2016年7月26日火曜日

陰謀論における「セット思考」とその存在理由

要約


 本稿では、陰謀論界隈に見られる「セット思考」について考察する。「セット思考」とは、私のとりあえずの造語であり、「切り分け可能な複数の主題に係る意見の組合せについて、特定の組合せのみを推奨・強制する思考方法」を指す。転じて、「話者の用意した特定の回答の組合せを受け入れるように迫る態度」をも含む。「セット思考」は、合い言葉や符牒のように機能しうる。「セット思考」は、『国際秘密力研究』ブログ主である「菊池」氏が提唱する「両建て」戦術の存在を補強する概念として機能する。

#私は、本稿以降、本件話題に係る文章において、特定の「陰謀論者」を誹謗する気はない。むしろ現実には、思考の幅と個別のケーススタディにおける可能性を広げてくれる存在として、陰謀論者の指摘を重宝している。しかし他方で、学術研究者でありながら、研究主題に対して可能な事実の幅を過剰に限定してかかる不誠実な人物は、槍玉に挙げられることになろう。




 陰謀論界隈に見られる意見のテンプレには、「すべてはつながっているために、ある事物Aに対しては賛成で、ある事物Bに対しては反対などということはあり得ない」というものがある。この一例として、陰謀論と見なされてしまいうる書籍としては近年異例のベストセラーとなったようである、矢部宏治, (2014).『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』, 集英社インターナショナル.を挙げることができる。矢部氏は、同書において、日米合同委員会の存在を根拠として、原発に反対しつつTPPに賛成ということはあり得ない、という主張を前面に押し出している。

 複数の物事についての個別の見解を、セット(集合)にして推してくるという態度は、陰謀論者と見なされる発信者に共通して見られる。飯山一郎氏にしても、『カレイドスコープ』のダンディ・ハリマオ氏にしても、リチャード・コシミズ氏にしても、同様の姿勢は共通したものである。古歩道ベンジャミン氏は、この点について比較的、抑制的ではある※a

 ここで、これらの論者に共通するような、「切り分け可能な複数の主題に係る意見の組合せについて、特定の組合せのみを推奨・強制する思考方法」を「セット思考」と定義することにしよう。「セット思考」とは、私のとりあえずの造語であり、経営学や認知科学などにおける「マインドセット」を拡張した概念である※b。定義をパラフレーズしてみると、「切り分け可能な複数命題に対して一括テンプレを採用する態度」というものにもなる。マインドセットという用語からは、(少なくとも、わが国のカタカナ用語については、)「主題別の物の見方の組合せ」という概念が欠落しかけているために、わざわざ新しい用語を用意してみた。

 「複数の独立しているかに見える主題についても、人は、固定的な観念を有すべき」という一点において、陰謀論者同士が共通しがちであるのは、「セット思考」に見られる態度が敵味方の峻別に有用なためと予想される。異なる分野についての異なる見解の組合せは、まるで合い言葉・符牒のように機能するのである。山と言えば川であり、花と言えば蝶でなければ、仲間ではない、という訳である。花と言えば桜、という論理展開も、日本語ならオッケーであり、平安中期以降では、むしろ多いようにも思われるのであるが、そうすると、とある陰謀論者のグループにとっては、「お前、何奴!?」という識別符号※cとなるのである。

 陰謀論と呼ばれうるイベントに関与する組織・人物等には、複数の異なるグループがあり、それぞれに利害関係を有している、という理解(命題)は、わが国では、主として、古歩道氏により、指摘されてきたものである。具体的な個別の組織名や人名について、この命題を実証することは、ほとんど不可能であるが、命題そのものを抽象的なものと理解して受容すること自体は、国際関係論における「力の均衡論」を受容することと、同価である。学究的な態度で陰謀論に臨もうとする者に対して、この命題自体を誤りであると批難する人物は、およそ知的ではないか、または、ほかの動機を有した人物であるということになろう。

