2016年2月12日金曜日

マイナンバーによる世界支配というアイデアは陳腐であり、その実装は現実的ではない

『国際秘密力研究』というブログの主宰者の「菊池」氏の考察は、基本的に信頼に足るものである。少なくとも私は、菊池氏の思考と主張をいちいち後追いすることの価値を認めている。しかし時折、同氏は、疑問符で頭が溢れかえるような記述で私たちを翻弄することがある。私は、菊池氏のそのような記述を、一種の試験問題だと捉えることにしている。

菊池氏の最近の記事に、マイナンバーについての考察がある※1が、この記事の中にも、耳を疑うような記述を認めることができる。マイナンバーは、「国際秘密力集団」の推進する政略であり、ゆえに、わが国の政権与党がどれであろうが推進されるものである※a、というのである。また、菊池氏は、マイナンバー制度を、ズビグネフ・ブレジンスキー氏(Wikipedia)の30年以上前の著書に源流が認められる制度であり、「ブレジンスキーの様な世界有数の狡猾で邪悪な頭脳が生み出した産物」であるというのである。

確かに、マイナンバーを実現に至らしめるだけの条件を整備してきたこと自体は、高度な知性と組織力の発露の結果であり、賞賛に値することである。他方、マイナンバー制度そのものの構想は、「世界有数の狡猾で邪悪な頭脳が生み出した産物」にしては、また、社会保障番号という有効に機能しなかった前例が存在することを思えば、あまりに中二病じみた発想である。仮に、マイナンバーが国際秘密力集団の支配のためのツールであるとすれば、その道具は、あからさまであるだけに、たとえばPRISMと比べても、支配のツールとしての有用性の低さも、同様にあからさまなのである。

マイナンバーを利用した個人支配という発想は、一種の「コロンブスの卵」である。言い換えると、「支配する側の立場で考える」という想像力を持てば、思想を探知して反抗的な個人をどうにかしたいという要求事項を、個人のデータベース化という発想につなげること自体は、誰にでも可能である。マイナンバー制度を支配のシステムとして構想することは、『ヨハネの黙示録』に出てくる「獣の記号」や、豊臣秀吉の検地・刀狩りから徳川幕府の宗門人別改帳までの諸システム、米国の社会保障番号等々の前例や、ジョージ・オーウェル氏の『1984年』(1949)を知っている、後世に生きる者であれば、誰でも思いつけるという点において、発想当時において、すでに陳腐化されたものである。オーウェル氏の発想力は際立っている。しかし、そのモチーフに触れていさえすれば、ブレジンスキー氏程の人物でなくとも、マイナンバー制度は、一定の教養を有する支配的な地位にある者にならば、誰にでも思いつくアイデアに過ぎないのである。

他方で、マイナンバーによってピラミッド型の個人支配を達成しようという企図を実現することは、そのアイデアを思いつくことに比べて、途方もなく困難なことである。そのハードルは、主に三点を挙げることができる。第一に、支配の対象となる人物を常に同定し続けることの難しさがある。第二に、支配の対象となる人物の忠誠度を推量し続けることの難しさがある。第三に、忠義を尽くす人物を利用しつつ支配の体制を貫徹することの難しさがある。

