2016年8月2日火曜日

私が不正選挙を追求し公開するのは国民の良識を信頼するからである

 本記事は、意見表明に過ぎないが、大事なことなので、あらかじめ、現時点で明言しておくことにした。

 不正選挙という方法は、間接民主主義においては、最大の禁じ手である。第一に、良識のある国民の判断を役立たせる機会を最初から失わせるものである。のみならず、不正選挙には、捏造された当選結果が国民の政治参加に対する意欲を失わせる、という波及的効果も認められる。不正選挙を行った者がいるとすれば、その者は、不正選挙によって引き起こされた波及的効果のすべてについて、結果責任を負わなければならない。この一方で、「騙された日本国民も悪い」という論理は、日本国民の選挙結果に対する錯誤を理由に、通用しなくなるのである。皆がアホな為政者を選んだのなら仕方が無いと諦めていた、聞き分けの良い市民も、不正選挙なら容赦しないであろうからである。

 その反面、不正選挙が行われず、多くの日本人が自らの判断で当選させた政治家が、非常に悪い決定を下し、その結果、日本国が失われたという場合を想定しよう。このとき、私は、日本国民が自業自得であると自らが賛成することはしないものの、このように諸外国から非難・揶揄されても、やむを得ない客観的な評価であると受け止める。たとえ、このような亡国に至る道へのマスコミの誘導が酷く、それに国民が乗せられ続けてきたとしても、である。いずれにしても、日本国民は、日本社会の機能が喪失したとき、その結果を受け止めざるを得ないであろう。なお、マスコミの誘導が酷いという仮定を採用したとき、私は、日本国民の結果責任を認める一方で、マスコミの責任者、「寿司友」にも相応の制裁が必要であると考える。また、そのために必要な材料を用意し、公表してきた。しかしながら、私の行為とは関わりなく、各社会集団の機能が正常に発揮されていれば、「マスコミの誘導」は、是正されていたはずである。「マスコミの誘導」という失敗に至る道筋は、マスコミのみによって用意された訳ではなく、各社会集団の不正・構造的欠陥によるものでもある。

 不正選挙ほどではなかろうが、世論調査についても、同様の結果責任に係る構図が存在する。社会調査に関与してきた企業と、関係企業から利益を得てきた学識経験者は、研究活動・社会的活動の内実によっては、政治上の結果責任をも引き受けたことになっているのである。たとえば、RDDがすでに破綻しているという指摘は、一般人からも提起されている。当該手法によって利益を上げてきた企業は、他方で、多くの関係分野の学識経験者と利益相反関係を有する。このとき、RDDにより生じるバイアスの程度を見極めるという目的を有する研究を客観的に実行する環境は、およそ、わが国では存在しない。わが国では、まったく利益相反関係のない他分野の人物が、利益相反関係をまったく有さないという新規性を理由に、科学研究費補助金を支給されるという構造を認めることができないためである。この環境は、RDDに関与する研究分野の学識経験者に対して、新たな社会的ゲームのルールを強いるものとなる。RDDを「従来からのやむを得ない方法」として認めれば、RDDに関与する研究分野の学識経験者は、政治上の結果責任を引き受けたことになるのである。なぜなら、RDDによる方法を単に認めるだけでは、この学識経験者は、RDDによって得られる系統誤差を考慮することなく、おかしな調査結果の流通までをも認可したことになるためである。この陥穽を避けるためには、「○○新聞の○年○月○日の調査の枠組みでは、命題Aは成立しても、同新聞のいう命題Bは成立しない」などと、是々非々で個別命題を検討していくほか、彼(女)が結果責任を逃れる方法は存在しないであろう。しかるところ、外部の者からみて、マスコミ関係者が仲間と見なしているような学識経験者が、各マスコミの社会調査の内実にわたり、逐一、解説を加えているということがあろうか。また、その解説を並記するマスコミがあろうか。このような、利益関係から生じる主従関係を甘受してきた研究者たちは、不作為という種類の結果責任を引き受けてきたことになるのである。ただし、本段落で指摘したことは、あくまで構造的問題であり、ここで私が理想であるかのように指摘した活動を行える研究者という存在は、ほとんど(良い意味での)例外的な個人の状態に由来していることを指摘しておきたい。この状態を正常化する方法は、あくまで構造的方法によるべきである。個人の英雄的献身は、賞賛こそ浴びるべきである。しかし、個人の犠牲の上に上手く機能する社会構造は、およそ、平等からかけ離れた状態なのである。

