2017年10月19日木曜日

(メモ)9.11に係るWTC7の崩落について

NIST(アメリカ国立標準技術研究所)の2008年11月報告書は、火災により引き起こされた損傷が床の局所的な不具合を引き起こし、この不具合が9階に渡る重量を支持していた79番の柱を(、5.5インチ以上の変位により)座屈させるという連鎖を生じさせ、この座屈によりWTC7全棟が崩壊した[1]と述べている。なお、同報告書については、軸受の幅が12インチであったことを受けて、2009年1月には、6.25インチ以上の変形があったと訂正されている[2]。これに対して、2017年9月、アラスカ・フェアバンクス大学のリロイ・ハルゼイ氏らは、構造計算の結果、79番の柱の変位は2インチ未満であり、火災による79番の柱の座屈は生じなかったことを報告している[3]。プレゼン書類は、PDF形式で、同大学のサイトで公開されている[4]。本件は、ポール・クレイグ・ロバーツ氏のブログ記事[5]の和訳サイトの記事[6]を端緒に知ったことである(。念のため、本稿の執筆にあたり、両者ともに確認している)。


[1] Structural Fire Response and Probable Collapse Sequence of World Trade Center Building 7, Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center Disaster (NIST NCSTAR 1-9) VOLUMES 1 and 2
(Therese P. McAllister、2008年11月20日)
https://www.nist.gov/publications/structural-fire-response-and-probable-collapse-sequence-world-trade-center-building-7?pub_id=861611
#直リンクは、http://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=861611

〔p.617, 14.2. Summary〕The probable collapse sequence that caused the global collapse of WTC 7 was initiated by the buckling of Column 79, which was unsupported over nine stories, after local fire-induced damage led to a cascade of floor failures.

[2] Errata for NIST NCSTAR 1A, NIST NCSTAR 1-9, and NIST NCSTAR 1-9A, Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center Disaster: Structural Fire Response and Probable Collapse Sequence of World Trade Center Building 7 | NIST
(Therese P. McAllister、2009年1月30日)
https://www.nist.gov/publications/errata-nist-ncstar-1a-nist-ncstar-1-9-and-nist-ncstar-1-9a-federal-building-and-fire?pub_id=901225

[3] Collapse of World Trade Center Building 7 1
(Dr. J. Leroy Hulsey)
http://www.kaltura.com/index.php/extwidget/preview/partner_id/1909371/uiconf_id/36832722/entry_id/0_rxmrybkv

[4] A Structural Reevaluation of the Collapse of World Trade Center 7
(Dr. J. Leroy Hulsey, Dr. Feng Xiao, and Zhili Quan. 2017年9月)
ine.uaf.edu/media/92216/wtc7-structural-reevaluation_progress-report_2017-9-7.pdf

[5] 16th Anniversary of 9/11 Brings New Development - PaulCraigRoberts.org
(Paul Craig Roberts、2017年9月11日)
https://www.paulcraigroberts.org/2017/09/11/16th-anniversary-911-brings-new-development/

[6] 9/11・16周年で新たな進展: マスコミに載らない海外記事
(2017年9月13日)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/91116-b568.html




この一方で、矢田部俊介氏の以下のツイート[7]は、「「911において陰謀が行われた」とする言説の中に、かなり多岐に渡る内容が含まれる」という事実を捨象して、吉田夏彦氏の品位が低下するであろうと論じる点で、随分と入り組んだものである。先述したNIST報告に対しては、前掲した最新の疑問点以外にも、数々の疑問が寄せられており、中には、合理的と認められるものも存在する。矢田部氏は、それらの疑問の逐一を確認し、すべてを陰謀論であると判断した上で、ツイートを発出したのであろうか。矢田部氏は、「お互いに」という表現を用いて、自身の品位よりも吉田氏の品位の方が相対的に貶められるであろうという見込みを示している(と解釈できる)ものの、実際のところ、この賭は、矢田部氏にとって不利なものである(。念のため、私自身も、同様の賭に参加している)。私のような気楽な身分から見れば、学識経験者の「品位」の「総計」を低下させないという目的に照らせば、公的な身分のある矢田部氏は、本件について沈黙を保つことが最善手であったように思われる。わが国において「陰謀論」を語る上で、身分に伴う社会関係という障害を乗り越える必要があるという点は、不正選挙に係る拙稿(2016年9月7日)に示した通りである。矢田部氏は、学識経験者に対する社会の信頼というリソースを総体的に浪費した存在として(、少なくとも、本ブログが維持される限りは)、記録されることになろう。


[7] (矢田部俊介、2017年10月2日)




9.11に係る「陰謀論」の多様性については、木村愛二氏が紹介[8]するニック・リーヴァイス(Nick Levis)氏の『あなたの「HOP」レベルはどれくらい?』[9]が参考になろう。合理的な疑いまでを「陰謀論」として片付けてしまう人には、気が付かないのであろうが、「陰謀論」の程度は、木村氏の整理に基づくと、以下のように四段階に分類できる。原文では、第三者の関与の可能性についても列挙されているが、これらが省略されることについては、まあ、分かりやすさという点からすれば、許容されることであろう。

  1. 公式見解:Ari Fleischer氏の主張通り、「警告はまったくなかった」とする説。
  2. 無能説(imcompetence):Reno Wall氏のような説。ホワイトハウスやFBIやCIAやNSAなどは、警告を注意深く検討しなかった。
  3. LIHOP:計画に気付いていて抑止しなかった。「Letting It Happen On Purpose」の略。木村氏の説明によれば、「やらせ説」。
  4. MIHOP:「確信的犯行説」。「Making It Happen On Purpose」の略。諜報関係者と軍の「超政府的な同盟」。

