2016年8月3日水曜日
陰謀論(社会・政治面)界隈における良いリサーチクエスチョンとは
この反面、陰謀論の世界に区分できる情報を真面目に検討しようとする読者は、話者の素性も含めて、話題に挙げられた「誰が」「何を」「いつ」「どこで」「なぜ」「どのように(扱ったのか)」の各要素、5W1Hについて、厳しく検討を加えるであろう。最も細分化された検討方法は、各要素について、想定されるものをすべて列挙し、その列挙された要素の組合せからなる命題を、逐一検討するというものになるであろう。この点、推理小説において、それまでの登場人物の中に必ず単独犯が含まれるという状態は、相当に限定化された状態である。(もっとも、推理ものとして、この形式を遵守するものは、絶滅危惧種であるとして軽蔑する方もいるかもしれない。しかし他方で、いったん作られたテンプレの上で、推理を働かせるという楽しみもあるので、私としては、面白ければ構わないと思っていたりする。それにもっと言うなら、そこまで推理ものに飢えているのなら、陰謀論の世界はもっと面白かったぜ?今後はどうだか分からないけどな、と誘ってみたくなったりもするのである。)
陰謀論を相手にするとき、「誰が利益を得たのか」という質問は、常に反復されるべき基本である。これさえあれば、大抵のことが事足りる状態になっているのは、少しばかり、人間の本性に対する仮定が強すぎる気もする。とはいえ、現状では、陰謀論の有名な主題に対しては、ほとんど常に、この質問を適用できる。この状態は、陰謀論と呼ばれる種類の話題と、何か別の要因との間に、何らかの交絡があるのではないか、と勘繰ることができるほどになっている。ともあれ、現状の陰謀論を相手にした場合、「誰が得したのか、カネか、異性か、名誉か」という質問は、決して問いすぎて損をするということがないであろう。
しかし、問題の全貌がある程度見えてきた後では、相手に悪意ある者が含まれることを想定すると、リサーチ・クエスチョンは、「はい」「いいえ」のいずれかのみの答えを許容する、いわば確定型の形式が、ほとんどの場合において、適切なものとなる。たとえば、「9.11の犯人は、「戦争屋」です」という主張は、検討材料としてふさわしいものである。反論は、「9.11の犯人は、「戦争屋」ではありません」というものとなる。「9.11の犯人は、誰ですか」とか、「じゃあ犯人が誰だかを言ってみろ」という通常の論争の場でならば許容される再反論は、無粋なものとなる。なぜなら、陰謀論に係る話題では、特に、一般人が扱う限り、確認された情報以上のことが分からず、情報収集に係るコストが膨大なものとなるためである。検討可能な命題は、結局、誰もが入手可能な材料が基本となるのである。
他方、陰謀論界隈に係るリサーチ・クエスチョンを確認する作業は、基本的にアブダクションに拠らざるを得ない。このため、ある命題を論証する際の証拠は、それなりに弱いものでも十分であると見るべきである。陰謀論に係る話題は、実学上のものであることが多い。このために、実用上、その程度に弱い関係を認めることができれば、利用価値が十分であるという事情も存在する。「子ブッシュ政権は、アフガン侵攻時、9.11がアルカイダのせいだと主張した。」「子ブッシュ政権は、イラク侵攻時、嘘を吐いた。(#この命題は、確定的な事実として、2016年現在、世界中の誰もが認めている。)」「よって、子ブッシュ政権は、アフガン侵攻の原因とした9.11の犯人についても、嘘を吐いている。」という主張は、陰謀論の世界では、論理としては成立する。このとき、子ブッシュ政権を擁護する側は、「子ブッシュ政権は、9.11の犯人がアルカイダであるとした」ことについて、間違っていない証拠を新規に提出するか、再度、(すでに多くが否定されているのであるが)旧来の証拠に基づき、説明すれば良いのである。2016年現在、子ブッシュ政権の主張の大部分に対して、合理的な疑いが提示されている。これらの合理的な疑いを逐一否定できなければ、子ブッシュ政権は、結果として、9.11について、誠実な回答を寄せなかったという評価から免れることができない。そうなった以上、子ブッシュ政権は、結果責任を引き受けざるを得ないのである。
陰謀論界隈における反論には、合理的な疑いが提示されるか、新規の証拠が必要となるであろう。これに対して、再反論する側が旧来の証拠しか提示できず、かつ、この旧来の証拠が否定されている場合には、再反論する側が再反論に失敗したと見なされることになるであろう。片方の論者が反証や反・反証...に失敗した時点で、その場における、ある命題の真偽は、とりあえず確定することになろう。
以上の論証の形式は、実のところ、よりメジャーであるコンテンツのうち、宇宙人やら超古代文明のような、反復的な計測が困難な対象の存在を主張する論者に対して、反論が難しくなる、という課題を突き付けるものでもある。「宇宙人はいる」と主張する者が種々の証拠を挙げてきた場合、否定する側には、証拠のそれぞれを否定していく作業が求められる。しかも、「宇宙人が完全に存在しない証拠」を能動的に挙げることは、まず不可能である。そもそも、確率上、宇宙人の存在は、肯定されるであろう。他方で、宇宙人の不存在をタイムリーに実証する方法も、人類には、おそらく用意できないであろう。(論理的にであれば、可能性の目が残ろう。)しかし、ここまで本記事を確認された読者であれば、デバンク側にも利用可能な方法が本記事に含まれていることに気が付くであろう。デバンク側も、アブダクションという論証の形式を利用すれば良いのである。そうすることによって、デバンク側は、「現時点のわれわれ人類は、誰もが納得できる形で、宇宙人の存在を確認できていない。」と主張することが可能になるのである。
#以上、手習いの続きではあるが、もう少し速度と品質を高める必要があるかも知れない。陰謀論に言及する目的は、ふたつある。一点目は、福島第一原発事故の影響を考察する上で、かなり突飛な説であっても確認が必要なこと。特に核兵器級濃縮ウラン説。二点目は、実際の解決に至る道筋も、陰謀論との関わりに留意しないわけにはいかないものであること。特に核のゴミ捨て場説。
