本稿は、別に用意する予定の原稿の派生物であり、同記事で扱う2015年11月4日の中央線自転車投込み事件(以下、中央線事件)に関連した論評を分割したものである。「ぱよぱよち~ん事件」に時空間上近接して、中央線に自転車が投げ込まれるという事件があった。この事件は、翌年2月4日に中央大学の学生が逮捕されるという形で、一応の解決を見た。ただし、テロ対策という点からみて、日本社会は、この事件が与えた教訓を事後に活用してきていない。また、テロ対策に係る官民の取組は、予想される脅威の深刻さから言えば、不十分なものに終わるであろう。何事もなければ、ラッキーで済む話であるが、現政権と戦争屋との仲違いが継続する場合には、相応の対策が必要となる。
中央線事件の直後の印象は、態様と発生場所のために、テロ事件への含みを残すものであった。わが国の都市部の旅客鉄道網は、他国の都市に比べて、時空間上の密度、延伸距離ともに大きく、それゆえ高効率である。日本社会は、この効率性の高さを当然視して、都市活動を組み立てているが、日本の事情に多少なりとも通じた犯罪企図者であれば、その脆弱性にも強く気が付いている。2015年の夏に断続的に生じたJR東日本鉄道敷地への不審火事件(威力業務妨害等、以下、連続不審火事件)は、単独犯であろうと、あるいは、認定事実とは異なり、インスタグラムを通じた他の人物の協力が存在したとしても、この脆弱性が気付かれてしまっていることを示している(2015年10月7日)。なお、同事件の受刑者が収監されているはずの2017年4月16日時点においても、本人のインスタグラムやツイッターアカウントは、ウェブ上で確認可能である。とりわけ、インスタグラムの放置状態には、問題があろう。
幸いというべきか、中央線事件には、連続不審火事件のような不穏な背景は認められなかったようである。結果の重大さは別であるし、ジャニーズ所属と騒がれた容疑者の経歴の真偽も大きな社会的影響を生じさせたが、原因自体は、単に犯人の飲酒・酩酊によるのであろう。法政大学の学生であるから、過激派におだてられてやってしまったというオチも不可能ではないが、動機や詳しい経緯の追及は、ジャーナリストの仕事である。可能性を指摘しておけば、安楽椅子探偵気取りの私としては十分である。
複数の先進的な「攻撃」を受け、東京オリンピックを迎えようとしている現在、各鉄道事業者と国土交通省は、安全と定時運行に関して、従来を超えて最善を尽くすか、それが無理なら社会全体に対して適切に援助を求めるという、基本的な責務(=絶対に達成しなければならない課題)を負っている。両事件後、それぞれの担当者が十分に注意を払い、広義の安全に配慮した活動を徹底していたとすれば、今までの間に、問題の根本は解決されているはずである。そうなっていないことは自明である。1千億円の予算が東京オリンピック警備に計上されたというが、セキュリティの重大さ(と怠惰な天下りが含まれるという事実)からみて、まだ、一桁予算が不足している。何より、知恵が不足しており、実名を挙げると恥をかかされたと考える者も出てこようから、あえて名を挙げることはしないが、ある関連分野の査読なしの研究論文は、本稿に挙げた事件の重大性を理解していたとするならば、そのような文面とはならないであろう、楽天的な記述に溢れている。山本七平氏の「水と安全はタダ」という標語は、水道法改悪後の今こそ、想起されるべきである。たとえば、スタジアムの「見た目だけのデザイン」に余分な100億円をかけることを議論する前に、「セキュリティのための実効的なデザイン」にこそ、100億円を投じるべきという世論が喚起されていたであろう。そして、繰り返しになるが、普段から悪いことに着目する人物でなければ、脆弱性に対する注意は、研究者と言えども働きにくいのである。(福島第一原発事故に際して爆発が起こらないと述べた御用学者たちは、自己規制から危険を甘く見積もったために、見事に現実に裏切られた。)