9.11に係る陰謀説を整理する考察として、ほかには、『OilEmpire.Us』が挙げられる[10]。この考察は、リーヴァイス氏の議論を参照し、LIHOPとMIHOPの混合により、9.11が最も良く説明できるとしている。ただ、2017年現在の私から見れば、「imcompetence」の下部にある「9/11 is the excuse ...」、つまり、『華氏911』の世界観は、依然として有効であるように見える。この世界観は、ブッシュ一族が彼らに近しい利益サークルに対して利益を供与することを目的として、LIHOPかMIHOPかが企図された、というものである。「ショック・ドクトリン」というナオミ・クライン氏の造語は、この構図を経済的観点から説明する概念である。

吉田氏のどの発言について矢田部氏が「陰謀論」と評したのかは、出典がツイートラインに示されないので、調査手段がパンピーレベルで、広報手段を自粛している私には、格段の努力を払うか、矢田部氏に問合せしなければ※1、確認のしようがない。『NDL-OPAC』の記事検索で、吉田氏が著者の記事のうち、2001年以降に、9.11に言及していそうなものが見当たらないので、『CiNii』でも引っかからないであろうと予想して、一般人としての努力義務は果たしたと記しておくことにしよう。論理学を京都大学で講義しているという矢田部氏の「一刀両断」な姿勢に比べれば、本稿で紹介した「陰謀説」を否定しない見解の方が、よほど論理的に思えてしまうから、これで、十分にフェアだと思うことにしよう。こう結論付けたのは、私の思考の箍が、どこか、決定的に外れてしまっているからであろう。「理系」の人物だけ[11]に「教養」が備わっていない訳ではないという状態は、わが国における京都大学という組織の地位まで考慮すれば、日本国民全体にとって、救いのない話である。


※1 問合せ(しながら、同時に、私の側から媒体を超えて広告活動に従事)するという行為は、最近の私事に照らせば、ルール破りが仕掛けられたものと判定できるために、私の中では、選択肢の一つとして可能なものとなってはいる。


[8] 木村愛二, (2006.12). 『9・11/イラク戦争コード:アメリカ政府の情報操作と謀略を解読する』, 東京: 社会評論社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000008396023

[9] WHAT IS YOUR HOP LEVEL? Ten 9/11 Paradigms
(Nicholas Levis、2004年4月1日、改訂2006年5月)
https://web.archive.org/web/20110112030040/http://summeroftruth.org/lihopmihopnohop.html
#2017年10月18日時点でリンク切れのために、『Internet Archive Wayback Machine』によった。

[10] LIHOP, MIHOP and Hijacking the Hijackers
(2017年7月26日)
http://www.oilempire.us/lihop-mihop.html




2017年11月3日訂正

誤記を訂正した(。余分な文字を削除した)。

2017年10月12日木曜日

(メモ)コンピュータゲーム内における凶悪犯罪の規制は不可解なまでにバランスを欠く

注意

本稿は、犯罪学の見地からコンピュータゲームについて若干のメモを記すものであるが、「ゲームにおける18禁ネタの扱われ方」を取扱うものであるから、念のため、注意されたい。必要な限りにおいて細かい説明を加えるが、本稿の論旨に必要な限りにおいてである。Bloggerでの規約違反にはかからない内容とは考えられる。でなければ、たとえば、男女が一晩をともに過ごすシーンや、殺人事件を含む映画や書籍に言及するブログは、すべて、規約違反となってしまう。


本題

「コンピュータゲーム内においてプレイヤーが実行可能な犯罪」について、私は、三点の疑問を放置したままにいる。第一は、なぜ、R18指定(わが国ではCERO-Z)となるゲームにおいて、プレイヤーに許されている凶悪犯罪の種類から、端からエッチなことが分かっているゲームを除けば、強制性交等罪(本稿では、3ヶ月経過しても、『e-Gov法令検索』で条文を参照できる状態ではないので、強姦と表記しておく)が除外されているのか、というものである。第二に、なぜ、ゲーム内の窃盗は、殺人や強盗よりも多大なリソースを必要とするようになっているのか、というものである。第三は、これらのゲームにおける悪の種類は、果たして、現実社会へのフィードバックを真剣に考察した上で、許容・除外されているのであろうか、というものである。学術研究者としては生ける屍である私には、これらの疑問を効率的に解くだけのリソースが存在しないので、もしかしたら解答が与えられているかも知れないことまでを知らずに、とりあえず、これらの疑問を並べてみた次第である。

まず最初に、コンピュータゲームというグローバルな競争が実現している産業において、洋の東西を問わず、許される「悪」のジャンルが棲み分けられていることに、注意を払うべきである。前述の疑問のうち、最初の二点は、この一般化された状態から生じた具体的な疑問ということになる。エッチなゲーム(ブヒゲーなどとも形容され、英語ではHentaiと表現されることまである)には、すべての凶悪犯罪を実行できうるものが含まれるが、この一方で、暴力を前面に押し出すコンシューマゲームでは、わが国の凶悪犯にいう殺人・強盗・放火が可能であっても、強姦が可能となっていない場合が基本路線である。エッチなゲームの業界と、そうでないゲームの業界は、奇妙なほどにコードが並行的に推移しているのである。

コンシューマゲームである『Witcher』シリーズは、おおむね健全な性交渉のシーンを含むが、性犯罪以外の犯罪を描写するシーンを大量に含むRPG(ロール・プレイング・ゲーム)である。このシリーズの主人公は、ゲラルド・オブ・リヴィアという「Witcher(魔法を使う剣士で、超自然的な怪物を狩るハンター)」であり、生物学的には、元・男性と見做せよう(。ここら辺は、ゲームのネタバレになるので、ぼやかしておきたい)。彼は、基本的に紳士キャラという設定ではあるが、プレイヤーの選択次第で、プレイボーイにも一途なキャラにもなれる。『Witcher』シリーズで主人公が口説ける相手は、基本的には、魔女という設定であり、無理矢理になどと考えることが難しいほど、強力な魔術を操る存在である。これらの複合的な理由によって、このシリーズにおいては、両者の合意から「大人の時間」が始まる。社会的通念に照らして、『Witcher』シリーズにおける性交渉のシーンは、何ら問題のない内容であると判定できる。

