2018年7月2日月曜日

(私事)海を見に行き、「帝国」の今を考えた

2018年7月1日(日)朝の鵠沼海水浴場
2018年7月1日(日)朝のくげぬま海水浴場

一昨日(30日)の夜、私は、以前の記事の「ネコバイス」に従い、突然、海を見に行こうと思い立った。明朝6時、ロードバイクで出発した。「田舎の香水」の残り香を思わずもたっぷりと吸い、自転車に乗りながら泣きながら坂を登る若い女性の横をすっ飛ばし、東海道線の陸橋の上で貨物列車を待っていた鉄女の用意周到ぶりに感心し、その脇の道路で朝の別れを告げるカップルを羨しく一瞥しつつも、自分としては、ひたすらに海を目指した。

日曜朝の鵠沼海水浴場を目の前にした私は、わが国でも「帝国」が完成の域に達しつつあることを実感した。そこでは、東京の木造密集市街地とは異なり、ゆっくりとしたテンポの時間が流れていて、サーファーや月例マラソンのボランティアは、リア充と呼ぶに相応しい人たちに見えた。これらの満ち足りたように見える生活を送ることができる人々と、大切なはずの時間をみすみす差し出して灰色のゾンビと化した私や、日に焼けたホームレスが並存するこの国は、人々の心の中身については、ほかのどの国にも劣らない程度に、幸・不幸の幅広さを誇るのではないか。海辺の人々の人生の眩しさに向き合い、私は、「帝国」に対する自分自身の観念的な理解を一歩進めることができたように思う。とりあえずメモしておく。


陰謀論を真面目に論じる人たちの多くは、人々が幸せに生きていける世の中を目指して、汚名を被る覚悟で、他人と異なる意見を強く主張しているものと思うが、そもそも、陰謀論者の言葉は、この国で幸せに生きているつもりの人たちの心まで、果たして届いているのであろうか。私自身について言えば、陰謀論を扱うことが私自身にとってもやがては経済的なプラスの利益を生じるように、その材料として、本ブログの論考を編んできた。だからこそ、多くの人に本ブログが届くかどうかに構わず、醒めた気持ちで作業を続けられたところがあるし、私事を大切にしてきたつもりでもある。世界の潮目は、今、大きく変わりつつあるが、この海に遊ぶ人たちのどれだけが、この世界に作られた人間社会の歪さを気にして、自分たちが加害者の側にもいることに気が付いているのだろうか。幸せな人々に限らず、私たちの言葉は、どれだけの日本語話者に、まともに届いているのであろうか(。もっとも、陰謀論とされる知識は、活用すれば、世界経済を読む上での武器になるから、市場関係者は、案外、陰謀論を真面目に、しかし陰謀論と誹謗されないように、上手に取り扱っている。『東京マーケットワイド』を毎日観るようになり、飯山一郎氏が主張してきたこの定性的事実を、改めて確認している次第である)。

この国に生きる人々は、この国の社会・経済的構造への理解と自身の地位に対する自覚とは関係なく、幸せを感じたり、不幸に浸っているのではないか。そして、理性ではなく、外部環境に対する当人の幸・不幸に係る認識こそが、世界中に張り巡らされてきた社会・経済システムに対する当人の態度を決定しているのではないか。これは、私の感想に過ぎない。しかし、日曜朝をサーフィンに興じることのできる人たちは、必ずしも、全員が全員、経済的に完全な勝ち組とまでは呼べる人たちではないものの、工夫を重ねることで、上手いこと、幸せな気分を得ているのではないか。そして、自分では外部環境を変えようがないという無力感に打ちのめされない内は、それなりに幸せであって、無意識的にせよ、現状の社会・経済システムを肯定してしまうのではないか。つまり、『マトリックス』に譬えられたヒラリー・クリントン氏の「フィール・グッド」政策は、かなりの部分、わが国では成功し続けているのではないだろうか。

「帝国」の構造的不正は、確かに酷いものではあるが、ただ同時に、一般の人々にとって、この構造は、乗りこなす対象でしかないかのように受け止められているのではないか。この結果、「帝国」に対する当人の態度・この環境から得られる当人の利益・当人の幸せ、の三つの要素は、自己責任の名の下に、強い相互作用を持たないかのように処理されているのではないか。これら三者についての定性的な因果関係は、確かに存在しているのであるが。3.11や、それ以前からの新自由主義による被害からの回復を求め、社会的公正を主張する運動や、これらの正義の実現が必要であるとする態度は、尊いものである。けれども同時に、この三者の関係は、「普通の人たち」にとっては、彼らが採用して我慢し尽くす方法(夫婦共働き・親との同居による介護・少ない子どもの人数)に則る限り、決して乗り越えられない種類のものではない。そうであると大勢が考えるがゆえに、皆が皆の足を引っ張り合う世の中が出現してしまっているのではないか。「普通の人たちが取る方法によらない人物は、負けて当然」という意識は、「普通の人たち」が採らない方法により生きている人々を含めて、われわれの中で、抜き難く存在しているのではないか。てんで生活能力の低い私であっても、我慢し続ければ、何とか生き延びることができるのである(。だからこそ、無料のブログであけすけなことを書けてきたとも付け加えておく。もっとも、数千万の単位の国費や私費が投じられて高められて?きたはずの私の能力が十全に活用されているとは、とても言い難い)。