自称「懐疑主義者」が陰謀論の解明を阻害してきたという外形的事実と、今後の陰謀論業界の動向を推定する
懐疑主義者が、調査の利便上、懐疑主義を研究するための組織を形成する、または既存の組織に参画する、ということは、あって全く不思議ではないことである。このとき、組織本来の目的を逸脱する意図を有する人物によって、その組織を利用した研究・広報活動が本来の目的から逸脱しようとする場合もあり得よう。その場合、本来なら、懐疑主義者は、その状況に対して、疑義を呈するであろう。それは、その懐疑主義者が真に懐疑主義的であるならば、当然の展開である。同様に、組織の名によって、何らかの情報が外部に発信される場合には、発信される内容にその組織における健全な多様性が反映されるよう、注意深く関与するであろう。この予想、あるいはこの予想から派生する懐疑主義者に対する期待も、もちろん、懐疑的であるという懐疑主義者の習性に由来するものである。
組織というものは、いったん確立すれば、個人によって利用されるという余地を常に生むものである。それは、組織化に伴う分業や指揮命令系統という、組織のメリットそのものに由来する特徴である。組織が組織としての長所を発揮するために、分業・専門化は、必須である。分業しない組織は、おおよそ、個人の集積と変わらないであろう。組織に所属すること自体を組織に所属するメリットとみなすことはできるが、メンバー間のコミュニケーションによって個人の行動に何らかの棲み分けがなされる場合、これは、一種の分業と言って良いし、組織に所属したことによって相互の安全保障や外部の敵からの相互扶助が達成される場合には、この機能自体が共同することから生じる一種の分業であるとみなすことは、さほどの無理筋ではない。いずれにせよ、分業体制が組まれると、個人が分業体制を通じて組織を動かす余地が生じる。この点に思いが至らない懐疑主義者は、懐疑主義的ではなく、懐疑主義者を自称する観念主義者に過ぎない。自分たちの所属する組織に対して、懐疑的であってはならないという考えは、まったく妥当ではない。
本稿の読者は、現在のところ、大変ディープな方たちか、または、偶然迷い込んだ方かのいずれかであろうから、私が念頭において記述した組織の名称については、わざわざ注記する必要もないであろう。ここで、懐疑主義者の研究組織を考察する上で、大事な観点を導入しよう。それは、陰謀論と呼ばれるコンテンツの一部に、現実の(莫大な)利益が直結しているという基本的な命題である。例を挙げれば、中央銀行制度に対する疑義というものは、このコンテンツの最たるものである。
現実の利益と分かつことのできない陰謀論上のコンテンツが存在するという事実は、ある言語における陰謀論の動向を注意深く観察し、核心的な利益を確保するために必要となる介入を行うという活動に対して、価値を発生させる原因となる。この種の活動は、すでに設立されている懐疑主義者の研究組織に潜り込みこれを乗っ取るか、あるいは、懐疑主義者のための組織を新規に立ち上げ、そこでゴキブリホイホイのように活動の大半を囲い込むかのいずれかによって、比較的容易に達成できる。何なれば、相手国が仮想敵国であれば、この活動は、相手国の財政を上手に利用することにもつながることを期待できる。
いずれにしても、陰謀論における特定命題(の取扱い)が特定集団の利益と関連している場合、陰謀論に係る組織的研究活動を監視する活動の存在を単純に否定することは、あまりスマートとはいえないことである。その説明自体が、健全な懐疑主義者に対して、余計な疑念を呼び起こすスイッチとなりうるからである。否定する役割を与えられた者の説明があまりに稚拙であると、かえって疑念を深めることになる。大抵の社会的出来事に係る陰謀論は、この疑惑が深められた状態に達している。私には、伝統的な情報流通産業が築き上げてきた正統的であるというイメージによって、どうにか、これらの疑惑を抑え込もうとしているように見受けられる。この状態は、インターネット時代において、疑念を有するに至った懐疑主義者をなだめることもできず、にっちもさっちもいかなくなった終末的な状態であろう。喩えれば、「デバンク」側の「マスコミ砦」がインターネットによって陰謀論者に包囲された状態である。無論、カラー革命に代表されるように、インターネットを乗りこなす試みも進められているが、今年のアメリカ大統領選挙に係る動向のように、揺り戻しもあり、必ずしも成功したとは言い難いであろう。
大事なことは、この種の役割を与えられた組織が論理上存在することを、単純に否定することではなく、その実態を追跡しにくくすることである。最善は、全対象者がこの組織が望ましいと見なす理解のあり方に、学習を通じて到達した状態である。しかし、この理想的状態は、達成条件が厳しく限定されたものである。次善は、誰が、どのような形で、どのような報酬を獲得しつつ、この種の業務に具体的に従事しているのかを、重要人物については、見えにくくすることである。敵国が相手であれば、「健全な懐疑主義者」の候補を要職に就けず、これらを徐々に「利用しやすい間抜け」に置き換えていくことは、一つの方法となろう。逆に、この種の活動を防護する側は、「利用しやすい間抜け」が間抜けであることを示すなどの方法によって、期せずして国益を毀損する人物を、注意深く、国益に資する人物に置き換えていくなどするであろう。これらの方法は、攻撃側も防御側も、ともに利用可能である。
応用例として、監視側にとって、「健全な懐疑主義者」を、人格に問題があるかのような出来事に巻き込むというものもある。しかし、この方法は、基本的には邪道であり、利用を避けるべきものである。というのは、第一には、この方法論が公知のものとなった場合、一般人であっても、この方法に対する「気付き」を形成してしまい、何に・誰に対しても、この教訓を応用するようになるからである。第二には、この方法が一種のルール違反であって、ルール違反をすること自体が先進国としての要件から自国を遠ざける可能性を生じさせるためである。このルール違反的手法は、一種の麻薬のようなものであって、即効性はあるが、担当者に真の国益を見失わせ、相手(国)の良識ある懐疑主義者に、嫌悪感を催させる可能性が高いものである。無用な反感を買うことは、真の国益に照らした場合には、大きなマイナスとなりうるのである。