 また、陰謀論に係る人物・組織には複数種類が存在するという古歩道氏の指摘は、多くの陰謀論者がこの種の議論を省略することから、貴重な指摘である。この指摘を、同氏の第一の功績であると私は思う※d。ただし、こうした複数グループは、存在ですら、いわゆる公然情報で確定することが難しく、その利害関係の同定や変化を正確に指摘するという一段上の作業は、およそ人間には不可能なものであろう。もっとも、PRISM上に設けられた人工知能であれば、遠くない将来、人物相関図と金銭の授受を常にアップデートすることを通じて、このようなグループの存在を浮き彫りにするという目的を達成可能かも知れない※e

 その内実を実証することはともかくとして、現在の世界においては、秘密・公然を問わず、複数の主張を同じくする者たちから構成される結社(association)同士が、お互いの主張の異同によって、利害関係を生じたり、強化したり、あるいは関係性を反転させたりしているという状況は、十分にあり得ることである。むしろ、世界における所与の状態であると規定しても構わないほどであろう。社会集団についての社会学の知見は、陰謀論界隈におけるグループに対しても適用可能であろう。

 複数の組織や集団が並立し、人生観に係る複数の主題に対して、異なる組合せの意見を提示している状況を考察の前提とすると、陰謀論界隈において、「セット思考」が強制される理由がほの見えてくる。仮に、特定集団に所属する人物が、ある個別の主題に対して集団の見解とは異なる見解を有するに至った場合を考える。個々の主題について、真に多様な意見を表明でき、その組合せにフィットするオピニオングループが常に見つかるほど、多くのグループが存在する社会においては、ある個人は、自分の意見が変わる度に、同じ意見を有する組織へと自由に渡り歩くことができるであろう。ところが、陰謀論の内容には、人の生死に関わる話が多く登場する。物の見方を転換する際、話題の深刻さが一つの障壁となる。陰謀論を語ることは、陰謀に従事する主体を強く批難することにつながる。ある組織において陰謀論が語られ、自らも今まで陰謀論を語ってきた個人は、仮に、組織の意向に反する意見を持つに至ったとしても、容易に相手方の集団へと逃走する訳にはいかない。自分たちに対立する集団を裏切る形で飛び出た人物を、易々と受け入れる集団は、たとえ、その対立状態が言論だけに限定されていたとしても、まずいないであろう。足抜けした人物は、二重スパイのために送られてきたのかと疑われ、最悪の場合には、消されてしまうかも知れない。ところが、ほかの集団を見回してみた場合に、そのいずれの集団も、複数の主要命題について自分と真逆の見解しか示していなかったとすれば、組織に所属してきた個人は、どのように考えるであろうか。おそらく、一つの命題についてだけ異なる意見に至ったとしても、その個人は、特定集団に所属し続けながら、その命題については、沈黙し、無視し、あるいは再度意見を転向するという形で、自身の認知的不協和を解消するのではないだろうか。

 #ここまで書いてきて、何となく「裏切りの科学といった分野が存在しそうだ・できそうだ」とか、「共産党から反共に転じたナベツネは単に道具主義ではなかったか」とか、「わが国企業社会の囲い込み方にも応用できそうだ」とか「ムラの形成過程にも使えそうだ」とか、色々と脱線に至りそうな形に思考が拡散してきたので、まくってしまって本日は終わりとしたい。


 『国際秘密力研究』の「菊池」氏は、わが国における陰謀の背景に「両建て戦術」が存在すると指摘している。両建て戦術は、「セット思考」という概念を導入することにより、その実在を強く肯定することが可能である。「両建て戦略」とは、資金力豊富な「国際秘密力集団」が二種類以上の組織・団体を、対象となる社会に設立し、お互いに対立させるかのような見かけ※fを取らせることにより、ダブルバインドを強制しつつ、最終的には、落としどころとする「第三の道」を取らせる方法である。二大政党制にはこの性格が見られることを、菊池氏は指摘しており(Twitter)、「両建て思考」がヘーゲルの「正・反・合」構造に由来することも指摘している(Twitter)。

 個別の主題について、賛成・反対だけに限定していくと、「セット思考」が有効に機能する形式を提示することができる。例として、「二大政党制」を標榜する各国において、建前として掲げられる政策が各項目とも両極端になる、という状態を挙げることができる。この結果は、別に偶然の産物ではない。対立する政策体系には、所属する個人に対して、一分野だけの政策の違いを理由に、相手方へと寝返ることを躊躇させるという効果が存在するのである。

