2018年7月4日水曜日

(私事)私の内のコントロール欲求

先週、私自身が関知できる程度の周囲では、「ロマンティックな変化」が起こらないように見えた。『週刊ビッグコミック・スピリッツ』の「来れば?ねこ占い屋 週間占いランキング」が明言していたようには、である。しかし、そこはそれ、私は、自身に都合の良い話ならば、ホイホイ信じてしまう性質である。なので、先週、何かが起きたのだろうと肯定的に捉え、その気配を捉えるように心掛けたのである。何しろ、今週号(第39巻第34号、2018年31号))のベンガル族は、「ジレンマが解消される」とのことだし、何より第一位だし。

私は、外部へのコントロール欲求を強く持つが、同時に、自身が及ぼしたいと願う範囲にだけ、自身の影響力が限定されるように、自身を律してきたつもりであった。私は、ここ数年、「社会はこうあるべきだ」(=当為論)とか、事実や理想や予測こそ、述べてはきた。しかし、他者に対して、具体的な行動を求めたつもりはなかった。そう読めるような文言も、本ブログの随所に含まれてはいるが、それらは、基本的に、反語的な表現である。絶対に、こうはならないであろうという予想の元に、自説を補強するための論拠として、ばらまいた餌である。

ところがどっこい、私事に心を囚われてからの私の願いは、際立った頻度で発せられたし、その中身は、いずれも似たり寄ったりの、最大級に欲張りなものであった。しかも、そう願ったゆえに、私が引き起こした結果は、私の思い人のみならず、周囲の人々に対しても、かなりの強烈な記憶を残してしまうような(精神衛生上の)大惨事となってしまった。私に償いようがあるとすれば、その方法は、せいぜい二通りくらいしか思いつかないのであるが、その内の一つである隠棲は、ここまでの話の円環が閉じてからでも可能であるので、もう少しだけ、無視することにした。私には、社会防衛主義的(=社会集団に落ちこぼれを作らず、犯罪やテロなどの不幸を起こさせないため)にも、リベラリズム的(=個々の人物の内面の自由を最大限に実現するという目的を達するため)にも、醜くも足掻き続けることが、社会的にも、個人的にも、最適解に至る道であるように思えて仕方ないのである。この結論は、私にとっては、これでも、物事を突き放して見るという訓練を数十年にわたり重ねてきた成果の集大成のつもりである

私の発話がコントロール欲求の高いものと読めてしまう余地があるとすれば、その理由は、私の予測に不吉なものが多く、しかも、悪い予測ほど当たりがちであるという点に求められよう。カント風の表現による「仮言命令(もし~なら…せよ)」は、ごくごく普通に、人工知能研究やそのベースをなす情報科学全般・統計的手法(因果推論研究)などで利用されているが、しばしば、非人間的な響きを持つし、そのような結果を引き起こす※1ために利用される。他方、人間は、未来を変えられるけれども、場合によっては、このまま事態が進めばこうなる、と予測することしかできなかったりもする。このような不穏な言明は、単なる予測・予想の域を出ないにしても、人によっては、この種の表現を脅すような響き※2を持つものとして受け止めることができよう。例えば、「交通事故を起こす虞が高いのに、何故、飲酒運転をするのか」という言明は、どこまでも正しい指摘であるが、それでも、一部の人間に対しては、家父長主義的な警告(=余計なお世話)として響くかも知れない。

私は、今後、現在の魂の削り合いのような状況から、三通り程度のパターンへと事態(というよりも、私の思い人の心)が変化するものと予測する。大抵の場合、「両建て構造」に落とし込まれた個人その人に対しては、二通り(伸るか反るか)しか選択肢を与えられないことを思えば、「正」「反」だけでなく「合」の三通りまで選べるとは、随分と自由度の高いことである。そして、私の思い人が自身の思想を変えるまいと抵抗しても、私ではない周囲の人々は、私の指摘を知らずして、私が内心に出した結論の正しさを駄目押しするかのように振舞うであろう。それに世の中は、私の悪しき予測を裏付けるような悲惨な結末に事欠かない。

しかし同時に、私ではない人(の存在)がこの方向へと至らないように(私の思い人の)行動(を抑制)し、結果として、私たちを助けてくれるであろうとも、私は考えている。私は、そのような展開を予測する程には、他者の善性を信じており、私の思い人も、この他者に含まれるものと認めている


※1 もし、顔認証技術によって計算された複数の特徴量が、ある閾値を超えており、かつ、パイロットが攻撃命令を出したならば、ドローンは、その高度に疑わしい人物を暗殺する、といった具合である。この種の人種的・地理的・社会プロファイリングは、この制度内で実務を担当する人員の心理的負担を軽減するであろうが、けれども、制度設計に従事した人物たちとその制度の実現にお墨付きを与えた人物たちを免責する訳ではない。この点、この種の技術開発に従事する技術者は、すでに、政治的な存在であり、学術研究者であろうと、その政治性を免責されることはない。ここでの私の主張のニュアンスとは異なるが、重田園江氏の『フーコーの穴』(2003年9月15日, 木鐸社)は、ここでの(現時点まで通用する程度には正しかろう)理解を、当時の現象に照らして把握する上で、一読に値しよう。

※2 田中聡氏は、陰謀論者に預言者というモチーフを当てはめているが、彼の指摘は、悲壮感という意味付けを陰謀論者のすべてに対して付与しようとする試みであるとも解釈できる。もっと自身を突き放した気持ちで、陰謀論者と呼ばれる人物が発言しているのかも知れないにもかかわらず、である。これは、過度の一般化であり、ラベリングそのものである。面倒臭いので、本稿でも、『陰謀論の正体!』が出典だとだけ述べておく。通常、ブログだと、これで十分である。




2018(平成30)年7月11日

「私事(2018年7月4日)」からタイトルを変えた。

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