2016年9月1日木曜日

トンデモ説でさえ、具体的な生命への危険と掛け合わされると、多大な混沌を生じうる

 『シオン長老の議定書』(日本語訳は一定しないので、現時点では適当に記しておく)は、陰謀論において有名な文書であるが、一般には偽書とみなされている。同書は、同書の主張するところでは、ユダヤ人が世界を征服するための方法論を示したものである。日露戦争時、捕虜となったロシア兵が所持していたために、日本にその存在が知られたと言われる。平成28年7月時点のわが国で、偽書であると明記する例として、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(2006, 文春新書)がある。私が興味を持つのは、書籍の内容そのものよりも、書籍の影響についてである※1。『議定書』は、共産主義がシオニスト(ユダヤ人至上主義者)による陰謀の一部であることを示す証拠として、ロシア帝国下のロシアにおいて、積極的に配布されていたのである。

 ロシア皇室と同様、戦前日本の帝国主義者が共産主義を皇室に対する脅威とみなしていたゆえに、『議定書』は、日本国内においても、流通を認められた。『議定書』の記述は、大日本帝国においては、シオニズムと共産主義の双方が危険であるというレッテル貼りに利用された。第二次世界大戦前のわが国は、この事情のために、戦後よりも陰謀論が受容され、生きた思想となった時代であった。陰謀論に親和的な風潮は、一面においてナチスドイツとの同盟をもたらす素地となり、他面において日ユ同祖論から河豚計画に至るまでのユダヤ人に対する道具主義を生み出した。帝国主義の時代には、力と謀略が物を言う。陰謀論は、「河豚計画」という名の「河豚」という毒魚の名に象徴に示されるように、帝国主義者に一種の道具としてみなされたのである。(関与した個人の信条を個別に検討することは回避したいが、組織を全体として見た場合には、道具的に利用したと解釈しても誤解を生じない。)

 難しい前振りを(うまく)こなした(つもりになった)ので、本題に移ろう。



 現時点のわが国において、ある組合せの意見を採用する陰謀論者は、「わが国における多くの重要な出来事には、皇室の決定的な関与が影響している。皇室は、国際金融資本家と密に共謀し、日本の安全を脅かしている」という陰謀論を信じている。「陰謀論」の文字通りに、共謀の存在を信じているのである。この一例は、RAPTと自称する男性(声からすれば男性)である(リンク)。ファンという男性(これも声から男性と判断できる)もいる(上、同一人物によるやらせではないように聞こえる)ので、少なくとも、二名以上は、このおかしな形の陰謀論を信じていることになる。彼らは、「ユダヤ陰謀論、ここに極まれり」と題する電話対談(リンク※)の中で、那須御用邸周辺が広範に汚染されたとされることは、実はフェイクであって、それらの汚染されたといわれる土地を用いて次なる企みを進めているという突飛な仮説を提示している。

 実際には、那須町による計測結果(リンク)でも、個人による計測結果(リンク1リンク2)でも、東京都区部に比べ、那須御用邸周辺の汚染の度合いは相当に高く、この一点だけでも、RAPTらの主張は根拠薄弱である。ほかにも、RAPTらの無理解は、次の点に認められる。外部被曝に比べて内部被曝が危険視される理由を理解できていないこと。遺伝的影響の発現が遅れうること。世代を超えるかのような外形的な影響が認められうること。ソ連崩壊後に多くの研究が散逸しながらも西側諸国に状況が知られるに至った経緯があることに考えが至っていない(上掲リンクの再掲)こと。要するに、彼らの対談は、この話題を扱うだけの十分な知識を土台に据え(ようと努力し)たものではない。

 RAPT(集団由来のものか個人か、いまいち良く分からない存在であるので、人称を省略する。)による皇室批判は、『国際秘密力研究』の菊池氏が提唱する「両建て戦術」の一つである。このように捉えると、RAPTの皇室批判が「第三の何か=止揚」を導入しようと企図するための前振りであると予想することが可能となる。ただし、「両建て」戦術は、菊池氏のいうように、「止揚=第三の何か」を導入するために役立つだけではない。RAPTのような、陰謀論の中でも突飛な意見は、話者の望まぬ形で波及する場合がある。