 争点の一本化は、敵味方という構図を作りやすくする。よって、「両建て戦略」構造を適用するにあたり、話を単純化しやすくするという効能も認められるのであるが、他方、「セット思考」は、この戦術に深みを与えることができる。個人の生活にはさほど重要しないものの、それでも個人の好悪に影響するような多くの争点を用意することに成功すれば、なかなか相手方に寝返ることのない味方を用意することが可能になるのである。「原発」「TPP」に対する賛否の組合せが端的な事例である。西日本在住であれば、「原発」により直接の影響を被る人々は、実はそれほど多くなかったであろう。しかし、「TPP」に対する賛否を「原発」への賛否とセットにして提示することによって、世論を二分しつつ少数派に帰属を問うことができるようになったのである。この「セット思考」の押しつけは、最初に押しつけを成功させれば、あとは、各集団に帰属する個人が周辺を巻き込んでいくことにより、最終的に「原発賛成・TPP反対」といった少数意見を封じ込めることに成功するのである。

 原発とTPPの組合せについて見たように、「セット思考」は、「両建て」戦略・戦術を固定化・激化させるのに有用であり、新規の主題を導入する際のヒントをも提供する。野党時代の自民党にTPPを反対させ、政権奪取後に賛成へと転身させるという出来レースが一つの例証となる。TPPに対する反対は、おそらくは、自民党の地盤とされる地域においては、絶対的なものであったことが容易に推測できる。他方、原発賛成は、その雇用者・関係企業を通じて、大規模な票田を見込める分野であった。従来の自民党支持層においては、原発賛成・TPP反対というところが大多数であったという訳である。ところが、その経緯はさておくも、政権奪取後にTPP賛成へと転身した自民党に対して、支持者は、「寝返るか、服従するか」をTPPについて強いられることになる。このとき、従来までの人間関係を捨ててまでも寝返る価値があるのか、というジレンマに従来の自民党支持者の大多数は置かれることになった訳である。後は、歴史に見るとおりである。

 複数の主題について、一括した見解を受け入れよと迫る態度は、科学的な態度とは言い難い。科学を駆動させようとする人間の基本ツールは、健全な懐疑精神である。この懐疑精神がルネ・デカルト以来の要素還元主義と結びついたとき、個別の命題の正しさを逐一検討していくことは、当然の営為ということになる。この習慣は、丸ごと理論体系を受け入れよとする陰謀論者の姿勢を、ひとつの宗教と見なすことになる。健全な批判精神は、ルネサンス期に花開き科学に結実していった訳であるが、同時期に、オカルトや陰謀論の起源となるいくつかの主題が編み出されたのは、偶然では無かろう。天動説に対して地動説を対置し、これら対立的な二つの説を組として利用するという方法論は、ヘーゲルにより概念化されるまで、明確な言葉を持たなかったではあろうが、言語化されずとも、「個別の命題を組み合わせたセット思考が敵味方の弁別に有用である」という認識を育んだと見て、それほど無理がないのである。

 「異なる命題を一括して引き受けよ」と批判的に記述はしたが、比較的良く出来たある種の陰謀論の体系においては、個別の命題同士の関係が論理的に後追いできるように構成されていることもある。この種の陰謀論は、科学の方法を一部に取り入れている、と言える。しかしながら、それらの論理展開の一部を見て安心して、逐一検討を進める作業を怠ると、とんでもない論理の飛躍が最後に控えていたりもするので、陰謀論に深入りするときは、常に油断禁物である。あえてヒントを述べれば、CGなどを利用し、カネがかかったことを臭わせる動画は、眉唾で見た方が良い。

 検討の範囲が小さなものに留まる閉じた命題を切り取り、その是非に限定するというのが、陰謀論を検討する際の基本的な私のスタンスではある。このスタンスは、医薬業界や生物学的な内容についてほとんど触れていないなど、商売の範囲を比較的小さく抑えている理由にもなっている。なお、ゾンビは、明らかに、生物学的な検討を飛び越えた内容でありつつ、グラフ理論などを用いた別のアプローチを適用可能な分野である。手持ちのツール、材料の入手しやすさ、話題の特異性、といった条件は、私の興味をある方向に特定する結果を導きがちである。