マイナンバー型の支配体制を維持することの難しさの第一は、ある人物を同一人物として同定(identify)し続けることにある。自己同一性を確認するための唯一の確実な手段は、インターフェースと身体が一体化された生体認証、つまりチップの埋込しかない。わが国でも、ようやく住所不定者や死亡した肉親や結婚制度を悪用する、いわゆるID窃盗が現実の問題として認知され始めたが、これらの犯罪は、いずれも、書類上の個人が実際には別人(のよう)である点で共通する。マイナンバーカードを税務処理に利用するだけでは、個人の実際の生活を再現することは、なかなか難しい。風俗店に勤務する女性が請負業として契約する※bという話が、端的な例である。ゆえに、個人の購買行動にまで、マイナンバーカードの利用が企図されるのである。五十嵐太郎氏のいう「スキャナー化された空間」は、逐一、身分証明が要求されるというイメージであるようであるが、そうした空間を確実かつ便利に移動するためには、自己同一性の証明方法は、自ずと身体と一体化せざるを得ない。マイナンバーカードのICチップは、身体の特徴量※cを保存するのに十分な容量を備えている。この結果、マイナンバーへとデータを保存する際に生じる誤りや、複数のマイナンバーカードに同一の身体特徴データが保存されるという誤りを除けば、マイナンバーカードは、一応、人物確認の信頼できる手段として、日本国内では通用するようになるかも知れない。運転免許証が基本的なIDカードとして機能している現況をふまえれば、マイナンバーカードは、行政の縦割り制度に基づく二重行政の端的な表れに過ぎないと見ることも可能なのであるが。

何より、マイナンバーによる支配についての第一点目の問題点の最たるものは、生と死という出来事を同定できないことにある。身寄りのない人物についての死亡の未届を黙認したり、赤ん坊の誕生を見過ごすことは、「生―権力」を司る通常の現代国家であれば、あり得ないことではあるが、福島第一原発事故後の日本国政府からすれば、健康被害の深刻化を他国に開示する作業を先延ばしにできるというメリットがあるために、ホームレスの死亡や死産をあえて現地の担当者の手元に留めておくという誘惑に耐えきることは、困難なことであると言えよう。

第二点目の問題点は、ある人物の忠誠度を測り続けることが可能か否かという、支配者が古来から直面し続けてきた問題である※dこの問題は、ある思想を検討することの自由ほかの思想にとっても必要なことであり、その思想に接すること自体を禁じること誤った結果に至ることがきわめて多いという事実に通じるものがある。「焚書坑儒」を実施した国は、例外なく衰退・滅亡の道を辿っている(、と勝者が歴史を記している)。このことは、たとえば、「一連の書籍の購買行動をもって、危険人物であると同定する」ことが全くの誤りであることを意味する。ここに、「外部からの諫言を取り入れる機能を有さない組織は、失敗する」という、別の大体において真である命題を付け加えると、セキュリティという分野にせよ、何の分野にせよ、知識というものを所掌の組織に閉じ込めることの愚かさを理解できるようになる。いずれにしても、忠誠度を測ることは、データベース処理によってむしろ煩雑になりうることがある。色々と意見を述べておいて、「全部冗談でした」と書き込んでみることは、一つの端的な例ではある。知識そのものは、やはり中立的であり、その意図は、使用者の行動の細部にこそ宿る。この難しさは、以前にも紹介した書籍である(2015年10月30日)が、永井良和, (2011). 『スパイ・爆撃・監視カメラ―人が人を信じないということ』(河出ブックス), 河出書房新社.(リンクにおいてゴフマンの『公共における諸関係』に表れる「ふつうの外見」という概念を援用しながら指摘されている

また、第二点目の問題点に類似する問題として、マイナンバー制度が、運用次第によっては、国民の忠誠心をむしろ失わせる危険性を有することを挙げることができる。国民の自発的服従こそ、支配者にとって理想的な状態である。単独では、この理想的状態の実現が困難であるからこそ、選挙の開票作業にソフトウェアによる操作を加えたり、宗教団体という異なる対象に忠誠を捧げる社会集団の支援を受けた政党の支援に依存するようになるのであるが、そのような姑息な行動は、不正な利益に群がる一部の人間たちに与しない、健全な大衆の反発を招くことにつながる。この反発を抑圧しにかかれば、抑圧への反発は、かえって増大する。それに、不正な利益を求める輩は、所詮、一時の利益で釣られる者たちであるから、金の切れ目が縁の切れ目となる、一時的な味方に過ぎないのである。最近、甘利明氏を告発した男性は、その種の人物の好例である。これらの油断ならない人物を監督する手法の一つとして、マイナンバー制度が用意されたと見ることもできる。しかしながら、マイナンバー制度を悪用した不祥事は、ひとたび生じれば、それに関与した団体や人物にまで、悪印象を植え付けるものとなる。理知的な人物にとっては、マイナンバー制度の不備は、制度構想の時点から、散々指摘されてきたことである。事前に指摘されてきた欠陥を解決できず、不祥事を生じさせたとすれば、良識があり、知識がある国民から見れば、それ見たことか、となり、ますます人心を離反させることになるのである。

