危険と相対する可能性のある職業人には絶えざる訓練が必須である。個々人が反射的に危険に対応し、さらなる危機の発生を抑止するためである。これらは、私が指摘するまでもない常識である。ただ、次の主張に係る論拠を積み上げるためには、どうしても必要な前振りである。
米軍と政府に対する沖縄県民の不信が決定的に上昇し、辺野古に県外警察の機動隊が大規模に投入されてから、一年が経過しようと[1]している折に、大阪府警察の警察官による暴言[2]が目取真俊氏により撮影[3]、公開されるとともに、警察官が抗議人を外国人呼ばわりする別の映像[4]も公開された。二本の映像において認められる警察官たちの暴言に、擁護すべき点は何もない。たとえ事実の摘示であっても、いずれの暴言も、あの状況下においては犯罪となる。公式の処分を受けるか否かは置くとしても、これらの暴言は、権力による犯罪の一種である。
暴言を吐いた個人たちは、警察官としての自覚を明らかに欠いていた。これらの個人の言動や思想を警察全体に敷衍することは、論理上、明白な誤りであるが、政治的なレトリックとしては大変有効である。このとき、2名の警察官たちに、組織を代表する人物の一人であるという自覚があれば、これらの暴言がマスメディアを通じて取り扱われ、現地の警察活動がたとえ適正であったとしても、これらの活動全体を窮地に追い込むことになる、という予想も付いたかもしれない。暴言を口にすることが愛国的な態度ではないことは、順序立てて考察すれば、ごく一部を除いた警察官には理解できるはずである。
同僚の中に暴言の中身そのものには賛同する者がいるであろうという事実は、問題を起こした個人の組織上の処分を困難なものとする。国際関係をリアリズムでとらえる者が、沖縄を巡る現況に外国の関与の可能性を認めること自体は、何の問題もない。とはいえ、一国の関与を名指しして公言するとは、国際関係を論じるにはナイーブな限りである。一国の中にも多様な考え方が存在することを理解し、第三の存在の関与がないものかを警戒すべきである。具体的には、戦争屋につながる利害関係を辿ることが必要である。そして、責任を追求されるべき存在は、国ではなく個人に求められるものと理解することが肝要である。今後の警察において、名指しされた外国の意向までをも見据えた組織上の対処が必要となることは、おそらく、暴言の当人には理解されていなかったことであろう。
不幸中の幸いは、二点ある。
一点目は、沖縄の声を代弁する新聞記事[5]が、本件を沖縄と本土の問題に限定する見方を提示したことである。現時点の差別構造を琉球処分と同列に見立てることは、問題の構造を、本土と沖縄との二項対立により表現するものとなる。この理解の枠組は、問題の根本的な解決に立ち入ることなく、当座の局所的な解決(ピースミール・エンジニアリング)を可能とする。私は、あと数ヶ月の間、この見方を通用させることに対しては、賛成する。その間には世界の方向性も見定まるであろうから、その方向性をふまえて、沖縄と本土との関係を、誰もが対等に思えるように変えていかなければならない。
二点目は、現場のひとつで、居合わせた警察官が当人に自制を求めていたこと[4]である。この点は、良識ある警察官がゼロではないことを視聴者に示すものではある。結果として暴言自体を抑止できなかったことは確かでもあるし、警察官が取調べにおいて役割分担を行う状況に喩えられなくもない。それでも、現場において警察官による働きかけが撮影されていたことは、最悪の状態ではないことを図らずも示す材料である。
警察官が同僚を強く制止できなかったことは、冒頭に述べた訓練の重要性を明らかにする。先に説明した理路によって、暴言が大きな政治的問題を生じうることは、機動隊員の一人に至るまで「体得」されている必要がある。仮に、暴言を吐き始めた同僚がいたとすれば、それを直ちに制止することを半ば無意識的に可能とする訓練が必要である。本来、この能力は、各自が組織を代表するという自覚によって裏付けられる必要がある。
次に生じる事件の前に、わが国は、沖縄をめぐる現況の根本に分け入り、解決の道筋を提示する必要がある。また、警察官個人の暴言については、改善策が十分に定着するか否かが重要(というよりも、すべて)ではあるが、警察が組織としてこの種の差別意識を有していないことを明示するためには、改善方法の経過が何らかの形によって公示される必要があろう※1。本土の大メディアについては、制止する様子のない映像だけが報道され、暴言だけがカットされて報道されるとすれば、その状態は、警察全体に対して殊更に悪印象を与えるイメージ操作である。最後になるが、大阪府知事は、本件について[7]、暴言を吐いた当人らを擁護しているつもりであろうが、彼らともども、職位に求められる自覚と常識(権力側の挑発が対立を昂進させること)を欠くことを自ら暴露していることになる。
※1 警察庁の通達のうち、全国に対して教養のあり方を統一的に指示するものは、「警察庁訓令・通達公表基準の改正について」(警察庁丙総発第21号、平成19年6月5日)[6]の(2)の①の例外に相当する。いずれ、改善の過程が公知のものとなると期待される。
[1] 警視庁の機動隊が沖縄入り 辺野古警備に100人規模 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス
(記名なし、2015年11月4日06:01)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/20477
[2] 沖縄県民を土人呼ばわりする大阪府警の機動隊員 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zm6NbNKIayk
[3] 「土人」発言は沖縄県外の機動隊員か 「県民見下している」と怒りの声 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス
(記名なし、2016年10月19日07:21)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67182
[4] 「黙れ、こら、シナ人」と発言する大阪府警の機動隊員 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tM_J-2FQzr8
[5] 「土人」発言 歴史に刻まれる暴言 警察は県民に謝罪を【記者の視点】 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス
(阿部岳、2016年10月19日07:10)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67183
逆に警察がきちんと対処しない場合、それはこの暴言を組織として容認することを示す。若い機動隊員を現場に投入する前に、「相手は土人だ。何を言っても、やっても構わない」と指導しているのだろうか。[6] 警察庁訓令・通達公表基準の改正について(警察庁丙総発第21号)(kijun.pdf)
〔...略...〕まず琉球処分以来、本土の人間に脈々と受け継がれる沖縄差別が露呈した。
そしてもう一つ、この暴言は歴史の節目として長く記憶に刻まれるだろう。琉球処分時の軍隊、警察とほぼ同じ全国500人の機動隊を投入した事実を象徴するものとして。
(警察庁長官官房長、平成19年6月5日)
http://www.npa.go.jp/pdc/notification/kanbou/soumu/kijun.pdf
(2) 警察庁の施策を示す通達
警察庁の発出する通達のうち、警察庁の内部管理に関するもの、専ら技術的・補足的事項を定めるものその他国民生活に影響を及ぼさないものを除いたもの。
「警察庁の施策を示す通達」に該当しない通達の例としては、以下のようなものが挙げられる。
①警察庁の内部管理(人事、会計、給与、福利厚生、施設、教養等)に関する通達
(例)警察庁職員の勤務時間等に関するもの
警察庁職員の給与支給の手続に関するもの
警察庁における予算執行の手続に関するもの
なお、内部管理事務について、全国的な基準を設定したり、その改善・充実を図るため都道府県警察に対して発せられる指示等は、「警察庁の施策を示す通達」に該当する。
②専ら技術的・補足的事項を定める通達
(例)電算システムに関する技術的事項を定めるもの(コード表の制定、入力帳票の記入要領等)
犯罪手口や統計の分類方法を定めるもの
③その他国民生活に影響を及ぼさない通達
(例)業務に関する報告様式等報告要領を定めたもの
[7] 松井大阪知事「相手もむちゃくちゃ言っている」 「土人」発言の機動隊員を擁護 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス
(2016年10月20日12:53)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67411
2016(平成28)年10月22日追記
テレビ朝日『報道ステーション』(21日21時54分~)で(#某番組を観てダラダラというパターンであるが)、大阪府警察による戒告が行われたと聞いた。インターネットで十分にデモへの参加者、支援者の来歴や逮捕を報じる新聞記事のみに接していれば、そのような処分で良いと考える者がいても不思議ではない。しかし、これらの記事は、もっぱら産経新聞に集中している。情報を偏りなく収集して対処を講じないと、より重大なイメージ操作が事実に基づき行われかねない状態にある。
デモに係る日本国内の左右両面の情報に接しない者には、全世界の読者が含まれる。彼らは、わが国の警察に対する信頼が決定的に損なわれかねない情報も、わが国の警察に対する信頼を寄せることに役立つ情報も、両方とも収集していないであろうから、暴言を発した警察官のうち1名が極右団体に迎合する会話をしている様子に接すれば、警察官に対する処分が相応しくないものではないかとの思いを抱く危険があろう。極右団体が沖縄を訪問した際にアップした映像から、今回の不祥事を起こした警察官のうち1名は、すでに極左団体等のネット言論によって特定されている。暴言自体に係る英語記事は、『Japan Times』『Japan Today』(これら二紙は共同通信の記事を配信)、『朝日新聞英語版』などに見られるが、これらの報道上の新事実は、報道するだけの価値を見出されることになろう。
