2016年9月10日土曜日

安全保障業界を巡る言説環境の不全性を超駆け足で考察する

#9.11の前に、駆け足で骨格だけを示しておく。

セキュリティ産業には節度が必要である。仲の悪い者同士であろうがなかろうが、鞘から刀を抜く前後で相手の対応が異なるのは、当然のことである。ゆえに、自国民を犠牲とする自作自演劇(inside job)によって、自国民を海外に派兵しようとすることは、国民国家本位の国際社会へと回帰しつつある現代においては、基本的には論外の所行である。例外状態として、為政者には、犠牲者数を大きく上回る国民を今後の被害から救いうるという確信がある場合に、少数の自国民の犠牲を容認するという態度もあり得るかも知れない。しかし、この場合であっても、インサイド・ジョブは、後世に厳しく批判されるであろう。

#国民に予想される犠牲者数の比をもって、国家の自作自演劇を擁護することは、マイケル・サンデル氏の講義によって有名になった話に直結する。カール・シュミット流の政治算術における過半数の無条件的な肯定、その裏返しとしての「3分の2」批判にもつながる。「戦争未亡人」対「臆病者夫婦」という構図で「3分の2」批判はあっという間に論駁できるという直感はあるが、これを理論化することは、なかなか骨が折れそうだという見込みがある。本稿では深入りしない。

国家の行動の是非を一つ一つ論じることには、私の能力の限界もあるために、様々な例外も認められるのかも知れないが、しかしなお、ごく一部の閨閥が自らの所有するセキュリティ企業への利益を図るため(だけ)に、数万単位の家庭に不幸を及ぼすことがあってはならないのは、当然であるとは指摘できよう。9.11は、その真相が国家の不作為により生じた事件と位置付けられるかもしれないが、最初の攻撃によって、数千単位の家庭に不幸をもたらした。国内世論を味方に付けた後の海外派兵は、アメリカ国内に数万以上、国外に数百万の単位で死者を生じさせた。身内に不幸を経験した人々は、数千万人に及び、経済的被害は、十数億人の生活に及ぶであろう。この世界中を巻き込んだ不正は、福島第一原発後のわが国が「戦争屋」の最後の砦と化すに至る直接の原因の一つとなった。9.11とそれに続く連邦政府の対応は、アメリカ合衆国という当時の超大国の財政をデフォルト状態にまで悪化させ、国家に対する同国民の信頼を毀損し、その建国の理念に大いに反する外交によって外国人に見限られる契機となったのである。

#9.11に係る経済的被害の算定は、アメリカ本国に対するものが多数である。これからの作業ということになるのであろうか。海外の被害には、崩壊した国が多く含まれるため、当然、統計も不十分であろう。「戦争屋」に対する制裁を考究する作業は、それぞれの被害国の出身者によっても本格的に進められていることとは思うが、いかんせん、私の能力不足ゆえに、それらの情報へのストレートなアクセスが適わない状態にある。

9.11は、古くはヘイ・マーケット事件などのフレームアップ事件としても見ることが可能な事件であるし、ベトナム戦争以来のショック・ドクトリンが自国民に適用された事例であると見ることが可能な事件ある。冷戦も壮大な仕込みと見ることも可能という話もある。いずれにしても、9.11は、策謀の類型としては、旧来から見られた種類のものである。それでも、ニューヨーク市のランドマークでもあったWTCのツインタワーが崩壊するという絵面の突飛さによって、世界中の一般聴衆は、一時、大いに幻惑された。マスコミ報道によるイメージ操作の強力さは、アフガニスタンへの攻撃のみならず、イラクへの攻撃をも国際社会に容認させかねないほどであった、と言うことができよう。

#その割に、WTC7の崩壊は、多くの人々に認知されておらず、一本の柱の不具合(failure)倒壊が連鎖的かつ非常に速い速度の倒壊に繋がったとする不可解な説明が時の政府側の説明として流通するだけである。

他方、9.11は、PCに弱い人々もインターネットに十分馴染んだ後に行われた、初めての自作自演劇でもある。9.11がいわゆる自作自演であるという見立ては、誰によって流布されたのかはともかくとして、主にインターネットを通じて周知のものとなったと言える。PCを趣味としない人々でも、自宅のPCからインターネット経由で動画を視聴・交換できるようになったことは、9.11に係る非主流派の意見を一部のマニアに留めないという結果を生じさせた。陰謀論を語る側も、それを否定(デバンク)する側も、従来なら、文筆業である、カルトに属するなどのそれなりの動機を有する人物であるとともに、相当の労力をPCに割いていた。この状態に対して、1995年以降に始まるインターネット利用人口の爆発的な増大は、真のアマチュアリズムの余地を創出したのである。

