本稿は、第1回(2017年4月18日)、第2回(2017年4月20日)からの続きである。今回の話題は、従来から大きく脱線するが、次回以降の前振りのつもりではある。
『週刊少年マガジン』の新連載にみる数理センスの欠如
ところで、講談社は、(学術文庫のように、)文理の別を問わず、学術的に優れた出版物を刊行する企業であるというイメージもあるものと思うが、こと最近に限れば、そのブランドイメージを失墜させるだけの杜撰なコンテンツを見かける。同社の稼ぎ頭でもあろう『週刊少年マガジン』で2017年10号から連載されている『ランカーズ・ハイ』(中島諒氏)という漫画は、国会議事堂が夜な夜な地下闘技場になるという設定のバトルものである。主人公はランク10位から、1位の因縁ある相手を目指して闘い抜くことを決意する。しかし、この漫画は、指摘されれば小学生でも理解出来るだけの欠陥を抱えたランキングシステムを土台にしている。敗者は、生きていたとしても、ランクを剥奪され、実質上死ぬまで殴られ続けるという設定になっているが、この設定が矛盾を来す原因となっている。これでは、主人公が必ず一方の相手となる「死合」しか組まれない、という前提を追加的に必要としてしまうのである。どういうことか。10人のランカーが2人1組となり、5試合が行われたと仮定すると、10位のランカーは、1回の死合を生き抜けば、上位5名が死ぬ(うち1名を殺すことになる)ために、直ちに5位に昇格するのである。ランカーを補充しない限り、計9回の死闘によって、10人のランカーは、1人だけが生き残ることになるのである。ほかのランカーたちの試合が組まれ、かつ、低位ランカーが補充されないという条件の下では、10位からキャリアを始めた主人公であっても、1位との試合を含め、都合4回だけ戦えば良いことになる。先週号までの間に、2回目の試合を生き抜いた主人公であるから、同ペースで他のランカーも試合するものだと仮定すれば、3位に付けていなければおかしいのである。1回目に9位と対戦して勝利すれば10位から5位へ、2回目に4位と対戦して勝利すれば5位から3位へ、という具合である。
先週号(2017年20号)から始まったサバイバル漫画『おはようサバイブ』(前原タケル氏)も、一見、読者にとって、不合理には思えない状況が描かれるが、そこには、説明がもう一手間求められるものと考えられる。この漫画は、致死率99%のウィルスが2020年にパンデミック(大規模感染)を起こし、社会機能が崩壊した、というプロローグから始まる。主人公の少年と、少年が好意を寄せる少女は、2022年、平和だが大麻にハマった埼玉県内のコロニーが嫌いになり、出奔する。自動車で山手線まで移動し、一組の男女に出会う。ここまでが初回である。説明を要する点は、致死率99%という設定と、埼玉・東京間を移動してカップルに会うまでの間、誰にも出会わないという設定との整合性である。人類全体での致死率が99%という設定であれば、極寒の地域に生存者が集中しているであろうから、誰にも出会わなくとも問題ないであろう。他方、全人類が大体満遍なく罹患し、99%が死亡したという前提であれば、社会機能が緩やかに停止したという大前提を必要とするが、東京都内には、社会崩壊直後、13万人が生存していたことになる。このとき、生存者が東京都全体におおよそ均一分布しているものと仮定すると、まず間違いなく、新荒川大橋・戸田橋・笹目橋などの重要交通結節点において、主人公らは、モヒカンレイダーたちか、正義のサバイバーたちに発見され、遭遇していたであろう。これらの交通結節点は、明らかに、ゲーム理論などにいう「フォーカル・ポイント(参照点、見せ場)」である。ある集団が他人との接触を欲しており、相手ならいかに考えるかを想像する力があるとき、人が通りやすい場所を見張るという考え方は、自然なものであろう※2。この非整合性について、『おはようサバイブ』がいかに説明を与えるのか、今後に期待したいところである。