ところが、『Witcher』シリーズの「売り」のもう一つは、ド派手で残虐な殺陣回りである。ゲラルドが斬り殺す相手は、獣や超自然的存在だけではなく、当然、盗賊・海賊や悪徳役人・背徳の騎士といった、多彩で大量の人間どもが含まれる。その残酷さと多彩さは、ひと頃の東映の時代劇映画を、いとも簡単に凌駕するものである。たとえば、斬首で決着を付けるシーンは、複数が用意されている。なお、「フィニッシュ技」の多彩さと言えば、対戦・協力ゲーム版の『13日の金曜日』も想起される。これらは、いずれも、止めを刺すシーンを堪能するという目的を、セールスポイントとしているものと解される。

コンシューマゲームにおける性犯罪に対する忌避と過剰なまでの暴力は、一体なぜ、どのように、並存する状態に至ったのであろうか。私は、このアンバランスさを、むしろ不健全の現れと見てしまう。この状態そのものは、とんと理解できないものであるが、それでも、この原因については、二つの仮説を思いつくことはできる。一つの仮説は、性犯罪が表現上の取引材料とされたというものである。もう一つは、戦争経済に円滑に協力可能な子どもたちを育成するためというものである。

この状態が実現する上では、真の意味での消費者、つまり、ゲーマー自身の視点に立脚した上での検討・理解・提言が、相対的に欠如してきたことは、間違いなかろう(。決して、全く存在しなかったとは、主張してはいない)。実際、「誰得?」と思われる事例として、『Left 4 Dead』のパッケージの修正(指の欠損を訂正)や、『Fallout 3』における特定シナリオの欠如を挙げることができよう。これらは、誰が問題視する種類の話題なの?という話である。とりわけ、前者については、大いに疑問が残る。ゾンビゲームは、ゾンビ(=病人)の頭を吹っ飛ばすのが目的なのに?という具合である。なお、2016年現在でも、同シリーズは、日本国内ではまったり系協力プレイが可能な良作であった(。最近は、さすがに自重しているので、いかなる状況にあるのかは、分かりかねる)。つまり、このような些末な修正が公的に強いられたにもかかわらず、ゲームコミュニティは、比較的健全な状態を長らく維持してきたのである。本来、声の大きな者に左右されることなく、ゲームコミュニティの状況を見極めた上で、健全な業界を形成するという指向性が追求されて然るべきであろう。

女性の権利向上に係る国際的活動は、彼(女)ら自身にとっては大事な活動と認識されているのかもしれないが、表現規制という面に対しては、外部者・運動者(advocates)としての押しつけの感を拭えない。国際的な権利向上活動は、コンピュータゲーム(、ならびに、その源流としてのテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)については、「家父長」主義・権威主義的なカルト宗教による圧力という側面を払拭できないように、私には思われて仕方がないのである。ゾーニングを自主的に遵守させるという方法は、この方面に対しては、さほど機能していない。分野は異なるが、『週刊少年ジャンプ』連載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』(ミウラタダヒロ氏)に対する直近の「不買運動」めいた反発は、端的な事例として挙げることができよう。

実際、声の大きな団体・人物の圧力にかかわらず、コンシューマゲームにおける性犯罪と暴力犯罪とのアンバランスな現状は、各種のユーザの側からの「MOD」(修正プログラム・コンテンツ)が流通する状態を通じて、性犯罪に対する興味を満たすように、解消されている。有名どころ(で私がすぐに思い出せる種類のもの)では、上掲『Fallout』シリーズや、同一企業からリリースされている『The Elder Scrolls』シリーズ(のうち、オフライン版)に係る「ヌード化MOD」が有名である。文字通り「身ぐるみ」剥いだときに、CGモデルを裸にするだけのものから、それ以上を可能とするものもある(が、詳しい紹介には立ち入らない)。これらのコンテンツの制作者が、ゲームの開発・供給組織と、どのような関係を有しているのかは、注意深い検討を受ける必要もあろう(が、それにも立ち入らない)。

#ここまでの指摘によって、本稿で扱った話題についても、一部の特定団体によって、不健全さが立ち現れたことは、それなりに示唆できたように思うので、本稿はこれでおしまい。

2017年10月11日水曜日

(メモ)内山節氏の『苺とチョコレート』評は『フアン・オブ・ザ・デッド』にも適用可能である

ゾンビ映画において、やはり地域性は人間の側に現れる

内山節氏は、『苺とチョコレート』というキューバ映画について、

社会主義的なシステムにも、その地域の歴史や風土が反映する。だから、『苺とチョコレート』にかぎらず、多くのキューバ映画がみせているものは、明るいカリブ海の陽(ひ)ざしと、ラテン的陽気さに包まれながら展開するキューバ的社会主義の様子である。官僚組織による芸術への統制と人間の自由という深刻なテーマを描いたこの映画のなかでも、登場するハバナの人々は、日々の暮らしを楽しみながらこの芸術家とともにある町を大事にしていた。〔p.204〕

と述べる[1]が、この内山氏の評価は、『フアン・オブ・ザ・デッド(Juan of the Dead, 2011)』[2]にも、おおむね適用可能である。「芸術家」を「ゾンビ」に変えるだけで、それなりのフィット感があるのではないか。2013年9月24日付のオフライン用のメモがあったので、内山氏の観察を補強するため、本稿に即して一部を修正しながら掲載する(。削除した部分は、コメント化してある)。

