2015年10月30日金曜日

自由貿易の徹底もいずれはコーポレーショニズムに至る

TPPは複雑で巨大な管理貿易圏である 一部業界の利益を優先し、国民に高いコスト強いる | ビジネスジャーナル
http://biz-journal.jp/2015/10/post_12149.html

経済ジャーナリストの筈井利人氏は、TPP案文が複雑なのは、政治力のある一部の業界の利益を保護するためであると解説し、TPPは自由貿易圏ではなく管理貿易圏だと指摘している。また、自由貿易がパレート最適となると述べた後、TPPが自由主義経済ではなく縁故資本主義であると批判する。さらに、TPPの交渉過程が秘密とされたことは、TPPが政府および政府と親しい一部の事業者に利益を供与するものであることを示唆するともいう。徹底した自由主義に基づく見方に与すれば、確かに筈井氏の指摘は妥当なものである。

しかし、自由主義の徹底は、現在の人類が一定の土地から一定の資源を得て生きていく以上、国家及び企業権力の再編成にしか到達しないのではないか。このような直感に基づく素朴な疑問が湧くのだが、この点を確立した研究の形で提示する日本語の論者には、お目にかかれていない※1。他方、近年の映画や小説やゲームでは、複数のコングロマリットが覇権をかけて合従連衡するものが多く見られ、想像力のプロの面目躍如といった感を受ける。たとえば、Cid Meier's Civilizationシリーズ(以下、Civ)の最新作である『Cid Meier's Civilization: Beyond Earth』では、再編成された国家群が3種のコングロマリットから支援を受けて植民星で争う。

Civは、文明が世界に覇を唱えるべくあらゆる手段によって相争うというゲームであり、文化や外交による勝利も可能ではあるが、そのような勝利を追求する際にも、かなりのリソースを軍事に割く必要がある。なお、Civシリーズには、アイコンやらゲーム中に登場する絵画やら音楽やら、至るところにワンワールドの形跡が見られるが、この点も面黒い。たとえば、『Cid Meier's Civilization V』の拡張キット『Brave New World』のオープニングテーマを名曲だと思うと、原典は『ヨハネの黙示録』21章だったりする。Civを数百時間やり続けると、たとえワンワールドが実現されるにしても、軍事から警備までを守備範囲とするセキュリティ産業全体は、決して不要になることはないし、リソースの2~3割は持って行くぞ、という神託が得られたりする。こういうゲームに馴染んだ世代は、確実に、世論の動向を変化させるだろう。

ところで、対外的な軍事産業と国内的な警備産業、不信の眼差しを向ける相手がときに保護すべき対象者でもある、というように、セキュリティ産業は、双面のヤヌス神の貌を持つ。その適正なあり方は、国民の安全に対する相場観にも左右されるという、厄介な再帰性を有している。この困難さを扱う和書は少ないが、その一冊として、永井良和, (2011). 『スパイ・爆撃・監視カメラ―人が人を信じないということ』(河出ブックス), 河出書房新社.を挙げることができる。Amazonの和文レビューはひとつのみで、3つ星を付けられてしまっているが、セキュリティ産業を分析する必要のある研究者には、必読書である。

自由主義がホッブズ的自然を渇望し、またときに、自身の伸長のために惨事の種を撒くという指摘は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を貫くモチーフではある。ただし同書は、遠く離れた米国内の安全な本拠地があるという前提で、惨事便乗型資本主義を描き出す。イラクにおいて壁に囲まれた「植民地=租界」が作り出され、本国と同様の店舗が軒を連ねているのだという。成長を前提とした経済は、新たな開拓地を常に必要とするが、惨事便乗主義は、開拓地を常に作り出すという方法を発明したというのである。

上記の材料を混合すると、次の流れが見えてくる:現今の自由主義の徹底は、地球が現在の資本に対して十分に広大な領域でない以上、国家、企業、個人の各層におけるホッブズ的自然を必然的に産出するとともに、その自然状態に対抗するための重セキュリティ国家を出来させる。重軍備は、信用ならない相手の存在が国民に喧伝されるという手続きを経て、肯定される。ごく最近の南シナ海における米中関係の軋轢は、わが国において(のみ)過剰に報道されているが、日本国民は、その意味を十分に汲むべきである。

日本という環境において、従来以上に自由主義の徹底が進められたとき、何が起こるのか、偉いと見なされる身分にある人が説得力のある形で示して欲しいものだ※2。以上、永井氏の著書に対して寄せられた「題材があっちこっち飛びまくっている」という批判を意識して、ぶっ飛び気味に、TPP、Civ、ホッブズ的自然という題材から、セキュリティ国家の到来というオチを持つ三題噺を私も示してみた※3次第である。


※1 現在の日本の辿る歴史は、ホッブズの『リヴァイアサン』に示された論理と大筋で同じもののように思われるが、この観点から、現代のわが国における権力関係や社会関係の再編状況と、それらの将来を解き明かしてくれるような学識経験者には、なかなかお目にかかれないということである。TPPに反対することは、反対すること自体が一つの主張であり、日本人が落ち延びる先としての選択肢が増えるために望ましいことではある。しかし、たとえTPPが潰されたとしても、わが国における権力や社会の向かう方向性が変わることはない。この先は、具体的な政治の世界だとして話を終わらせることは可能ではある。しかしながら、よりマシな方向への道筋を示すことは、日本国民の利益を最優先順位に置いて考えることが可能な、またそうすべきである立場の者の仕事である。つまり、日本国民の税金により養われている者のうち、本分野に関係する者には、発信の義務があるということだ。

