2016年8月28日日曜日

ダイヤモンド・オンライン(平成28年8月26日)窪田順生氏の記事について(感想)

 ノンフィクションライターの窪田順生氏は、ダイヤモンド・オンラインの8月26日の記事※1において、毎日新聞(7月14日)の記事※2から「4+1」会合の存在を引用し、宮内庁がNHKと協力して天皇陛下のお言葉を放送する段取りを整えたものと推測し、庁外の一部の反発を抑えてお言葉の放送にこぎ着けたことを高く評価している。「4+1」とは、官庁機構トップ2人、侍従職のトップ2人、OB1名から構成される宮内庁内の懇談会であるという※2。官庁機構側のトップ2は旧内務省系の事務次官級である一方、侍従職トップは外務省系である※1。窪田氏によると、今回の成り行きに係る巷の観測には、「オモテ」と「オク」の対立から生じたもの、「オク」の独走によるものなどがあるらしい。

 窪田氏は、今回のお言葉に至る経緯は、宮内庁の首脳陣が一丸となってNHKと協力して企画・実行してきたものと理解している。その証拠として、NHKに対する取材拒否等の報復がないことを挙げる。宮内庁の幹部たちは、官邸と国民を納得させるために、
陛下の「お気持ち」を宮内庁内部の何者かがリークし、事無かれ主義の宮内庁幹部がそれにフタをしようと目論むも、陛下の強い意向を無視することができず結局、押し切られるように「お気持ち」表明をした※1
という筋書きを描き、あえて憎まれ役を買ったのではないか、と窪田氏は推測しているのである。

※1 宮内庁の完全勝利!?天皇陛下「お気持ち」表明の舞台裏|DOL特別レポート|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/99848

※2 生前退位意向:5月から検討加速 宮内庁幹部ら5人 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160714/k00/00e/040/220000c

 窪田氏の論考は、説得力のあるものであるが、私には、窪田氏の論考の根幹を受け入れた上で、末節については、なお異論がある。その第一は、本当に宮内庁の官僚たちが一丸であったのか、という点についてである。第二は、ある意味検閲され、ガチガチに固定化されたことが認められる状態であっても、陛下のお言葉が放送されたという結果には、皆が満足しているのであろうか、という点についてである。

 第一点目、官僚たちが常に一丸であるかであるが、私には到底そのように思えない。個人的体験からいえば、官僚の三分の一は、環境さえ許せば、利己的に振る舞う。仮に、官邸が皇室の政治利用を嫌うとすれば、官邸は、人事権を利用して宮内庁への出向者を子飼いのものにするはずである。「子飼い」という表現は、利己的な振る舞いを利用される余地がある状態にある、と読み替えた方が的確かも知れないが、ともあれ、今回の成果が宮内庁一丸となった結果であるという表現は、どのような組織にも腐ったミカンが出現する、という原則論からみて、素直に飲み込めないのである。もっとも、窪田氏の表現は、何かの符牒や罠であったり、同氏の後の取材を円滑にするための作業の一環であるとも見えるものである。

 第二点目、録画であっても陛下のお言葉が全地上波局(東京都内)で国民全員に伝達されるようにテレビ放送されたという結果は、現状の日本社会の成員の構成状況を前提とすれば、これ以上を望むべくもない程の成功であったといえるが、それでも、よりベターな結果がなかったのであろうか、とも考えてしまうのである。このように考える理由は、もちろん、福島第一原発事故の収束が完了しておらず、日本国民の数割が福島第一原発事故による健康被害リスクに曝露され続けているためである。一部の関心ある人たちを除けば、受忍していることにすらなっている訳ではないし、同時に、一部の関心ある人たちも、東東北地方や北関東地方に居住することのリスクを理解しつつも、やむを得ずリスクを引き受けている状態であろう。時間の経過につれて、リスクは単調増加する※a

 これらの異論の先を見越せば、国を動かす作業は時間のかかることであるという反論も、(本件に関与した)高級官僚の中から聞こえてきそうである。しかし、時間を要したという結果責任は、軽重の程度こそあれど、高級官僚たちのほとんど全員が、本件に関与した人物も含め、各自の振る舞いに応じて引き取るべきであるし、そうせざるを得ないことになろう。何度か指摘しているように、わが国の高級官僚たちは、十分過ぎるほどに政治的に振る舞ってきたからである。どれほどの理由を見込んでも、結果的かつ外形的に、高級官僚という職能集団は、「戦争屋」の意向を忖度し、(生命を保つという意味での)保身に走ってきた。わが国では、当の皇室ご一家を除き、個人がその「職業」を辞めるという選択肢は、憲法第22条によって、基本的には保障されている。このため、現状に至る政策パッケージの形成の場において、日本国民の健康及び生命に悪影響を与えることが見込まれる施策に荷担するよう求められたとき、近い将来、(文字通りに)腹を切ることになるのが嫌だったのであれば、当の高級官僚は、辞めるとともにその経緯を世に問うべきであった、と言えるのである。

