http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46454
敵対思考に傾斜した相手に対して、いま相互依存思考で語りかけるのは間違っているだけでなく、効果もなく危険である。思考の原理そのものがまったく異なるからだ。
敵対思考は基本的に相手を「敵か友人か」で判断する。これに対して、相互依存思考は基本的に相手を友人として扱う。
長谷川幸洋氏は、自身を経済原理を重視するエコノミスト、つまり、上記の引用にある相互依存思考の論者であるかのように論じ、世界が混迷に陥った(と彼には見えるようだが、その)原因を中露二国に求めている。また、ロシアを米国と覇権を争い負けた国であり、中国がその二の舞を演じようとしていると指摘する。しかし、イラク・リビア・シリアは、中東諸国の中でも、21世紀に入り米国が外交上の関与の度合いを強めた国であった。長谷川氏の議論が正しければ、他の経済重視国と同様、相互の利益を増進させた結果、これらの3か国は、当時より豊かになっていて然るべきであった。しかし、奇妙なことに、これらの3か国は、現在、ロシアのプーチン大統領が指摘したように、国家主権を失い、従来の社会秩序が完全に崩壊した状態にある。この逆説は、何により生じたものであろうか。
世界史の事例から見れば、帝国主義は、相手国が与しやすければ相手国を明白な敵として扱うかも知れないが、常にその費用と便益を冷静に計算し、帝国の規模に応じた効率性を重視し、他国との力の均衡に達しようとするものである。東西ローマ帝国は、分割により最適化を図った好例であるし、その片割れである東ローマ帝国は、サーサーン朝ペルシアと微妙な均衡を維持し続けることに成功した。現在のシリアの混迷の背景がサイクス=ピコ協定にあることは、有名なことであるが、同協定は、英仏という2つの帝国主義国家のグレート・ゲームの産物であり、私の主張を裏付けるものである。大日本帝国は、帝国と名乗った存在ではあるものの、その振る舞い方は、帝国主義の諸国の影響がグローバル化していた当時に、例を見ない形で急激な膨脹を経験したことをふまえれば、他列強との関係を論じる題材としては、特殊な存在であるとみなして良いように思う。大日本帝国の特殊性に無自覚であり過ぎると、帝国主義国家が他国と協調関係を取りうるという当然の可能性にも配意しないようになる。米国(の一部の政策)はもちろん、中国やロシアの所作も、帝国主義的な度合いを強めつつあるものである(が、日本でそのことを強く主張する論者は、マスメディアにおいては、佐藤優氏ひとりである)。
通常の帝国主義は、戦争という行為に対する計算高さを持ち合わせているが、無節操な経済原理主義は、場合によってはマッチポンプに奔走することさえ厭わない。経済原理を重視すれば、戦争も商売となる。長谷川氏は、この当然の事実を認識していない。無節操な経済原理主義は、たとえば、南北戦争における武器供給にも、また南北戦争終結後の余剰兵器の輸出にも、看取することができる。南北戦争後に陳腐化し不良在庫と化したマスケット銃は、わが国の明治維新に役立てられたのである。この事実は、ひるがえって、セキュリティ産業にある種の節度が求められる所以となる。
長谷川氏の錯誤が、本来独立である「敵味方を判別する能力」と「経済に対する考え方」とを無根拠に連関させた点に由来することは、以上の議論から明らかである。世界が「暴力の時代」に逆戻りしたと喧伝することは、無理筋である。その上、過度な危険の強調は、セキュリティ産業への需要を徒に喚起し、人々の相互不信を亢進させることになりかねない。もっとも、長谷川氏の仕事は、その辺にあるのかもしれないが。
#私の基本的な考え方は、米国とは仲良く(せざるを得ないが)、中国やロシアとの無用な摩擦は、双方のためにならないので、共存を図ることを目標にすべきである、というものである。福島第一原発事故がなかりせば、そうであるべきと考える、というのが正確な表現である。事故後は、いっそ米国の州となった方が事故の終息が図られるのではないかとさえ思うところである。正確には、事故の終息を図る上で協力を求めることができる相手国を慎重に見極めるべきである、としか言えず、対外関係がどのようにあるべきか、は正直分からない。
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