2016年8月3日水曜日

『SAW』シリーズの「ゲーム」はテストであってゲームではない

 疑問が氷解するきっかけがあったので、忘れないうちに記しておくことにする。

 『SAW』シリーズ、18禁映画を話題にしたい。こう見えて、快楽主義者な私は、このシリーズを嫌悪するとともに、非常な違和感を感じてきた。初作を観たとき、かなりの初期に、犯人が分かってしまい、めっちゃ萎えた、という経験も影響している。それよりも何よりも、このシリーズ中で用いられる「ゲーム」という言葉に引っかかってきた。バレバレだが、私は、普通の人よりは、ゲーマーである。

 同シリーズの主人公、ジグソウの(初作なら二人が目覚めた後の)決め台詞は、I want to play a gameであるが、私からすれば、奴の意味する「ゲーム」は、どう見ても、生きるに値するか否かの「試験」であって、英語で正確に意味する用語を探せば、私に言わせれば、testである。もちろん、私は、奴が「ゲーム」の語を「生の価値を体感するために、痛みに耐える」という作業内容を指して用いていることを、理解しているつもりである。また、一応、ジグソウは、奴なりの基準によって、ゲームとテストという語を相手によって使い分けているようではある。

 しかし、『SAW』シリーズにおける「ゲーム」という語が意味する、「痛みが用意されており、我慢する必要があって、報酬は自分の生命である反面、失敗はほぼ例外なく死」という状態は、明らかに、ゲーム数千年の歴史が想定する「ゲーム=遊戯」の伝統的な意味に反したものとなっている。通常の意味でのゲームは、大抵の人にとって、成功報酬は低いかも知れないが、失敗による不利益もほとんどないものである。なお、賭博とゲームが深い関係を有しながら発展してきたことは、これまた共通の理解であろう。賭博に起因するゲーム上の失敗・敗戦には、不利益が付随しがちではある。しかし、それは、あくまで、賭博という行為に係る話である。それゆえ、ゲーム自体が不利益を生じさせるということではないはずである。

 このように、「ゲーム」に対する基本的な誤解が向こう側に認められるため、私は、『SAW』シリーズを受け付けないのである。『死亡遊戯』なら良く分かるし、楽しんで観たというのは、落ちていないであろうが、オチのつもりである。

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