2016年1月9日土曜日

「少女売春」に係る統計値は本来なら政策形成に影響しない

秋葉原"少女売春が放置されている街"の真実 東洋経済オンライン(2016年1月6日(水)6時5分配信)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160106-00099154-toyo-soci

 実は前述の「日本の女子学生の13%が援助交際」は、当初翻訳ミスで”30%”と発信されたことも、この話題が国内で大きな話題になった理由だった。それとともに「なぜこのような根拠のない数字が、積極的に海外発信されるのか」についても注目が集まった。
 (#略)
 なお、同氏(#伊藤和子弁護士)はブーア=ブキッキオ氏との会合に出席しているものの、13%という数字を挙げた事実はない。しかし、外圧を通じて日本の警察を動かそうとしているような発言に捉えられ、”事実に即していないのでは”とネット上で反論を受けることになった。

 私は、この根拠とされた13%という数値の原本を十分に当たっていないが、Togetterまとめにあるツイートライン(リンク)にも納得できていない。PTAの調査というが、ならば伊藤氏が13%として伝えるだろうか。四捨五入すれば、14%として引用するのではないかというのが、細かいけれども信用していない理由のひとつである。なお、調査の(偶然)誤差を考慮すれば、点推定値が13%であろうとも、真の回答率は幅を持ったものとして捉える必要がある。蛇足となるが、本件で挙げられた13%は、40人学級でいえば、20名の女子のうちの2~3名となる。行為が少女売春ではなく、援助交際であるならば、地域によりけりであるが、この値を「桁外れ」と断じることは難しいだろう。

 13%に係る経緯(以下、本件)は、いわゆるジャパン・ディスカウント問題と絡む形で政治的な話が進んだために、意見の捻れが見られる(リンク)。この事態は、ジョエル・ベストにより概念が広められた「統計戦争(statistical wars)」の一種であるが、統計の正当性に疑問を呈している者たちが保守を自称する側である一方で、本来ならば保守を任ずる者が対策を進めるべき側であるという点に、新規性があると言えるかも知れない。本件の新規性は、統計の利用とは離れたところにあり、統計戦争としての新規性がないものと思われる。なお、ここで、本件についてあらぬ誤解を生じないように私自身の意見を記しておけば、私は、保守ともリベラルとも言い難い、いわゆる分離主義者であり、未成年は駄目だが(、つまり、対策を進めるべきだが)、成人同士の売春について現状以上の取締を優先して進めるか否かは要検討事項であろうと思う。例外は、在留外国人や不法滞在者を抑圧しての売春である。日本人女性という属性の場合には、政策の優先順位に高齢者や障害者などが含まれてきてしまい、その整合性を図ることは、政治にしか行えないことである。しかし、外国人労働者については、行政組織が所掌の範囲内だけで進められる対策が多く残されている。その上、従軍慰安婦についての合意が成立したことがあり、代替的な圧力として外国人売春婦が政治的課題として取り上げられる可能性が高まっている。さらに、現にAV女優やグラビアアイドルが海外に雄飛しており、成功者も出ているが、日本人女性の生活水準が決定的に落ちたとき、唐行きさんが大量に生じるという事態が予想され、その際、日本人女性の人権問題が浮上することが目に見えているからである。ただ、このように意見を深めていくと、全方位から非難を浴びそうなことが続出するので、あくまで「思っている」ということに留めておいて欲しい。つまり、売春の是非自体の専門的な議論を十分に行う用意もないし、そのつもりもないということだ。(むしろ、ここでの私の意見に問題意識を覚えるなら、どうか思索を深めて、私にも益になる情報をご提供いただきたい。Togetter上の意見は、申し訳ないが、以下に参照する田上滋氏のものも含め、既出感いっぱいであり、私にとって、「ニュース」としての価値がない。)

 ところで、この分野の統計と政策とに関与したことのある身としては、あけすけな表現になるが、統計についての議論は、少女売春に対処するための政策形成には、実質的な影響を与えないと考える。その理由は、以前から、少女売春という(ラベルを付与された)行為が国際的な枠組みの下での多面的検討を要する対象となっており、(弁護士という)専門家でもありアドボケイトでもある伊藤氏の主張のいかんにも、またその動きに反対する一般の主張にも関わりなく、進められるべき課題として組織的な決定が下されているためである。現政権は、女性の活躍を謳っており、統計の誤りについては指摘したが、本件を好機として政策を現状よりも縮小するということまでは行わないと見込まれるためである。

 私自身の本件についての考えは、法執行の現場必要なツールが整備されることが大事であり、そのとき初めて統計が利用されるようになるが、その機会をとらえて、統計を定期的に作成し、政策の調整を不断に進めるべきである、というものである。そのとき、統計が一般の分析者にも公開され、十全な批判を受けられるようにすべきではある。この考えは、公知のものとなっているので、興味がある者は探して欲しい。

