http://digital.asahi.com/articles/DA3S12493090.html
前記事において(リンク)、私は、朝日新聞7月31日の記事を高く評価した。今朝(8月3日)の記事に対しては、新聞社の取りがちな誘導策、すなわち「わざと論点を記さない」点が見られるため、指摘して批判しておきたい。以下で私が指摘する内容を、田村正博氏が新聞記者に対して指摘していなかった場合、田村氏は、自ら元の職場に忖度したか、または、不見識を晒したということになろう。なお、本点は、以前の記事の繰り返しでもある。
まず、田村氏の解説に係る部分を引用しておく。ほぼ全ての文に異論があるためである。
【1】に対しては、インターネット上にすでに表明された批判的意見の中に、犯罪として対応できたはずなのに、見過ごしたというものを見ることができる。国民の側からこのような意見が提起されているにもかかわらず、警察を代表すると見なされうる田村氏がこのような解説を掲載することを承諾したことは、予防線を張るものと見なされても、仕方のないことである。犯罪であるか否かの解釈と対応については、相当の裁量が警察官個人に委ねられている状態にある。国民の多くも、積極的・消極的かはともかくとして、この状態に同意している。防犯カメラの導入を認容するに際して、批判が提起されたとき、多くの国民が賛意を示したのは、本事件のような重大犯罪を防ぐことまで期待したためではなかったか。
■情報の共有、限界ある
京都産業大法学部の田村正博・客員教授(社会安全政策)の話 まだ犯罪を起こしていない個人の情報を共有することには限界がある【1】。措置入院の解除から事件までに約5カ月あり【2】、植松容疑者を警察が常に監視することや【3】、市や園が危険人物とみなして広く情報共有することには【4】、人権上も法律上も別の問題が生じる可能性がある【5】。報じられている事実以上の予兆がなかったとすれば【6】、より踏み込んだ対応をするためには、社会的な議論が必要だろう【7】。
確かに、田村氏の指摘のとおり、容疑者の数々の前兆行動を犯罪と捉えなければ、個人に係る情報を共有することには限界も生じよう。しかし他方で、われわれは、テロ対策と称して、宗教プロファイリングとも呼べる、イスラム教徒全員に対する監視が行われていたことを知っている。この大規模かつ組織的な活動自体は、明らかに憲法の理念に違背する行為であり、イスラム教徒の反発を通じて、かえってテロを深めるという危険性を有していた。しかし他方で、暴露された、イスラム教徒に対する監視行動は、この種の監視が容疑者に対しても実行可能であったことの紛れもない証明となっている。
【2】については、5ヶ月間を継続して監視することの必要性を、結果として判断できなかった、という点に問題が認められよう。ヒュミント(人間同士)、シギント(通信監視)の手段を通じた人物評定がなされなかった(後述)のは、おそらく、担当部署に必要な手段を調達できなかったためであろう。確認できるだけの手段もないし、ローン・ウルフに分類される容疑者を積極的に監視するだけの組織上の要請もなかったであろうから、5ヶ月間、放置したということになるのかも知れない。結論は、詳細な内部調査を経ないことには得られないであろうが、「5ヶ月間の監視は、資源上、さすがに無理であった」という解釈と、「5ヶ月間も猶予があったのに、監視しなかった」という解釈との2通りの結論のいずれかを得る余地が残る。結果が重大であるのに、調査をしないとすれば、十全に仕事をしているのかについて、疑問視されても、やむを得ないであろう。
【3】についてであるが、現状のヒュミントの態勢では、本事件の容疑者の危険性を判断することは不可能であったであろう。容疑者は比較的若く、また、その活動範囲もかなりの広域かつ特殊なものであったようであるから、容疑者と直接コミュニケーションを取れるだけの人材を調達することは、困難であったであろう。腹を割って聞き出せるだけの人物を用意して、2月以降、容疑者の信念がぶれていないことを確認することは、現実的には、無理であったであろう。暴力団との個人的な付き合いが職務上許容されていた時期であれば、少しは勝手が変わっていたかも知れないと想像するが、この可能性は、私が分析するには手に余る分野である。
仮に、容疑者の信念を探るとすれば、警察は、現在の社会環境下では、自力に頼るほかなかったであろう。本事件は、この手の容疑者に対して、現在の警備警察が効果的に接触できるだけのヒュミントを育成できていないことを示唆するものであるようにも思われる。人選にあたっては、高橋のぼる氏の『土竜の唄』の主人公、日浦匡也のような人物が候補者としてワンダース以上必要であったであろうが、彼らは、本来、暴力団対策に奔走しなければならなかったであろうから、これらの人物が警察にいたとしても、リソース不足の感は否めないところであったろう。20代後半に見え、刺青を入れた容疑者にも自然に接触でき、かつ、不信感を抱かれずに容疑者の信念の固さを確認できる警察官は、超・エース級である。なお、このような人物が内部で調達できない場合に、警察は、協力者を外部から調達することができるが、容疑者の属するコミュニティから調達する態勢は整えていなかったであろう。仮に、整備済みであり、運用中であるとすれば、その状態は、私の先入観を訂正するものであり、高く評価されるべきことである。ただし、私の先入観は、故なきことではない。わが国は、一億総活躍と言いながら、まったく、そのスローガンとは相異なる状態となっている。