※2 平成27年10月現在の今でこそ、共産党に近い論調の研究者たちによる、平成14年以降の生活安全ブームに対する批判が妥当するようになりつつあるが、当時の批判は、結論から言えば、先走ったものであった。それどころか、むしろ、却って質の良くない監視社会を惹起した可能性すら認められる。第一に、日弁連も同じソースに依拠したが、彼らの採用した防犯カメラの効果に関する批判は、旧来のC2報告書によるものであり、当時英語では報告されていた報告書に基づくものではなかった。この事実の帰結は、効果測定に係る研究が蓄積され更新される性質を有するものであるにもかかわらず、その土俵に乗る努力が放棄された結果、定量的研究として信頼に足る研究がわが国では十分に蓄積されず、本当のところは何も言えない、という現状である。(#わが国には、C2でいうところのレベル3研究しか見られない。)この事実は、社会的身分のある大学教員が有効性に見込みのない批判をなすことにより、リソースを無駄にしたということにならないか。

※3 永井(2011)は、セキュリティを対象とした、落語にいう三題噺である。野暮を承知で記すと、本書の落ちは、セキュリティ強化と人間不信との相互亢進性である。書名に示されるスパイ、爆撃、監視カメラという題材は、本来の三題噺とは異なり、著者本人が用意したものであり、他レビュアの指摘のとおり、突飛な内容ではある。しかし、これら三題は、当時の論壇における浅薄な警察国家批判に覆い隠され、従来指摘されてこなかった人間不信に至る社会構造を明るみに出す上で、十分な材料とはなっている。セキュリティに係る社会設計に従事する者には、本書は必読である。




2018(平成30)年02月03日修正

レイアウトをbrタグからpタグ中心に変更した。文章を直したい気持ちが強いのであるが、そこは堪えて、当時のままとしてある。

2015年10月29日木曜日

Zombieland(2009)(メモ、ネタバレ注意!)

この映画は、ゾンビ映画から導き出した黄金則を厳守して生き延びようとするオタク男性の話です。すべてのゾンビ映画がそうなのですが、グロテスク表現に注意です。

ファンサイト?があり、そこに全ルールが掲載されていましたので、和訳してみました。リンクは、Sony Pictures Entertainment(チャンネル)がYouTubeで公開しているトレイラーに飛びます。


Zombieland Rules – All Zombieland Rules and More - ZombielandRules.com
http://www.zombielandrules.com/
  1. The Cardio: 有酸素運動(が大事)
  2. Double Tap: 二度撃ち(しろ)
  3. Beware of Bathrooms: バスルーム(とトイレ)に注意
  4. Seatbelts: シートベルト(をしろ)
  5. No Attachments: 執着するな
  6. The "Skillet": フライパン(でぶっ叩け)
  7. Travel Light: 旅装は軽く
  8. Get a Kick Ass Partner: 頼りになる仲間をゲットしろ
  9. With your Bare Hands: 素手でも戦え
  10. Don't Swing Low: 咥えるな(?、#公式トレイラーがないようで分からない)
  11. Use Your Foot: 足を使え
  12. Bounty Paper Towels: バウンティペーパータオル(は重宝する)
  13. Shake it Off: 振り落とせ
  14. Always carry a change of underwear: 下着の替えを持ち歩け
  15. Bowling Ball: ボウリングボール(は便利)
  16. Opportunity Knocks: 千載一遇(チャンスは誰にも訪れる、けど一度きり。)
  17. Don't be a hero (later crossed out to be a hero): ヒーローになるな(後にヒーローとは呼べなくなるぞ)
  18. Limber Up: 柔軟体操しろ
  19. Break it Up: 喧嘩はやめたまえ
  20. It's a marathon, not a sprint, unless it's a sprint, then sprint: これはマラソンであって、短距離走ではないが、あくまで短距離走でない内であって、短距離走となったら全力で走れ
  21. Avoid Strip Clubs: ストリップクラブは避けろ
  22. When in doubt Know your way out: 怪しいなと思ったら出口を押さえろ
  23. Zipplock: ジップロック(を使え)
  24. Use your thumbs: 親指を使え
  25. Shoot First: 先に撃て
  26. A little sun screen never hurt anybody: 日除けは無害
  27. Incoming!: 来るぞ!(と伝えろ)
  28. Double-Knot your Shoes: 靴紐はダブルノットで
  29. The Buddy System: 二人一組で
  30. Pack your stain stick: シミ取り剤を梱包しておけ
  31. Check the back seat: 後部座席を確認しろ
  32. Enjoy the little things: 小さなことを楽しもう
  33. Swiss Army Knife: スイスーアーミーナイフ

2016年には、パート2があるそうですが、公式トレイラーらしきものは見当たりません。 楽しみですね。
以上、『FOX TV ゾンビ祭り』で録り溜めておいたのをダラダラと見たまとめでした。

以下、本格的なネタバレ注意!です。



























ゾンビ映画としては、安心して見ていられる内容です。私の感想は、走るし、学ぶし、ドアを開ける奴らだ!というものです。英語で表現すると、They run, they learn, and they open doors !! てな感じでしょうか。話の流れは、次のとおりです。

#1~#2~#3~#4~タイトル~#3~#1~#4~#2~漏らす
#7~出会う~#31~#18~スノーボール
追憶~406号室の女性~襲われる~ドアノブ開けられる(!)~#2
ドライブ~トゥインキー~両親に紹介したい女のコ~#22~(!)
#18~あんがとよ、貧乏白人め!~#31~#32~罠だ(!)
土産屋「KEMO SABE」~#17~香水か?~#32~ビル・マーレイ(!)~「ガーフィールド」(!!)
#2~#17~トゥインキーが(!)~#32

渡辺京二, (1985=2007). 『北一輝』(ちくま学芸文庫), 筑摩書房.