 誤った数値によって批判されるという自体事態は正されるべきである一方、正しいと思われる数値を探求しなければならないのは政府であるという田川滋氏の指摘(先にも挙げたものと同一だが、リンク) は、真っ当なものではある。ただし、政策の実行に先立ち、常に統計が整備されていなければならないかと問われれば、原理的にはそうであるべきとも言えるが、政治的に正しいとまでは言い切れないだろう。そのギャップに苦しんできた身としては、そこにギャップがあることだけを指摘しておきたい。もう少し詳しく説明すると、「統計に基づいた客観的な指摘」(この表現自体が誤りであることは、統計の制作から利用に至る過程を分析した構築主義的研究により、すでに否定されたことである)と、政策との間には、政策の実行に伴う責任というものの有無が存在することにも留意すべきである。分析者は、「分析を実行して結論に正確性を持たせること」のみに責任が課せられているのに対し、政策の側には、競合する価値観を有する多数の有権者に対して、多面的な責任を果たすことを期待されている。その差は、政策が必ずしも分析者の提言とそぐわないという結果となって表れる。政策実行における資源の有限性というものにも注意が必要である。

 統計が政策に対して実質的な影響を与えることがないであろうにもかかわらず、政策に直結している官邸が本件で直接動いたことは、センスに欠けることであった。民間人が動いてこのような事態に至る前に、対抗する側も民間人や研究者を必要に応じて雇用し続け、対抗言論を形成し続けていれば良かったのだ。体制側の研究者に資金を渋り続け、安直な方法を取ったツケは、13%という数値に近い「より正確な」調査結果が提出されたときに、支払うことになろう。「統計戦争」には資源が必要であり、大学の文系学部や野良博士は、統計戦争における「補給部隊」でありえたのである。

 なお、私は、ここで本話題が取り上げられる以前から、先述したように意見を公知のものとしている関係上、本件に係る中立性を逸している。このため、私は、その経緯をもって、伊藤氏に反対する者の指弾を受けることを仕方がないことと考えている。ただ、その経緯を踏まえて反対派に対して助言できることがあるとすれば、それは、政策形成の場(端的には国会)において反対を表明していくほかない、というものである。ただし、本件に係るロビー活動に賛同する議員は、野党サイドにもいないであろう。それでもなお、私が最も正当と思える方法を助言するのは、それが私の仕事として公益に資するものでもあり、先に言及したように、統計を用いた漸進的な政策調整、言い換えるとマネジメントサイクルの活用が犯罪予防行政にも必須であると考えるゆえでもある。また、利益相反性という面についても触れておくと、そのような動きが正当な形で進めば、私が仕事上活躍できる環境も増えるということ見込みがあることも事実である。

 調査を通じて政策を調整していくというルーティンの必要性は、どの先進国においても、また独裁国においてさえ必要である。建前からいえば、民主主義が機能するためには、主権を有する国民が国政について的確に理解できていることが必要であり、統計は、そのためのツールとして利用される。統治側の視点に立てば、先進国の統治機構において統計がしばしば参照されるのは、隣の芝生が青くないことを示して国民を納得させた上で統治に服させるためである。独裁制においても統計が必要であることは、統計が隠された挙げ句、引き際を誤った太平洋戦争当時のわが国を例に出せば、それで十分であろう。

 日本は、統計の整備という観点からみれば、まだ、先進国という枠組に留まっていると言えよう。その要件とは、官庁統計が国際比較可能な水準で整備されており、それなりに信用できる内容であるというものであると考えて良い。官庁統計のなかでも、犯罪統計は、ごまかしへの誘惑が強く作用しがちな統計である。統治側の論理からすれば、大量の犯罪や犯罪の増加は、特に犯罪学にいう新派や左派の視点からすれば、失政の証拠であると見なされうるためである。ゆえに、仮に、少女売春が13%であるという数値が政治問題化しそうであるならば、必要なことは、その数字をより信憑性のあるものに差し替える努力を行い、その数値を可能な限り低いものに留められるような方策を講じることである。

 業務統計(の活用)の改善のためには、数値そのものよりも、業務を改善するために統計を利用するという姿勢(を見せる)こそが政治や行政に求められることである。アメリカのように、アドボケイトもそれを批判する側も、十分な理論武装のために研究者を活用するという風習があったならば、私ももう少し楽をできていたかも知れないと思うと、少しばかり厳しい言い方をしても良いだろう。ただ、厳しく指摘したところで、わが国に残された時間は多くはなく、果たしてここでの意見が十分に反映されるだけの度量が社会の成員に共有されるかどうかも疑わしいことである。しかし他方で、日本に残された時間が少ないということは、別の見方をすれば、日本というプラットフォームがまだ生きており、かつ、今後を構想できる青写真が必要とされている時でもある。今こそ話をする時機であるとも言えるために、以上を記した次第である。

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