第三の問題点は、以前、別稿で、世界の完全支配のためには、可能な人数やネットワークの広がりという条件があり、一度に統制できる人数の相場観というものがあると主張したが、この点に係るものである。この主張は、私の直感に過ぎないとはいえ、以下に示す表によって、戦後の学校教育を受けた日本人なら、ある程度が納得してしまうはずである。組織論の分野において、必ずや、先達がいるはずの話であるので、先達としての栄誉は、先達に帰して欲しい※e

日本人全員を支配するだけの階層は、40人を1名で統制可能であるならば、七層が必要ということになる。何層が必要であるかの計算式は、一どきに支配可能な人数比を$1:n$、人口を$P$とすれば、$$\Bigg\lceil\dfrac{\log{P}}{\log{n}}+1\Bigg\rceil$$となる。表中の勿忘草色の枡※2は、その階層まで用意すれば、日本国民を支配することが可能となる支配の階層である。「企業組織」の欄に掲げた職階は、あくまで適当であり、参考程度に掲げてみたものである。


人数比 企業
組織
1:10 1:15 1:40 1:45
最上層 社長 1 1 1 1
第二層 専務 10 15 40 45
第三層 常務 100 225 1600 2025
第四層 局長 1000 3375 64000 91125
第五層 部長 10000 50625 2560000 4100625
第六層 次長 100000 759375 102400000 184528125
第七層 課長 1000000 11390625 4096000000 8303765625
第八層 係長 10000000 170859375 163840000000 373669453125
第九層 主任 100000000 2562890625 6553600000000 16815125390625
第十層 ヒラ 1000000000 38443359375 262144000000000 756680642578125

こうして見ると、どうにも、マイナンバー制度を通じた支配というコンセプトには、数量的な相場観が反映されていないように思う。直接的な表現に言い換えると、数量的なセンスに欠けているのである。

支配のために機能する組織、たとえば世界各国の警察や軍隊は、全体の編成状況を見るに、かなりの人数が変動すると言われるが、それでも、ある長の直接の指揮下に配属される人数は、ある程度までに収斂している。人数の多寡は、各国の市民の識字率や性格によるところが大きいものと思われる。基本的には、上司の言うことを一度で飲み込めて、あるいは同僚に助けられつつも自発的に指示をこなせるという人数の割合が高ければ高いほど、一度に監督可能な人数は、増大するはずである。

すると、経験的には、一人の日本人一度に支配可能な人数は、最大でも、伝統的な公立学校における学級人数の45名程度ということになるであろう。これでも、1名や2名は必ず落伍者が出て、その統制に多大な労力を要するのが、おおよその場合となろう。ここで示した1:45という比は、成員の自発的な服従と活動を前提として、相当程度の統制を機能させることを前提に組織を編成した場合のことである。つまり、1/45という「不良率」は、成員全員が大人でなければ、機能しないであろうという比率を指す。荒れた学級を見れば分かるとおり、1名だけが荒れているクラスが統制不能になるということは、考えにくいことである。

以前、秘密警察に言及したように、相互不信が蔓延し、組織として遂行される業務に皆が後ろ向きである場合、統制が行き届くためには、支配される2名につき1名の監視者が必要になる。これが実績値である。この1対2という人員比は、「東ドイツという勤勉な国民性」を前提とできる国においてさえ、政府に対する不満が横溢した場合には、それだけの人数比が支配に必要とされる、という格好の例証となる。1名が2名しか監督することができないとすれば、日本人全員を1人が支配するためには、28階層が必要となる。おおよそ、支配を行き届かせるには、非現実的な階層数である。このことを、実際の数値によって見てみることにしよう。