ただし、9.11に係る裾野の広がりは、情報インフラの拡大によるだけではなく、諜報機関の情報活動が作用したためとも考えることができる。15年後の後知恵から見れば、複数の国の諜報機関が、9.11に係る「陰謀論」に関連した情報を流通させたり否定したりという活動に従事したことは、まず間違いないことである。それらの情報活動は、国益を保全または増進するための本来業務である。もちろん、ある組織にとって「見の姿勢」は、常に選択肢の一つとなるが、このことは、必要な情報収集の停止を意味するものではない。そして、この事件についての情報収集作業は、古くはカーニボー、現在はエドワード・スノーデン氏が暴露した(とされる)6つのシステムなどによって、ファイブ・アイズの情報機関に一定の反応を喚起する作業でもある。いずれの作業も、諜報機関の正当な仕事の範疇であって、相互作用を生じるものである。

他方、民間人の側にも、諜報機関のレベルにまでは達しないかもしれないが、自らの行動の帰結を予測しながら陰謀論を取り扱うという、(宮台真司氏風の)再帰的な行動が生じうることは、十分に認められることである。この主張は、わが国でも、3.11後に「エア御用」という用語が流通し始めたようになったことをふまえれば、十分に成立するものである。つまり、(諜報機関や政府の外部にいるという意味での)民間人が将来の私益のために、陰謀論を流布したりデバンクを試みることは、十分にあり得る話である。この民間人は、有する目的次第では、誰にでも後追い可能で動かしようのない事実についてのみ明確な誤りを指摘したり、宇宙人や爬虫人類や地底人類などの荒唐無稽な話を持ち出した上で真実を語ろうとしたり(2016年1月16日)するであろう。テニュアの研究者が嘘を吐くこと、また、その嘘がバレたときに開き直ることは、特に、その嘘がその研究者の国籍にかかる国(民)益とならない場合、民間人としての私益を図るものとみなすことが可能である。

民間人が陰謀論を扱うとき、それ自体を論じるという目的よりも、マネタイズの手段となっている側面を認めることができる。多くの陰謀論を唱えるブロガーのサイトでは、言語を問わず、生計を補助するための手段として、さまざまな商品が紹介され、アフィリエイトまたは通信販売業から利益を得るシステムが構築されていることが、きわめて普遍的に認められる。この状態も、「セット思考」(2016年7月26日)に陥らないための要素還元主義と同じく、陰謀論として言及される話題の中身と、紹介・販売される商品とを切りわけて、個別に評価を行うことが必要である。商品の中身がほかのEコマースサイトに比べて遜色なければ、その点では商売人をけなすべきではないし、商品の中身がほかの販売者の商品よりも劣る場合には、陰謀論に係る指摘がいくら正しいものに見えようとも、この商品の中身については、批判を受けて然るべきであろう。

この状態が広く認められる現状をふまえると、民間人である(かに装う、何らかの背景を有する)人物が陰謀論に言及するとき、自らの客観性に疑問を持たれるということは、半ば必然とも言える。さらに言えば、特定の陰謀論に対して特定の見解を提示することは、言説を注視する情報機関によって、本人が格付けされることにもつながりうる。この現状は、陰謀論を正当に研究しようとする研究者に対して、通常の社会科学研究以上にプリンシプルに依拠することを要求する。このプリンシプルへの依拠は、扱われる話題によっては、本人のほかの言行によっても評価されることになると思われる。つまり、人物同定は、往々にして、「セット思考」が適用されがちなのである。

私益のみを追求しがちな実学である安全保障業界の状態を、第三者から見て客観性を維持しながら、正当な思考に基づき批判することは、公益を実現する上で必要な活動であるが、一国の社会がその活動を保護し、健全な状態に維持することは、相応に困難である。この種の議論に関わる民間人のマネタイズ手法の乏しさと取扱品目の多さと市場規模の狭小さは、この困難さの現れでもある。公的な組織に所属する研究者が知識の産出をカバーすれば良いのであるが、陰謀論に公然と言及する学術研究者は、専門分野が異なるにもかかわらず、ほとんどが特定の「セット思考」を採用しているがゆえに、毒饅頭を食らったものと推認することが可能な者ばかりである。