渡辺京二, (1985=2007). 『北一輝』(ちくま学芸文庫), 筑摩書房.

 本書は、北一輝の独特な文体を、正統的なマルクス主義理解に立ち、明快に読み解くものである。

 本書の白眉は、第5章「天皇制止揚の回廊」及び第6章「第二革命の論理」にある。渡辺氏は、正統的なマルクス主義の理解に立ち、北の『国体論及び純正社会主義』に対する通俗的な理解を一蹴する。北は、人間が共同的な存在であるという信念の下(第4章)、当時の天皇制を社会主義に至るまでの過渡期とみなし、当時の社会における明治天皇崇拝(=国体論)を立憲君主制に矮小化しようと試みた(第5章)。北は、当時の政治状況を、社会主義への移行が藩閥や地主階級によるブルジョアジーにより妨害されているものとして描き出した(第6章)。天皇制を社会主義革命の道具として扱うかのような北の構図は当局に見抜かれ、『国体論~』は発禁処分を受けた(第6章)。『国体論~』の視座は、辛亥革命の体験記としても読める『支那革命外史』や『国家改造原理大綱』にも共通するものである。ただ、『~大綱』は、天皇制との直接対決から転じて、天皇を社会主義革命の道具として扱うとした点で、『国体論~』とは異なる戦術を取る(第10章)。

 渡辺氏は、北がヘーゲルをどの程度知っていたのかを不明としながらも(p.122)、北がブルジョア市民社会におけるアトムとしての個人主義を否定し(p.166)、西郷隆盛の周囲に見られた日本コミューン主義を弁証的に導き出した(p.169)ことを評価する。また、渡辺氏は、北の思考の論理性(=手段)を土俗的ではあり得ないものとしつつも、その議論が西欧型市民社会を拒否して共同主義(信仰)に到達したこと(=結果)をもって、土俗的であったと看取する(p.175)。他方、渡辺氏は、北の理論の鋭さと、北の提示した社会主義革命の空想性について指摘し、その乖離が後年の企業ゴロのような生活の原因となったのではと仄めかしている(第10章以降)。

 本書は、北一輝の思考の断絶性と逆説性を浮き彫りにする。断絶性は、著作の内部においては、理論の鋭さと計画の拙さに、著作と現実との対比においては、著作の視野の広さと企業ゴロとしての生活倫理の低さに、見て取ることができる。逆説性は、社会主義に至るために天皇を利用するという主張にも読み取ることができるし、北の出自と才能とに係る記述にも窺うことができる。
 ところがいっぽう、社会主義とは彼(#北一輝)にとって、〈共同社会〉主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同コミューン社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもなく土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基層民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。(pp.175-176)
しかし、中世の偏局的社会主義と近代の偏局的個人主義との統合を目指した北の方法は、いろいろな留保を置きながらも、大局的には、国家=社会を個に優先させる全体主義的政治哲学の系統に属するものとなった(p.178)と、渡辺氏はいう。換言すれば、その理論から生じる落差を埋める試みに、北は失敗しているのである。その理由の一つめは、公民国家(ネイション・ステート)について、北がギリシア・ローマの戦士共同体的国家のように国民が生命を捧げる対象であると美化し過ぎたこと(pp.180-183)である。二つめは、北が明治国家を封建的観念から解放された自律的な人格と見なし、全体イコール個であるという国家理念を示したことである(pp.184-186)。渡辺氏は、「民族国家という視点を廃棄できぬかぎり、その命題はつねに国家至上主義的マヌーヴァーに終る。(p.188)」という。北の思想は、スターリンや毛沢東が辿った歴史と同一の成行きを辿った(p.188)のである。

 本書は、先の引用のようにパラグラフライティングされており、(私の文に比べると随分)読み易い。同時に、(私のように)猫も杓子もマルクス主義という時代よりも後に生まれた読者にとって、マルクス主義がどのように革命史観から脱却しつつあったのかを窺う上でも、本書は貴重である。革命には流血が伴うが、本書は、その命題に対するマルクス主義者の知性の到達点を示唆するものでもある。現在のわれわれは、郵便性という東浩紀氏が日本で広めた概念なども手に入れており、北の言説の数々に対して、また違った読みができるのではないかと思う。(#すでに偉い人がやってるはずだが、私は三歩で忘れる動物なので、メモなしに思い出せない。)




以下は、書評というより、要約である。

 北の思想は、生まれ故郷の佐渡島を感じさせない、論理で貫徹されたものであった(第1章)。北は、23歳にして『国体論及び純正社会主義』を著した。北は、わが国旧来の土着共同体や基層民社会に息づく市民社会への反発心を活用しながら、社会主義国家に到達するための道程を思索した。北の回答は、明治維新から立憲君主制としての天皇制へ、次に社会主義へという、二段革命であった(第5・6章)。しかし北は、普通選挙のほかに、その理想を実現する具体策を見出すことができず、国民が普通選挙を利益の授受関係としか理解しなかったことを読み誤った(第6章)。

