2016年1月6日水曜日

テレビ朝日の超能力捜査官の番組を批判する

超能力者に直接取材、事件を解決に導いた透視捜査に迫る
「トリハダ[秘]スクープ映像100科ジテン 3時間スペシャル」 テレビ朝日系 2016年1月6日(水) 19:00 ~ 21:48

 なぜ「科学捜査最前線!」といった番組にしないのか、理解に苦しむところである。こう思う理由を簡単に整理してみたい。その理由は、警察と社会との境界面(インターフェース)における課題を浮き彫りにするからである。

 現在、誘拐事件の人質や殺人事件の被害者の位置を何にもよらずに探り当てることができたり、死者と対話できるなどといった「超能力」の存在は、再現性のある形で証明されていない。より踏み込んで言い添えると、「超能力捜査官」なんていう存在は、基本的に詐欺師の類いである。仮に、彼女ないし彼が何らかの成功を収めているとしても、その成功は、超能力者であるという主張が犯人に諦めの念を抱かせたとか、超能力という存在と直接関連を有さない、別の理由によるものであろう。同時に、このような社会に対する派生的な効果こそ、現実の社会における「超能力」の効果であると考えられる。「超能力」は、自称超能力者の本人に付随する能力ではなく、視聴者や犯人などの反応から生じる相互作用の一種なのである。

 番組に登場する「超能力捜査官」は民間人のようであるが、「『超能力捜査官』が成功しており、事件が解決している」と宣伝することは、その事件における正確な事実とは並存可能ではあるものの、場合によっては、事実に対して嘘を吐いたと国民に受け取られることになりかねない。仮に、「超能力捜査官」が出動した事件において、人質や被害者の位置を探り当てることができたとしよう。法廷において、「超能力捜査官」は、その経緯を正確に伝えつつ、法廷の外では、その「超能力捜査官」は、超能力を使用したと宣伝することになる。第三者である国民が超能力の存在を誤認しかねないという状況を是認するためには、それ以上の利益が生じていることを、「超能力捜査官」の存在を擁護する者が証明する必要があると言えよう。

 「超能力捜査官」の存在を是認する根拠は、超能力が再現性のない非科学を根拠としている以上、刑事事件における「実績」しかあり得ないだろう。それ以外の根拠を持ち出すことは、「超能力捜査官」の存在が社会に対して与える得失を厳しく精査することにつながるであろう。たとえば、上掲番組のような広告宣伝行為に係る人的資源の「浪費」がマイナスだとすれば、「超能力」の存在を信じて犯罪の敢行を中止する迷信的な犯罪企図者の存在がプラスであろうし、また、「超能力捜査官」の失敗は、法治主義の国家においては、詐欺罪や公務執行妨害罪や偽計業務妨害罪を構成することにもなりうるだろう。「超能力捜査官」を擁護する者には、これらの項目をいちいち挙げて、全体として社会にとってプラスなのだ、と主張する作業が求められる。

 現実には実務に定着している捜査手法や科学的とみなされる最新の技法(統計的プロファイリング)を利用しつつ(、ただし、いち民間人では困難だろう)、対外的に「超能力」だと宣伝することに何ら疑義を挟むことではないとする見方も(、以下述べるように、肯定はできないが)、ひとつの見方ではある。しかし、「超能力捜査官」の存在を表向き肯定することから生じる得失を判断することは、二つの理由から、それほど簡単ではない。第一に、いくら「超能力捜査官」の存在が警察の外部にあったとしても、その存在は、警察の捜査官の倫理観を損ない、違法捜査・手抜き捜査へのハードルを低くすることにつながりうるためである。半分冗談であるが、被疑者をボコボコにしておいて、「超能力の副作用です」と言い抜ける、なんていうことも考え得る。こうしたとき、「外部の汚れ仕事」を請負う民間人を雇う誘惑を、警察はかわし続けることができるのだろうか。バットマンという存在も、同じジレンマを抱えてはいるが、この番組では、そこら辺のジレンマが十分に描かれているわけではなく、ノンフィクション仕立てであるだけに、誤解を蔓延させるだろう。それよりも、手抜き捜査へのハードルを低くするという機能が問題である。「超能力捜査官」は、番組でもそのようだが、大概の場合、警察が未解決である事件について、報道を通じて事件の未解決を知り、遺族等を訪問し、被害者学にいう二次被害を生じさせているが、これを放置することは、警察の未解決を免罪する、つまり警察にとっての「人柱」として機能する役割を果たしうることになる。被害者ならびにその家族に対して、「超能力でもいかんともし難かった」という理由を作るためである。超能力捜査官の存在を放置することは、下手をすると、警察の捜査を低い水準に留めうる機能すら果たすのである。第二に、聞き手=社会の科学リテラシーを損ない、社会からの信頼を失いかねることにつながる。「超能力」の存在を喧伝したことにより、目に見える被害は生じない。しかしながら、被害が顕在化しにくいことと、被害が実在することとは、別のことである。日本人の判断能力を曇らせ、ほかに知るべき事実や知識を知らせないということは、厳しく批判されるべきである。もっとも、メディアリテラシーを育むにあたり、このように一見真偽が分かりやすい題材を取り上げるということは、ひとつの方法であるといえるかもしれない。

平成28(2016)年1月15日追記

FOX Movies Premium(2016年1月13日 14:50~)で放送されていた『X-ファイル:真実を求めて』(2008)でも、男児に対する小児性愛の罪で有罪となった過去を持つ神父が、同様の超能力を持つ者として出てきていたが、同時に、彼は、犯人との個人的な関係を有する人物としても描かれていた。昔にも見て、内容をすっかり忘れていたが、それは、私が超能力を信じていないからだと、勝手に理由付けしている。



 日本人の科学リテラシーの低さは、福島第一原発事故において悪い方向に作用している。情報は統制下(「アンダー・コントロール」)にあるが、事故自体は継続している。その影響も、良く表現したとしても「経過観察」の状態にある。悪く言えば、東北地方南部・関東地方の居住人口も含め、前代未聞の人体実験が進められている。甲信越地方・東北地方北部も含まれるかもしれない。しかし、おそらく、何度か繰り返しているように(最近の記事)、事故の影響は、今後1~2年間のうちには、晩発性の健康障害という形をとって顕在化するであろう。被害が目に見える形をとって初めて、日本人は、その責任を問うことが多いが、このことは、社会によって規定された性格である。

 私は、福島第一原発事故をおそらく世界史上最大規模の企業事件(傷害罪)だとみなしているが、このような考え方に立つ者は、この人災こそ、追求するに値する事件であると思うであろう。同時に、人は見たくないものは見(え)ないようにできており、福島第一原発事故は視聴率を取れないのだろうな、とも考える。その点、番組のプロデューサーを責めても仕方ないと言えるだろう。でも、そうだとすると、なぜ、科学捜査最前線ではないのだろうか、とか、FBI式のプロファイリングは科学ではないが技術ではある、とか、いろいろ取り上げるべきことがあるのではないか、とも思う。

 どうでも良いことを最後に記すが、私は、陰謀論大好きなわりに、超能力やら爬虫人類やら地底人やら宇宙人やらを信じてはいない。にもかかわらず、陰謀論が好物であるのは、多くの犯罪に比べ、「大きな、個別の、世界史に残るような」事件を解釈するには、通り一遍の解釈だけでは、世界の動きに対する理解を大きく誤る可能性があると考えるからだ。ここ四半世紀の大きな(自然犯として認められる)事件とは、たとえば日本では一連のオウム真理教の事件であり、アメリカでは9.11であるが、ほかにも疑問の残る個別の事件や自殺は、多く存在すると承知している。

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