2018年7月18日水曜日

(私事)深夜1時(から)の想念

#どうしても悪念を払いきれずに寝付けなくなってしまったので、バッドエンドを見据えた準備を進めることにした。この段階の準備作業とは、いち日本国民に許された方法を使用して、私が自分の体験と感情を整理して、本ブログに掲載するのに問題ない形に仕上げる以上に、何かしらの具体的な行動を起こすものではない。念のため。


別記事(2018年7月4日)で、私は、思い人に対して、自身の心の内を穏当に示し、働きかけたつもりであったが、かの人は、私が相当のことを理解していると自覚しながらも、現状の生活を改める気がないように思われる。私は、先月以降も多くのことを知り、悲しみに溺れる度合いを増しながらも、なお、普通の男から見た場合には、見の姿勢と呼べる範囲に留まることができているように思う。この点(、勝手に私たちと呼ぶなと言われそうであるが)、私たちの状況は、進展してもいないし、後退してもいない。私は、私に許された範囲のことを着々と行う一方で、次の行動に移らないだけの勇気を磨り減らしながら、生き延びている。

と誰との関係であれ、二人の関係は、お互いが相手について知る内容に応じて、刻々と変化するものである。私は、5月下旬の時点で、かの人の生活を必要十分な程度に理解したと確信した上で、その愛情を求めたつもりであった。私は、他人様にコミュ障に思われがちで、現実にはその通りでありながらも、五感を活用した観察人並み程度には得意と思っている。私は、それなりに以前から、かの人が他人に隠しておきたい習慣を有していることを確信していた。その上で、私がその秘密に気付いていることを、かの人が認識していていようがいまいが、それなりに読めるように文章を編み、手紙を渡したのであった。この点、私の最新の二通の手紙は、両方とも、二段底であった。ただ、とも呼べるような二重の表現は、私がより残酷とも呼べる偶然に思い当たり、それに耐えかねて、直接電話して、かの人の秘密に気が付いていることを伝えようとするまで、1か月にわたり、かの人には気付かれなかったようである。これらの手紙がどこまで深く読み込まれたのか、かの人の周りの誰が手紙の存在(あるいは中身と解釈の方法)を知るのかは、私には分かりかねることである。しかし今では、私の思い人は、この人自身に係る私の知識について、おおよそ誤りなく理解しているものと認められよう。

従来ならば、私が説明抜きに拒絶されることも、やむを得なかったかも知れない。刑法学では、故意と過失が厳密に区別される。私の陥った状況においても、故意の有無は、十分に考慮されるべきであろう。かの人に対して、私は、自身の認識を分かりやすく示してはこなかった。このために、私たちの出会いの全てについて、私が十分に思い出せていないと、私の思い人が誤解していたとすれば、その誤解は、私の伝え方が下手だったために生じたものと言えよう。かの人は、私を拒絶する方便として「どうせ私のことを何も知らないくせに」という理由を立てることができたであろう。決してこのように私が断られなかった点、かの人の表面的な優しさは、私には、否定し切れないものがある。

しかし今では、私たち二人は、お互いが何をどこまで知るかについて、従来よりも、段違いに、誤解を正してしまっている。今では、従来の建前によってかの人が私を拒絶できなくなったことを、お互いが知るに至っている。今でも、私は、かの人の生活に対する、きわめて悪質な侵入者に過ぎないのであろう。しかしそれでも、多くの出会いが偶然によるにせよ、また、私たちのやり取りだけが私の基本的な考察の材料であるにせよ、私は、これだけのことを知る(と錯覚した状態)に至っている。私の思い人は、これ以上、自分だけの道を進み続けることができるのか。また、このような行動を取り続けた自分自身と私を許すのかという疑問が、私を捉えて放さないのである。

以前に比べて、私たちには、はるかに心を割った話し合いが必要とされている。たとえば、(2018年7月18日から)117日前のお喋りの中で、かの人が「生きていても仕方が無い」と思わず溢したときよりも。たとえば、1609日前、私が「全てを捧げてくれるのなら、自分も身を擲つ」と、戯れに囁いたときよりも。私は、かの人に先駆けて、自身の過去の誓約を意図せずに果たしたことになる。

私は、当面、今の暮らしを続けることを決めているが、このとき、かの人に許された選択肢は、さほど多くはない。かの人には、今なお、三つ程度の選択肢が可能性として許されているが、人として許されている方法は、一つくらいしかなく、私は、その一つの方法を切望している。私が生ける屍として生きながらも、万が一の嬉しい誤算を考慮しながら生き延びようとするからには、尚更である。

私は、これまでに構成した記憶を、その正しさに対する確信の強さを上回る衝撃と正しさを以て否定されるほか、忘却へと追いやることができそうにない。私には、真実を探り当て・記憶し・伝えるという仕事を生業としてしまった経験があり、その経験を総動員して、今の誤りであるかも知れない記憶を構成してしまっている。私は、自分自身で作り上げた「記憶し続ける社会」の恐ろしさから逃れることができないでいる。私は、一人では、よほど頭を強く打つか・酩酊し続けるか・何事をも忘れられる緊張に身を委ねる位か、とにかく、どうにもならないでいる。


バッドエンドが急速に近付くかのような文章に仕上がったが、これは、夜のなせる業だと思うことにしよう。聞く耳があれば、解が一つしかないことは、誰にとっても明白である。他方で、あえてそうしない人々がいることも、弁えているつもりではある。キルケゴールは、惨めな自分のままで絶望することを望む態度を、反逆と呼んだが、これこそ、悪魔に与えられた役目である。悪魔という象徴によって描かれた愚行を繰り返してしまう程には、私の思い人は、反逆を格好良いものとしては捉えないであろう。格好良い・悪いについて、最後に付言しておけば、私がプロフ写真を変えたのも、格好悪さを追求してのことである。今や私も、道化の列を志す一人という訳である。




2018(平成30)年08月01日02時20分訂正

この記事を書いたときと同様、寝付けなくなったので、分かりにくい部分を訂正した。

7月4日から二週間後に本文を作成したのだが、それからまた、二週間が経過した。非常に長く思えた二週間であった。『チコちゃんに叱られる!』(NHK、本年7月20日放送分)にあった、日常生活にときめきがあ(り過ぎ)るからという説明は、何の慰めにもならない。夜を迎える恐怖感は、高校生のときに観たフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』以来のものである。これがほとんど毎日に及ぶのは、いくら、私のウォーキングの際のBGMが『悪魔城ドラキュラHD』だからといっても、過剰である。

人には自由があるが、その行動には責任が伴う。ある人が、相手のあることで自身の責任を軽くしようとする際には、相手の納得が求められよう。おそらく、私自身は、相手の納得を得られることなく、現時点までの行動を引き受けることになるであろうが、かの人に対しても、同じことが言えよう。将来がバッドエンドを意味するものか、はたまた、かの人の行動によって、未来が安定的なものに推移するかは、私には、量りかねているところである

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