可能であるならば、陰謀論に係る言説は、言論の正しさ自体によって防護されるべきである。この点、中央銀行制度に係る思想は、かなりの成功を収めたものとして、参照に値する※。中学校において、全中学生は、「日銀の独立性」を学ぶ。この一方で、現政権には、通貨発行量を増大せよと日銀総裁に詰め寄るという場面を演じさせる。「日銀の独立性」というフィクションは、大多数がこれを一種のアングルであるとは捉えなかったゆえに、証券取引を活発化させ、株価を上昇させ、価格の振れ幅(ボラティリティ)から利益を得ることのできる大口取引業者を潤すという循環を生み出すことに成功した。
※ ただし、国民国家へと各国家が回帰しようとする現時点において、この事例は、必ずしも、私が取り上げるに相応しいものとは言えないのかも知れない。
冷戦などという「大きな物語」の下にないままに国民国家同士が勢力の均衡を目指す現時点以降の国際社会においては、陰謀論のいくつかの主題については、思い切った転換によって、当時の事情を「白日の下に晒した」(あるいは晒したかのごとくに見せる)方が、結果として、陰謀に従事した集団や組織に対するダメージを低減できるかも知れない。真に責任を有する集団や個人に対して、全ての責任を負わせて、司法取引を図るという方法を目指すのである。その結果、陰謀論に係る言論界についてもパワーシフトが起こることは、やむを得ないであろう。しかし、そのパワーシフトに伴う怨嗟の声は、さほど問題にならないであろう。なぜなら、自称懐疑主義者が真に懐疑主義者であったとすれば、単に本人が反省すれば済む話であるし、そのように自らを改めるにやぶさかでない人物であれば、健全な方向への転換にも、スムーズについていけるであろうからである。他方、懐疑主義者を自称してきた観念主義者は、このような変化について行くことが難しいであろうから、ご退場願うことも必要となろう。狼少年がついに狼少年として処遇される日が来るという訳である。この種の観念主義者との手切れは、少々の関係性が生じていたとしても、スムーズにいくはずである。社会の側や陰謀論者の側は、ここぞとばかりに、たとえば9.11についての自称「デバンク側」を嘘吐き呼ばわりするであろうから、非難されている側が何を主張しようとも、なかなか聞く耳を有してもらえないであろうからである。
従来の陰謀論によって利益を得てきた層にとって不幸であったのは、国民国家として、許容されるレベルのルール破りと、真のルール破りとを見分けるための能力を有し、その具体的な線引きを実行できるだけの人材を、適切に配置してこなかったことにある。わが国に限定して言えば、重要な任務に従事するはずの言論業界や社会科学系の研究者という職務に、能力不足気味の人材しか配置できなかったことは、利益を得てきた集団にとっては、大変に不幸なことであった。もう少し、優秀なフロントマンを雇うべきであった、というのが私の率直な感想である。
基本的に原則論的なことを記しながら、ようやく、私が陰謀論に係る日本の話題を避けてきた理由の全体を、おぼろげながら記述することができたように思う。わが国における、健全な懐疑主義を謳う団体は、すでにデバンクされてしまっている人材が跋扈し、それが見破られている末期的状態にある。これらの団体が健全な機能を発揮していることに対して、社会の同意を再び得ることができるようになるためには、これらの団体は、デバンクされた人物とは切り離された形で、再起動される必要があろう。現状のように、恥の上塗りのような形で機能している状態は、見苦しいものと言えるし、「陰謀を指摘する側も、否定する側も、どっちもどっち」という状態を作り出し、工作費を無駄遣いしているだけでもある。また、迫り来る9.11の再検証に向けて、これらの無能なフロントマンには、交替しておいてもらった方が一般の信用を得やすいという事情もある。
インターネットの普及は、ある事件についての可能な考え方を、おおむね列挙して網羅するという状態を実現した。人々は、それらの説の中から、自分の好みと判断を通じて、好きな説を選択できる状態にある。このとき、重要なのは、キュレーションのセンスであり、各説を提示する人々への信頼感である。また、世界が子ブッシュ政権時代を経験したために、われわれは、世界各地の一般人であっても、生半可な説明ではなく、誰が利益を得たのか、その報酬が正当で適正なものかについても言及する説明を求め、好むようになっている。ゆえに、今後の世界は、陰謀論に対しても、科学的思考やそれに準じた方法、また功利主義が適用される時代を迎えることになるであろう。科学的態度は、虚偽と事実を見分ける上で、多くの人にとって、便利な方法である。また、功利主義が重視されるのは、陰謀論が持ち出される背景に「利益を生み維持する構造」の存在が認められてきたため、また、今後も認められるであろうためである。今後の世界では、陰謀論によって誰が利益を得たのかを問い、そこに不正があればその是正を求める一方で、国民国家として正当な理由があれば、その理由に理解を示すという、ごく基本的な思考過程が判定基準となろう。陰謀論の産出・是正・解呪に従事する職業人は、その職務の範囲に忠実であったか否かを、今後、厳しく問われることになろう。
デバンクって何じゃ?という方には、下記に参考リンクを示した。同サイトは、私が陰謀論について一般人以上に知識を深め始めた時期には、すでに十分知られていたように思う。(デバンクそのもの用語を説明するサイトではない点に注意すべきである。)
参考:奇説珍説博物館 | トンデモミュージアム
http://www.tondemo.info/