 渡辺氏によると、昭和36年の日露開戦論に際して北が唱えた主戦論は、典型的な労働者階級の祖国防衛論である。北の論理は、科学的社会主義を無政府主義と区別するものは国家の存在であり、ロシアの帝国主義に対峙し、社会主義を実現するためには、主権国家である日本を防衛する必要がある、というものであった。この論理は、第一次世界大戦における第二インターナショナルの立場に先行するものであると、渡辺氏はいう(以上、p.72)。ただし同時に、「議会を通ずる社会主義革命」、革命遂行のための「機関と羅針盤」としての国家、という科学的社会主義の道具立ては、開戦論における北の思想の中心ではなく、むしろ民族国家主義が本質である、と渡辺氏は指摘する(pp.72-73)。乏しい領土と資源しか持たない国家は国際的プロレタリアートなのだという佐野・鍋山の転向上申書の論理は、北の以上の主張に先取りされているという(p.74)。
 『国民対皇室の歴史的観察』は、後年彼が『国体論及び純正社会主義』で展開した乱臣賊子論の原型である。彼は、「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を戴く、是れ国体の精華なり」という「国体論」が「妄想」にすぎぬことを、この論文で示そうとした。そのような妄想が「学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其の根源に於て腐敗毒しつゝある」からである。それはわが国の光栄ある歴史と、祖先の大いなる足跡を冒瀆するものであるばかりか、「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」をはずかしめるものなのである。いかにしてそれは打破しうるか。「わが皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざるを示」すことによって、打破しうる。こう前おきして彼は、蘇我氏より徳川氏に至るまで、日本国民は一貫した乱臣賊子にほかならなかったことを、赤裸々な筆致で素描するのである。(pp.61-62)

 『政界廓清策と普通選挙』でさらにわれわれの注意をひくのは、この青年が「満韓に膨脹せざるべからざる帝国の将来」という言葉を書きつけていることである。(...略...)ほぼふた月前に発表した『日本国の将来と日露開戦』において、満州・朝鮮・東南シベリアを「大陸に於ける足台」として領有することを主張していたのである。(...略...)むろんこれは内田良平の『露西亜論』あたりに示唆された着想であろう(...略...)。(pp.65-66)
 見るごとくこの青年は、すでに二十歳の時点においてかくのごとき対外膨脹論者であった。これは彼の終生変らざる本質のひとつであって、北の思想の骨格をごく表面的に要約すれば、天皇制打倒と大陸膨脹主義の特異な結合、すなわち天皇なき革命的大帝国主義と形容してさしつかえない。もちろんこの膨脹主義は、その道義的根拠を説明されねばならない。それはこの二十歳の若者の可憐な道心であった。九月十六日から二十二日にかけての佐渡紙で、彼はさらにおなじ論題で再論を行った。(p.66)
 彼が依拠したのは端的にいえば、帝国主義の相互性という論理である。これは一面では、白人種の先進帝国主義列強の包囲攻撃のなかで、平和政策で妥協をさぐろうとするのは、座して死を待つものだという論理である。眼には眼を、帝国主義には帝国主義をという次第であって、しかもこの帝国主義は、強者の帝国主義に抵抗する弱者の帝国主義であり、アジアの黄人種にとっては自衛権というべく、「上帝」もこれに対しては「寛大」たらざるを得ぬというのである。これはいわば危機の論理といってよく、「吾人は白人の奴隷として彼等を養はんが為めに生れたる者に非らず」という蘇峰の『日本之将来』の口移しに見るように、明治ナショナリストの基本的危機感の系譜に属する何の変哲もない論理である。(pp.66-67)
だがそれは一面では、「吾人は不幸にして帝国主義の罪悪の時代に生る」という居直りの論理でもある。英国がボーアにほどこし、米国がキューバにほどこしたところを、日本が満州にほどこして何がわるいか、日本ばかりが悪者と指弾されねばならぬ理由はないというのであって、これはのちに昭和前期の日本帝国の外交担当者が、内心かたく持したばかりでなく、たびたび外に対しても表明した論理であった。そしてこの領土再分割の論理は、世界史を民族の生存権の闘争と解する北の民族興亡史観的解釈のストレートな産物でもあった。(p.67)
 ただこのシニックなリアリズムに立ちつつ、この二十歳の青年は(...略...)自分の説くところを「侵略」と自認しつつ、その悪を通じて結局は善をもたらしたいという可憐なのぞみをかくすことができなかった。(p.67)
『国体論及び純正社会主義』は、受容までに20年の歳月を要したが、同書で示された天皇制との闘争路線は、「自殺と暗殺」『革命評論』明治39年11月10日号によって、天皇制を「革命の側に盗み」取るものに変更された。度重なる著書の発禁と革命評論社を中心とした「十三年の経験は、彼にろくでもないものを、より多くつけ加えた」(第7章)。

 中国への渡航後、北は、大隈重信に入説するため『支那革命外史』を執筆し、日本と中国が革命帝国として共存するためのプランを提示した(第9章)。日本は、英国をアジアから駆逐し、香港・シンガポール・豪州・ニュージーランド・英領太平洋諸島を奪取する。インドは独立させる。中国は、ロシアと戦争し、内外蒙古を確保する。日本は、ロシアからバイカル以東のシベリア沿岸諸州を奪う。満州は日本が保持する(p.289)。同書は、辛亥革命の証言としての意義を有するとともに、北の予測の鋭さと計画の空想性との乖離を示す資料としての価値を併せ持つ。大正5年には法華経を受容している(第9章)。