これら新連載に見る数理センスの欠如の背景には、わが国における出版業関係者(ここでは編集者)の学問的背景に偏りがあるという可能性が認められる。『ランカーズ・ハイ』に見られる設定の基本的なミスは、具体的には、放送大学の課程でいえば、『数理システム科学』分野の知識が欠落しているために生じたものである。社会全体における、この状態の克服に必要な改善策は、今後、大学の学部学生が教養課程の勉強に身を入れる、というもので十分かと思われる。ただ、社会には、それではいかんともし難いほどに、(私を含め、)学習の機会を無駄にした(不良)大卒者が掃いて捨てるほどいる。社会システムの方に何らかの補助的な経路を組み込まなければ、ここに見るような、おバカな情報が圧倒的な流通機会を得るという状態を改善することは、なかなか見込みにくいであろう。(講談社に限定すれば、『ブルーバックス』編集部から、校閲者を借り受けるなどはしていないのであろうか。)
漫画など、面白ければそれで良いという話もあるが、暴力と性暴力をミックスさせるシーンが初回?にあったので、『ランカーズ・ハイ』自体を相対化する機会を見逃す訳にはいかない。その設定がアホ過ぎることを指摘し、その内容が非現実的であると相対化しておく作業は、少年漫画の読者層が中年化しているにせよ、社会防衛主義的観点に立てば、必要である※1。
※1 実際、同誌で長期連載されていた『カメレオン』を真似した犯罪が生じたことは、知られている。過激表現が性犯罪に与える影響は、従来から、表現の自由との関係で、議論の対象となってきた。表現の自由は保護されるべきであるが、過激表現については、読者への影響を配慮しなければならない。本稿では、意図こそ社会的な影響を見込むものの、私があくまで漫画批評に留まる範囲の手法を用いて『ランカーズ・ハイ』を批判していることに注意して欲しい。
※2 ここら辺の話は、私が『ウォーキング・デッド』シーズン6で登場した集団「救世主」の生態があり得ないと考える理由にもつながるので、別途、考察する予定である。
情報機関にはデータマイニングを囓った人材ではなく数理システム的思考に通じた人材が必要である
漫画のことと笑うことなかれというのが、当然、次に予想できる展開であろう。本稿の趣旨は、小題のとおりであって、ここまでの文脈について心当たりのある人物が自省し、本稿や本ブログなどを適宜引用・参照して、自説を修正し、自らの血肉とすれば良いだけのことである。ただし、日本の政府機能がハードクラッシュしない限り、そうはならないであろうというのが、私の予想である。その背景には、伝統的な日本の学問分野における文理の区別と、役所における「法学部にあらずんば人にあらず」くらいの法学部重用主義に起因する、社会における文理の差別と、日本語論壇における情報爆発が存在する。
この差別は、わが国の情報機関にも該当する。よほどの変革がわが国の政体に生じない限り、「中の人」は、決して、自己改善作用を高めないであろう。というのも、わが国の情報機関の文化は、耳に逆らう忠言を発した外部の(真に)有識者(と呼べる人物)を、メンツゆえに受容できず、社会から見て無視してしまう形式を取るという悪弊を有するからである。(ひそかにコンタクトしているかも知れないが、それが彼らの外形的な行動に表れているとは見えない。)もちろん、私は、有識者などとは呼べる「資格」を有しはしない。しかし、小室直樹氏ほどの碩学をして無視する形の文章をアップし続けて数年経つのであるから、況んや遙かに卑小な私をや、というのが本連載記事の趣旨の一つなのである。
(次回(2017年4月26日)に続く)
2017(平成29)年4月26日追記