平成28年9月2日・11日修正
淡赤色の部分を意味が通るように修正した。
平成29年10月28日修正
淡い橙色の部分を訂正し、前回修正部分の削除記号をコメント化した。あえて訂正したことを示すまでもない変更内容であると考えたためである。また、brタグをpタグに変更した。
『SAW』シリーズの「ゲーム」はテストであってゲームではない
『SAW』シリーズ、18禁映画を話題にしたい。こう見えて、快楽主義者な私は、このシリーズを嫌悪するとともに、非常な違和感を感じてきた。初作を観たとき、かなりの初期に、犯人が分かってしまい、めっちゃ萎えた、という経験も影響している。それよりも何よりも、このシリーズ中で用いられる「ゲーム」という言葉に引っかかってきた。バレバレだが、私は、普通の人よりは、ゲーマーである。
同シリーズの主人公、ジグソウの(初作なら二人が目覚めた後の)決め台詞は、I want to play a gameであるが、私からすれば、奴の意味する「ゲーム」は、どう見ても、生きるに値するか否かの「試験」であって、英語で正確に意味する用語を探せば、私に言わせれば、testである。もちろん、私は、奴が「ゲーム」の語を「生の価値を体感するために、痛みに耐える」という作業内容を指して用いていることを、理解しているつもりである。また、一応、ジグソウは、奴なりの基準によって、ゲームとテストという語を相手によって使い分けているようではある。
しかし、『SAW』シリーズにおける「ゲーム」という語が意味する、「痛みが用意されており、我慢する必要があって、報酬は自分の生命である反面、失敗はほぼ例外なく死」という状態は、明らかに、ゲーム数千年の歴史が想定する「ゲーム=遊戯」の伝統的な意味に反したものとなっている。通常の意味でのゲームは、大抵の人にとって、成功報酬は低いかも知れないが、失敗による不利益もほとんどないものである。なお、賭博とゲームが深い関係を有しながら発展してきたことは、これまた共通の理解であろう。賭博に起因するゲーム上の失敗・敗戦には、不利益が付随しがちではある。しかし、それは、あくまで、賭博という行為に係る話である。それゆえ、ゲーム自体が不利益を生じさせるということではないはずである。
このように、「ゲーム」に対する基本的な誤解が向こう側に認められるため、私は、『SAW』シリーズを受け付けないのである。『死亡遊戯』なら良く分かるし、楽しんで観たというのは、落ちていないであろうが、オチのつもりである。
2016年8月2日火曜日
私が不正選挙を追求し公開するのは国民の良識を信頼するからである
不正選挙という方法は、間接民主主義においては、最大の禁じ手である。第一に、良識のある国民の判断を役立たせる機会を最初から失わせるものである。のみならず、不正選挙には、捏造された当選結果が国民の政治参加に対する意欲を失わせる、という波及的効果も認められる。不正選挙を行った者がいるとすれば、その者は、不正選挙によって引き起こされた波及的効果のすべてについて、結果責任を負わなければならない。この一方で、「騙された日本国民も悪い」という論理は、日本国民の選挙結果に対する錯誤を理由に、通用しなくなるのである。皆がアホな為政者を選んだのなら仕方が無いと諦めていた、聞き分けの良い市民も、不正選挙なら容赦しないであろうからである。
その反面、不正選挙が行われず、多くの日本人が自らの判断で当選させた政治家が、非常に悪い決定を下し、その結果、日本国が失われたという場合を想定しよう。このとき、私は、日本国民が自業自得であると自らが賛成することはしないものの、このように諸外国から非難・揶揄されても、やむを得ない客観的な評価であると受け止める。たとえ、このような亡国に至る道へのマスコミの誘導が酷く、それに国民が乗せられ続けてきたとしても、である。いずれにしても、日本国民は、日本社会の機能が喪失したとき、その結果を受け止めざるを得ないであろう。なお、マスコミの誘導が酷いという仮定を採用したとき、私は、日本国民の結果責任を認める一方で、マスコミの責任者、「寿司友」にも相応の制裁が必要であると考える。また、そのために必要な材料を用意し、公表してきた。しかしながら、私の行為とは関わりなく、各社会集団の機能が正常に発揮されていれば、「マスコミの誘導」は、是正されていたはずである。「マスコミの誘導」という失敗に至る道筋は、マスコミのみによって用意された訳ではなく、各社会集団の不正・構造的欠陥によるものでもある。
不正選挙ほどではなかろうが、世論調査についても、同様の結果責任に係る構図が存在する。社会調査に関与してきた企業と、関係企業から利益を得てきた学識経験者は、研究活動・社会的活動の内実によっては、政治上の結果責任をも引き受けたことになっているのである。たとえば、RDDがすでに破綻しているという指摘は、一般人からも提起されている。当該手法によって利益を上げてきた企業は、他方で、多くの関係分野の学識経験者と利益相反関係を有する。このとき、RDDにより生じるバイアスの程度を見極めるという目的を有する研究を客観的に実行する環境は、およそ、わが国では存在しない。わが国では、まったく利益相反関係のない他分野の人物が、利益相反関係をまったく有さないという新規性を理由に、科学研究費補助金を支給されるという構造を認めることができないためである。この環境は、RDDに関与する研究分野の学識経験者に対して、新たな社会的ゲームのルールを強いるものとなる。RDDを「従来からのやむを得ない方法」として認めれば、RDDに関与する研究分野の学識経験者は、政治上の結果責任を引き受けたことになるのである。なぜなら、RDDによる方法を単に認めるだけでは、この学識経験者は、RDDによって得られる系統誤差を考慮することなく、おかしな調査結果の流通までをも認可したことになるためである。この陥穽を避けるためには、「○○新聞の○年○月○日の調査の枠組みでは、命題Aは成立しても、同新聞のいう命題Bは成立しない」などと、是々非々で個別命題を検討していくほか、彼(女)が結果責任を逃れる方法は存在しないであろう。