他方、【3】に係る方法には、シギントも考えられるが、現状で可能となっているシギントの態勢を機能させたとすれば、容疑者は、十分に監視可能であった。容疑者のインターネット上の活動について、私は調査していないが、十分に危険性を示す兆候が公知のものとなっていても、何らおかしくない。本人名義で危険な思想が表明され、その意見が削除されていなければ、普通の人ならば、その人物を危険視する材料と見るであろう。この辺の機微は、インターネット上でも検証可能であろうから、警察も、真剣に調査を進めなければ、後に仕事をサボっていたことを咎められることにもなろう。(つまり、しっかり調べておくべきである。)
【4】において指摘されている情報共有の難しさは、要素としては存在するが、副次的なものである。少なくとも、本事件の抑止に必要とされる程度には、情報が関係者に共有されていた。措置入院に至る情報伝達が的確であったか否かは、検証の対象となって良い。しかし、問題は、各組織が得た犯人の危険性を的確に評価できたかという点にこそ、求めることができる。
情報の共有ではなく、情報の評価こそ、本事件を予防できたか否かの分かれ目であった。防犯設備だけについて見ると、施設は、警察と警備員という、施設から見れば専門家へのアクセスを有していた。これら2つのルートは、施設からすれば、防犯上の助言を的確に与えられることが期待できるものではあった。ただし、以前から言及しているように、これらの職務に従事する人物に、的確な防犯設備に対する評価が行えたかと考えると、そうではない。これらの職務に従事する人物の中でも傑出した人物(スーパー生活安全警察官レベル、スーパー警備員レベル)でなければ、的確な評価を行うだけの心構えには至っていなかったであろう。このため、防犯設備を拡充して本事件を予防できたかと問うてみても、困難であったことが推測される。
ただ、警備員の雇用形態は、場合によっては、本事件を予防する材料となりえた。警備員が大手企業に所属する者であり、大手企業が本格的に対応に取り組んだとすれば、施設側が予算を捻出できたか否かにもよるが(そして、経営判断上、合理的ではなかったと予測されるが)、見込みは小さいものであるが、本事件を予防することができたかも知れない。施設が大手企業と契約していた場合、積極的に相談を求めなかったとすれば、この点は、悔やまれることである。
警察内部で情報共有が適切になされていたか否かについては、疑問がある。当初に連絡を受けた津久井署の部門は、名称が明示されていないようにも思う。ここに、警備部(公安部門)が関係していたのであれば、公安部門の責任が慎重に回避されようとしている可能性を見て取ることができる。本事件は、ストレートに公共安全を対象とするものであって、ヨーロッパで実行されたとすれば、わが国でも直ちにテロ事件として報道される種類の事件である。
テロ対策は、警察の警備部門のど真ん中の仕事である。ドイツ・ミュンヘンにおける7月22日の銃撃事件は、当初、テロの可能性があるものとして捜査されたという報道がある※1。なお、イスラム過激派との関連を疑ったのは、マスコミであろう。でなければ、イスラム過激派との関連について、報道記事においても、わざわざ言及しない。また、この見込みは、後に捜査を通じて否定されている※2。自称イスラム国の影響は、これらの職業的テロ集団に留まらず、マスコミ報道を通じて、世界中に影響を与える。自称イスラム国は、国際関係を攪乱するために情報機関によって育成された側面があるために、関係各国の優先的な統制の対象となっている。つまり、かつての教え子が管理不能な状態にあるという側面もあるために、これらの集団が起こした事件は、そうでない事件から区別され、その責任についても、協議される必要が生じていると見ても、さほど間違いではないであろう。新約聖書風に言えば、「カエサルのものはカエサルに」という訳である。このように、現在の国際テロ集団の一部と情報機関の一部とには、すでに関係性が生じていたがゆえに、国際テロ集団が直接関与する事件は、テロの被害国によっては、新たな国際緊張を生み出すものと考えて良い。このとき、ローン・ウルフという背後関係のない個人により引き起こされる事件は、国際関係への影響が小さなために、抑止対象として、脇に置かれがちになる。しかも、そもそも、ある程度の理性的な個人により、個人の可能な範囲内で実施されるために、予防が難しいという側面も認められる。ホームセンターで買物したら即連行された、というのは、自由な社会に生きる個人にとって、まったく望ましい展開とは言えないが、それでも、ローン・ウルフの犯行を抑止するためには、必要となる可能性が高いのである。
