2016年1月5日火曜日

今後の原子力行政に対する私感(直感)

 前の記事(リンク)で、救急車のサイレンの音の回数から異常事態を把握しうるか否かを推定してみた。用語が多少ぶれているようにも思うが、それは見逃して欲しい。

 同記事は、一応の節度を保ち推定したものだと勝手に思っている。このような記事をものすると、必ずや、オマエはどちらの側だ、コウモリか?という意見が出そうである。現に、氏は、ツイッター上で、「中立」を批判している(リンク)。このような詰問に対する私の反論は、各論についての賛否の組合せは膨大になるので、人にラベルを一律に貼ること自体が問題ではないか、というものである。私の日本国内の原発に対する考え方は、ブログ中の記事で示してきたと思うが、誰にでも分かる形で意見表明しておくことは大事なので、松の内である今日(~7日)のうちに、簡単に記しておきたい。

 私の日本国内の原子力行政に対する考え方は、できるだけ速やかに廃止すべきというものである。わが国では、一部の非競争的産業分野においては、組織内の(相互)作用を経た結果、個人の能力からは信じられない程、レベルの低い成果や決定が出力されがちである。原子力産業は、そのような非競争的産業分野の王道である。同じ過ちが繰り返される可能性はきわめて高く、その証拠として、現在のグダグダな原子力行政(や司法判断)があると考える。(証拠を挙げれば挙げるほど悲しくなるので、この点について、反論を試みない方が良いように思う。)

 ただ同時に、(1)放射性廃棄物の管理(処分)は世界的な課題であり誰かが従事する必要があるという点、(2)放射線による健康障害への対策を含む広範な分野において、予防措置原則をはじめとする、成熟した文化を有する国ならではの(科学的な)思考様式に基づき議論を進める必要があるという点、の両点について、私は留意しているつもりである。いくつかの深い考察を行うサイトや書籍においては、原子力産業が国際的に分業体制にあることが示唆されている(いずれ、話を私なりにまとめてみたい)。この示唆を念頭に、(国際的な分業体制)ゆえに、わが国だけが原子力発電から足抜けするわけにはいかないという反論も提起されているようであるが、それこそ、再反論は、他国との協業体制を再編成すべきである、というもので十分である。廃炉作業や除染など、事故後の処理に係る産業分野を世界が納得できるレベルにまで成熟させることができて初めて、原子力発電の再開を検討できるというものだと、私は考える。ただし、事故後の処理については、現在よりも状況が好転しないまま、わが国は悲観的な展開を迎えることになるのではないか、と危惧する次第である。

 原子力発電の再開の検討は、健康障害への対策が十分に目標を達成できていることを確認してからのことであり、時期尚早であった。目標値を思いつくまま挙げると、(1)全国民の癌の罹患率の増加分は0.5%に抑えること、(2)人口減の程度を2010年以前に示されていたものよりも(移民によらず)抑えること、(3)年齢調整した上での一人あたり医療費の増加を各年代(年代の区切り数や切り分け方により「調整」が可能であるが、若年人口、労働生産人口、高齢人口、の三区分でも良い。高齢人口と労働生産人口との年齢の区切りは、65歳が適当であろう。)で2010年時点のものに抑えること、(4)乳幼児死亡率を2010年時点の程度に維持すること、(5)中絶率を(推定可能ならば)2010年時点の程度に維持すること、であろう。なお、これらの目標値の作成自体が難しい作業なので、鉛筆ナメナメの作業となるが、そのようにして設定した数値であっても、これらの目標達成は、まず無理であろうと私は予想している。

 オットー・フォン・ビスマルクは「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。」と述べたようだ(リンク)。私には何故そうなのか分からないが、日本人という社会集団は、経験からすら学べない(と諸外国から見られるような結果しか出せない)のであろうか。そうは信じたくないのではあるが、福島第一原発事故の後処理に限定してみると、そのような結論となることを認めざるを得ない。

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