 私が公開情報に拘るのは、市井の日本人の一人一人の責任の程度を見極めたいためである。公開された情報を、一人一人がその人なりに判断し、社会に対する意見を形成し、(被)選挙権を行使したり、しなかったりという判断を下した結果※が、現状を作り出したとするならば、現代の日本社会は、それを引き受けざるを得ない状態にある。しかし他方で、私には、日本国民の良識が反映されない政治的現状には、重大な構造的要因があるように思われてならないのである。もちろん、不正選挙は、その構造的要因のうち、最も大胆な形で、間接民主主義を破壊する方法である。それゆえに、不正選挙から生じた責任が存在するとすれば、その責任は、不正選挙を企画・実行した複数の人物に帰すしかない。


※ 判断力を有さないとされる比較的少数の人たちについてはどうなのだという話は、考慮しない。この点を考察することは私の仕事ではないと私自身が考えていることをもって、ここでの回答としておきたい。(つまり、判断能力を有さない有権者という存在は、私が不正選挙について考察するときの、モデルの例外である。)

 近年の選挙結果に対して、直感と異なるものを感じた人が多いとしても、ふつうの生活人に、この疑念を客観的に追求する作業を求めることは、無理に過ぎよう。他方、そのような存在を個人的にほとんど知らないが、リタイアした研究者なる者は、原理的には、その作業に従事可能な要件を揃えていよう。団塊の世代以降の研究者であれば、どの分野の研究者であっても、分析に必要なPCの操作能力は、十分有しているであろうし、分析に必要な資機材はほぼ全員が自宅でも所有していよう。ただし、現実には、リタイアした研究者は、自分の研究分野でまだまだやり残したことがあろうから、やはり、不正選挙の可能性を追究することを他人にお任せということになりがちであろう。


 私が本ブログで私なりに提示した疑義は、基本的に、カネ・コネの双方がなくとも、追試可能である。つまり、私の指摘の正しさは、誰でも検証可能である。他方で、この追試作業への社会的な風当たりは、強いものとなることが予測される。とりわけ、権力者が不正選挙によって当選したことについて自覚的であれば、なおさらである。

 しかし、分析そのものが可能であって簡単に公開できるという情報環境は、同じ情報環境についての話ではあるのだが、分析結果を周知する際の情報環境とは、別ものとして扱うべきである。観察者としての分析者が、現実に影響を与えることによって、現実のプレイヤーとして参画することになるためである。分析者の主張した内容が、他のプレイヤーの行動に変化を促すことにより、今後の社会における再現性が確保されなくなる可能性もある。この現実への関与(involvement)は、実学における本質的な問題であるが、イマイチ、私には問題の全体像がつかめていないので、避けて通ることにしよう。

 インターネット上に公開された情報は、それがデファクト・スタンダードとなっているいくつかのサービスにおいて、人為的かつ不公正な形で秘匿されない限り、人々に気付く機会が与えられたために、一定程度、読者として想定されている人物に対しても、何らかの種類の責任を投げかけるものとなっている。たとえば、研究者は、「知らなかった者が悪い」と言われれば、その通りの職業である。ある程度までの基本的な知識や考察についてであれば、研究者にとって、知らないことは、当人の無能力を示す、恥ずかしいことである。「無知の知」は大事であるが、同時に、多くのことを知らないという自覚を有するからこそ、この情報(爆発)環境の下、研究者は、最大限、その環境を乗りこなすよう、努めなくてはならないのである。