 中国再渡航後、帰国前に『国家改造原理大綱』を執筆した(第10章)。同書は、『国体論及び純正社会主義』の具体化に向けての法律論を含み、『支那革命外史』に示された対外膨脹主義の綱領でもあった。天皇制ファシストの理論上の手本となる「擬ファシスト」と見なされながら、大資本廃絶の指向性が極端に過ぎること、天皇を社会主義革命の道具として利用する天皇観が行間に読み取れることの二点により、北は、『大綱』の責めを負い、やがて刑死することになる(第10章)。北は、帰国後、皇太子に法華経を献上(p.328)し、大川周明と仲違いし(pp.333-335)、手下の浪人を養うために恐喝事件の糸を陰で引いたり企業から金をせびったりした(pp.335-344)。



 最近、私自身は微妙に近代史づいているが、それには理由がある。満鉄=現今の日本出身の財閥、(大陸)浪人=ネトウヨ、といった図式は、ほかの要素や成員が大きく異なるとはいえ、現今のわが国における不穏な空気の理由を、それなりに十分に説明できるように思うからである。近年、わが国の大財閥は、四割程度の株式を国際金融勢力に取得されているが、私の理解によれば、当時の財閥の行動様式は、最近のものとさほど変わりない程度に国際化されたものである。

 鬼塚英昭(2013)の書評(リンク)では、北一輝の理解を通俗的なものに基づき記したが、この点を補足しておきたい。第一点、本書ほどに北一輝の著書を読み込んでませんでした。アホですんません。第二点、それでも、安保運動当時の大衆がどう受け止めたかが重要であり、本書の底本が1985年なので、結果としては、当時の大衆は、おそらく、私のような通俗的な読みをしていたと考えた方が妥当だろう。横断歩道を皆で渡った感がある。

 陰謀論は、玉石混淆であり、整理されなければ、私の頭では追い切れない。その作業を通じて北一輝についても私自身の考え方を明示することは、日本の行く末まで含めて的確な予測を行う上で必要不可欠な作業であるが、現在の時点では、その材料に不足しているし、(アホな話まで含めて個別の命題を逐一検証していく上で必要な)才能も不足しているかもしれないと感じ始めている。ペースを上げるとしても、あと2倍速くらいまでだし、それだけ頑張っても追いつかないかもしれない。

 平成27年11月8日追記

文意を変えない程度に一部の文言を修正した。

平成28年10月17日修正

あからさまに間違いに読める部分を修正し淡赤色で示した。

2015年10月28日水曜日

木村盛世, (2012). 『厚労省が国民を危険にさらす 放射能汚染を広げた罪と責任』, ダイヤモンド社.

木村盛世, (2012). 『厚労省が国民を危険にさらす 放射能汚染を広げた罪と責任』, ダイヤモンド社.

 福島第一原発事故後の厚生労働省所管の食品安全行政を巡る混乱を、必要かつ十分に、また平易に説明した良著である。本分野の初心者なら目を通しておいて損はないし、ある程度原発事故の影響を分かったつもりになっている者も、知識をおさらいするために便利。図書館で借りるということが前提であれば、一読して損はない。全体としては、評価は★★★★☆、星4つ。

 本書の欠点は、危機管理についての理解の枠組(以下で引用する。)こそ痛快(?)だが、「公衆衛生専攻の大学院の設置」、「国際的に認められた標準的手法の採用」、「マイナンバーの活用」、「公衆衛生専門家の招聘」、「医療技官改革」という提言が上滑りしているように見えることである。ここで指摘される標準的手法とは、追跡研究(longitudinal study, あるいは前向き研究, prospective study)の実施であり、それを支えるプロコトルの策定、仕組みの実装である。犯罪予防分野において、ほぼ同じ問題意識を有する私にとって、これらの提言は、省庁横断的な課題を浮き彫りにするものであり、非常に興味深いものである。

 星1つ減じる理由に、マイナンバーへの安易な言及がある。マイナンバーは、転居者や改名者の把握に役立つであろうが、それでも、調査にそのままマイナンバーを転用させるわけにはいかない。マイナンバーを転用する方がシステム設計上も運用上も簡単であるが、紐付けされる個人情報の秘匿すべき性質をふまえれば、そうはいかないはずである。マイナンバーとの紐付けは便利であろうが、技術上の課題を解決する必要があるという留保についての言及が見られない以上、これは先走り過ぎた提言であると認めざるを得ない。(#神は細部に宿るので、私も不勉強がバレないうちに、筆を止めることとしよう。)

 以下は、要約と引用。



官僚と学識経験者の関係

 食品安全委員会に限らず、審議会は、官僚が専門家や学識経験者の意見を押し立てて自分たちの意見を正当化する場である(p.88)、官僚たちが自分たちの意見を述べないのは、発言に対して責任を取りたくないためである(p.89)、複数の省庁が関わる委員会では、省益が優先され、決定に時間を要したり、統一が図れなかったりする(pp.91-92)、と指摘している。

疫学におけるランダム化比較試験(RCT)

 主催者の意図が漏れ、研究上の不正が行われることがある(pp.137-139)が、倫理的問題などを監視するIRB(Institutional Review Board)や試験実施方法を監督するRCTセンターなども欠如している。

危機管理の欠如
 これらの「危機」に対して、政府がどのように対応してきたか、あるいは、対応しているかを考えると、なにも原発事故に限ったことではなく、今まで起きた事象について同じことを繰り返しているように見えます。そして、日本政府の行動パターンには、ある意味、ぶれない芯の通った普遍的な真理が存在するように思うのです(念のため申し上げますが、決してほめているわけではありません)。
 具体的にその枠組みを書けば、わが国の危機管理の基本形は、①危機が何だかわからない(危機認知能力の著しい欠如)、②有事の対応は水際作戦と特攻隊(軍事的に無効)、③うまくいかないときは、カミカゼを待つ(かつて吹いたといわれている)の3つに集約されるといえましょう。(pp.142-143)

須原一秀, (2008). 『自死という生き方』, 双葉社.