なお、鉄道への攻撃とは異なる種類のハザードとはなるが、一市民から見た場合の、規範的な観点からの、オリンピックというイベントにおける最も深刻なダメージは、ミュンヘンオリンピックに見られたような、選手への加害行為である。その懸念が現実のものとなった場合、わが国の国際的地位は、取り返しの付かない致命傷を受けることになる。なお、政治家は、いざというとき命を張る職業であるし、警察は、政治家の身の安全を、私が指摘せずとも最優先するであろう。このため、ここで疎かになりがちな面だけを強調しておくことは、十分に意義あることである。なお、日本人の一部には到底理解できないかもしれないが、加害の形態には、「食べて応援」を強制するというものもある。日本人がいかに思おうが、相手が加害ととらえれば、おしまいである。アウェイにおいて、アスリートが食べ物に苦労するという話は、普遍的であるが、これを外国人選手の側から見れば良いだけの話である。
中央線事件と連続不審火事件は、広く社会に知れ渡ってしまっており、犯罪企図者も、公開資料だけから経緯を再構成して参考にできるほどである。一般市民や報道関係者や(低レベルな)研究者から事件が忘れ去られたとしても、犯罪企図者に同様の期待を寄せることができるとは、とても言えない。人間、興味のある内容は、いつまでも覚えているし、注意が向くものである。決して、犯罪企図者の能力を侮ってはいけない。この点、「犯罪ジャーナリスト」の小川泰平氏は、逮捕前、東京スポーツの取材に答えて、「犯人は稚拙」と指摘していたが、小川氏は、この犯人について、見解を改めたのであろうか。十中八九、事後の確認と訂正とを怠っているだけというのが、私の小川氏の行動についての推測である。是非、小川氏には、受刑者のインスタグラムを検討した上で、改めて意見を陳述してもらいたいところである。所詮は東スポだし、この記事をネッシーネタと同列の扱いとしても良いのかも知れないが、小川氏の沽券には関わることであろう。わが国の安全を語るべき人々の声は、なぜか、局所に限定化されるから、小川氏のようにマスコミへの露出が大きな人物には、より正確で実効的な評論をお願いしたいものである。もちろん、私はその任に相応しくないものと(能力の低い検閲屋に)判定されているであろうが、一国のセキュリティに係る言論状況が、今のままの貧相な状態で良い訳がない。
【JR東日本連続放火】専門家は稚拙な単独犯と分析
(記名なし、2015年09月05日 06時30分)
http://www.tokyo-sports.co.jp/?p=443263
ところで、テロ事件は、一般市民への恐怖を目的として実行される。このため、通常ならば、意図を確実に伝達するために、犯行集団から事件後に犯行声明が発表される。中央線事件では、事後の犯行声明は見られなかった。従来から、高速道路や新幹線などに対する類似の投込み事件は報道されており、少年らによるいたずらであることが後に判明する場合が多いように見受けられる。中央線事件も、犯行声明が見当たらなかった以上、同様のいたずら(というには惹起しうる結果が重大過ぎるが)とみなされたのであろう。
この点、対照的なことであるが、2008年6月8日の秋葉原無差別殺傷事件(以下、秋葉原事件)は、社会全体の反応を外形的に見ると、テロ事件の要件を満たす。犯人が犯行直前までネットへの書込みを続け、それらの記述が事後に広く共有され、政治的に解釈されたためである。犯人の動機が個人的なものであったにせよ、その後の論壇が事件の解釈に当たり政治性を持ち込んだことにより、同事件は、犯人によるコントロールを離れたところで、テロ事件化した。犯人が逮捕後の展開に至るまで計画し尽くした上で犯行に及んだものとは考えられていないし、当初の犯人の怒りは、ネット上の秩序を乱されたことに向けられたと一般に解釈されている。このため、本事件の当初の性格は、あくまで個人による大量殺傷事件であったと考えることができる。もちろん、それに巻き込まれた被害者は、無辜であり、無念であろう。しかし、犯罪を研究する者ならば、場を荒らした匿名者を犯人が独力で暴露することが困難であったからこそ、ほぼ間違いなく無関係の人々を代替的に選択したという側面に注目すべきである。つまり、秋葉原事件における犯行対象の選定は、日和見的(oppotunistic)なものとして理解されるべきである。