しかるところ、外部の者からみて、マスコミ関係者が仲間と見なしているような学識経験者が、各マスコミの社会調査の内実にわたり、逐一、解説を加えているということがあろうか。また、その解説を並記するマスコミがあろうか。このような、利益関係から生じる主従関係を甘受してきた研究者たちは、不作為という種類の結果責任を引き受けてきたことになるのである。ただし、本段落で指摘したことは、あくまで構造的問題であり、ここで私が理想であるかのように指摘した活動を行える研究者という存在は、ほとんど(良い意味での)例外的な個人の状態に由来していることを指摘しておきたい。この状態を正常化する方法は、あくまで構造的方法によるべきである。個人の英雄的献身は、賞賛こそ浴びるべきである。しかし、個人の犠牲の上に上手く機能する社会構造は、およそ、平等からかけ離れた状態なのである。
私が公開情報に拘るのは、市井の日本人の一人一人の責任の程度を見極めたいためである。公開された情報を、一人一人がその人なりに判断し、社会に対する意見を形成し、(被)選挙権を行使したり、しなかったりという判断を下した結果※が、現状を作り出したとするならば、現代の日本社会は、それを引き受けざるを得ない状態にある。しかし他方で、私には、日本国民の良識が反映されない政治的現状には、重大な構造的要因があるように思われてならないのである。もちろん、不正選挙は、その構造的要因のうち、最も大胆な形で、間接民主主義を破壊する方法である。それゆえに、不正選挙から生じた責任が存在するとすれば、その責任は、不正選挙を企画・実行した複数の人物に帰すしかない。
※ 判断力を有さないとされる比較的少数の人たちについてはどうなのだという話は、考慮しない。この点を考察することは私の仕事ではないと私自身が考えていることをもって、ここでの回答としておきたい。(つまり、判断能力を有さない有権者という存在は、私が不正選挙について考察するときの、モデルの例外である。)
近年の選挙結果に対して、直感と異なるものを感じた人が多いとしても、ふつうの生活人に、この疑念を客観的に追求する作業を求めることは、無理に過ぎよう。他方、そのような存在を個人的にほとんど知らないが、リタイアした研究者なる者は、原理的には、その作業に従事可能な要件を揃えていよう。団塊の世代以降の研究者であれば、どの分野の研究者であっても、分析に必要なPCの操作能力は、十分有しているであろうし、分析に必要な資機材はほぼ全員が自宅でも所有していよう。ただし、現実には、リタイアした研究者は、自分の研究分野でまだまだやり残したことがあろうから、やはり、不正選挙の可能性を追究することを他人にお任せということになりがちであろう。
私が本ブログで私なりに提示した疑義は、基本的に、カネ・コネの双方がなくとも、追試可能である。つまり、私の指摘の正しさは、誰でも検証可能である。他方で、この追試作業への社会的な風当たりは、強いものとなることが予測される。とりわけ、権力者が不正選挙によって当選したことについて自覚的であれば、なおさらである。
しかし、分析そのものが可能であって簡単に公開できるという情報環境は、同じ情報環境についての話ではあるのだが、分析結果を周知する際の情報環境とは、別ものとして扱うべきである。観察者としての分析者が、現実に影響を与えることによって、現実のプレイヤーとして参画することになるためである。分析者の主張した内容が、他のプレイヤーの行動に変化を促すことにより、今後の社会における再現性が確保されなくなる可能性もある。この現実への関与(involvement)は、実学における本質的な問題であるが、イマイチ、私には問題の全体像がつかめていないので、避けて通ることにしよう。
インターネット上に公開された情報は、それがデファクト・スタンダードとなっているいくつかのサービスにおいて、人為的かつ不公正な形で秘匿されない限り、人々に気付く機会が与えられたために、一定程度、読者として想定されている人物に対しても、何らかの種類の責任を投げかけるものとなっている。たとえば、研究者は、「知らなかった者が悪い」と言われれば、その通りの職業である。ある程度までの基本的な知識や考察についてであれば、研究者にとって、知らないことは、当人の無能力を示す、恥ずかしいことである。「無知の知」は大事であるが、同時に、多くのことを知らないという自覚を有するからこそ、この情報(爆発)環境の下、研究者は、最大限、その環境を乗りこなすよう、努めなくてはならないのである。
他方で、多数の一般的な人物からすれば、隠されるべき情報が存在するという命題は、肯定されるものであろう。ポルノグラフィやヘイトスピーチやある種の陰謀論は、これら検閲の対象として、全世界的に対象となっているであろう。他方、近年のわが国では、死に係る映像・画像は、多くが自主的な検閲の対象となってきたが、他国では、必ずしもそうでないし、かつてのわが国でも、そうではなかった。隠されるべき情報は、時代と環境と受け手によって、大きく異なるものとなる。
情報公開と検閲とに係る環境が、基本的には以上の条件からなる形で用意されているとき、不正選挙に係る客観的な分析結果という情報は、いかに扱われるべきであろうか。この問題は、なかなか興味深い話を呼び起こす。しかし、この話を概念上詰める余裕や親切さが私にはないので、私の考える落としどころを以下に述べておこう。現実のサービスにおいて、ある情報が検索システムの基本的な動作から大きく逸脱する形で下位にランクされるとき、その結果は、人為的なものと認められる。この種の人為性が認められない限りは、かつて、宮台真司氏がセキュリティに係る社会設計の要点として挙げたような、「知りたい者なら知ることができる」という状態が実現されていると認めることができよう。