 この「セット思考」を利用した分析は、先に言及したように、政治的な構造にも応用可能※gであるが、加えて、宗教や経済活動など、ほかの社会現象にも応用可能である。また、「セット思考」を強制する姿勢は、社会における言論の健全な発展という目的を考えた場合には、どこまでも問題の残る方法である。というのも、論者により、ある事物Aと別の事物Bについて、別の組合せを提示されてしまうと、自身の見識を有さず、また個別の事物に係る真偽を見分ける力量のない読者から見れば、いったいどちらを信用すれば良いの?どちらも信用できないのではないの?という事態に陥ってしまったりもするからである。同時に、特定の「セット思考」、特に明らかに誤りであることが基礎的な学問上の知識によって理解可能な命題を含むものを信奉している人たちは、そもそも付け入る隙を社会的に表明している人たちであると見ることができる。私がまるで陰謀論者を馬鹿にしているかのように聞こえるので、指摘しにくいのではあるが、ある陰謀論の「セット思考」を無批判に信用している人たちは、平たく言えば、カモ(ネギ)であることを自ら表明していることになるのである。

 また、陰謀論業界は、基本的に暴力や謀略と深い関係にある。その理由は、「セット思考」が人を選ぶという特徴にある。「セット思考」に染まった人たちは、これらの手段を得意とする組織や集団に利用されやすいという素地を有している。自由に意見を述べることができる社会は、大切な存在であるが、他方で、それらの意見がいかほどの立ち位置にあるものか、その意見を受け入れるとどのような帰結を辿ることになるのかについては、ある程度、対象を突き放して物を語ることのできる立場の者から、適切な解説が加えられることが必要とされるのである。一番分かりやすい話は、カルト宗教が陰謀の手先として利用される一方、当の組織も陰謀論をつまみ食いして組織の求心力維持に利用するというものである。

 この点、わが国の報道機関のほぼすべてと、学識経験者の大半は、福島第一原発事故に至るまで(、また現在に至るまで)、情報の産出・流通に従事する人物・組織として、世の中に必要な水準に到達することがなかったと考える。

#最後に、本記事以降、この話題に取り組むのがいつになるのか分からないので、とりあえず一足飛びに結論を示しておくことにする。


 陰謀論者と定義・誹謗されたことのある論者であっても、主張の各命題から、「いいとこ取り」をすれば良い、というのが私の現在の結論である。ただし、それぞれの論者の「いいとこ取り」をするためには、「個人個人が、科学的作法の基本である要素還元法を用いて、個別に扱うことの可能な命題を切り出してきて、その是非を検討する」という作業を必要とする。この作業は、誰にでも、その人なりの力量に応じて行える作業であるが、それなりの時間と労力を必要とする。「陰謀論者」の話に対してであっても、この作業は自覚的に実行可能であり、今こそ、その話には、耳を傾ける価値があるものが含まれる、という訳である。


※a おそらく、わが国と英語圏諸国における高等教育の手法が異なることに、その理由があるものと推測されるが、その話は別の機会としたい。

※b 英語にするとすれば、文法上正確であるかどうかは別にして、セット思考は、 distinctive mindset by the combinations of preference in each issue (in conspiracy thories)という、定義そのものの長い用語になるか、set-defined meta-schemeというややこしい用語になったりするかも知れない。stereotyped mindsetは、穏当であろう。英訳は、基本、適当であり、要修正である。

※c 識別符号といえば、秘密結社に伝承されてきたといわれるハンドサインが有名であるが、これは、一種の話題反らしとしても機能している可能性もあろう。結社にリクルートするのに有望な人物を見極めたり、結社を広報する上では有用かもしれない。しかし、ハンドサインそのものが結社の成員の紐帯の核として機能している訳ではなかろう。結社の成員を結びつけるものは、成員の思考形態であり、社会に対する物の見方(この場合にはマインドセットと呼んで良い)であろう。

※d ただし、著名な同氏といえども、この普遍性から逃れることが難しいように見受けられる点には、留意すべきであろう。ほかの陰謀論者と呼べる者と対談することを通じて、アングルを構えることになると、人物相関図における敵味方関係から、同氏がある立ち位置にあると邪推される結果となる虞は、十分に可能性の高いものである。