暴言を報じる『Japan Today』の読者コメント欄は、総じて警察に批判的であり、わが国の右翼に見られそうな言説は、マイナス評価に傾きがちである。警察の公正中立性に疑いを抱かせる対応は、わが国を先進国としての健全な競争から転落させることにつながる。先進国ではない国に対しては、先進国は、同じ先進国として扱わないという対応を取ることに躊躇しないであろうから、ガラパゴスな日本国民の知らないところで、わが国は思わぬ形で国益を逸失することになるやも知れない。
Police officer dispatched from Osaka insults protesters in Okinawa | The Japan Times
(共同通信、2016年10月19日19:21+09:00)
http://www.japantimes.co.jp/news/2016/10/19/national/police-officer-dispatched-osaka-insults-protesters-okinawa/
Riot police officer dispatched from Osaka insults protesters in Okinawa ‹ Japan Today: Japan News and Discussion
(共同通信、2016年10月20日06:45JST)
https://www.japantoday.com/category/crime/view/riot-police-officer-dispatched-from-osaka-insults-protesters-in-okinawa
Okinawa outrage at police officers’ racist slurs used on protesters:The Asahi Shimbun
(Takufumi Yoshida and Go Katono,、2016年10月20日17:35JST)
http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201610200032.html
2016(平成28)年10月28日17時24分追記
安富歩氏による機動隊員の暴言の波紋への評価[1]に対して、江川達也氏が非難したことがニュースとして取り上げられている[2]が、このニュースを読む限りでは、江川氏の理解に問題があると評することができる。暴力を古典的な定義に則り(ただし構築主義的に)検討しても、比較的近年のヨハン・ガルトゥングによる定義に則り検討しても、江川氏の指摘は的を外していると見られるからである。ただ、本件の評価にあたり、私は大の『フェイスブック』嫌いであるため、原文を読むことができていない。あくまでニュースの又聞きということで、この点には留意して欲しい。
古典的な暴力の定義に則り、本件暴言を検討しよう。(国家)権力には、暴力が必然的に伴う。機動隊は、権力が有する強制力の象徴である。その運用こそが重要であり、その態様は、国民に対して、まるで異なる印象を与えうる。評価する個人の正義感に沿うものと見える場合には、機動隊は、許容される程度の有形力を行使する頼もしい存在であろう(=地域警察官のイメージの延長)。しかし、国民の意思を踏みにじるものと見える場合には、いざとなれば目に見える暴力を振るうことが確実であるために、暴力的存在として見做されることになろう。後者は、暴力団なりギャングなり犯罪者なりが、周囲の物品(=沖縄の自然など)を叩き壊しながら金品を脅し取ろうという様子を思い浮かべれば、何ら不自然なものではない。機動隊の存在は、現在の沖縄県民の多数にとっては、すでに国による暴力の象徴である。このとき、「土人」と罵りつつも俸給を県から得ている大阪県民は、目取真氏の撮影映像に見るように、政府公認のヤクザと呼ばれても仕方がない存在として、全世界の視聴者には映ることであろう。このような暴力の象徴と見做されないためにこそ、これらの二名には、節度と沈黙が必要とされていたのであるが、覆水盆に返らずである。
機動隊の大義を保つために、本件は、一罰百戒が適当であった。本件を事実上放置したに等しいことは、沖縄の非暴力的抵抗が成功する度合いを高めたことになる。安富氏が「大成功」と評した所以である。単に基地に反対する県民にせよ、心の奥底に別の意図を隠し持つ思想犯にせよ、今後、この事態の推移を全面的に利用しない訳がなかろう。日本が一国のうちに平等な社会を築こうとしなければ、事態が大きく展開する可能性=危険性もあろう。(私の意見は、先に本記事に示したとおりであった。)
ところで、現代における「暴力」の定義は、ヨハン・ガルトゥング氏によるものが定着しつつある。ガルトゥング氏による「暴力」の定義は、「(その力による)制限がなければ、到達できたはずの未来を奪う力」[3]というものであり、「到達できたはずの状態」を示す「潜在的実現可能性(potential realizations)」とセットにして利用される。自己実現という規範的な状態に対して、現在の状態を対置するという発想の転換は、多くの研究分野に応用可能であった。ガルトゥング氏の「暴力」の定義は、アマルティア・セン氏の「潜在能力アプローチ(capability approach)」などとも共鳴し、現在では、国際連合における「人間の安全保障(human security)」の重視へと至っていると理解することができる。なお、潜在的実現可能性を阻害する原因が、特定の主体に求められる場合を「直接的暴力」、特定の人物ではなく組織や社会の仕組みに求められる場合を「構造的暴力」という。