『おはようサバイブ』は、今週(2017年22号)で「都民の生き残りと地方からの流入で/今…おそらく50万人は東京にいる/そして…その50万人が…皆…飢えてる/つまり!/現在の東京は食料と物資の奪い合い/弱肉強食の野生の世界ってわけ」〔pp.158-159〕という設定を登場人物に喋らせるが、大規模感染後2年の日本という設定は、逆に、地方への定住化を促進していたであろう。NHKの朝ドラ『ごちそうさん』や『火垂るの墓』などに描かれたように、第二次世界大戦中・後のような、地方の農家が頼られるという形での社会移動が生じたものと考えられる。人間は、経験や従前の知識に意思決定を左右される存在であるから、広く知られた歴史上の経験が参照されるであろう。誰を頼るかという点であるが、WW2同様、血縁が頼られたり集団疎開が行われたものと考えられる。しかし、パンデミック後の世界が混沌としたものとなっていた場合においては、この種類の移動が生じるとともに、無縁者である犯罪集団によって、かなりの抗争が生じたであろう。武装農作物強盗との戦闘が最大のリスクであろう。私なら、東京の湾岸地域をスカベンジすることをまず考えるが、同じ事を考える人間は、食料の流通・管理に関与した人物に限定されがちであろうから、初期であるなら、倉庫においてそれほど大きな抗争が起きることは考えにくいであろう。問題は、搬送中であろう。『おはようサバイブ』の言うとおり、東京都内に50万人がいると仮定し、彼らが弱肉強食状態であったとすれば、主人公たちは、荒川に架かる橋の上か、その袂で悲惨な最期を迎えていたことであろう。(警察車両が展開されたまま放置されているであろうし、それらの車両や装備が悪用されていたであろう。)
2017(平成29)年5月16日追記
『おはようサバイブ』の設定のおかしさは、4月26日追記分で十分に示せたとは思うが、23号でも違和感のある連中が登場する。主人公カップルと高田馬場で遭遇した集団は、東京駅を本拠としており、自警団・強盗団の双方の性格を持つ日和見的な集団として描かれる。山手線の反対側に位置する高田馬場(Google様によれば、首都高速経由で8.5km)まで遠征可能なだけの武力を有する集団が、制服を着た集団と何らかの相互作用を経ていない訳がない。100人に1人が生き残るのであれば、警察にしても自衛隊にしても、数万人が生存していたことになる。彼ら制服組がいかなる経緯を辿るのかは、そのリーダー格の行動に依存するが、彼らが移動・採集するときには、制服を活用していたであろう。皇居と目と鼻の先にある東京駅に闇市を開くだけの規模の無法者集団が形成されているという設定や、彼ら無法者集団が主人公らの出奔元のコロニーとリアルタイムに連絡が取れるだけの体制を有しているという設定が通用するのであれば、彼らは、これだけの怪しげな秩序を構築する前に、制服組に何らかの形で取り込まれていたであろう。また、主人公たちの出奔元のコロニーにも、彼ら制服組の影響は及んでいたであろう。
私が知りたいのは、南東北・関東圏がいかなる衰退を辿るのかという道筋である。そのために、作家の紡ぐ想像の世界を参考にしている。国民の圧倒的多数が白旗を揚げる時期を考察する上で、彼らの作品が読者の心性に与える影響を推量しておくことも必要である。漫画雑誌の読者数は、書籍の読者数よりも二桁程度は上になるし、物語という形で読者を理解させるから、その影響力は、質・量ともに国勢を左右するものである。この点、当初は、『おはようサバイブ』が読者に良い影響を与えることを期待したが、数的感覚に乏しい設定が続々登場する状態をふまえれば、今後、良い影響を与えると見込むことは難しいであろう。
今後は、『おはようサバイブ』におかしいと思う設定があっても見逃すことにするが、面白い展開になれば、言及しない訳でもない。なお、そもそも、致死率99%のウィルスのパンデミック後、原子力発電所や核ミサイル施設が地球環境の決定的破壊をもたらさないという保証は、まったくない。この点、エボラなどの悪用を通じて人口削減を図る連中がいたとすれば、彼らは、数的感覚を決定的に欠いている。70億人を5億人まで削減しようとして、数千人も生き残らないというオチは、十分に考えられそうである。
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