※e ネットの内外で情報活動(トランザクション)の種類を区別してネットを利用するグループの同定は、なお困難であろう。

※f 日本のプロレスでいうところのアングルである。

※g もちろん、二大政党制に係る政治学研究は、私のここでの思いつきに近い考察よりも遙かに多くの蓄積を有するであろう。ここでの「思考」を「政策」に置き換えたとき、二大政党制の弊害として、政策論争が失われるといった種類の指摘が十分に実証的に考察されていることは、言うまでもないことである。ただ、陰謀論という分野を理解する上で、私の指摘がなお有用であるのは、この種の考え方が、この考えを知る者に悪用されこそすれ、99%の人々の側で系統化され蓄積されるという営みの対象とならないからである。あと、個々の命題よりも組合せとしての信念体系こそ大事という考え方は、哲学などにおいても、比較的近年になってようやく興味が注がれつつあるテーマであるような気もする。かつての流行語で言うと、「セット思考」は、ケミストリー(こそ)を重視する考え方である。


平成28年7月31日追記


 「分かりやすい嘘」を取り混ぜて多くの命題について言及することは、相対的に「分かりやすい嘘」の重大性が小さくなるため、ある種の陰謀論者にとっては、「分かりやすい嘘」を特定分野について吐くことは、いわばテンプレ的危険回避法となる。「分かりやすい嘘」の効能については、過去に一部言及したことがある(リンク)が、この記事は、(その筋の)人に(も)知られていない新規性の高い情報を流通させるための方法論を念頭に置いたものである。いわば、インサイダーが一般への情報公開を狙うという場面、WikiLeaksが情報公開手段として利用されそうな場面において、利用される方法論について、説明した訳である。

 「分かりやすい嘘」は、いわば一次情報を流通させる場合に適用される方法論であり、公開情報(オシント)のみによって事実を推測するという場合には、同じ方法をなかなか用いにくいところがある。なぜなら、公開情報から事実を推測する場合には、材料とする情報の取合せのみによって、導出される解答を違えることができると同時に、導出の過程は、「誰がやっても同じ」という方法に頼らざるを得ないためである。結局、公開情報の分析は、利用する材料のほかに、アレンジの余地が少ないのである。せいぜい、利用した情報に確度の低い公開情報を取り混ぜるなどして、わざと分析を失敗してみせるという方法くらいしか、「分かりやすい嘘」の応用法は存在しない。しかも、この情報の採用自体、分析者のキュレーションに対するセンスを疑わせるということになってしまう。

 結局、オシントの分析者が公に向けて情報発信する場合、自分自身だけでは、「1+1=2」であるというように主張するか、主張を見送るというくらいしか、手がなかったりする。ところが、ほかの人の口を借りるという方法による場合、状況は、色々な方向に発展することになる。この結果は、状況依存的である。



平成28年8月12日追記

注記gに係る部分を追記した。一応、車輪を二度以上発明していることは、うすうす分かっている。その源流を辿るという知的作業よりも先に片付けておくべきことが山積しているので、サボっているだけである。「個々の命題の組合せ」という基本的なアイデアについて、自分に先取権がないことはまず間違いなく自明なのであるが、(私にとっては)情報爆発のために、どの程度まで先取権がないのか、誰に先取権があるのかの見極めが行えていないのである。可能であるなら、この考え方は、どの程度まで陰謀論を分析し、企業犯罪やら組織犯罪やらを説明する上で役に立つのか、正統的な方法で追究したいところである。また、どこかしらに新規性が存在しそうな気も濃厚にしているところである。

 「セット思考」は、情勢を理解する上での、とりあえずの足場のようなものである。あくまで実用性を重視して使えば良いのである。この暑い盛りになると、多くの異説のある事件・事故・戦争に係る事実が陰謀論の対象として取り上げられるようになる。しかし、私の不細工な主張を利用すれば、ある事件と別の戦争行為が連関すると指摘されるとき、人は、その連関にこそ疑いの目を向けることができるようになるのである。


平成28年9月14日追記

リンク欠けを訂正した。

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