須原一秀, (2008). 『自死という生き方』, 双葉社.

 人の不幸に係る事象を研究する者は、須原氏の著書にどのような誤りが含まれるのかを考察するために、一度は読んでみて損はない。ただし、その内容自体は★☆☆☆☆、星1つであり、私自身は、本書が一般に広く読まれるようにはしたくない。先行文献に対する重大な誤解を含んでおり、著者が本書を脱稿後に自殺したという文脈(コンテクスト)をふまえると、悪影響を後世に与える可能性が高いと認められるためである。

 本記事の時点で29名がアマゾンにレビューを寄せており、幾名かの評者が低評価を付けている中、私が最初に抱いた感想の大部を、estei氏の2008年3月1日のレビューが先取りしているので、それを引用したい。著者の須原氏や遺族に対する思いやりのあふれた好レビューである。このレビューには、星5つを差し上げたい。
 人生のポジティヴな側面のみを価値ありと認める人生観、先人による死の理由についての自らの思い込みによる断定、そして自死を実行することにより他者からの問いかけや反問を絶対的に封じたことなど、失礼ながら私には著者が「哲学者」の名に値するとは思えなかった。
 「命」というものは果たして「私」の「所有物」なのだろうか(略)。また、自らの理性をもって自死を選択する、そして出版によってそれを称揚するということは、著者と同様に「命」や「老い」、それに伴う「障害」をもつ他者のそれをも否定したことはならないのだろうか。(略)そんなことは知ったことではない、というのであれば、それはそれで一つの意見として、理解は出来る。しかし「哲学」としてはどうだろうか。
 哲学を標榜するのであれば、いささか軽率な知的態度ではないのか、という感想を持つ。(略)
 著者は、現代における自然たりえない死への状況を告発しながらも、現実の行為としては他者を震撼させるに足る不自然な死の形を提示したことになると、私は思う。このことについて、著者には答える義務があると思う。しかしその人は、すでにこの世にはいないのである。
以下に、私の感想のうち、estei氏のレビューに明記されなかった部分を示すが、その感想を要約すれば、(1)たとえ「新葉隠」主義に立とうとも、それを含めた人倫全般は、須原氏のような死に様は肯定しない、(2)西欧における死生観を見下しており「パリサイ的偽善」という批判は(哲学者の)須原氏にこそ該当する、というものである。この二点は、以下で論証の手続きに乗せるものではないが、私の駄文にこれ以上付き合えないと思う読者のために用意したものである。(無料のブログだし、そこら辺は勘弁して欲しい。)

 (少なくとも私が高校生時代に学んだプロテスタント系の)キリスト教は、辛く苦しい時にこそ、その人の行いの中に、その人の信仰の強さが発揮されると考える。この考え方は、遠藤周作氏の『沈黙』(1966)を通じて、日本という環境下のキリスト教信者に広く共有されたものであるように思う。モーリス・パンゲ氏も、自殺を論じる著書の中で「その人間の内なる信念が現われるのは、(...略...)彼が為す行為においてなのである。(p.13)」と述べている。ネタバレになるのであまり書きたくないが、『沈黙』という題名は、肉体と精神が十全でないとき、神の応答の不在に対して、キリスト者は十分に信仰を保ち得るのか、という命題を想起させるものである。

 須原氏がパンゲ氏の文章(パンゲ, 旧版, p.12)を引用して主張したいこと(須原, p.153)は、私の理解では、西欧人がキリスト教によって自死を禁止された状態に安んじるあまり、自死を許容する日本社会を卑下しているという「パリサイ的偽善」に対する反発であるが、少なくともパンゲ氏自身は、1986年当時の西欧の哲学界や宗教界に「パリサイ的偽善」が蔓延しているとは認識していない(パンゲ, p.18)。自死を禁止するキリスト教の要請を奇貨として、自死を許容するキリスト教以外の論理を真摯に検討しない姿勢を、パンゲ氏は「パリサイ的偽善」と呼んでいる(パンゲ, pp.8-9)。しかし、先に遠藤氏の『沈黙』に触れて説明したような、キリスト教徒として善く生きようとする一般人の姿勢は、「パリサイ的偽善」に毒された宣教師や哲学者たちの考察に対するパンゲ氏の批判(パンゲ, pp.11-12)とは、別個のものとして捉える必要がある。踏み込んで言えば、須原氏は、パンゲ氏の要約した過去の西洋人の主張を、現在にも通用するものであるかのように早とちりしたのである。

モーリス・パンゲ[著], 竹内信夫[訳], (1986=2011). 『自死の日本史』(講談社学術文庫), 講談社.