人が学びたいと思うとき、そのときが学びどきである、というのは、教育学で広まりつつある考え方であるが、同じ事は、不正選挙の是非について、本当のことを知りたいと考える人にも当てはまるであろう。ある物事について、深く知ろうとした人がいるとき、正確かつ権力者にとって不都合な情報であろうとも、無料でアクセスすることができ、かつ、これらの情報の弁別に際して多少の困難を経験することがあっても、その困難さが権力の介入によって無用にハードルを上げられたものでなければ、その情報へのアクセスは、十分に確保されており、自由なものである、と言えるであろう。
不正選挙に係る情報に限らず、正当な研究(の実施)、正当な言論(の公開)、正当な情報へのアクセスが保証され、実現されていれば、それを利用することが期待されている国民国家の成員には、その状態を活用する一種の責務が生じる。不正選挙という指摘が国民の側から合理的な疑問をもたらした証拠とともに提示されたとき、当該分野に係る研究者にはもちろん、ジャーナリストや、当の選挙によって当選した(はずの)政治家には、この指摘に応える責務が生じていると見ることができよう。この機会を日本国民が活用せず、かつ、その不作為に正当な理由が存在しなかったとき、不正選挙により実現した政権が何を行おうとも、日本国民は、諸外国の良識ある国民から見れば、民主主義をむざむざ無駄にしたと見なされることになろう。他方、現状にあるような、現政権に疑問を呈する多くの日本語サイトが閉鎖に追い込まれ、あるいは、嫌がらせを受けるという状態は、権力の側に責任を転嫁できる状態である。
日本国民に対して、公平な判断の機会を与え、これを保証することは、ある政策についての権力への批判に対して、権力が合法的かつ正統的な手段で対応したことを示す、消極的な手段となる。しかし、この機会を無用に奪うことは、すでに、権力の側に正義がないことを示す端的で揺るぎない証拠となる。この非対称性は、権力の側にあっては、むしろルールとして厳しいものに受け止められるかもしれない。しかし、横綱相撲を取れるからこそ横綱である、という考え方は、依然として、わが国の標準的な考え方でもある。 疚しいところがなければ、堂々と国民の判断を仰げば良いのである。不正選挙に対する指摘も、同様に処理すれば良い。日本国民の良識は、期待して良いものである。
おまけ(2016年8月2日22時追記)
Stephen Spoonamore Former CEO Cybrinthhttps://www.youtube.com/watch?v=Jy1sz-xBxf8
統計学的手法によれば、非常に洗練された出口調査に対して、結果に2%の誤差が生じていれば、投開票における不正があったと主張しうる。
とSpoonamore氏は説明しているが、これは、(多段の)二項分布を、選挙人団選出時の出口調査への回答者に対して仮定したときのものであろう。
平成28年8月10日追記・修正
文章を分かりやすくするための追記・修正を行ったが、文意は訂正していない(つもりである)。『スーパーJチャンネル』2016年8月1日のインタビューにおける小池百合子氏の回答について(感想)
17時27分頃までのテレビ・インタビューにおいて、小池百合子氏は、選挙活動初日に大島に飛んだことについて、小沢一郎氏や小泉純一郎氏に薫陶を受けた影響があったのではないかとキャスターの渡辺宜嗣氏から問われたが、小池氏は、これに対して影響がないと断言するとともに、バックに誰がいるのかという質問はもう止めた方が良い、と返答した。
#具体的な書き起こしは、残念ながら、ビデオ撮影していなかったので、ほかの方に期待することとしたい。
小池氏の表現は、小沢一郎氏や小泉純一郎氏の影響を否定する一方で、誰かがバックにいることを否定するものではない。
渡辺氏の質問に対して、小池氏が苛立ったかのように返答したことは、図らずも、小池氏にバックがいることを明らかにしたと見える。なぜなら、小池氏の返事は、「確かに、小泉氏や小沢氏から学んだことは多くございましたが、今回は、お二人の力を借りずに頑張りました。もうそろそろ、免許皆伝ということで、よろしゅうございますか?にっこり」くらいでも良かったからである。小池氏の期待を裏切ったかも知れないが、私は、小池氏の返事によって、小池氏のバックには誰かがいるのであろう、と解釈してしまった。
すると、渡辺氏の質問は、今回、ジャーナリストとして、優秀なものであったということになる。誰が企画したのであろうか。スーパーJチャンネルは、インタビューの後、17時35分頃、小沢一郎氏の「川上戦術」を紹介していた。この話につなげるために前振りしようとして、図らずも、良い質問を繰り出したのであろうか。それとも、狙った形で、良い質問を繰り出したのであろうか。そのヒントは、同番組中に存在しているが、それは、私の内心にしまっておこう。テレビって、もの凄い表現力のあるメディアだなあと、あらためて感心した次第である。
朝日新聞2016年7月31日の相模原事件に係る記事は良記事である
http://digital.asahi.com/articles/ASJ7Y4HRGJ7YULOB00M.html
上掲リンクは、朝日新聞の紙面では、平成28年7月31日日曜日の朝刊39面に掲載されていたものである。同記事には、日本防犯設備協会の担当者の話が次のように記者の古田氏によってまとめられている。
「事件を防ぐには、刑務所のような高い壁で建物を囲むしかないが、非現実的だ」と広報担当者は話す。
防犯対策としては窓ガラスの破損に反応する警報装置などもあるという。「今回の場合、施設や警察がどのような犯罪を想定していたかが、検証のポイントになるだろう」と語る。(古田寛也)
前段については疑問もあるが、後段に対しては、まったくその通りであると考える。助言を行った警察まで含めて、担当者の話として記しているところは、読む側が心配してしまうところがあるほど、組織としては踏み込んだ内容であろう。古田氏と広報担当者との間のコミュニケーションのあり方については、想像するほかないが、現時点で、まったく利益相反関係やコンタクトのない私からみて、この記事がこの形で公刊されたことは、公共の利益が最大限尊重された結果であり、社会的に賞賛を浴びて良い話であると考える。(このために、本記事を執筆した。)