われわれには、9.11のように、検討すべき事項が大部にわたる事件を扱う場合、知り得なかったり、十分に理解できていないことに対しては沈黙するか、「分からない」と明言することが許されている。9.11は、事前の経緯や、それぞれの旅客機が生じさせた(とされる)被害について、論点が整理されており、非政府側の論者によって、疑問点に係る内容の専門性が高度化されたまま、十分な再説明が政府によって果たされていないという状態にある未解決事件である。この状態まで情報を更新しないまま、現時点においても、子ブッシュ政権下の「セット思考」を適用する人物がわが国ではマスコミや論壇に登場し続けるという状況を鑑みるとき、この状況に対して情報操作の可能性を検討しないことは、相当に知的に怠惰な態度である。これらの学識経験者等に対する毒饅頭の送り主は、複数いるものと認められる。わが国におけるこれらの学識経験者等の存在は、陰謀論として一括りにされたことのある被害について、真相を探るための試みに対する牽制として機能する。わが国のマスコミがあからさまな利益誘導を図る現在では、15年が経過したとはいえ、(また、言語の壁を考えれば、オウム真理教事件こそわが国の陰謀論者に究明が求められる事件であるとはいえ、)9.11の原因と推移に係る考察を進めることは、わが国社会単独では、なかなか難しいことと言えよう。この事件がわが国の国益・国民益に与えうる潜在的なインパクトは、大きいにもかかわらず、である。

被害者学的観点からの考究は、原因に係る真相そのものに触れることなく、巨大な事件による被害者の救済に資するほぼ唯一のアプローチとなり得るが、同種の犯罪の予防に必ずしも役立つとは言えない。わが国においても、被害者学を活かして寄り添うという学問的なスタイルは、東日本大震災に至るまでの間に、ほぼ確立している。とは言え、東京電力を始めとする国際的な原子力業界の無限責任にまで踏み込み、真に被害者に必要十分なだけの回復のリソースを社会から取得する(あるいは、犯人たちから徴収する)という経済的な観点からの検討は、取り返しの付かない程度に立ち後れたものとなっている。これは、現行のスタイルによる被害者学の限界であって、社会構造の問題であるから、個々の研究者を責めるには及ばない。ただ、これだけ大規模の犯罪に対しては、背景の一つとして認められる刑事司法機関と電力業界との関わりを論じない訳にはいかないところ、この課題は、従来の被害者学のアプローチによっては達成できない主題なのである。

わが国における従来型の被害者学的アプローチは、9.11のように、時の政府によりアル・カイダという犯人が名指しされた後の事件を取り扱おうとするときには、犯罪予防上の自由な思索を妨害する批判を提起するものとなり得る。15年経過した現在、9.11については、サウジアラビアの関与も開示情報を通じて明らかとなっている。このような新情報の公開は、従来までの犯人を名指しすることと同様、被害者遺族に対して何らかの影響を与えかねない政治的な行為である。ひるがえって、サウジアラビアの関与を始めとする、アル・カイダ以外の主体の関与を認める考察は、被害者遺族に対して不道徳であるとの批判がなされてきている。犯罪予防を目的とする研究者であれば、結果として考察を誤る前に、センチメンタルな非難を浴びせられることを躊躇せず、自由な心証に基づき、学問に対して忠実に考察を進める方が、結果として被害者に対して誠実であったと後世に評されることになろう。被害者学のアプローチは、この指摘を理解しつつも、それでもなお、被害の様相を掘り起こすことが被害者の利益になるものであるのか、という実存的な問いを投げかけるものになり得るのである。この問い自体は、正当なものである。

犯罪学上の追究から逃れようとする真犯人にとって、現代の被害者学のアプローチは、犯人の追及を躱すために悪用できる余地を有するものである。自身の職務に対して誠実であろうとする関係者は、9.11という事件から、為政者がもっぱら私欲のために一国の行動を決定することがあるという教訓を得ているはずである。当初の一方的な外国侵攻の理由は、数千人の単位の犠牲者であったが、最終的には他国の一億人を超す外国人に同様の悲惨を強いたことになる。わが国では、自称デバンキング作家やそれに連なる一部の学識経験者らは、この見方を根拠なしに否定する。もちろん、私は、ツイン・タワーにミサイルが突入したなどの、後追い作業によって否定側の見解を再現可能な意見に与するつもりはない。しかし、たとえば、テルミット反応によると思しき球体状の金属が大量に発見されているという事実などについて、より整合性の高い反証が行われない限り、自称デバンク側の意見をまるまる採用することは、「ツイン・タワーにミサイル」説を採用することと同様に誤りであとなる。これらの意見の中に、「被害者をそっとしておけ」という指摘を紛れ込ませることにより、自称デバンク側は、事件全体の真実に係る追求を妨害してきた。この構図は、もちろん、東日本大震災にも応用可能である。