 「両建て戦術」の対象となった2種の対立軸は、話者という第3の要素を対象にとり、認知的不協和をもたらす可能性がある。2種の対立軸を対立軸として取り合わせたときに生じる認知的不協和があまりにも甚だしいと、論者そのものが否定される、という関係を生じるのである。先の記事(リンク)で私が言及したように、「両建て戦術」は、論者によって関連を指摘されたほかの命題に係る見解を、一定の方向に誘導するという機能をも果たす。しかし、これにも限度があり、話の齟齬があまりにも甚だしいと読者に感じられる場合、かえって筆者が読者から信頼を失うのである。

 RAPTは、批判の対象となることが多くあるロスチャイルド家と、皇室とのただならぬ関係について言及するが、かえって、RAPT自身に対する疑いの目を向けさせることになっている。この状態は、皇室を敬愛してきた人物にとって、RAPTの言説が、RAPT、ロスチャイルド家、皇室の三者についての認知的不協和をもたらすものとなるために生じているものである。皇室を敬愛してきた読者は、「ロスチャイルド家に対する好意を抱くに至る」、「皇室に対する嫌悪を抱くに至る」、「RAPTに対する嫌悪を抱くに至る」のおおむね3通りの反応を抱くであろう。この3通りの中では、RAPTが自滅するかのように信頼されなくなる、というものが圧倒的な一番手である。事実、私の抱いた感想も、「何言ってんだ、RAPTは?両家が関係を持っているにしても、皇室外交という社会的装置の一環であって、当然じゃないの?」というものにしか、変化しなかったのである。このような態度の変化は、字義通りにRAPTの言説を捉えるのであれば、およそ、RAPTの期待したものとは言えないであろう。

 実は、このRAPTの大失敗には、かなりの明快な理由がある。その理由もまた、認知的不協和の枠組みだけで説明できるものである。それは、従来からの皇室に対する国民のイメージというものが強固に存在しているために、A「従来からの皇室への良好なイメージ」と、B「皇室とロスチャイルド家が共謀して悪事を行っているという指摘」と、C「悪事を非難するRAPT」という三者が認知的不協和を構成する、というものである。{A, B} はマイナス、{B, C}はプラス、{C, A}はマイナスとなることが大半であろう。すると、これらの組合せを掛け合わせてもプラスとなり、結果、RAPTが嫌われる、という構図が成立する。

 ある理解の枠組みは、その全体像がいかに極端で偏りのあるものであったとしても、多数派集団がそれを方便として活用することがあれば、基本的なところで当の多数派集団の理解の枠組みとの齟齬を抱えたまま、スローガンとして使われることがあり得る。大同団結は、このようにして成立する。RAPTのような見方をするごく一部の陰謀論者を除いては、現在の皇室が日本国民の安全を脅かしているという主張は、非常に不穏当に響くものである。この点、スキャンダラスでない皇室を戴いてきた日本国民は、かえって知的警戒心を喪失しているとも言えるが、本件に限っては、その無批判性が良い方向に機能していると見ることもできよう。




 問題は、RAPTのような見方の陰謀論が、簡単に論拠を覆されるという点で程度の低いものであるにもかかわらず、社会のマジョリティにおける分断を生み出す端緒になること、また、その分断を生み出しうる可能性が悪用されないとも限らないことにある。冒頭に見たように、反ユダヤ主義は、偽書とされる書籍によって現実に興隆した。少なくとも、この警戒心は、現在のところ、内田氏の著書などに見る限り、社会の中で機能しているようである。しかしなお、RAPTの説がいかに悪用されうる余地があるかを、現時点のわが国の状態に即して考察しておくことは、決して無駄にはならないであろうから、以下に検討することとしよう。

 日本共産党は、現時点のわが国において共産主義を掲げる社会集団の中で最大のものであるが、ここでのRAPTに等しい論を提示したことはない。同党は、皇室の廃止を完全に撤回してはいないものの、うかつな主張が自らを更なる少数派へと追いやることくらいは十分に承知しているであろう。RAPTのような極論を知る共産党関係者は、日本社会における多数者が「現時点の皇室が汚染を偽装するという、国民の生命・健康・財産を損ないうる方針を取る」などとは夢にも思っていないであろうことを十分に理解していよう。これは、以前にネット右翼を批判したとき(リンク)と同様に、相手が大人(おとな)であると考えれば、当然に導かれる結論である。