本事件のように、徹底的な検証が必要であると同時に、なおかつ、対策が焼け太りにつながる蓋然性が認められる事件があるとき、責任を果たすべき主体とその責任の範囲をあまさず列挙しておくことは、公益に資する言論の第一歩である。本記事では、文面が「今回の場合、施設や警察がどのような犯罪を想定していたかが、」ではなく、「今回の場合、どのような犯罪が想定されていたかが、」という受動態で記されてもおかしくはなかった。朝日新聞社側が「施設や警察が」という主語を根拠なしに挿入したという可能性は、今回については、ないものと考えて良いであろう。本記事の執筆にあたり、記者の古田氏は、必要な発言を引き出して、上手く利用した、と考えて良いであろう。では、警察庁の所管となる公益団体である日本防犯設備協会の担当者は、迂闊であったと言えようか。決して、そうではなく、むしろ、「三方よし」の観点から業界を回り回って益する形の発言を提供したのではないか、と私は考える。
本事件に係る業界では、横並び風潮が根強く残るから、どの企業が施設を運営・警備していたとしても、本事件は、容疑者が勤務していた限り、同様に生じた可能性が高かったであろう。同時に、どのポジションであっても、たとえば、津久井署の生活安全担当者が誰であっても、同様に事件が生じたであろう。私も不適切な防犯上の助言をなしたであろうことは、戒めとして、本ブログに残したとおりである。誰が担当者であっても同じ結果を生じさせたであろうならば、事件の再発防止に係る責任は、個々の人物に求められるものではなく、組織の構造に求められるべきであろう。本事件は、組織の習慣や役割、組織間の縦割り状態によって生じたものであって、関係する組織で普通に仕事をしてきた人たちに対して、責任を求めることは、無理の過ぎることであろう。
他方で、今回の事件は、事件の関係組織すべてに対して、組織の責務の範囲を、組織として明確にして、その責任を十分に果たしたのかを問うものとなっている。組織が期待される役割を果たすことに失敗したときに、改善すべき点をタブー抜きで検証し、その欠点を改善できたとすれば、その組織は、今後に向けての健全性を示したことになろう※。逆に、健全でない組織とは、改善すべき点を改善できない組織である。朝日新聞の記事は、今回の事件を教訓として、警察も従来の業務のあり方を再検討すべきであるという指摘を提起することに成功した。この点、今回の朝日新聞は、報道機関として好評価を受けるだけの記事を世に問うたことになろう。また、日本防犯設備協会は、警察庁の所管する公益団体であるが、客観的な知識を提供するという社会的役割も期待されている。検証の結果、防犯設備が不足しており、その不足を埋めるという今後の作業を通じて、業界全体が利益を得るという話の流れは、当然あり得る。しかし、この業界拡大の流れは、警察も検証の対象とすべきであるという指摘とは、関係なく成立するものである。この点に留意すれば、(警察関係者としては警戒する相手であり得る)朝日新聞の取材に対しても、日本防犯設備協会の担当者は、誠実に客観的な解答を寄せたということが明らかとなる。
このような状況を鑑みたとき、朝日新聞も、日本防犯設備協会も、批判を受ける形となった施設と警察も、それぞれ譲歩するような形を取りながらも、結果として、自らの評判を高める機会を享受している。厳密には、施設と警察は、これからの検証のあり方を通じて評価を受けることになる。その際のヒントは、本稿にも、また、以前の記事にも示している(1、2)。2番目の記事は、陰謀論という、いかがわしい分野に分け入りつつも、そこから教訓が得られるであろうと見込める限りは検討しようとする、という謙抑的な態度で示したものである。
※ 行政組織が検証の対象となっている場合には、海外の同種の組織がどの程度まで、どのような社会環境下で、どのようなリソースを利用して、業務を実施しているのかが問われることになろう。
2016年8月1日月曜日
平成28年7月東京都知事選挙に係る孫崎享氏のツイートは難しい
極秘情報、都知事選。(6月15日午前、舛添氏辞職願を都議会議長に提出、小池百合子氏6月29日に記者会見で知事選立候補の意向を表明した経緯の中)6月17日の段階ですでに、米国情報関係者周辺では「次はユリコね」という会話がされていました。— 孫崎 享 (@magosaki_ukeru) July 28, 2016
日本語に限らず、文章表現とは難しいものであると思いつつ、頭の体操として、解釈を試みることにしよう。結果(の正しさ)については、期待しないで欲しいし、私の分析は、あくまで素人判断に過ぎない。日本語としては、以下のように解釈可能であるというだけに過ぎない。
- 「米国情報関係者周辺」が小池百合子氏自身から発せられた出馬意向を17日の時点で確認していたという場合。取得の方法は、複数存在するとは思うけれども、最も簡単なのは、彼女自身から誰かが聞き出していたというもの。
- 誰が次期都知事になるものかを予測したというもの。この予測は、必ずしも、彼女自身の出馬意向とは関連しない。
- 誰が次期都知事となると、米国の国益となるものかについて、分析したというもの。彼女自身の出馬意向とは関連ないが、主要な分析者が人間である場合には、分析対象者の候補として、小池氏を分析リストの筆頭に近い位置に据えて検討したという可能性はありそうである。
- 米国として、都知事選挙に出馬することを焚きつけることが可能な人物を洗い出したもの。
- (一部のユーザが反応したように)米国として推す人物を小池氏に決定したというもの。
以上のケースを列挙してみれば、孫崎氏がパンピーの日本語話者に向けて語った内容は、私にとっては、単に、アメリカすげえな、というものにしかならない。日本人の情報機関が、アメリカの主要都市の市長選に興味を有するだけでなく、実質的な分析や評価を加えるということは、可能なのであろうか、と考えてみれば、ここでの凄さが際立つことになる。