 窪田氏の記事は、同氏が今後の動向を報道する上で役に立つことであろうが、お言葉に係る報道を今回のような形で実現させた高級官僚たちを免責する上で役に立つものとはならないであろう。というのも、福島第一原発事故による健康影響は、チェルノブイリ原発事故における推移に倣えば、今しも顕在化しようとしているところであり、その状態は、官庁統計同士の齟齬を注意深く分析する者に把握されている可能性すら認められるほどであるためである。事故の収束作業に従事しない一般の日本国民は、チェルノブイリ原発事故以上に苛酷な条件に置かれているわけであるから、今までの間に影響が出なかったと断言することは、とてもできないであろう。いずれにしても、現役の高級官僚たちはもちろんのこと、過去10年ほどの間に退職したOBの幾人かも、責任を逃れることがすでに適わない状態にある。今後、マスコミや学識経験者を巻き込む形で、高級官僚たちがてんでに責任を逃れようとする試みが繰り広げられるであろうが、おおよそ、全員が総懺悔という顛末を迎えることになろう。第二次世界大戦は悲惨であったが、今後、それ以上の悲惨が顕在化しないとも限らない。その成り行きの次第を恐れるのは、健全な国民であれば、当然のことである。

 なお、面白いことに、窪田氏の2015年1月6日の戦後70周年に係る『サンデー・モーニング』に対する辛辣な批評記事※3は、窪田氏の今回の記事に対しても適用可能である。窪田氏は、同番組がギュスターヴ・ル・ボン[著], 桜井成夫[訳],(1895=1993).『群衆心理』(講談社学術文庫).を引用し、プロパガンダを仕掛ける側が大衆を見下していると指摘し、現政権に対する批判を提示したことに対して、ル・ボンの創始した方法に最も忠実なのが現代のテレビであると批判している。これを、窪田氏は、ブーメランになると表現した。この経歴をふまえると、今回の窪田氏の記事の表現は、国民の生命と健康と財産を保護するための仕事を十分に果たさなかった人物まで擁護することになってしまいかねないものであり、全宮内庁の官僚の仕事を擁護したことになる。リップサービスは、今後の取材のためであろうと、「罪人を庇うつもりで、官僚の予防線として機能するように、記事を用意したのか」という邪推を許すことにもなるのである。報道に関与する人物は、取材対象との一定の距離を保ち、顧客が誰であるのかを常に意識しなければ、1%側の人物として容易に分類されてしまうであろう。もっとも、いくら本稿がカネにならなかろうが、今後の仕事のチャンスを奪うものであろうが、私の記事にも同じ事が当てはまるであろう。解説記事は、それだけの覚悟を必要とするものである。

※3 窪田順生の時事日想:“ヒトラー安倍”にご用心!? 日本の「群衆」を操作してきたのは誰なのか (1/4) - ITmedia ビジネスオンライン
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1501/06/news029.html



※a 国及び国民が動き出すまでの時間が長引けば長引くほど、確率的に発症する国民の人数は、決定論的に単調増加すると考えて良い。LNT仮説は、一応今のところもICRPによって採用されているので、同説に従い、現状を大雑把にモデル化すれば、この結論は、簡単に得られるものとなる。ざっくばらんに考えると、呼吸器系の疾患についてみれば、おおむね、2011年3月中の対策が分水嶺となると予想される一方で、地域の汚染状況と居住期間に比例して、リスクは増加しているであろう。よって、地域集団における発症のリスクは、居住時間の一次式として表される。切片は、航空測量等による空間線量に規定されよう。食品の摂取を通じた内部被曝による、ある時間における被曝線量の増加分は、一人について見れば、徐々に低減する階段関数状(マヤ型ピラミッドのような形状)となるものと予想される。主食となる米の蓄積した放射性物質が効くと思われるためである。人の年齢や性別から来る食習慣によって、この階段の高さは変わるであろうし、人の年齢や性別によって、この階段から受ける影響も変わる。この先については不勉強きわまりないので、年齢や性別が二乗で効くのか、別の指数倍で効くのかは分かりかねるが、最終的には、汚染地域における人口集団における食品を通じた内部被曝に起因する発症・死亡のリスクは、時間の単調増加関数となることだけは、間違いないであろう。

#今般の台風によっても、東京都内における空間線量(周辺線量当量)は、福島第一原発事故由来のものと比較して、半分程度、風向きによって上昇し続けている。



#一応、公務員と外部者の責任の相互作用という点では共通しているので、忘れないうちにメモしておく。

 郷原信郎氏は、甘利事件に着手したことについて「敬意を表したい」と高く評価していたが(リンク)、不起訴という結果に際して、下記のような記事を公表している。検察の動きに対して、マスコミを含む世間一般は、元検察官であり、東京地検特捜部にも所属していた郷原氏の解説に期待しているであろう。郷原氏の一連の記事は、その期待に応える形で執筆されたという側面を有するものであろう。とはいえ、そのような社会一般の期待があるにせよ、記事の内容は、その期待とは切り離した形で評価されることになる。

 不起訴について、郷原氏は、
検察の屈辱的敗北が、「検察の落日」だけではなく、公正さを亡くした「日本社会の落日」とならないよう、今後の展開を期待したい。
と評して筆を置いているが、この表現は、検察に何の伝手もない私の読みからすれば、かつての職場に対する手心と受け止められてもやむを得ないものである。今後、検察審査会による不起訴不当の議決等を経て、甘利事件が裁かれることがあったとしても、この事件の経緯を知る日本国民の大多数は、将来にわたり、自身の国の検察を公正で法の精神を遵守する組織であるとは考えないであろう。社会環境が大きく変わったとき、たとえば、日本が再占領の憂き目に遭ったとき、郷原氏の解説は、日本のムラ社会における馴れ合いの表出と見なされるかも知れない。

特捜検察にとって”屈辱的敗北”に終わった甘利事件 | 郷原信郎が斬る
https://nobuogohara.wordpress.com/2016/06/01/%E7%89%B9%E6%8D%9C%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%B1%88%E8%BE%B1%E7%9A%84%E6%95%97%E5%8C%97%E3%81%AB%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%98%E5%88%A9/

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