2016年9月6日火曜日

「フクシマ」は国際的な関心と圧力を背景に匂わせる表現である(メモ)

 菊池誠氏は、福島第一原発事故を「フクシマ」と片仮名表記することが、福島に住み続けようという意思を持つ人たちの気持ちを考えたものではないという(リンク)が、この指摘は、同氏にしては、珍しい事例である。疑似科学界隈において随分と配慮に欠いた指摘を行ってきた同氏が、構築主義的観点を取り込んだ「理系式」の「野生の理解」を垣間見せるものであるためである。実は、この点をふまえて、私も「野生の理解」ばりに福島第一原発事故の片仮名表記を使い分けている。福島第一原発事故の片仮名表記は、「海外の国民の懸念や心配を背景として、国際問題として構成・実体化された福島第一原発事故」という意味で、用いているのである。

 現地の被害者やわれわれ日本人一般の意思に関わりなく、事故は、国際問題化している。事故に対する国民としての責任の程度がいかなるものであれ、われわれは、事故後という新たなステージに上らされている。この状態は、わが国の国(民)益を維持しようとする「政体」の力が、他国のカウンターパートに比較して脆弱なためである。菊池誠氏のように、国際的に構築された、この間主観的事実を否定しようとすることは、昭和前期の日本における選良の一つの身の処し方であったかも知れないが、21世紀も良いところの現今において、国際的に通用する礼節または教養となり得るかは、相手が判断することである。

 われわれ一般の日本人のうち、かなりの者は、自らの健康・生命や財産が否応なしに現在の「政体」の無力によって、かなり危険な賭けに載せられていることに対して、危機感を明確に表現してはいないが、頭の片隅では、それなりに感じているところもあるのではないかと考える次第である。



 蛇足であるが、インターネットは「野生の思考」を加速する存在である。私は、その泥沼に足を取られている。ただ、従来の学問に乗らないベースの実用的な思考を相当に加速させており、たとえば、掲示板『阿修羅』のカルト板において、一日三回の漫談投稿を行う「ポスト米英待望論」氏のように、ほぼリアルタイムに「ちゃかし系陰謀論」の思考を結実させる偉業(?)が達成される上で必須のインフラとなっている。そこには、恐るべきスピードで去来する情報の存在を認めることができる。私には、この情報を学術的に十分な範囲と程度で消化して血肉としながら、オリジナル感のある新情報を提示することは、できそうにない。

 さらに蛇足。個人的には、『国際秘密力研究』の「菊池」氏の正体を知らないが、なぜ、こちらの菊池氏が大阪大学の教授ではないのかを訝しむ次第である。万が一の場合、二人の「菊池」氏が同一人物であったとするならば、根本から同氏に対する見方を転回する必要に迫られそうである。というか、そうであったとすれば、とても興味深いことである。

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