当然であろう。

しかしながら、ここで、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さに対して参加者が感じる不満は、参加者の知識が向上したゆえに生じたものではないか、という疑問も湧く。知られていないことが批判の対象にならないのは、当然である。ある公営ギャンブルに対しては、勝ったとされるプレイヤーが実在しない、という批判が実在する。これが本当なら、胴元は丸儲けである。胴元とサクラが組んで、残りのプレイヤーをカモにしていたらどうか。この批判も、ある公営ギャンブルについて、実在するものである。ここに示した二つの批判は、裏が取れているものとまでは判断できないが、疑惑を指摘する声が実在することをふまえ、再構成したものである。いずれも、本当であるならば、参加者にとっては、到底許せないチートと映る行為である。こうしてみると、プレイヤーの不公平感は、不正に対する知識がないために、現状の程度に留められているとも言えよう。逆に、運営者にとって、広く知られていない不正の方法は、さらなる儲けの機会でもある。なお、発覚した事例をふまえれば、本段落における指摘は、公営ギャンブルよりも、株式証券市場の現実に対して、より良く当てはまるものである。勝者がいない=企業オーナーによる見せ玉、とか、かなりの用語の読替えが必要になるが、発覚した実例の数だけを挙げれば、株式証券市場における不正は、公営ギャンブルにおける不正よりもはるかに多い。

公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、ほかの情報とともに提供されることにより、不公平感が軽減される材料にもなり得る。宝くじが良い例である。その収益が慈善事業に役立てられているとの主張と、実際に「宝くじ号」の車両等を多く見かけるという状態は、そのバランスが取れている限り、「慈善事業にも役立っているから」という形で、購入を正当化する理由にもなり得る。また、谷岡氏のように裕福な一族の出であると体感しにくい事情であるかもしれないが、日々の生活から3000円なら捻出できるが、1億円を貯蓄することはできないと諦めている貧乏人からすれば、宝くじの購入は、その期待値が半額以下になると分かっていても、生活を一発逆転させる上での合理的な行動となる。現実の生活者にとっては、手持ちのリソースと、そのリソースによって達成される見込みとが重要なのである。実際のところ、宝くじ購入者の大多数は、せいぜいが10万円程度を当てた経験を有する程度であろう。すると、宝くじの設計者としては、購入者の身の回りで、その程度の当選金を得たという話を聞ける程度に当選確率を設定することが、体験的な情報だけによって宝くじの販売高を最大化する際の要点ということになる。最高賞金に比べてきわめて少額であっても、満足できそうな金額を当てたという人物に接することが、参加への意欲を喚起する可能性が認められるのである。なお、きわめて多額の宝くじを購入する人物は、きわめて少数であろうし、そういった人物のネットワークには偏りがあろうから、通常人が実際に最高賞金を獲得した人物を目の当たりにすることは、ほとんどないものと推測される。つまり、実社会のネットワークを前提とすると、最高賞金当選者は、なかなか人には知られないことになるから、大衆の購入意欲を喚起する役には立たないことになる。こうしてみると、伝聞情報が欠落しがちであるという現状は、当選金の設計において、どうせ知られないなら、最高賞金当選者を出さなくとも良いのでは?という、不正への誘惑としても働きうる。(あれ?)

ともかく、ギャンブルの設計者は、寺銭の割合だけではなく、参加者の知識や社会の状態をも合わせて利用することにより、ギャンブルへの参加を誘導し、ファンを定着させ、あるいは不公平感を軽減することができる。寺銭の割合は、部外者の批判を浴びる要因ではあるが、ギャンブル運営が商売である以上、胴元は、寺銭を取らずにギャンブルを運営するわけにもいかない。ここに、ちょっとしたジレンマが生まれることになる。寺銭の割合がゼロでは商売が立ちゆかないが、さりとて、高過ぎると客が付かないのである。