28階層を必要とする1:2のピラミッド型支配システムにおいては、国民の約1/3が支配し支配される役割を担うのであるが、ここで、40人に1人、どの層に属するのかにかかわらず、不良の人物が生じるものと仮定する。40人でも45人でも、実感とは矛盾しないであろう。「どの層にもかかわらず」という仮定は、現政権を見る限り、何ら問題のない仮定である。

すると、このピラミッド型支配システムは、パーコレーション理論における、分岐数$z = 2$、サイトの欠落する確率$1 - p = 0.025 = 1/40$、最大分岐数$L_{max} = 28$のサイト過程のベーテ格子に従うと見ることができる。このため、支配の行き届く人数は、ここで仮定したベーテ格子の平均的なクラスターの大きさを求める問題に帰着すると見ることができる。常に出発点が支配者トップであるという条件が付き、階層数がかなり小さいために、クラスターの平均の大きさ$S$は、パーコレーション理論ですでに示されている式を用いると、常に過大推定となるが、それでも、次式で表される。$T$は、一つの枝から伸びるクラスタの大きさを示す。

\begin{equation} T = (1 - p)0 + p(1 + T) \end{equation} \begin{equation} T = \dfrac{p}{1 - p} \end{equation} \begin{equation} S = 1 + 2T = \dfrac{1 + p}{1 - p} \end{equation}

支配の行き届く確率は、$p = 0.975$であり、分岐数2のベーテ格子が無限大まで伸びることが保証される確率(パーコレーション閾値)は、下記の式で表され、ここでの場合では$p_c = 1$となるため、今回の場合、クラスタ数は無限とはならず、クラスタ内の平均の大きさは、$\bar{S}_{(p = 0.975)} = 79$層となる。

\begin{equation} p_c = \dfrac{1}{z - 1} \end{equation}

なお、この仮定を受け入れた場合、支配人数を無限大にまで広げることは不可能であることが容易に分かる。完全な忠誠を全員に求めることは、基本的に不可能であるためである。

ここで求めた79層というクラスタの大きさは、実は、支配を全体に行き届かせるものではない。直前に求めたクラスタの大きさ、79層は、「層」で表されるものであるため、日本人集団に当てはめた場合には、それなりには最下層まで行き届いているものであるように思われる。しかし、実際のところは、シミュレーションでもしてみないことには、厳密解は得られない。下図は、$L = 20$の場合に、10万回のシミュレーションを実施した結果である。直接的な支配の位階による場合、大抵の場合には3割から4割程度の人口にしか、十分な支配を及ぼすことができないことが良く分かる。結局、社会における支配を成立させているのは、ミシェル・フーコー氏の慧眼通りに、内発性なのである。

図: ピラミッド型の支配($n = 2, p = 0.975$)による
支配の行き届いた割合についてのシミュレーション結果(10万回)

ここら辺の機微を解決するための具体性は、当時のブレジンスキー氏の構想にはなかったように見える。だからこそ、現在、彼のアイデアの綻びが、説明さえしてもらえれば、誰の目にも分かるものとして立ち表れてきているのである。もちろん、『国際秘密力研究』の菊池氏の考察が核心を突くものであるがゆえに、その考察から、ブレジンスキー氏の妄想の非現実性がほの見えるという部分が大きいのかも知れないが。

なお、マイナンバー制度は、現実においても、「国際秘密力集団」が期待するほどには、支配のツールとして機能しないであろう。それは、この制度を悪用して搾取を企む者が、日本人の多くに眠っている怠惰や無責任のDNAを読み損ねているからでもある。日本人を勤勉だとする考え方は、時代を通して、常識として機能してきた訳ではない。でなければ、これほどまで、『男はつらいよ』シリーズや『釣りバカ日誌』シリーズが人気を博してきたということはなかったであろう。植木等氏が一世を風靡した理由も同一である。伊丹十三氏が監督した『マルサの女』は、1987年の公開である。