キューバ発ゾンビ映画の『Juan of the Dead』は、この点(、生活の質なる概念を考察するに当たり)、とても示唆的である。キューバ特有の「何とかなるわな」精神で、ゾンビ病の流行さえも「安らかにあなたの最愛の人を逝かせます」という商売にしてしまう。つまり、ある人間にとって、災害は、単に災害であるのみならず、福音にすらなりうるのである。もちろん、そこには、終末論者のような積極的に危害を歓迎する考え方から、この映画の主人公たちのようにチャンスを生かすという考え方まで含まれる。〔...略...〕

この私のメモは、以前の論考(2017年7月26日)では活用されていないが、その理由の第一は、私のズボラさ(と迂闊さ)によるものである。このキューバを舞台とした作品は、あまりにもキューバ感満載である。そのてんこ盛り感は、パラオを始めとする南太平洋の島々を想起させる『Dead Island』シリーズと比較しても、過剰という印象を与える(。コンピュータゲームのプレイ時間は、映画に比べて、数十倍のオーダーになる。このため、評論に際しては、ゲームが多くのイメージをプレイヤーに与えることが可能である点に注意を払う必要がある。また、蛇足となるが、ゲームを誠実に評論するには、1つのタイトル当たりで言えば、映画よりも多くの時間を必要とするようにも思う)。『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(Wyrmwood: Road of the Dead)』[3]は、ギミックが多いためか、オーストラリアを感じさせる力は、どちらかといえば、そこはかとないレベルであった。このため、考察の際には、すっかり抜けていたのである。「漏れなく重複なく(MECE)」は、私の中では徹底されているとは言い難い。


#内山氏の生活感から来る哲学は、プレッパーめいたものを感じさせる。というのは、オチのつもりである。


[1] 内山節,(2015.8).『戦争という仕事』(内山節著作集14), 東京: 農山漁村文化協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/026616280

[2] Juan of the Dead (2011) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt1838571/

[3] Wyrmwood: Road of the Dead (2014) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt2535470/

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(2)

本稿は、前稿の続きである。


「三極化」と「二軸の両建て」は異なるメカニズムを有する

別稿(2017年9月30日)の追記(2017年10月2日訂正)において、「三極化」と「二軸の両建て」とは異なることを主張したが、この主張には、一応、根拠らしきものがある。これは、アンケート調査で「3つの選択肢から1つを選ぶ」という方法と、「それぞれ2つの選択肢を持つ設問を、2つ回答する」という方法の違いに当たる。後者については、設問の順番を入れ替えると分析結果が変わり得る(response order effect)ことが指摘されている。もっとも、この効果が確認できないとする研究も見られるようではある。ただ、政治の世界では、「朝三暮四」という故事成語が普通に用いられているし、この効果が実際に影響しているとの研究が実在する以上、これを信じた人物が政治に参画するという事態は、あるものと考えても構わないであろう。

「三極化ではなく、二次元配置」という手管が分析上厄介なものとなり得ることは、今年のノーベル経済学賞の受賞者がリチャード・セイラー氏であることにも現れている。設問の順序が効く可能性があるだけでなく、オプトイン(加入に意思の明示が必要となる制度)・オプトアウト(脱退に意思の明示が必要となる制度)の違いは、政策上、効果を有する(と選考委員会が認定したから、受賞が実現している)。投票者に対して「一番目(二番目)に重視する政策は何ですか」という質問の仕方は、現に世論調査に認められる。この考え方を進めると、AHP(Analytic Hierarchy Process、階層分析法)という方法になる。AHPは、複数の価値(安全保障、社会保障、経済、教育...)を提示して、それらを二種類ずつ、どちらがどれくらい望ましいのか比較した(一対比較という)上で、それぞれの価値について、政党や候補者を採点すれば、望ましい候補者の解が得られるという方法論である。「上位2位分の重視する価値」を尋ねることは、実のところ、さほど有用な方法ではない。ほかの価値を実現する上で有力そうな候補が脱落することになりかねないからである。それに、回答者ごとのデータを扱うことができなければ、外部者が後から分析する上で(二次分析)も問題が残る(。集計問題が生じる。それにAHPにも転用可能ではない)。

以上の考え方を一歩進めて、「取上げ方に、順位・順番あるところ、恣意性あり」と考えても、極論という訳ではない。恣意性が極力排除されているか否かは、別の話である。これは、仮想反実的な思考を重ねれば、私の言わんとするところが良く理解できるようになろう。読売新聞の与党党首インタビューは、10月5日から開始されたが、自民党、希望の党、公明党の順番であった。企画時期が立憲民主党の設立以後か否かは、微妙なところであるが、改選前議席の順番から言うと、一面、妥当であるとは主張できよう。しかしながら、これを逆順でも構わないのではと考える私は、果たして、捻くれすぎなのであろうか。希望の党も、立憲民主党も、前回の選挙において、政党としては国民から負託を受けた訳ではない。この点を考慮すれば、前回の衆議院選挙に参画した政党で、所属議員が落選した政党は、順序からすれば、先に取り上げられるべきではないか、と考えることも可能である。われわれの思考の枠組みは、ここに挙げた順番に対する検討を読売新聞社が公的には省略していることからも認められるように、案外、ユルユルなものである。結局、順番を問題とする場合、各自(ここでは、読売新聞社)が妥当と考えられる順番を明示的に言語化した上で、その是非を問うていくほかない。調べもしないままに疑問を書き連ねておくが、公職選挙法は、この辺の事情をより突っ込んで考慮したことがあるのであろうか。政見放送については、事前の抽選によるという点、間違いなくこの点を考慮しており、公正であると評価できるが、あらゆる報道が恣意性から逃れることができないという点については、考えが甘いように思われてしまうのである。