ところで、寺銭の割合が小さいことは、社会防衛的な見地からすれば、良いとばかり言えることではない。売上高が大きなギャンブルは、寺銭の割合を相対的に小さなものとできる。そのギャンブルが「薄く広く」集客するタイプのものであるならば、寺銭の割合が小さなために、売上高をさらに拡大できる余地がある、ということにもなる。結局、ギャンブル依存症患者をさらに多く発生させうるという点で、寺銭の割合が小さなギャンブルは、社会に対してより有害なものであるということにもなりかねない。カジノ(IR)の収益性は、海外からの太客によって成立するものと言われている。カジノの寺銭の割合が小さなものとなるのは、太客のおかげである。経営努力のおかげであることも確かではあろうが、太客との共依存的な関係にあるといえる。このとき、太客が外国の独裁者で、国民から搾り取った血税をカジノにつぎ込んでいたとすればどうか。そのカジノから派生的な利益を得ているわれわれ庶民は、その外国の庶民に恨まれても仕方ないであろう。寺銭の割合が小さいからと言って喜べるのは、単に、批評者が一人のギャンブル愛好者であるがゆえのことに過ぎない可能性は、常に残るのである。日頃からマルクス主義系の言が多い「きっこ」氏のセンスは、団塊の世代らしく、そのお題目はファッションにしか過ぎないようで、自分目線でしか、物事を考えられないようである。

ゲームとしての楽しさ云々はさておき、極端なことを考えると、賭け麻雀における雀荘は、きわめて高い割合の寺銭を取ることにもなりかねない。雀荘の席代がいくらであっても、勝負の結果が拮抗して誰もが損得なしという結果を得たとすると、寺銭の割合は、100%ということになる。このとき、プレイヤーは不満なのであろうか。むしろ、良い勝負ができたし、負けもしなかった、ということで満足度が高いであろう。話の種にもなりそうである。このように極端な場合を考えずとも、なぜ、人間は賭けずともゲームをするのか、ということを考えれば、人類は、ギャンブルの「悪さ」について、また、寺銭の位置付けについて、一段上の理解へと到達できそうなものである。

蛇足であるが、ゲーム依存症がギャンブル依存症と同様の症状を示すのは、有限の人生の(、大抵、若い時期の)有益な時間帯という資源をゲームに投入してしまっており、引くに引けないという状態を経験しているからでもある。この点に理解が至れば、ギャンブルとゲームとを同時に考慮の対象としながら、それぞれの依存症の弊害を整理できるようになる。高額なギャンブルが「悪い」のは、ギャンブルにかける時間だけでなく、大半の人物にとっては、労働した対価をも(、つまり有限の時間をも)ギャンブルに消費してしまうからである。ギャンブル依存症は、手持ちの生活資源という観点からみれば、(ソシャゲやグローバルな競争を強いるものを除いた)ゲーム依存症に比べ、生活が立ちゆかなくなる状態に進展する時期が早いのである。なお、生活資源=健康時間という点から世界をとらえる功利主義的姿勢は、『マインクラフト』ならびにその類似ゲームのように、手持ちのリソースがプレイ時間におおむね比例し、また、ゲーム内における様々な生産行為を自動化可能であるというゲームの設計思想を承継した、新たな時代のプロシューマー主義であると言うことも可能であろう。(実際のところ、プレイヤーは、どこまで行っても時間の消費者であって、労働者の地位に留まると見ることも可能であるから、マルクス主義であると理解する意見も成立しよう。)

公営ギャンブル関連財団に多くの天下りがいるという事実は、それら公営ギャンブルの寺銭の割合が高いために批判される材料になってはいる。しかし、その状態は、もしかすると、若い世代にとって、程良い具合に、ギャンブルへの参入障壁となっているかも知れない。本当のところは、深掘りしてみないと分からないが、寺銭の割合が高いからこそ、公営ギャンブルの依存症患者の割合が低く抑えられているという理解は、論理的には成立する。それどころか、マネロンスキームの成立を企む黒幕が、札束でビンタして「きっこ」氏に提灯持ちの記事を書かせたのかも知れない、などと考えることも可能である。こうなると、真のワルは誰だ、という程度の低い競争になってくるので、本稿はこれでおしまいにしよう。


#本稿では、現代の公営ギャンブルが(元々の知己ではない)プレイヤー同士の情報交換を遮断してきたことと、その弊害を考察できていない。これは、次回以降の宿題である。


[1] 公営ギャンブル VS カジノ法案: きっこのブログ
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2016/12/vs-cce1.html

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