以上のガルトゥング氏の定義をふまえれば、江川氏の主張は、暴力の語を古典的なものととらえていると推測できる。しかし、最初に検討したように、古典的な意味においても、沖縄県民の少なくとも一部から見れば(、そしてこの一部は多数派であるが)、沖縄における県外の機動隊は、存在自体が暴力的であり得る。江川氏はこの点を見過ごして、非暴力で暴力を喚起することは不当と述べているのである。ひとつの映像作品が世界を変えることは、江川氏ほどの伝達力のある人物であれば、体験的に理解していることであろう。
警察が関係する写真・映像のうち、最も衝撃的なものの一つは、1968年2月1日の南ベトナム・サイゴンにおいて撮影された、NBCテレビによる映像、AP通信のフォトグラファーのエディ・アダムス(Eddie Adams)による、ベトコン市民兵の処刑であろう[4]。この処刑は、ジュネーブ陸戦条約に違反するものではなく、警察官の皆殺しを企図していたベトコンの指揮官を射殺するものであったから、当事者には当然のことであったであろう。しかしながら、この写真・映像は、ベトナム戦争への厭戦気分を決定的に流通させた。
沖縄県における機動隊員の暴言は、警察に原因のない構造的暴力を、警察全体による直接的暴力という形で表出させるものとなった。目取真氏の目論見は、この点、成功したことになる。機動隊員の暴言映像が、先のベトナム戦争ほどの暴力を示すものではないことは、自明過ぎるほどであるが、他方で、タイミング・状況というものもある。米軍のプレゼンスに対する疑問が膨張している昨今、警察が矢面に立つことは、70年代安保闘争の再現となりかねない。そして、この映像がインターネットに流通するとき、事態がアンダー・コントロールとはならない虞も、十分に認められるのである。
[1] <機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを 安冨歩さん(東大東洋文化研究所教授) - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
(記名なし、2016年10月26日 11:30)
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-383010.html
[2] 江川達也氏 沖縄基地反対派に安冨歩氏が提唱した戦略に「卑怯者の発想」 - ライブドアニュース
(トピックニュース、2016年10月27日18時05分)
http://news.livedoor.com/article/detail/12203373/?http://news.livedoor.com/article/detail/12203373/
[3] 中村都[編著], (2011). 『国際関係論へのファーストステップ』, 法律文化社. 横山正樹, 「環境と平和――環境平和学への誘い」(第24章, pp.211-218).
#本記事の定義は、上掲の横山氏の記述を参考にして、パラフレーズした。
[4] Saigon execution: Murder of a Vietcong by Saigon Police Chief, 1968
(RareHistoricalPhotos.com、2014年05月14日)
http://rarehistoricalphotos.com/saigon-execution-murder-vietcong-saigon-1968/
#引用した段落では、事実関係を上記ブログに負っている。
2016(平成28)年11月3日追記
内藤朝雄氏が事件直後に次のツイートを発していたことを知った。内藤氏の指摘は的を射たものである。ただし、警察がこの指摘を生かすほどに柔軟な組織であったとすれば、事件直後の対応自体、異なったものになっていたであろう。今後、少なくともしばらくの間は、内藤氏の指摘が警察官教育に反映されることはないと予測できる。
この若者はまだ法の執行業務を行う職業としての警察官になりきっていない。勢いで喧嘩になった素人とかわらない。現場に出すにはまだ早かったと言える。この動画は、「こうなってはいけない」という警察官の教育用教材に使うことができるhttps://t.co/6sk9WKFwbz— 内藤朝雄 (@naitoasao) 2016年10月19日
本件を「利用する」と言えば、戒告処分を受けた当の警察官らにも利用価値がない訳ではない。処分後の動向は、広く流通することはないはずである。本件を奇貨として、大阪府警察は一部の極右にも浸透を図る手がかりを得ることができたはずである。その機会は、最大限に活用されるべきである。この提案が実現するとすれば、私や内藤氏やリベラルを自覚する諸氏は、本件の実像を見誤っていることになる。
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