「三極化」は、経済的・個人的自由への態度によっても「二次元配置」できる

ところで、今回の選挙(2017年10月10日告示・22日執行、衆議院)の「三極化」は、ノーラン・チャート上にも配置可能である。自民党は、近年に限定すれば、個人的自由を制限するが、経済的自由を尊重するという位置付けにある。立憲・共産・社民は、個人的自由を尊重するが、明らかに経済的自由を制限する方向にある。希望は、個人的自由と経済的自由を尊重するかに見える。公明は、動機が特殊であると考えられるので、ここでは論じない。ほかの政党や無所属の立候補者については、ここまでのヒントに基づけば、相応の区分に位置付けることが容易であろうから、省略する。もっとも、希望の党の公約の曖昧さは、個人的自由に対する同党の見解について、十分な手がかりを選挙民に与えないものである。


#とりあえず、尻切れトンボの感で一杯だが、本記事は、シリーズとしては、これでおしまいであるので、次回の記事を執筆した(2017年10月24日追記)。選挙後、(遅すぎることになるとは思われるが、)書き残した点を再度追究する。

2017年10月10日火曜日

(メモ)樽本英樹氏の放射性物質への恐がりぶりは異常である

『現代人の国際社会学・入門――トランスナショナリズムという視点』(2016年5月, 有斐閣)「第一章 国際社会学とは何か」において、樽本英樹氏は、下記のように記す。

〔p.3〕私たちはグローバル化の真っただ中で生きている。〔…略…〕

お金も国境を越える。〔…略…〕

文化や情報も国境を越える。〔…略…〕

他にも意外なものが国境を越えてくる。〔デング熱やエボラ出血熱は、〕病気も国境を越えることを物語っている。PM2.5など環境汚染も国境を越える。温暖化防止条約などの国際条約を結ぶ必要があるのは、〔p.4〕各国で排出されたフロンなど温室効果ガスが、全地球に容易に広がってしまうからである。

以上、「1 グローバル化の日常」という節の中の「身近に迫るグローバル化」という項を引用した。引用から直ちに了解できることであるが、記述は、段落読みできる。この点については、評価できる。

最低限の体裁は整えられているものの、樽本氏の記述は、2016年5月という時点を考慮すれば、二点について、欺罔とも呼べる内容である。一点目、タックスヘイブンや地下経済への言及はどうした。同書は、オムニバス形式であるが、違法な物品・サービスの国際的な流通に対して、ほとんど言及しない。たとえば、戦国期日本における硝石と奴隷との交易を念頭に置けば、グローバル化の歴史における暗黒面に係る記述を欠落させることは、国際化という現象への理解を大きく誤る原因となる。少なくとも、本点については、(この方面に明るい著者がいないので、割愛したなどの)断り書きくらいは必要である。二点目、放射性物質はどうした。この点は、悪意と呼べるレベルに達する記述の欠落である。なぜ、このように私が批判するのかと言えば、単に、汚染(予期せぬ物質等の移動)を列挙すれば、放射性物質に係る批判を免れたであろうからである。先進諸国から輸出される廃棄物(PCBがとりわけ問題視されたことがある)、海流に乗るプラスチックごみ、外来生物にも言及すれば良かったのである。外来生物については、最近ではヒアリの事例が大きく報道されたが、ブラックバスが適当であろう。放射性物質についても、大気核実験・地上核実験・海洋核実験や、チェルノブイリ事故についても言及すれば、フクイチだけを殊更に取り上げたようには見えなかったはずである。感染症についても、アメリカ大陸における天然痘、ヨーロッパにおけるペスト、全世界におけるスペイン風邪といった歴史的事例は、国際化に伴う強烈な影響を読者に印象付けることができる。なぜ、これらの予期せぬ事例が多数挙げられるところで、PM2.5だけが取り上げられるのか。樽本氏の見識の狭さや偏見を、強く印象付けられる記述である。

ここでの指摘により、十分に根拠を提示できたように自負するが、横断的研究分野に係る記述は、工夫次第で、著者の見識の深浅をいかようにでも示すことができるのである。


[1] 西原和久・樽本英樹〔編〕, (2016.5).『現代人の国際社会学・入門――トランスナショナリズムという視点』(有斐閣コンパクト), 東京: 有斐閣.
(英: Introduction to Global Sociology for Contemporaries)
http://id.ndl.go.jp/bib/027260881

2017年10月5日木曜日

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(1)

本稿は、「今回の総選挙の争点は、核武装を認めるか否か、原発を認めるか否かの二軸で分類できる」(パート1, パート2, パート3)の続きに当たる。時間短縮を図る読者は、段落の頭の文だけを読むよう、お願いしたい。


ダブルバインドは国際秘密力集団の得意技である

国際秘密力集団による「両建て構造」の最大の妙味は、「人生には、一つしか選び取ることができないものがある」というダブルバインドを相手に強いる点にある。ダブルバインドとは、広く知られた言葉であるが、二種類の両立しない物事の中から、相手に一つの選択肢を強要するという、心理学上・営業上のテクニックである。二つのダブルバインドの例を挙げるが、それは、ここに挙げる娯楽の両方に親しむ人が少ないものと見込まれるからである。村上春樹氏の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年4月)[1]には、ダブルバインドの事例〔pp.206-207〕が見られる。『Wolfenstein: The New Order』(2014年、CERO-Z指定、つまり成人向け)という、古典的な一人称視点シューティングゲームのアレンジ版にも、この主題が仕込まれている。卑近な事例となるが、私が「ない訳ではない」という、二重否定となるフレーズを多用する理由は、この種の論理構成を有する現象を取り扱っていることに意識的なためである。

何かを選び取らなければ、どういう結末を迎えることになるのか?という疑問に対して、このようなジレンマを仕掛けてくる側の回答は、大変にサディスティックなものである。前掲のゲーム内のエピソードも、村上氏の『色彩を...』の事例も、十分に加虐的である。加えて、文藝春秋社が戦争屋の道具であるという私の見解(2017年9月7日)から見れば、同書が同社から出版されたという事実には理由がない訳ではなかろう(。これは、穿ち過ぎであろうか)。いずれにしても、われわれは、「世の中には、虐待的な二律相反の選択を他者に強いる人々がいる」との疑いを持ち続けるべきである。また、共通理解であるとは思うが、様々な媒体で描かれる「悪魔との取引」は、ほとんど常に、「手持ちの大事なもの」と「欲しいもの(金銭・成功・異性など)」とを引換えにするという形で持ちかけられる。それに、「欲しいもの」は、解釈をできるだけ歪曲された形でしか、提供されないものである。