福島第一原発事故のように、9.11以上に社会による事後検証が困難な事件において、その検証の困難さが責任者によって悪用されることは、当然のことである。9.11のすべてが人為的な犯罪であるとみることは、自称デバンク側によっても認められている。他方、東日本大震災における地震と津波という災害は、多くの人の知識や考え方に基づけば、自然現象である。人為と自然とが複合的に関与すると見える福島第一原発事故において、本来なら事件の責めを負うべき人脈が、原因を切り分け、人の営みに係る責任を追及し、今後の予防を図ろうとするとする試みを妨害・誘導しようとすることは、当然の行為である。福島第一原発事故については、地震動によって、すでに配管系統が短時間で復旧不能な状態に陥ってしまっていたことを指摘する声もある。これに対して、東電幹部らは、「想定外の津波」にすべての原因を帰そうとしている。また、わが国の従来の原発政策の杜撰さを、死者に帰そうとする試みも、一部に見られる。

#これらの明らかに人為に係る争点に加えて、わが国では公然と語られることはないが、東日本大震災の地震動が人工的なものであるという指摘も、現時点で安易に否定しきることはできないであろう。ただし、その実現方法には、複数の可能性があり得る。このために、われわれがこれらを比較して、実際の記録と整合的な方法を選定するという試みは、秘密研究の成果が明らかにされることがなければ、相当の期間を置いた後のことになろう。また、仮にではあるが、東日本大震災と阪神・淡路大震災がともに人工のものであったとした場合、その解析に係る取っ掛かりの作業は、後者の方が圧倒的に簡単であろう。掘削場所の候補を、後からの文献調査によって確定しやすいためである。

#日本経済新聞平成28(2016)年9月9日夕刊1面4版のトップ記事の見出しは、「北朝鮮が核実験/人工地震、最大の規模/安保理緊急会合へ調整」である。核爆弾によって人工地震が起こることまでは、わが国マスコミの自主検閲の歴史があるとしても、現時点では、誰しも認めざるを得ない、公知の知識である。核実験による人工地震動は、その規模によって、技術の進展状況を把握できる材料となるがゆえに、公式の記録から外されることもあろう。問題の焦点は、人工的に地震を引き起こすことが可能にせよ、地震波の計測網が大規模に整備されている現在、人工的に発生させた地震動を自然のものに偽装することが可能であるか否か、可能であるとすれば、それを他国が判別することが可能か否か、にある。この機微に触れずに人工地震をすべて否定する議論は、背景を疑われて然るべきであろう。

犯人が事件における自身の関与を隠蔽しようとすることは、ほとんど必然的な行為であるが、一部研究者の安易な(または二心ある)研究や言及が、陰謀論の追究のハードルを上げ、犯人を利することは、良くある展開ではある。そのハードルは、研究分野そのものにおけるハードルというよりも、研究に取り掛かることを困難にするという研究環境に係る、メタな観点からのものである。言い換えると、このハードルは、研究活動を一種の社会的活動と見た場合のハードルであり、STS研究の研究対象となり得るものである。このとき、研究者らが責任を分け合うか否かは、研究者としてのプリンシプルに違背していたか否かにろう。つまり、陰謀論を誠実に追究する論考に実際に触れて、これを批判的に検証し、反証を加えたか否か、という実際の行為が評価の対象となる。「汗をかいているか」否かが自称デバンク側の良心を判定する基準となるのである。