ただ、秋葉原事件は、犯人の社会的地位から発した怒りが「社会に向けられた」ものと解釈する言説の登場によって、テロ事件としての外形を備えるに至った。政治家ならば、不道徳的と見做されようが、このような解釈を取ることは、本人が結果責任を引き受けている訳であるから、本人の自由である。しかし、正確な理解を社会に対して提供すべき学識経験者が、本件を積極的にテロ事件と見做すことは、自らの職務に不誠実であると非難される余地を持つことになる。有識者は、自らの言論の再帰性を自覚する必要があった。この点、私は、以前(2016年7月26日)に相模原障がい者入居施設大量殺傷事件について、これをテロと見做すべきと論じたことがある。結局、同事件を次回への教訓として反省に生かそうとする組織や社会集団は、厚生労働省の所轄下に限定されてしまっているから、私の判断は、本来自己検証すべき組織に届く方法を採らなかったものとはいえ、後世に対してどの組織が努力を怠ったのかを示すことには成功したものと考えるがゆえに、正しかったものと考える。関係した全ての組織において、タブー抜きの検証(責任追及ではなく、事故調査委員会の目的と同様、事件の経緯と再発防止を目的とした検証)が行われる必要は、依然として残されている。
中央線事件は、犯人の確実かつ迅速な逮捕を通じて、日本の警察の優秀さを内外にアピールし、誰に対しても公平に接することを主張できる機会でもあった。犯行声明がないために、その性格がテロとは呼べないことが数日後に明らかになっていたにせよ、依然として、早期解決には価値があったのである。イスラム教徒に対して宗教プロファイリングを実行していたことを示す警視庁の資料がTOR経由で流出して以来、イスラム過激派に対する日本のテロ対策の有効性に対しては、根本的な疑義が持たれてきた。三大宗教の一つを丸ごとテロ予備軍扱いするという、当局の稚拙なテロ対応は、良識ある市民、特に、留学生や教員を装う過激派に接点を有しうる大学教員の一部の人心を決定的に離反させた。被害者の救済もせず、この失態をなかったかのように糊塗することは、国際標準からみて、三流国としか呼べない対応である。およそ非知性的な官憲の振舞いは、良識派を自認するインテリに嫌悪感を抱かせる。その嫌悪感は、左翼色の強いカラーの大学を二心ある留学生にとって結果として集まりやすい場所としてしまう。そこでは、不正義を放置する公安警察への反発から、人を疑わないという態度を強調するあまり、必要な程度を超えた放任主義が取られ、結果、その脆弱性が悪用される。これらの大学における過剰な善意が、皮肉にも、大学をテロ対策上のセキュリティホールへと転化してしまうのである。以前(2017年2月7日)にも一部指摘したが、この悪循環を断ち切るためにも、教職にあり軽々にトランプ政権を批判する有識者にこそ、このジレンマに向かうための自浄努力が求められるし、何よりもまず、その自浄努力を促すためにも、稚拙なイスラム過激派対策を実行した人物たちに、率直で真摯な謝罪が求められるのである。
自称イスラム国による2015年1月頃の湯川遥菜氏と後藤健二氏の殺害事件は、明らかに事件期間の政治的判断との連関が認められるために、殺害という結果そのものの責任を、テロ対策機関のみに帰属させることはできない。(ただし、本事件は、遺体が返却されていないことに注意しなければならない。人質の遺体は、テロ組織のビジネス上の資産である。この遺体返還が実現されていないことは、本事件が報道通りではないものか、当局が無能力であるかのいずれかを示すことになる。)しかし問題は、その後の検証過程に(こそ)ある。この検証に係る報告書[1]は、警視庁の資料流出事件と、その後のイスラム教関係者の逮捕・事件化を通じて、イスラム教徒からの普遍的な信頼を失っているにもかかわらず、一昔前のCR(community relations)活動を参照して、政府の対応を正当化している。この検証には、学識経験者も参加したことになってはいるが、おそらく、案文は、事務局によりすべて作成されたことであろう。自身の手を動かさないこと自体は、政府側の学識経験者の怠慢であり、それ自体によって、批判されるべき※1ことであるが、それに加えて、CR活動の基礎が相手との相互の信頼関係に基づくものという基本が忘れ去られている点、噴飯物と評することができる。他方で、この論理構成の原典が『市民と警察』(モンボイス, 1969, 立花書房)[1]辺りであろうと的確に推測することのできない板垣雄三・西谷文和・黒木英充の三氏の批判[2]も、不勉強であると批判される対象となり得る。