 他方、皇室を敬慕する穏当な者ならば、共産主義者に対する態度に関わりなく、共産主義者への不当な批難が皇室に対する他者のイメージを却って損なう可能性があることを承知しているであろう。これは、天皇制を否定する共産主義者といえども、自分たちに対する嫌悪を無用に高める可能性があるために、皇室に対する批判を慎重に行うことと鏡合わせの関係にある。しかしながら、無知であったり教条主義的である人物がいわゆる「右翼」を自称する場合には、皇室を廃止しようとする意見に対しては、その帰結を顧みずに苛烈な非難を加えるであろう。このことは、無知であったり教条主義的である人物がいわゆる「左翼」である場合に、いかに批判の根拠が失当であろうとも、皇室を批判する言説を利用しようとすることと同形である。

 共産主義に対して陰謀論というラベリングが貼られた歴史と、共産主義が平等を謳うゆえに最終的には皇室の廃止を掲げることとの二点を知る者は、皇室を非難しようとする者であっても、それを指弾する者であっても、日本国民全体の利益を図るためには皇室が陰謀論の主体であるなどということをうかつに口にできないという共通理解に至ることができるはずである。しかし、ここで述べた構図にもかかわらず、RAPTが那須御用地を皇室が恣にすると非難するとき、私有財産制を認めない(厳格な)共産主義者は、私有地の廃止という一点においては、RAPTのような主張と共闘する余地が生まれ、私有地に権利を有する地主(階級)と対立することがあり得る。この対立は、国土の一部が著しく汚染されたという認識を持つ者にとって、東日本に故郷を持つ人々をいかに遇するか、という繊細な問題をも容易に射程に収めるものである。ゆえに、その事実認識に係るRAPTの誤解(または詐術)は、人々の間に無用な対立をもたらしうるのである。もちろん、この構図の一隅には、私益を追求して広範な被害を放置する原発ムラが存在する余地があることを忘れてはなるまい。

 一部の陰謀論者が明白な誤りを主張することは、議論が議論に留まるうちは、話者自身に対する信頼を損なうに留まる。先に説明したとおり、認知的不協和によって、話者自身が排除されるためである。「両陣営への両建て」という考え方が多用されるが、明白な誤りを主張する陰謀論者は、かえって自分の信頼を炎上させることになる。人は、自身の心情にそぐわない主張に対しては、熱心にその欠点を見つけ出すことができる。保守主義者と共産主義者という、対立する二大陣営の両方を敵に回す陰謀論者の主張は、容易に袋叩きに遭うものである。ゆえに、大抵の場合、言論だけにことが収まるのであれば、両陣営の対立を煽るかに見える、マッチポンプであるかのような言説は、その場限りのものであり、大した力を持ち得ない。



 しかし、これが生命や財産に直結する話であれば、容易に事態は行き着くところに行き着くことになる。1909年10月26日の伊藤博文の暗殺は、彼の生前の意志とは逆に、日本の世論を韓国併合へと向かわせたとされる。その結果は、2015年の現在にも隣国との軋轢を生じさせている。現在、ウクライナの混乱は、ウクライナの指導層に多大な影響力を発揮してきたヴィクトリア・ヌーランド女史のキレっぷりとは対照的なロシアの政策によって、解消されつつあると言える。そもそも、この内戦は、正体不明の狙撃手が警官とデモ隊の両陣営を銃撃したことから始まったものである。双方に流血の事態を生じさせることは、しばしば、両方の対立から利益を得る第三者の存在を臭わせるものである。