英語圏で流通する日本人論・日本人像は、なぜか、変に生真面目であり、それが暗黙裏に仮定されており、逆輸入されているようにも見える。その理由が何故であるのか、怠惰な私には、分かりかねているままである。しかしながら、「黒田バズーカ最終形態」のマイナス金利が儚くもポシャったくらいに明確に、日本人の労働ぶりは、「国際秘密力集団」の期待を裏切るであろうし、貯金や年金がゼロになったということになれば、一揆が起こることにもなろう※f。いずれにしても、近い将来、日本国は、「国際秘密力集団」にとって、ラスト・リゾートとしての有用性を早々と失うであろう。

本記事のパーコレーション理論に係る部分は、D.スタウファー, A.アハロニー[著], 小田垣孝[訳], (1994=2001). 『パーコレーションの基本原理』, 吉岡書店.(リンク)の第二章をもっぱら参照した。なお、数理的な考察に係る部分を除けば、本記事に記された考察は、基本的には冗談の一種にしかなりません(棒)。


※1 ツイートまとめ テーマ:「マイナンバー制」はNWO征略そのもの : 国際秘密力研究
http://kokuhiken.exblog.jp/25259823/

※2 日本の伝統色 和色大辞典 - Traditional colors of Japan
http://www.colordic.org/w/
によった。#89c3ebは、勿忘草色、#e9546bは、薔薇色である。


※a わが国のマスメディア報道だけに接している人物にとっては、この主張自体、あまりに陰謀論めいて聞こえ、受け入れることの難しいものであるが、陰謀論者を自認する者にとっては、自明な主張である。私にとって、マイナンバー制度の制定経緯自体は、そのように理解した方が通りが良いので、スルーできる。スルーするな!というツッコミは成立しうるであろうが、スルーしないという選択肢は、ここでは面白くない結果をもたらすであろう。いったんは制度に係る国際的な圧力の存在を認めておく方が、ここでは話を面白く進めることができる。

※b なお、金の流れを的確に掴むことは、テロ対策に必須の作業であるが、 しかし、その作業も、国際的な送金網の中で徹底されなければ、正解に至ることができないものである。この事実を厳格に受け止めることは、現実の金融政策におけるテロ対策業務が円滑に進まないことの背景についての、従来の公的な説明には、何らかの説明が欠けているという事実を認めることにつながる。

※c 顔の目鼻立ち、耳の位置を基本的な特徴量とする顔認証技術が基本になるであろう。容貌は指紋や掌紋、手のひらの静脈認証など、能動的な作業を必要とせずに収集可能な情報であるためである。

※d この話は、現実の私を知る人からすれば、到底、説得力のないものになるのであるが、一応主張しておきたいことがあるので、筆を進めることにする。

※e ここで不勉強なままにアイデアを披瀝した責任を、決して逃れようとする訳ではない。先行研究の未調査は、私の手抜き癖が再度顔を出しただけの話である。

※f 一揆そのものは、戒厳令へと一直線であるために、私としてはぜひとも避けたいシナリオであると考えている。




平成28年9月29日修正

一部、文意を損なう表現を訂正し、淡赤色で示した。




2017(平成29)年7月21日修正

一部を訂正し、薄い橙色で示した。タグを修正し、nofollow属性を自己リンクに追記した。




2018(平成30)年02月03日訂正・追記

永井良和氏の『スパイ・爆撃・監視カメラ』に言及したが、同書では、アーヴィング・ゴフマンの「普通の外見」については言及されているが、ベンヤミンの論じた都市の匿名性については言及されていなかった。この点は、私の誤りである。なぜこのような誤りとなったのか、自分でも再現できない。いずれにしても、訂正してお詫びする。人間は、うっかりしていると、この位に間違えるという良い例とはなったとは思う。訂正箇所は、薄いマゼンダ色で示した。

永井氏の著書については、改めて後日言及する予定。

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