 他方で、多数の一般的な人物からすれば、隠されるべき情報が存在するという命題は、肯定されるものであろう。ポルノグラフィやヘイトスピーチやある種の陰謀論は、これら検閲の対象として、全世界的に対象となっているであろう。他方、近年のわが国では、死に係る映像・画像は、多くが自主的な検閲の対象となってきたが、他国では、必ずしもそうでないし、かつてのわが国でも、そうではなかった。隠されるべき情報は、時代と環境と受け手によって、大きく異なるものとなる。

 情報公開と検閲とに係る環境が、基本的には以上の条件からなる形で用意されているとき、不正選挙に係る客観的な分析結果という情報は、いかに扱われるべきであろうか。この問題は、なかなか興味深い話を呼び起こす。しかし、この話を概念上詰める余裕や親切さが私にはないので、私の考える落としどころを以下に述べておこう。現実のサービスにおいて、ある情報が検索システムの基本的な動作から大きく逸脱する形で下位にランクされるとき、その結果は、人為的なものと認められる。この種の人為性が認められない限りは、かつて、宮台真司氏がセキュリティに係る社会設計の要点として挙げたような、「知りたい者なら知ることができる」という状態が実現されていると認めることができよう。

 人が学びたいと思うとき、そのときが学びどきである、というのは、教育学で広まりつつある考え方であるが、同じ事は、不正選挙の是非について、本当のことを知りたいと考える人にも当てはまるであろう。ある物事について、深く知ろうとした人がいるとき、正確かつ権力者にとって不都合な情報であろうとも、無料でアクセスすることができ、かつ、これらの情報の弁別に際して多少の困難を経験することがあっても、その困難さが権力の介入によって無用にハードルを上げられたものでなければ、その情報へのアクセスは、十分に確保されており、自由なものである、と言えるであろう。

 不正選挙に係る情報に限らず、正当な研究(の実施)、正当な言論(の公開)、正当な情報へのアクセスが保証され、実現されていれば、それを利用することが期待されている国民国家の成員には、その状態を活用する一種の責務が生じる。不正選挙という指摘が国民の側から合理的な疑問をもたらした証拠とともに提示されたとき、当該分野に係る研究者にはもちろん、ジャーナリストや、当の選挙によって当選した(はずの)政治家には、この指摘に応える責務が生じていると見ることができよう。この機会を日本国民が活用せず、かつ、その不作為に正当な理由が存在しなかったとき、不正選挙により実現した政権が何を行おうとも、日本国民は、諸外国の良識ある国民から見れば、民主主義をむざむざ無駄にしたと見なされることになろう。他方、現状にあるような、現政権に疑問を呈する多くの日本語サイトが閉鎖に追い込まれ、あるいは、嫌がらせを受けるという状態は、権力の側に責任を転嫁できる状態である。

 日本国民に対して、公平な判断の機会を与え、これを保証することは、ある政策についての権力への批判に対して、権力が合法的かつ正統的な手段で対応したことを示す、消極的な手段となる。しかし、この機会を無用に奪うことは、すでに、権力の側に正義がないことを示す端的で揺るぎない証拠となる。この非対称性は、権力の側にあっては、むしろルールとして厳しいものに受け止められるかもしれない。しかし、横綱相撲を取れるからこそ横綱である、という考え方は、依然として、わが国の標準的な考え方でもある。 疚しいところがなければ、堂々と国民の判断を仰げば良いのである。不正選挙に対する指摘も、同様に処理すれば良い。日本国民の良識は、期待して良いものである。

おまけ(2016年8月2日22時追記)

Stephen Spoonamore Former CEO Cybrinth
https://www.youtube.com/watch?v=Jy1sz-xBxf8

 統計学的手法によれば、非常に洗練された出口調査に対して、結果に2%の誤差が生じていれば、投開票における不正があったと主張しうる。

とSpoonamore氏は説明しているが、これは、(多段の)二項分布を、選挙人団選出時の出口調査への回答者に対して仮定したときのものであろう。

平成28年8月10日追記・修正

文章を分かりやすくするための追記・修正を行ったが、文意は訂正していない(つもりである)。

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