この「普通の人たち」の現実に対する相場観を変えてゆかない限り、わが国は、このまま漫然と場当たり的な対処を繰り返し、上級国民が一般国民から欲しいものを搾取し続けるという不公正な構造を、今まで以上に固定化するであろう。そこでは、見かけ上の平等は存在する。当人の自己責任・自助努力が強調され、それらに対しては成功があると喧伝される。つまり、「負け組になる自由」もあれば、「頑張る自由」もあるという訳である。

しかし、上級国民が乳児のときから教育される中で獲得する自己肯定感は、一般国民の家庭の子どもたちにとっては、ほとんど高嶺の花である。この結果、ゆとり教育が当初目指したような、自らを主体的にコントロールしてなりたい自分を創造するという目標を目指して弛まなく歩み続けることができる人格は、上級国民の家庭においてのみ育まれることになる。将来、一般国民の世帯の子どもの大多数は、成長しても、従来とと同じ負け組感を味わい続けることになろう。一般国民の子どもたちには、わずかに、スポーツ選手などの道で成功するという道が残され、ごく少数の成功者は、一般国民のロールモデルとされるであろう。しかし、幼少期に自己肯定感をインストールし損なった大多数の一般国民の子どもたちにとって、この細き道は、険しすぎて転落するだけに終わるものであろう。このとき、現状に適応可能な一般国民の子どもたちには、当人たちが許容できる範囲の悲惨な生活があてがわれる一方で、その現実に甘んじることができるように、種々の娯楽が提供されることになろう。

氷河期世代の非正規雇用者層は、ちょうど、今後の社会モデルにおける一般国民の雛型である。どれだけ努力しても報われないという絶望感は、ロスジェネの負け組に共通する感覚であろうが、この現状は、当人の努力不足・キャリア形成不足として、片付けられている。この絶望感は、今のところ、対処可能なものとして社会に理解されている(。でなければ、もう少し、まともな対策が採られるはずである)。この世代が現状に甘んじている限り、この状況は、国民全体が肯定しているものとして、受け止められ続けるであろう。この社会状況下においては、個人の過去の落ち度は、自己責任の名において、当人を断罪する材料として殊更に取り上げられるであろう。しかも、前稿でも言及したように、今後のわれわれは、常に過去の記録に苛まれることになる初の世代である。人生を上手く生き抜けない個人は、粗探しされた上で、当人の責任でそうなったのだと解釈され、晒され続けることになるのである。

この悪しき「貧乏農場」サイクルを生き抜くことは、一人ではなかなか難しい。一般国民なら、何より経済的に苦しいことになるであろうし、そうでなければ、何よりも必要な自己肯定感を生贄にする形で、経済的利益を確保する必要に迫られる。たとえば、犯罪は、当人の心をも苦しめる。この悪しき二者択一を乗り越える上で、大多数の人間にとって、一人のパートナーの存在は、もっとも受け容れやすい選択肢であるはずである。世の中、誰にでもチヤホヤされなければ我慢ならない人物は、存外少ない。上級国民と呼べる人物たちでも、そうである。むしろ彼らは、一般国民よりも、誠実に振舞うことの大事さを体得している。そうであるなら、一般国民も、この選択肢を受け容れ、安価に・かつ・確実に、次世代にこの考え方を体得させていくほか、一旦、固定化された帝国の現状を内部から変革することは、望めないのではないか。

現在の陰謀論の論者たちは、現時点の権力者の一部を追い落とすだけで、理想の社会が実現すると考えているのであろうか。私は、そうは考えないからこそ、現時点の構造を共依存的に支持する大多数の幸福感、という要因を挙げてみたのである。私は、幸福な生活を実践しようとして、大失敗を重ねている最中であるが、自分幸せだと思えなければ、彼らに耳を傾けてすらもらえないのであろうと、波と戯れる人々を見ながら痛感したのである。人は、自分の幸福を守るために、他人の不幸に無関心になるようにできているのかも知れない。


#本稿は、私事と銘打った以上、ある種のお手紙のつもりである。このほかには、本稿でほとんど伝えるべきことがない。私に残ったのは、日焼けのために痛む首筋と、今も残る筋肉痛と、一人でいることの寂寥感だけであった。




2018(平成30)年7月3日訂正

一部の文言を訂正した。

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