とはいえ、人々の興味が多様化した現代において、マスコミが多大な労力を投入している話題を除けば、「アレかコレか」という二項対立を強制できるほどに事態を制御下に置けるということは、そうそうない。ほとんど全ての話題について、「第三の道」を考えることができるほど、人類の歴史的・政治的経験に係るアイデアの「引出し」は、増大している。たとえば、「アレもコレも」というキャッチコピーは、マーケティング分野で開発され定着したテクニックであるが、これ自体が、論点ずらしの一手法である。また、この手妻は、成功するか否かはさておき、誰にでも応用可能である。「原発も核兵器もゴメンだ」や「世の中には、敵・味方の区別があるけれど、誰しも生きる権利がある」などは、その一例である。


元民進党議員にとって、立憲民主党と希望の党は、実質的なダブルバインドとなる

2017年10月2日17時、枝野幸男氏が立憲民主党を設立すると記者発表した後、『朝日新聞』と『毎日新聞』は、ようやく「三極化」を報じるようになった。『毎日新聞』[2]は、政策研究大学院大学教授の竹中治堅氏の言葉を借りて、民主党の分裂によって三つ巴が生じたと述べている。この理解は、「政権交代可能な」などといった限定化が抜けている。この点で、毎日新聞のインタビュアーまたは竹中氏は、能力不足か悪意を抱いていることになる。『朝日新聞』の記事[3]も、立憲民主党の設立を見出しに明記しており、同様の理解であると整理できる。また、この三極化に先駆けて、『朝日新聞』が枝野氏に近い参議院議員の言を借りて、野党共倒れの危険を指摘した[4]ことに対しては、大いに疑問がある。というのも、すでに、第三極となるリベラルな小政党は、当初から存在していたからである。この点を汲んで報じていたのは、『東京新聞』[5]だけである。『読売新聞』は、1日までの枝野氏の動きを受けて、2日朝刊で「3極対決」を謳う[6]ほか、「リベラル」という言葉を解説する記事[7]の中で、この語を適用可能な政党名から、社民・共産・自由の三党を除外している。この『読売新聞』の記述は、悪意にしても、度外れたものがあり、フェイクニュースと呼ぶに相応しい。事実関係を説明するところで、意図的な誤読を招き寄せる必要はない。

民進党に所属してきた議員にとって、立憲民主党は、希望の党とのダブルバインドとして機能する。合流に意外性があればあるほど、テレビで大々的に報道してもらえるチャンスがあろうから、古株ではなく、埋没してしまうレベルの実績と印象しか選挙民に与えていない民進党議員こそ、しっかり宣言した上で、立憲民主党に合流する価値があろう。もっとも、小池百合子氏に拒否されるような理念の持主でなければ、希望の党から出た方が、マスコミへの継続的な露出が期待できる(。マスコミの飼主が、小池氏の金主でもあるからである)。旧来の民進党議員が、希望・立憲以外の政党から出馬するというケースは、本来、「情報としての価値が高いことがニュースになる」という原則※1からすれば、マスコミが取り上げるべき話題である。旧・民主党は、政権与党の座にあった2012年7月、総理大臣の野田佳彦氏が主導した(消費税増税を含む)税・社会保障一体改革を巡り、党を割るほどの分裂を経験しているように、相当に、理念の異なる議員を含む政党であった。民進党も、安全保障のあり方を始めとして、理念の幅の広さを残してきた。このため、民進党に所属してきた議員であっても、自民党を含め、移転先が多様化して良いはずである※2。

議員生活の継続を望む民進党議員は、少しでも当選する可能性の高い政党から出馬しようと試みるであろうから、彼らは、まず間違いなく、第一希望を希望の党としながら、受け入れられなければ立憲民主党、という選択肢を辿るであろう。前原誠司氏のようなサンカク※3議員と小池氏から三行半を突き付けられた民進党議員は、本来、その事実を誇りにしても良いくらいである。しかし、政策そのものや実績で議員を選択する有権者は、比較的少数であろう。このため、民進党議員にとって、希望の党を蹴って、マスコミに露出できる機会が減ることになるのは、二律相反するものと受け取られよう。自身と家族と秘書たちの生活が懸かっていれば、悠長にはしていられないであろう。とにかく、原則としては、民進党の議員は、そうした方が一時的にはニュースになるものの、無所属となりつつも他政党から推薦を取り付けたり、あるいは、希望・立憲以外の別政党に帰属するという方法を取りにくい環境下にある。

後知恵であるが、山尾志桜里氏が不倫疑惑で自ら離党するに至った時期は、本人にとっても、民進党の衆議院議員にとっても、随分と都合の良いタイミングであった。民進党の解党に伴い、無所属となった元・民進党の立候補者は、山尾氏の離党のタイミングが先行したために、同じ不倫枠に入れられずに済んでいる。細野豪志氏と山本モナ氏との不倫は、今なお広く記憶されている。しかし、細野氏は、先行して民進党を離党して希望の党の結党に携わり、希望の党の主要メンバーに上手に納まった。彼を積極的に嫌う有権者でもなければ、不倫という過去を問題視するだけの禊は済んだと考えられている節も見受けられる※4。普通に考えれば、『週刊文春』が売上だけを目的としているのであれば、民進党の議員たちに、とりわけ、細野氏に、ここまで遠慮する必要があるとは思えない。『週刊文春』は、前原誠司氏や野田佳彦氏の無所属という身分に影響を与えることなく、細野氏にも不倫というイメージを極力与えることなく、山尾氏を離党に追い込んだと評せよう。当の山尾氏自身、離党のタイミングが良かったと述べている程である[8]。