 われわれが第三者の介在に警戒し続けなければならない理由は、パラグアイの事例にも見て取ることができる。伊高浩昭氏は、パラグアイにおける農場主の射殺事件において、警官と農場主の双方が同一の銃で殺害されたことを伝えている(伊高浩昭, (2015).『われらのアメリカ万華鏡』, 立教大学ラテンアメリカ研究所.)。この事件は、少数派のルゴ大統領政権時に生じたものである。経過は、外務省によって、次のようにまとめられている。
農地改革や治安問題の解決に向けた取組の遅れに対する不満が与野党各方面から噴出。同月22日にパラグアイ上院においてルゴ大統領は弾劾され、憲法の規定に基づき、フランコ副大統領が新大統領に昇格した。2013年4月に次期大統領・副大統領選挙が実施され、カルテス・コロラド党候補が勝利し、同年8月に正式に大統領に就任した。カルテス大統領就任以降、政権の優先課題として貧困の撲滅を掲げるとともに、積極的な外国企業誘致を推進している。(リンク

 共産主義のバイブルであるマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』の「万国の労働者よ、団結せよ!」という結語は、分断統治という支配の技術が存在することを示唆する。分断統治は、被支配者同士のお互いに対する不信を前提として、相互監視により強化される。五人組の伝統を持つわが国においても、分断統治は、十分に理解され活用されてきた手段である。ところで、わが国の保守主義も、万国共通の哲学である共産主義も、階層的分業を当然のものと見ているが、この体制は、人間が集団的な生物であるという性質にも由来するものであるため、現在のところ、好悪にかかわらず、前提として考慮しても良いものであろう。

 分断統治という手段は、2つ以上の階層・集団という条件だけでなく、これに加えて、被支配者集団間における不和や、他集団への憎悪を前提としなければ機能しない。この憎悪という条件のために、分断統治は、しばしば目に見える暴力までに発展することを見越したものとなる。2つの被支配者集団がともに暴力を肯定するようになれば、社会の大半は、大きな混乱に陥ることになる。統治者は、この対立と混乱から利益を上げるのである。ショック・ドクトリンを用いる「黒幕」は、この対立をあえて顕在化させることにより、先行投資を上回る利益を回収するのである。他方、この前提を知る先人たちは、たとえば企業社会であれば労使協調という一種の「止揚」法を生み出してきた。

 右翼を自認する人々は、わが国における学生紛争の経緯から、「内ゲバ」の語のように、分断統治が左翼に対してのみ適用される現象であるなどと考えてはならない。先に挙げた伊藤博文の暗殺は、むしろわが国における「右翼」の影響を受けて引き起こされた国際的な分断統治の一形態であった。韓国人と右翼との間に100年にわたる対立を引き起こした安重根は、皇室の「すり替え」を檄文に含めている。皇室の経緯に係る話題は、本ブログでも「陰謀論」についての書評という形で取り上げているが、現在でも「陰謀論」の一大分野である※2。実際、韓国併合は、関東大震災における在日外国人に対するヘイトクライムの原因の大元でもあり、現時点の日韓(韓国からすれば韓日)関係の軋轢の主要な原因の一つでもある。

 第一次世界大戦は、暗殺がそれまでの歴史に類例のない死者を生んだ事例であるが、その展開の重大さに比べて、その端緒が(少なくともわが国においては)十分に理解され共有されていない出来事でもある。1914年6月28日のオーストリアのフランツ・フェルディナント皇太子夫妻の暗殺(セルビア事件)は、第一次世界大戦の引き金となった。1000万人の単位に達する死者を生じさせた人類規模の悲劇における、最初の流血事件である。にもかかわらず、セルビア事件を実行した『黒手組』の思想は、正式名称である『統一か死か』が紹介されているにせよ、中等教育課程で皆が学習する程には、十分に共有されていない。教科書では単に「民族主義者」と紹介される程度であるが、そもそも、この危険思想がいかなるものであり、成員にどの程度の理解があり、ゆえにこのような活動に至ったのかといった話は、およそ日本人の大半が知らないことであろう※3。過激な民族主義者がなぜ帰結も顧みずにこれだけの大仕掛けに踏み切れたのか、これほどの襲撃を可能とするリソースを有していた組織がなぜこれほどに近視眼的に振る舞えたのか、など、組織として暗殺に踏み切った明確な理由が日本人のわれわれには十分に理解できる形で学習する機会がないのである。これは、単に、私の不勉強でもあるが、歴史の研究者が十分に他人に説明できるだけの理由を探究し、私のようなひねた市民(非専門家)にもそれなりに納得できる形で解答を提示していない、ということにも求めることができよう。「一定の見解が得られていない」というのも一つの見識であるが、このような見識が分かりやすく示されていないと、「陰謀論」の叢生する余地が生まれうるのである。