わが国政府におけるテロ対策は、形式上、内閣官房に集約されてはいるが、対策の現場を考慮した場合、省庁縦割りに準じたものとなる。内閣官房の機能は、問題の大きさに対しては無力であると言えるほどの規模であり、省庁の寄合い所帯であると呼んだ方が良いであろう。私益(個益)・省益といった縦割り社会を前提とした文化は、現在も根強く存在する。真に組織横断的と呼べる、目的本位の課題解決方法なるものは、テロ対策については現存していない。あくまで、従来の省庁における所掌をバンドルした(束ねてそれらしく見せた)だけである。
この縦割りの弊害は、端的には、学識経験者の無能に見て取ることができる。テロ対策を含む、問題解決のための特集を組んだ、ある学術誌の構成は、端的に、省庁縦割りの悪しき弊害を示している。この特集は、テロ対策をスコープに含める論文を一本含めるが、しかし、この論文と他の著者による論文との関係性は、ほぼゼロである。単に、テロ対策の必要性と方向性を謳う論文が、一本含まれているだけであって、異なるバックグラウンドの著者の論文を束ねただけに終わっているのである。わが国で官僚からお呼びのかかる学識経験者の大多数は、省益を代表する御用学者と化している。学術誌という専門分野において自由に発揮できるはずの構成が、このような結果に終わっているのであるから、実務者ととしてのプライドを有し、個別の事情を抱える縦割り主義の官僚たちを説得し、より良いテロ対策のための構想を実現するなんてことは、学識経験者にとっては、夢のまた夢、という訳である。
しかしながら、テロ対策という分野は、明らかに、実務者主導で進められてきている。厳しいことを言う学識経験者の関与を拒否する風土もある。このため、テロ対策としての知恵が十分に現場サイドで蓄積されているものと期待することは、可能と言えるかも知れない。ただ、その結果は、先の後藤氏と湯川氏の殺害事件に見るとおりである。イスラム過激派という鵺的な存在による国際テロに対して、日本国は、良いようにあしらわれてしまっただけでなく、その後の検証過程において、決定的な情勢判断の誤り(=公安コミュニティが良識的な国内のアセットから見限られていること)を晒してしまっている。それだけでなく、そこに知恵を付けるべき学識経験者の知識の少なさ・努力不足は、至るところに見受けることができるものとなっている。このようなテロ対策の貧困を指摘するメディアもなく、その貧困状況に対して国民は無理解である。このとき、果たして、1千億円の予算は、有効に支弁されるのであろうか。何よりも、テロを有効に抑止・予防できるのであろうか。
オチのつもり。You、新東京オリンピック、もうギブアップしちゃいなよ?
※1 公に設けられる委員会等において、学識経験者が手を動かすものは、それなりに多数あるものと思われる。
[1]邦人殺害テロ事件の対応に関する検証委員会検証報告書(kensho.pdf)
(邦人殺害テロ事件の対応に関する検証委員会、平成27年5月21日)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/syria_h27/pdf/kensho.pdf
[2] レイモンド・M・モンボイス、渡部正郎〔訳〕(1969)『市民と警察』, 東京: 立花書房.
[3] 板垣雄三・西谷文和・黒木英充, (2015年7月). 『後藤さんは政府に「見殺し」された:政府の「検証報告書」を検証する』, 東京:第三書館.
部族長[なぜか一つ覚え的に部族長が繰り返し強調される]と連携して情報収集を行う体制」が機能したと言うが〔p.76〕
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