「リベラルの退潮」は、今回の解散総選挙の結果を見なければ、確定できる現象ではない

今回の解散総選挙の流れにおいて語られる「リベラルの退潮」は、マスコミのフレーミング※5に過ぎない。まず間違いなく、わが国では、確固たるリベラルは少数派であろうが、しかし、その人数は大きく変化していないであろう。「退潮」は、無党派層の離反を意味するだけであろう。共産党の得票数の増加は、民主党政権時代において、鳩山由紀夫氏の退陣と菅直人氏・野田佳彦氏の失政を通じて、これらの勢力を見放した有権者層が、リベラル的な政策を揺るがせていない共産党を高く評価した結果であるとも考えることができる。この状態は、穏健な「保守系リベラル」層の受け皿がないだけという事情を示す可能性が高い。

外形的にとらえると、穏健なリベラル層の受け皿を破壊し尽くした責任は、わが国については、東京地検特捜部※6とマスコミの戦後の一連の活動に求めることができ、小沢一郎氏への攻撃は、その最新事例である。よほど疑い深い有権者でなければ、小沢氏への東京地検特捜部の執拗な捜査と、大々的な報道を「疑惑があるから捜査しており、報道している」と理解したであろう。現に、小沢氏の師匠や先輩筋や秘書は、有罪となったではないか、といった具合である。『国民の生活が第一』と名付けられた政党は、そのネーミングと小沢氏への捜査の記憶が矛盾したために、有権者には、受け入れられにくいものと化した。脱原発活動は、断定的に戯画化すれば、東京地検特捜部と、これを使嗾する権力ネットワークにより、止めを刺されたものと言えよう。小沢氏自身の無罪や、秘書たちの判決に対する無理矢理さに係る報道は、報じられた疑惑の量に比べて、圧倒的に少量であり、彼らの名誉回復は、彼らへの攻撃に比較すれば、ゼロに等しい分量である。この非対称性は、間違いなく、『国民の生活が第一』に対する忌避感に影響している。

小沢一郎氏に対するマスコミの一連の人物破壊工作は、2017年10月現在、嘉田由紀子氏の処遇を巡り、希望の党の「原発ゼロ」が嘘臭いことを示す状況証拠として、迂遠な形で機能している。嘉田氏は、希望の党に対して入党を申入れたが、『日本未来の党』の代表を務めたことを理由に、断られたとされる[9]。『国民の生活が第一』は、『日本未来の党』の母体ともなった。以上の経緯は、希望の党が『日本未来の党』の脱原発という党是を拒否したというちぐはぐな印象を、事情を知る有権者に与えるものである。嘉田氏の滋賀県知事時代の脱原発に係る政策は、原発のない都道府県の知事として、かなりのガチものであった。この実績を合わせ見れば、嘉田氏は、希望の党の「原発ゼロ」が本物であるか否かを、自らの入党希望を以て、有権者に示したものと考えることもできる。

ただ、希望の党は、小沢氏や嘉田氏と連携する含みを残してはいる。希望の党の一次公認リスト[10]は、嘉田氏の出馬する滋賀一区と、小沢氏の出馬する岩手三区[11]について、空欄となっている。この事実や、小沢氏が前原氏や希望の党と協議していたという話は、小沢氏に対する過剰な警戒と相俟って、あらぬ噂を呼んでいる。しかしながら、希望の党が「刺客」候補を公認していないという事実は、希望の党に「勝てない戦はしない」という方針があるものと考えれば、単なる妥協の産物であると考えることもできる。票読みについては、各陣営とも、十分に合理的に行動していると考えて良い。

小沢氏や嘉田氏に、希望の党が「刺客」候補を送り込んでいないという事実は、リベラルが退潮していない逆説的な証拠として機能する。小沢氏の手法は、小沢王国とも揶揄され、田中角栄氏譲りの、公共事業を中心とした利益誘導型政治であるとされる。ただ、地元への利益誘導型政治※7は、地方を食べさせてゆき、安全な食品を自国で供給するというシステムになくてはならないものである。お互いの立場を尊重するという定義からすれば、利益誘導型政治は、リベラルとも呼ぶことができる。この捻った見方を考慮すれば、リベラルは、退潮などしていないのである。

加えて、昨年以来、多くの選挙は、安倍晋三氏率いる自民党に対して、逆風となりつつある。私自身は、その原因の一つとして、不正選挙のツールが非自民党系の政治家に連なる社会集団に握られてきた、という予測を立ててはいる。ただ同時に、安倍氏の流儀に基づく安保法制が戦争に直結するのでは、というリベラルの懸念も影響していると考えて良かろう。月次の内閣支持率は、それほど信用に値しないし、数%程度は系統誤差を含むものと考えられるが、それでも、安保法制の準備に係る国会運営の無茶振りと、モリ・カケ「疑惑」を経た2017年10月現在、ひと頃の高さはない。

結局、「リベラルの退潮」は、今回の選挙の結果を見てみなければ、確定できないというべきである。そもそも、「退潮」という語を今になって持ち出すのは、5年ほど、タイミングがずれている。リベラルが退潮したとすれば、民主党政権の時期においてであり、その後、長らく低迷したというべきであろう。とりわけ、菅政権におけるTPP加盟交渉の宣言や、野田政権における多くの政策転換が、リベラル層の決定的な離反を産んだと言えよう。2017年10月現在、ようやく、希望の党に民進党の「右派(私に言わせれば売国派)」が合流し、類似したスタンスの勢力が互いに協調できる素地が整ったのである。


(次回に続く)


※1 「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだら...」というヤツである。

※2 野田佳彦氏は、1992(平成4)年の日本新党の結党への参加を通じて政治生活を開始し、非・自民政党で一貫してキャリアを積んではいるが、その政策理念は、ほとんど自民党議員のものと言っても差し支えない。