しかるところ、わが国では、二心ある研究者が多いためか、実学分野において、カネにならないことを対策として推奨すると、業界から白眼視され、要らぬ背景を詮索されるという伝統も存在する。ムラにカネを運んでこそナンボという風潮と、各ムラにおける大局観の欠如は、福島第一原発事故という破局レベルの犯罪を招来した二大要因と見ることができる。ムラの住民がカネを重視し、大局観を欠如させた判断を下すという実例は、同事故に複数を見ることができる。現時点で最も重視すべき事例は、電源喪失時の原発の安全性に対する疑問が平成18(2006)年12月の時点で共産党衆議院議員の吉井英勝氏により指摘されていたにもかかわらず、当時の総理大臣であった安倍晋三氏が「御指摘の(津波等の発生時の全電源喪失の)ような事態が生じないように安全の確保に万全を期しているところである。」と答弁するに留まり、実質的な対策が施されなかったという経緯を挙げることができる(衆議院サイトInternet Archive)。この答弁書自体、衆議院サイトの「更新」に伴い一時閲覧不能となったことは、当質問書に疚しいところがあるためであろうという陰謀論的な憶測を呼ぶ原因となった2014年04月10日の『のんきに介護』。非常電源の二重系統化は、せいぜいが数千億円で済んだことであろうから、おそらく今後数百年にわたり総計で現在価値にして数京円に及ぶであろう国民への経済的被害に比べれば、微々たる金額であったのだが、改善されずに、現在に見るような事故に至ったのである。この影響の大きさを考えれば、李下に冠を正さずの諺のとおりに振る舞うことがエリート層には求められていたはずであり、この点、陰謀論的な憶測は、むしろ、正当なものであったと評価できよう。

#以上は、いわば公式のストーリーによるものであるが、地震動によってすでに配管系統が現場で対応できないほどに破断していたという指摘もある。

福島第一原発事故は、単に原子力業界という実学分野のみにより招来されたものではない。私の知る範囲で示せば、広義のセキュリティ業界、正確には核安全保障に係るセキュリティ業界の関与も認められるほか、土木・建築業界も、原子力発電所の建設という大規模プロジェクトから多大な恩恵を享受してきた。両業界の関与は、電力企業に天下りする関係省庁の高級官僚の人数からも、深いことが容易に推測できるものである。この明白に権益と認められる状態が放置され、他方で表現の自由レベルに留まる見解に圧力が掛けられることは、随分と偏りのある不公正な状態である。

このとき、ムラの実益になる思索以外を否定することは、実のところ、すべてが金目であるというムラの本音を吐露する傍証になる。この傍証も積み重なれば、かなりの確定的な事実となる。悪を為す者の立場から想像すると、ムラ全体が守銭奴として白眼視されないためにこそ、ムラに奉仕する御用学者は、本来なら、本業に邁進し、核心的な部分についてのみ嘘を吐くといった工夫をしなければならなかった、と言えるであろう。わが国では幸運なことに、この点に係る「セット思考」の重要性を理解するムラの御用学者という存在を、ほとんど見かけることがない。すぐに否定される嘘を重ねる御用学者が普遍的に見られるという、わが国における知的に怠惰な状況は、国益の確保を真に志す各国の人物にとって、仕事のしやすい状況である。

9.11を主導したと見なされる「戦争屋」も、決してこの知的怠慢の例外ではない。本ブログにおいても、いくつか、リチャード・アーミテージ氏の票読みセンスについて(2016年7月25日)など、ほかには見られない種類の批判を提起してきた。わが国において、この批判が注意深い観察の下に置かれてきたことは、十分に確認可能な事実である。また、この事実をゲームのルールとして当てにすれば、私の仕事の大半は、現状にも増して、知識の流通ではなく、ちょっと捻った形での知識の産出を進めることにある。本ブログに溜められた新規性のある知識は、ほとんど十分であると言えよう。コップ満タンの水に、あと一滴がいつ加わるのかは分かりかねるが、私は、そのときが来るまでの間、自らの見立てが正しいか否かを後世に検証可能なように残す作業を進めることとしよう。




平成28(2016)年9月21日修正

文意を変えずに、文章を一部修正した。




平成29(2017)年4月22日追記

本文中にリンクを追記し、段落のbrタグをpタグに変更した。

安倍晋三が「全電源崩壊は起こりえない」という答弁を削除、改ざんか。 - のんきに介護
(忠犬(@gyokkirinn)、2014年04月10日07時25分)
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/89f42f2cab6dbbd5e37a5dbb49175caf
#筆名の変更あり




平成29(2017)年10月18日訂正

本文中の説明の「不具合」を訂正し、薄橙色で示した。




平成29(2017)年11月03日訂正

自己リンクとなるリンクにnofollow属性を付した。

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