たとえば、を妄想してみるが、孫崎氏がこの情報を直前の時期にツイートしたのは、単に、典型的な引っかけられ方をする日本人ユーザの事例を収集するというものであったりするやも知れない。反応したユーザを匿名で引用すれば、「...と引っかかる人も多いのですが、本来は、このように解釈するのが正しいのです」という事例集に使える訳である。日本人の文章読解力がここまで落ちていることを示して、わが国にも、まともなインテリジェンス機関(とまともな中等教育)が必要なのです、という教訓として利用するためなのかも知れない、という訳である。
実際に、都知事選の内容を考察していて、これ以上、脳を動かすと、寝るとダウンしそうなので、本記事のメインの話題はこれでお休みとしたいが、孫崎氏のツイートがパンピー向け以上の何かを含んでいるとしても、まったくおかしくないなあとは思う。その場合には、孫崎氏のツイートを確認している関係者を複数種類にわたり想定する、という作業から始め、より複雑な場合分けを経る必要があるのであろう。
以上、孫崎氏のツイートについて私が考えてみたことは、私が行っている訓練の一環である。このような訓練を最近になって行うようになった理由は、私が自分なりに陰謀論やら社会的な事件やらを構造化して考えることの必要性を痛感したためである。日本人なら誰もが、とまでは言わないが、社会科学研究者の大半は、誰もが、暗黙裏にであれ、これらの思考様式に近い処理を行っているはずである。ただし、していない者の存在を否定する気はない。
福島第一原発事故は、あまりにも大きい。「地域で暮らす」という単純に見える概念ですら、一部の陰謀論と切り離すことができない。自然科学上の機序は議論の対象となっているものの、統計上の結果は、あからさまである。しかし、その単純さは、「戦争屋」に連なる「(国際)原発ムラ」によって、随分と歪められてきた。被害を大きく受けた旧ソビエト連邦中の三カ国は、いずれも、チェルノブイリ原発事故から多大な影響を被りつつ、国際的な(因果)関係を経て、現在に至っている。バルト三国も、事故処理にあたり、労働力を供出させられており、その影響を免れてはいない。ドイツ、北欧諸国もかなりの影響を被っている。(そのほかのEU加盟国も影響はあるが、その程度は、上記に名指しした諸国に比べれば、小さいようにも見える。)
以下は、完全に悪ノリ気味となるので、ご容赦いただきたい。
福島第一原発事故を正確に理解しようとする者は、陰謀論を避けて通ることができない。事故は、必然的に、複数の国の間の二国間関係から構成される多国間関係を、範囲とするためである。陰謀論は、他国との関係において自国を有利とするためにも利用される。科学的事実でさえ、かなりの程度、理解が歪められた形で、相手よりも優位に立つために利用される。これほどまで、陰謀論と科学が接近する分野も珍しいのである。そうそう、「メルトダウンではないだす。」という表現は、ほとんど、ニセ科学である。
それで、私の興味と新東京オリンピックと孫崎氏のツイートの、何が関係しているんだって?とか思わない方が良い。孫崎氏のツイートを「米国の指示した候補者が当選した」と誤解するのであれば、検討しなければならない範囲は、格段に広がってしまうのである。『火吹山の魔法使い』は、結構シビアなゲームブックだったなあ、とか。『バットマン』シリーズまで復習しておかなくてはいけないのかな?とか。いやはや何とも、世の中には、嘘のような本当の話が蔓延しているものである。
平成28年8月1日14時追記・修正
誤りを訂正し、当初の意図を変えない程度に表現を修正・追記した。分かりやすさを優先するためである。誤りであった部分については、淡赤色で修正を明記した。これも悪ノリの延長だが、小池氏がイメージ上、いかに捉えられているのかを調べてみた。作業は、『R』+『twitteR』による。東京都は、事故後5年後の現在においても、東京電力ホールディングス株式会社の大株主である。ゆえに、陰謀論とはかかわりなく、本件調査が福島第一原発事故と相応に深い関係にあると主張することは、可能であろう。作業については、Rファイルに詳細を示し、Googleドライブにて公開した(リンク)が、再現にあたっては、各自がAPIに登録する必要がある点に注意されたい。
小池氏に係る話題に対して、「ジョーカー」の語が併せて用いられたのは、ここ10日間(デフォルトの検索期間)では、10ユーザ、1ツイートずつ、計10ツイートのみであった。しかも、『ジョーカー・ゲーム』に喩えるものが2名、道化としてのジョーカーに喩えたものが7名であった。1名だけ、『バットマン』シリーズのジョーカーであるかのように見るユーザがいたので、引用しておく。
eigaq氏は、映画メインの話題なので、自らの見解をツイートする価値を認めたのであろう。よほど注意していないと、このような見方に辿り着かないという考えを補強することができようか。小池さんジョーカーみたいになってるね— のんびり映画 (@eigaq) 2016年7月31日
株式等の状況|株主・投資家のみなさま|東京電力ホールディングス株式会社(最終更新日:2016年4月15日、2016年(平成28年)3月31日現在)
http://www.tepco.co.jp/about/ir/stockinfo/breakdown.html
東京都の所有株式数は42676千株で、発行済株式総数に対する所有株式数の割合は1.20%、4位の大株主である。
平成28年8月9日19時追記・修正
今月1日に誤りを訂正したはずの部分が、なお意味の通じないものであったので、当初の意図を変えない程度に文字と読点を追加した。分かりやすさを優先するためであり、当初の意図から外れてはいないはずである。ジョーカーと言えば、『スーサイド・スクワッド』が来月(2016年9月10日)にわが国でも公開される模様である。
参考:スーサイド・スクワッド - 作品 - Yahoo!映画(リンク)