※3 佐藤優氏の広めた官僚用語で「人情を欠き、義理を欠き、恥をかく」人物を指す。今回の民進党の「解党」の経緯は、所属していた議員の当落の決定打とはならないが、定性的には、マイナス要因として機能するものと考えて良いであろう。前原氏の決断は、不作為という形に近いものであるが、不義理・不人情の現れとして受け止める有権者(民進党支持者であったか否かを問わない)がいても、まったくおかしくないものである。

※4 本点は、客観的に見解を述べているだけであることに注意されたい。ここでは、私自身の好悪を語ることはせず、他者の細野氏に対する好悪を評価しているだけである。もちろん、『週刊文春』のやり口は、汚いものであると思う。でなければ、ここまで記事を書き進めることはしない。ゴミはゴミ箱に入れておくことが望ましいが、それが無理であっても、ラベルを貼ることだけは果たしておかなくてはなるまい。

※5 議題に枠をはめて、枠から外れるものを見せないようにする効果。フレーム効果。

※6 検事出身であるが出世する前に議員へと転身した山尾志桜里氏の現在の位置と、東京地検特捜部・副部長という経歴を持つ若狭勝氏との対比は、この司法組織の政治的中立性を疑わせるのに十分な連関となっている。『週刊文春』が若狭氏のスキャンダルを今後1ヶ月の間に取り上げることがあれば、その中立性は維持されているものと見て良いであろう。

※7 なお、東京地検特捜部が小沢氏を挙げようとした事件に、西松建設事件が挙げられるが、この事件に係る報道(、正確には、扇動工作)も、また、利益誘導型政治を小沢氏に印象付けるという効果を果たしている。この点についても、東京地検特捜部と一部マスコミがリベラル退潮の犯人であるという私の指摘は、何ら間違ってはいない。


[1] 村上春樹, (2013.4). 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』, 東京:文藝春秋.
http://id.ndl.go.jp/bib/024358341

[2] 視座・衆院選2017:/1 野党と首相、問う機会 政策研究大学院大学教授・竹中治堅氏 - 毎日新聞
(2017年10月4日 東京朝刊)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/ddm/001/010/181000c

今回の衆院選は野党第1党が突然分裂し、自民・公明、希望、立憲民主・共産の三つどもえの戦いとなる。民進党は中道右派・リベラル路線の間で揺れ続けてきた。希望の党に多くの保守系民進議員が合流し、希望が保守、立憲民主がリベラルと構図がはっきりし、有権者の判断が容易になった。

[3] 自公×希望維新×立憲民主共産社民 衆院選3極争う構図:朝日新聞デジタル
(2017年10月3日21時49分、4日東京朝刊14版1面「希望、1次公認192人/立憲民主党設立/3極構図固まる」(記名なし))
http://www.asahi.com/articles/ASKB35KNZKB3UTFK00F.html

[4] 「枝野が立て」激励受け新党結党 野党系共倒れの恐れも:朝日新聞デジタル
(2017年10月2日21時27分)
http://www.asahi.com/articles/ASKB24STYKB2UTFK00G.html

〔...略...〕野党候補が乱立すれば、共倒れの可能性が高まる。枝野氏と近い民進の参院議員は言う。「ここで失敗すれば、リベラル勢力が壊滅してしまうかも知れない」

[5] 東京新聞:衆院選 三極化 自・公 vs 希望・維新 vs 共・社・無所属:政治(TOKYO Web)
(篠ケ瀬祐司、2017年10月1日07時06分)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017100190070649.html

[6] 『読売新聞』2017年10月2日朝刊14版1面「枝野氏ら 新党へ調整/リベラル系/衆院選 3極対決に」(記名なし)

〔...略...〕衆院選は、「自民・公明」「希望・日本維新の会」「民進リベラル系・共産・社民」の3極で争われる方向となった。

[7] 『読売新聞』2017年10月5日朝刊14版2面総合「ニュースQ+/リベラルとは何?/日本では革新・左派と同義語」(記名なし)

Q 民進党以外のリベラル勢力は。

A 自民党の派閥「宏池会」(現・岸田派)は、リベラルを自認している。宏池会は自由主義や社会の多様性の重視などを掲げ、憲法改正には党内では比較的慎重な立場だ。ただ、岸田派幹部は「民進党のリベラルとは考え方が違う」と述べ、明確に一線を画している。〔記事終わり〕

[8] 『朝日新聞』2017年10月5日朝刊14版4面総合4「山尾氏「無所属でよかった」」(黄澈)

〔...略...〕愛知7区から無所属で立候補予定〔...略...〕

〔...略...〕

「いま、無所属で本当によかった。リベラルの価値を葛藤なしに語れることが幸せだ」

〔...略...〕自身は不幸中の幸いで、「踏み絵」を踏まずに済んだ面がある。

〔...略...〕

〔...略...〕自民前職鈴木淳司氏(59)が立候補を予定し、希望も擁立を検討している。わずかの差であっても選挙区で落選すれば、比例復活はない。

[9] 嘉田前滋賀知事、希望に公認断られる 無所属出馬へ:朝日新聞デジタル
(記名なし、2017年10月2日12時09分)
http://www.asahi.com/articles/ASKB200YWKB1PTIL011.html

[10] 衆院選:希望の党 第1次公認名簿 - 毎日新聞
(2017年10月4日01時22分、最終更新10月4日07時39分)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/k00/00m/010/174000c

[11] 衆院選:小沢氏、無所属出馬へ 共産擁立見送り 岩手3区 - 毎日新聞
(小鍜冶孝志・佐藤慶、2017年10月4日09時27分、最終更新10月4日09時36分)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/k00/00e/010/195000c




2017年10月6日・7日修正

文意の通らない点を修正し、淡赤色で示した。




2017年10月23日リンク追加

次回へのリンクを追加した。