情報の共有ではなく、情報の評価こそ、今回の事件を抑止する上でのポイントであったということに気が付きながら、その指摘を欠落させたのであれば、朝日新聞社の今回の記事執筆担当者たちは、忖度が過ぎたと言いうるかも知れない。私が顕名で指摘することを必要とした分、私は、ちょいおこである。(これ以上、余分に目を付けられたくないっての。)他方で、この点に気が付かなかったとすれば、その内実は、新聞社としての要件を欠くことを示すものになりかねないため、慎重に検討されるべきであろう。この種の情報を通じた誘導は、上手か下手かを問わず、警察官僚なら、半ば無意識の習慣になっていると言いうる。朝日の記者がコンタクトを試みた経緯については、知る由もないが、田村氏の経歴や実績等、色々と承知の上でコンタクトを取ったのであれば、情報の評価こそ重要であるという点にまで、記者も薄々気が付いていた可能性が高い。その上で、バーターということに相成った、と考えても良いかも知れない。この場合であれば、本事件に係る微妙なバランスを取る上で、報道機関として必要な取引を行ったということで、朝日新聞社の記事を許容する向きも出てこよう。他方、気が付いていなかったとすれば、記者の総合的な力量が取材対象に比較して不足していたということである。不用意であったと結論付けられよう。
【5】についてであるが、本事件に係る以上に詳細な情報が共有されたとすれば、人権上、法律上の問題は生じたであろうが、【4】に対する説明に示したように、これ以上のディテールに係る情報共有は、必要ではなかったであろう。それよりも、警察内で容疑者の動向を評価できていれば、警察の側での警備を増員したり、常駐するなどの対策も取り得たであろう。また、警備の際には、施設に対して、たとえば、「容疑者の件で、警備が必要と認められましたので、今から○日間、○名で警備します。施設の側でも3名警備員を増員してください」のように必要なだけの情報提供を行えば良かっただけである。
【6】については、報道されている事実以上の予兆がなかったとしても、危険性の判定は十分であったであろう。容疑者の手紙は、掲示板に殺害予告を行う人物以上に、はるかに具体的な犯行予告である。警備部門において、1名を専従で評価に当たらせれば良かっただけである。容疑者の危険性を判定できた部署は、手紙を託された
【7】については、もちろん、その通りではあるが、前提となる【6】に係る事実認識が異なり、これだけの情報を得ているにもかかわらず放置したと見なされる可能性が高い以上、警察内部における情報流通過程を(内部で)真摯に検証した後でなければ、国民一般の理解を得ることが適わないであろう。私の考えるところでは、警備警察は、わが国では最も予算も人員も潤沢な情報機関である。他国の情報機関が実施可能なほどの権限を付与されてはいないものの、今回の容疑者を監視して、必要に応じて拘束するという作業は、特に問題なく行えていたはずである。他方、このような作戦が成功したとしても、その成功を社会的に賞賛する仕組みは、整っていない。この偏りのある状態は、警備警察がこの種の行動にリソースを割くことを疎かにするという要因となっているものと考えられる。政治的な情報収集に邁進した方が、組織として有用な結果を得ることができるという現状も、反社会的な微罪での前科を持つ犯罪者を放置するという傾向に拍車をかけているものと推測できる。つまりは、天下りにならないこと、カネにならないことに対して、仕事をしていないのではないか、という疑いがある。これについては、話が逆である。社会が上手く回っている限り、世間は、天下りのことをとやかく言わないであろう。上手く回らない時勢においてこそ、公務員は、奮起すべきである。いざというときのために働くのが公務員の本質であろう。(歴史は、いつも「いざというとき」であることを教えてくれるものであるが)
自称イスラム国にとっても、ほかの危険団体にとっても、私がここで指摘したことは、公知の事実に近いものである。敵の上を行くための適切な理解は、私の指摘の上をゆくだけの正確な知識の上に構築されるべきである。このとき、社会の支持は、誤解の上に成立させるべきではない。揺り戻しが酷いからである。私の吹き上がった表現も、ある意味、揺り戻しの一つの表出であると見ても良いであろう。対策を練る上で、国の総力を結集しなかった事実は、次の失敗において、要因として見なされる。今回の事件を機に、全範囲にわたる検討を行わなければ、その結果は、後の事件に報いることになろう。そのときもまた、慎重に責任を回避しようとしても、同じ種類の過ちを繰り返した組織を、国民は、軽蔑するであろう。(日本国民は、健忘症気味ではあるが。)
