2018年2月17日土曜日

(一言・感想文)相似象の語は比喩として適切だと思う

「相似象」とは

「相似象」とは、落合莞爾氏の用語であり、その定義は『天皇と黄金ファンド』(成甲書房, 2016年4月)のpp.22-23のとおりである。本稿では、著作権法違反を恐れるために紹介しない。将来、主従の逆転を主張できない位に材料が蓄積されたら、紹介しない意向がない訳ではない(。本稿も、まあまあの分量であろう)。「相似象」は、テキスト化して共有するだけの価値がある、国際秘密力集団に使い慣わされた概念である。本記事は感想文であるゆえ、印象論を押し進めるが、「変奏曲」「転調」という音楽用語は、「相似象」に代替可能な比喩となろう。このうち前者は、私も以前に使用したことがあるし、使用に耐えるだけの合理的な理由があるとも思う。コード進行が同一であり、メロディ(=構造)を最初に示されると、そのアレンジ(=実例)にも大抵の人が不都合なくついてゆける、などの類似性が存在するからである。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『きらきら星変奏曲』を想起せよ。オブジェクト指向の用語で言えば、クラスの一種ということになろうか。これもまた、比喩の一つである。

他方、世の中には、自然科学の概念を拝借して失敗した比喩が良く見られる。他者の失敗した比喩を、殊更に批判するつもりはないので、ここで実例を挙げることはしない。それに、いわゆる「ソーカル事件」に対するポストモダン思想の批判の中には、実験的な思考を無下にしたというものが含まれていたはずである。それらの再反論は、中河伸俊氏の『社会問題の社会学 構築主義アプローチの新展開』(世界思想社, 1999年4月)の第1章に整理されていたような記憶がある。何より、比喩について、私自身が大概な失敗を重ね続けているとの主張に対しては、本ブログの読者なら、大いにヘッドバンキングされることであろう。加えて、何の違いが比喩の成否を分けるのかは、残念ながら、自分には言語化できていない。対策を強いて挙げるなら、商業出版における自然科学用語による比喩の誤りに対しては、編集者が介入可能である、とだけは言えようか。大事なのは、素直に呑み込めない種類の比喩を利用し続けるという間違いを早期に改めることである(。これこそは、工学的・バーク流の保守的な精神の発露であろう)。ただ、私には、その誤りを正す機会がない(。というのは、前振りの一つである。カルト宗教の信者は、このような文脈依存型の話に追随できているのであろうか。出来ていないのは、馬鹿の証拠である)。


「相似象」は「両建て構造」を雛型とする

『国際秘密力研究』の「菊池」氏の主唱する「両建て構造」は、「相似象」の雛型として、大変に良く機能している。ただ、この一般理論(general theory)は、現状への適用方法いかんによっては、誇大理論(grand theory)の表出と見做されかねない虞を有する。適用の妙こそがポイントであろう。たとえば、安倍晋三氏の第四次自公政権は、内部に公明党=創価学会という「サブ両建て構造」を抱える一方で、内外にわたる「希望~石破・小泉(・岸田・中曽根)」ラインとも(、表面的には穏やかであるが、)対峙している、と読むこともできよう。

「両建て構造」と言えば、最近、ハインリヒ・マイアーの『シュミットとシュトラウス』(栗原隆・滝口清栄〔訳〕, 1988=1993, 法政大学出版会)で、レオ・シュトラウスが「二軸の両建て」に言及していた※1ことを偶然に知り、洋の東西を問わず、仮面ライダー的な人物は散在しているものだ、との思いを強くしたものである。なお、私の興味のど真ん中を行く資料が地元の図書館に配架されていることは、どうしても偶然とは思えない。ここで、どなたか?に、勝手に感謝?を申し上げたい。なお、前掲マイアー氏の書籍の題名を直訳すると、

『カール・シュミット、レオ・シュトラウス、そして「政治的なものの概念」――〈その場に居合わせない者たち〉の対話のために』
となるそうであるが、これもまた、意味深である。


おまけ1;近年(2016年・2017年)のヒカルランドのアンソロジーは、講演者の顔触れによって、「あからさまな嘘」を散りばめながら、読者が真実と思うところを選び取ることができるようにするという高等戦術に出ているものと解される。ある話者の内容を否定する人物に対しては、「だって、(空飛ぶ何とかみたいなことを言う)あの人も一緒に講演しているんですよ?当局のお墨付きというやつでは?」と言わんばかりである。「企画者は...、できるな!!」という印象しか出てこない。もちろん、これは、あくまで私の解釈であり、私自身としては、高度な知性の発露だと感心しているつもりである。

おまけ2;最近、元警察官を称する匿名者が『5ちゃんねる』で色々話をした後に、「これはすべて嘘松」として落ちたスレ(ググれば、出てこよう)を見たが、これもまた、ヒカルランド同様に「自己言及のパラドクス」のイチ事例である。使い方は、とてもシンプルではあるが。もっとも、中野学校の伝統は、ニセ情報を濫用しすぎて、自家中毒にしばしば陥るようであるから、これくらいの方が良い。辻田真佐憲氏の『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書, 2016.7)は、組織に生じた軋轢が大本営発表をあらぬ方向へと導いたことを指摘しているが、今般の大本営発表も、同様の弊に陥らないのであろうか。

おまけ3;嘘を散りばめると、相似象を発見することは、とたんに困難になる。三角関係である場合、基本的には、6通りの関係性を評価しなくてはならない。1通り以上の関係に嘘が混ぜ込まれているとすれば、分析作業は、$2^6=64$倍が必要になる。基本、嘘は吐かない方が良い所以である。


#以上、記憶に頼り、一種の棚卸しを実施した次第である。出典など、間違っていたら、ごめんなさい。


※1 1932年9月4日付シュミット宛てのシュトラウスの第II書簡である。タイプ原稿で、シュトラウスが手元に置いた複製は、現在、シカゴ大学に収蔵されているという〔マイアー, p.172〕。

〔p.168〕

先生の著作をより詳細に分析しようとするならば、そうした人は、〔…略…〕二つの相入れない、少なくとも異質な思想系列に分かれる、という印象を持つでしょう。左翼と右翼の対立は、(1)国際主義的平和主義と好戦主義的ナショナリズムの対立として、そして、(2)無政府主義的社会と権威主義的社会との対立として現われます。これら二つの対立は互いに一致しない、これにはいかなる証明も要りません。

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