 ともあれ、第一次世界大戦は、本来ならばリソースに乏しいはずの、一国の権力機構の一部を占めるに過ぎない少数の過激主義者が人類全体に深刻な被害を生じさせた事例であると見ることもできる。現代的な視点から見直すと、自称イスラム国の影に他国の資金援助や不作為を看取することができる以上、『黒手組』についても、同様の構図が成立すると類推することは、アブダクションとしては無理のないものである※4。また、この種のアブダクションは、個々の国の状況に独立に適用しうる。ウクライナに対するヌーランド氏の関与は、完全に有罪と見なすことのできるものである。パラグアイについての外務省による抑制的な記述は、「同一の銃で殺害された」という地元紙の報道を追加するだけで、あからさまな陰謀の気配を感じさせるものとなる。

 以上の歴史的な、あるいは同時代的な事実を、わが国においても現に生じうる危険と見なすのか、一笑に伏すのかは、読者次第ではある。しかし、大杉栄らが殺害された甘粕事件については、ネット上でもそれなりに十分な資料にアクセス可能である。問題は、人々の安全を具体的に保護する立場の人物らに、個々の立場にふさわしい見識が備えられているか否かである。それぞれの地位にある者の実力がそれぞれの役目に対して不足していれば、大国の行く末でさえ、思わぬ状態へと容易に陥ることになるのである。



#以上、本稿の基本的な論旨は、2015年11月に用意したものであるが、下書きのままで放置していたものである。あまりにもハイコンテクストな内容であるために、公的な身分のあるうちに公表することは、さすがに躊躇したのである。ひるがえって、今夏、私自身の身分のみならず、社会的な状況が大きく変わりつつある。その上、本記事に係る主要な考え方は、別記事において、すでに提示している(リンク)。現時点では、公表しても、私自身に対する評価のほかには、影響が極小化されたものと見て良かろう。これが「防災の日」の今日になって、一部を修正しつつ、公開に踏み切る主な理由である。で、つまり、どうすれば良いかについての私の意見は、国民を指導する層がその地位にふさわしいだけの総合的な実力を付けるほかないのでは、というものである。

※1 私は、本記事でも以降の記事でも、『議定書』の内容そのものについて、扱うつもりが当面ない。十分に扱えるだけの系統的な知識に乏しいこともあるが、同書を公然と扱うと、読解力のない読者たちの誤読を招き、余分な反発を受ける可能性があるためである。日本語ではほとんど言及がないので付記しておくと、現在、この書は、ロシア語版なら相当簡単に閲覧可能であるし、日本語でも、インターネット上で国会図書館所蔵の画像データを閲覧できる。掲示板『阿修羅』に掲載されているものは、テキストの写し間違いはさほど見られないようである(が、一言一句確認したわけではない)。

※2 これらの書籍に係る事実関係については、過去の書評において、私は、前提となる知識を欠くがゆえに、それらの書籍に示された事実を正しいと認定するのではなく、「これらの説が本当であるとするならば、好きか嫌いか」という、好悪の話にすり替えたのであるが、読者諸賢は気が付かれたであろうか。そうは読めないとするならば、私の筆力が不足しているということであり、反省しきりである。

※3 オウム真理教事件についても、当然、この理解の枠組みは該当する。が、少なくとも、日本語では、事件全体の構図を理解しようとする試みが存在しており、その資料に比較的容易にアクセスできる。

※4 これを覆す事実があるなどといった具体的な話については、不勉強ゆえ、私は知らない。ウクライナとパラグアイと大正時代のわが国の事例だけでも、話は十分であろう。ただ、最大の被害見込みを見ておく必要があったがゆえに、ここでは第一次世界大戦に言及したまでである。

パラグアイ基礎データ | 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/paraguay/data.html

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