私が自身の知識と少ない経験に照らして言えることは、おおむね本稿でも素直に表現した。このように私は考えている。犯罪予防に係る考え方のすべてを、社会の全員が理解することは、なかなか難しいところであるが、それでも、どの考え方が直球であって、どの考え方が変化球であるのかを知っておくことは、社会が基本から逸脱しないために必要なことである。今回、私は、情報の評価過程こそが検証されるべきであって、最低限の情報共有が行われていたことを主張した。この主張こそが基本線である。そこから外れる意見については、何かの利益が存在すると見て、何らおかしくない。
※1 独ミュンヘンで銃乱射事件発生、8人が死亡 | ロイター | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://toyokeizai.net/articles/-/128605
警察の報道官はイスラム過激派による攻撃であることを示す証拠はないとしているが、テロ事件として捜査していることを明らかにした。
※2 ミュンヘン銃乱射事件 メルケル首相も参列して追悼式 | NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160801/k10010616461000.html
警察などのこれまでの調べによりますと、死亡した18歳の男は、イスラム過激派との関連は見られないものの、市民を無差別に狙った事件に強い関心を抱いていたことなどが分かっています。
なお、同じ(8月3日の)記事の中に、容疑者のガラスを割る音がインターホンを通じて聞こえたために、事件に職員が気付いたという記述が見られた。施設において、ガラスが割れるという事態がどれほどの頻度で生じていたのかにもよるが、この事実は、事件の分岐点になり得たであろう。
大分県警別府署:隠しカメラ、「民進党」関連建物敷地内に - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160803/k00/00e/040/195000c
上記事件で、違法に隠しカメラを設置した可能性が認められるのは、刑事課員であるという。この種のカメラ設置は、タレコミに相当の信憑性があったという前提の下で、設置場所はともかくとして、認容されている。相模原事件においても、自宅を監視するために、同様にカメラを設置すること自体は、容疑者の行為を犯罪と見ることができた以上、刑事警察としてはともかく、警備警察としては、何ら問題なかったはずである。
(ニュースQ3)警察がイスラム教徒監視 「やむを得ない」?:朝日新聞デジタルこのニュースは外国メディアが先に大きく伝えた。それがテロ対策上、重大な問題となることを最高裁は全く気付いていない➡︎— masanorinaito (@masanorinaito) 2016年8月2日
Japan has green-lit blanket surveillance of Muslims https://t.co/Hk9auKXQb1
http://www.asahi.com/articles/DA3S12491207.html
Japan's top court has approved blanket surveillance of the country's Muslims | Asia | News | The Independent
http://www.independent.co.uk/news/world/asia/muslims-japan-government-surveillance-top-court-green-lit-islamaphobia-a7109761.html
The Independentの記事は、6月29日付、アル・ジャジーラの報道を受けたものである。イスラム教徒のリーダーと協力関係を構築し、合理的な疑いをかけることのできる、真に悪意のある人物をマークするという手順が王道である。邪道である方法を、最高裁判所が最初から許容するようでは、何が規範として正しいのかを、国民が理解できなくなろう。
あらかじめ指摘しておくと、今後にイスラム教徒とされる人物が重大事件を日本国内で敢行して、2名以上の死者を生じてしまった場合、相当にセンシティブなデータを多量に公開しなければ、定量的方法による場合、「イスラム信仰を理由とする監視は、わが国では、犯罪予防上、有害である」という結論を得ることになってしまう。『悪魔の詩』の翻訳者殺害事件のほかには、国内犯で明確にイスラム過激派による犯行であることが認められる事件が見られないためである。今回の決定は、結果として、使える手法を少なくしてしまうことになろう。
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