 パリサイ人が体裁を整えることのみに熱心で戒律の理念を守らない、とイエス・キリストが批判したことは、(キリスト教に基づく)西洋哲学の基礎的な道具的概念である。ルカ書の「パリサイ人の祈り」と「徴税人の祈り」との対比は、カソリックとプロテスタントの別を問わず、祈りの本質を示すための説教の題材としてしばしば取り上げられる。他方、キリスト教における自死のタブー化は、聖書を根本に置くプロテスタントにとっては、キリストを売り渡したイスカリオテのユダの故事をふまえれば当然のことであり、また、カソリックでも、聖アウグスティヌスの『神の国』の指摘に基づき確立されたものとなっている。もっとも、聖アウグスティヌスによる見解が示される以前は、迫害期においては殉教者と自死との整合性が、国教化後においてはローマ帝国軍の10分の1刑と自死との整合性が、それぞれ問題となったという※1

※1 この文に係る事実は、ネット情報の中でも執筆時点で正確な出典を確定できていないものなので、その程度の扱いをお願いしたい。

 ところで、わが国における自死の伝統がパンゲ氏の指摘のほどには常に崇高なものではないという点も、須原氏の読み間違いを増幅している。パンゲ氏の主張は、わが国における自死に対する思考を美化し過ぎたものである。バブル崩壊後の現代日本社会における自死は、部分的には、金と命を交換可能とみる社会通念に根差しており、自殺に対しても死亡保険金が条件付きで支払われるというシステムを悪用した部分が認められる。当事者以外の自殺に対する無関心は、バブル崩壊時も、自殺対策基本法制定以後の現在も、依然として根強いものがある。

閑話休題。

 ちなみに、須原氏が河合幹男(2005)『安全神話崩壊のパラドックス』のみを引用して犯罪情勢が悪化しておらず(p.178)、自殺を決意した者が殺意を周囲に向けないと論じたりする辺りも、筆者の疳に触るところである。河合氏の作業を否定する気はないが、同書の記述統計だけを参照して犯罪情勢を論じた気分になるのは、読者が学者であるのであれば、怠慢な行為であるというのが、私の意見である。この批判は、私自身の研究の原動力の一部を構成している。応答可能性のない応酬が続く犯罪学界隈に、止揚の余地はあるのか、という疑問が、わが国の計量犯罪学に係る私の問題意識をなしている。しかし、「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」。また、わが国における自殺論を読み込んでいれば、殺意が自身に向けられるという(通俗的かもしれないが)指摘を多くの書籍に見出すことができ、その点を説明するという、哲学者ならではの仕事がわが国では放置されたままとなっていることを容易に発見できたであろう。

 こうした不備を多々露呈しながら、巻末に「二、三ヶ月推敲のための時間が欲しかった(p.264)」と記す辺りも不用意な行為である。失敗できない一度限りの実験にあたっては、理系の研究者は、十分すぎるくらい事前準備を進めるのが常態である。論理を基本的な道具とする哲学者であるならば、自死の後には、estei氏が上掲引用で指摘するように、答えたくとも答えられないという状態に陥ることは、百も承知のはずである。しかし現実には、自身が勝手に設定した期限が来たときに、明らかに準備不足のまま、須原氏は自殺している。想定問答の準備が不十分であるがゆえに実験としては不十分であるとの評価を受けたときの答えを本書内に用意せずに、須原氏は応答できない世界に旅立ってしまっている。その不備が致命的であるがゆえに、須原氏の(社会的)実験は、実験としては失敗したと評さざるを得ない。少なくとも、あと5年、3千冊ほど、関連研究を読み込めば、私にも読み応えがあると感じられる内容に仕上がったかもしれない。準備不足が低品質に帰結したという点だけでも、本書は批判を甘受すべきである(し、甘受するほかない)。ほかの評者が指摘するように、須原氏は、自分が健康を実感できるうちに遁走した(とまでは、ほかの評者は表現していないが)と考えるのが適切であろう。

 須原氏の実験の失敗を決定付けたもう一つの要因は、大学教授という職が相当多量の社会的資源を他者から分配されて成立している職業であるという自覚を決定的に欠く点である。「命」は自分一人のものか、と問うたestei氏の疑問は、このような須原氏に対する批判によって、部分的に回答できる。(つまり、estei氏もそのような反語的表現を用いていることから、私より一歩先に同様の答えに到達しているのだが、須原氏は、自分が社会に生かされてきた存在であるという点について、真面目に考えていなかったのではないか、と憶測することができるのである。)哲学者を自称して古今東西の哲学を修めた者は、哲学の素人の私が不惑を前にして気付いている以上、この自覚に思いを致さない訳があるまい。しかも、肉体的能力の衰えに比べれば、大学教授である人物が培った知的能力は、(須原氏が自殺した)65歳以降であっても、健康に過ごす努力を重ねれば(、この努力は、諸方面に残酷であるが、自死を健康で明晰な意識を持っている内に選択した須原氏であれば、当然なすべきであるし、なし得たはずの努力であるが)、少なくとも私が先に指摘した5年間程度のうちであれば、その衰えが緩やかであったはずである。大学教授たる者の知性という存在は、すでに一個人の所有物とは言えない程度に社会的資源を投入された「資源」であるはずであり、その能力は、社会に適切な形で還元すべきであった。少なくとも、その能力を、自身の大切な研究をより多くの人物に論理的に理解してもらうために投入すべきであった。このような理解に立ったとき、「新葉隠」と勿体付けた物言いの下に、元?当時の?(いずれでにせよ私の論点からすれば、重要ではない。)大学教授が自殺するという行為は、社会的資源の浪費以外の何物でもない。自殺を後押しするような理解を見せた「友人」が大学教員であったなら、その「友人」も、社会防衛的な見地に立てば、十分な犯罪に手を染めている。この行為が現実にどのような犯罪を構成するのかはともかく、道義的には、背任罪である。

 『葉隠』は、社会防衛主義の書でもあると解釈することが可能である。社会防衛主義を是とする社会において、権力を有する個人の心構えを説く書籍であると考えても良い。この理解が正しいとすれば、独りよがりで稚拙な実験を試み、社会的資源を無駄にしたという大罪を犯した馬鹿者は、『葉隠』の執筆された江戸時代であれば、庶民なら市中引回しの上、磔獄門が相当である。武士はそのような辱めに遭わなかったとしても、武士階級にそぐわない愚行を犯しているわけであるから、お家断絶が相当である。

 以上が、本書を読み終えたとき(平成27年10月25日)までに思いつくことのできた批判である。私個人としては、本書が研究であるというのであれば、さしたる自殺の理由もないときに、自殺した当主がいた武家の動向を調べることができれば、それだけで十分に本書を超える研究になると思う。本書に五つ星を与えてしまう者が『葉隠』を同時に絶賛しているというわが国の思考水準は、わが国の哲学者の能力水準と読者の多くの水準を反映するものであり、わが国にまもなく終焉をもたらすだろう。

 しかしながら、最後に書き終えようとしたとき、これほどまで、哲学者に似つかわしくない書籍をあえて後世に問う形を取ることにより、須原氏は、もしかしたら、逆説的に、自死なんてするものではない、と言外に主張しているのかもしれない、などとも考えてしまった。肝心かなめの答えが返ってこない、というところも、遠藤氏の『沈黙』を反復しているのかも知れない、などと考え始めると、切りがなくなるのだった。

最後に

さんざんゴミのような書評を書き散らしてしまいましたが、それでも、私は、この書評の責めを負えと言われても、自殺なんかしませんぜ。詰腹を切らされるということも、札付きですからありやせんぜ。

 げへへ。

JR東日本連続不審火容疑者起訴について(メモ、感想文)

今朝(平成27年10月28日)読売新聞朝刊社会面(東京13版 37ページ)に、「JR連続不審火 野田容疑者起訴」の記事がある。新聞記事の常であるが、それなりに気をつけて見ていないと、見逃してしまう扱いである。一ヶ月ほどすると公判のよう(参考リンク)であるから、気を付けてみる必要がありそうだ。官報に公告する内容ではないので、フィードなどで確認する必要がある。

東京地検は27日、自称ミュージシャン野田容疑者(43)を器物損壊と威力業務尾妨害の罪で東京地裁に起訴した。
 念のため見てみたところ、今日は、官邸ドローン事件の第n回(n>1、おそらく3)公判のようだ。


傍聴券交付情報(東京地方裁判所)
http://www.courts.go.jp/app/botyokoufu_jp/list?id=15
裁判所名東京地方裁判所  刑事第10部
日時・場所平成27年10月28日 午後1時0分 東京地方裁判所1番交付所
事件名威力業務妨害,火薬類取締法違反 平成27年刑(わ)第1109号等
備考<抽選>当日午後1時00分までに指定場所に来られた方を対象に抽選します。開廷時間は午後1時30分です。

 私にとって、両事件とも、リアルタイムで見ていなければならない必然性はない。が、偶然は一種の必然でもある。司法を「ベルトコンベア」と最初に呼び習わした方はどなたか存じ上げないが、リアルタイムで見ていなければ、担当者以外が見逃してしまう辺り、秀逸な喩えだと思う。初公判では、被告は起訴事実を否認したようであるが、抽選だとはいえ、傍聴者も少ないだろう。世の中の裁判傍聴ブームも一段落したようだし、のそっと見に行くかな?という気になった。

【官邸ドローン事件】被告が初公判で無罪主張 「落下を確認していない」 東京地裁 - 産経ニュース
http://www.sankei.com/affairs/news/150813/afr1508130016-n1.html

2015年10月27日火曜日

施工不良問題と「逸脱の常態化」

 ダイアン・ボーンは、NASAチャレンジャー事故の調査を通じて、Oリングの工業基準違反状態が9年間継続したという状況を発見し、この状態を「逸脱の常態化(normalization of deviance)」と呼んだ(Vaughan, 1996; 松本三和夫, 2012)。あるべき状態から違反した状態にあることが専門的小集団の全員に共有されつつも、全員がその状態を黙認する状態である。規範の逸脱状態が相互作用の中で学習、共有されていく過程は、犯罪社会学の興味のど真ん中でもあり、エドウィン・サザーランドの分化的接触理論(Sutherland, 1974※2を初期の金字塔として挙げることができる。瀬川晃によると、分化的接触理論の基本コンセプトは、松本良夫※1の言を借りると「朱に交われば赤くなる」である(瀬川, 1998, p.93)という。

※1 松本良夫, (1971). 「犯罪の習慣とは」, 『更生保護』, 26号外1号, pp.115-.
※2 瀬川晃, (1998). 『犯罪学』, 成文堂.

 今朝(平成27年10月27日)の『めざましテレビ』(7時ころ)のインタビューは、施工不良問題の背景に「逸脱の常態化」が存在していることを窺わせるものであった。横浜市の大型マンションでの施工不良問題に関連して、旭化成建材のくい打ち施工業務に長く関与した男性がインタビューに応じている。男性は、元請けも下請けも、くい打ちが少々失敗したとしても、その状態を黙認していたと話した。下請けとしては、工期が余分にかかろうと、元請けが補填しない以上は、工費を圧迫するような再調査や再施工などしない、というのである。

2015年10月27日10時追記

「「旭化成建材」発注の元現場責任者「設計段階で問題あった」10/26 11:59
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00306663.html

「旭化成建材のもとで、くい打ちに携わったことのある元現場責任者」 がインタビュイー(インタビューを受けた者)で、「(不正は)わたし自身もやっておりますし、何十人も同じことをやるのは当たり前ですね」と言う。