本日、大阪市の特別区設置に係る住民投票結果は、単なる印象論や記述統計的手法によるのではなく、濃度算と同様の論理で検討されなければならないのではないか、という話をアップした。犯罪学界隈では、「犯罪率と被害率との差」も、同様の検証が必要になるように思われる。
河合幹雄氏の著書『安全神話崩壊のパラドックス』や浜井浩一氏の論説などが(単純化され)理解された結果、ここ15年ほどの刑法犯認知件数の増減、とりわけ前半の急激な悪化は、警察の統計処理によるものであるという意見が有力視されている。しかし、これらの有力説が変化の過半を説明しうるとしても、私には、そのメカニズムは、警察行政単独の作用によるものとは思えない。そして、手口を限る場合、たとえば、空き巣のような侵入窃盗については、前さばきだけが影響するわけではないことを、河合氏自身が認めている。
警察の前さばきだけで変化の全てを説明しようとすると、その説明には無理があることが良く分かる。ほかの要因との交互作用がないと仮定した場合には、以前には前さばきを3件につき1件実施していたところ、それらをすべて中止したということになる。これはこれで一つの結論である。しかし同時に、交互作用やほかの要因を捨象している点を突かれることになる。相対的に小さいとしても、ほかの要因が存在することは、たとえば、集合住宅に対するピッキング犯の増減を見れば明らかである。肯定するにせよ、否定するにせよ、前さばきの機能と、それ以外の要因については、もう少し分析が加えられる余地がある。ここでの説明と形式はまったく異なるが、私は、平成20年の時点で、同じ問題意識から同様の主張を繰り返したことがある。
河合氏の主張は、アブダクションの一種である。アブダクションという論証形式は、基本的には、ある説がある証拠と矛盾しないことを示すものである。その内容があまりに粗雑であれば、居酒屋談義と見分けがつかなくなる。私は、認知件数の減少について、先の主張を示した報告書で、ノルマの存在が斉一的な結果を惹起しうると主張したことがあるが、これもアブダクションの一種である。ノルマを満たすまでは力を入れる必要があるが、ノルマを超えると一息つけるという説明は、ノルマを課せられたことのある者には納得できる話(のはず)である。あるアブダクションに対しては、他の主張も成立しうるし、それらの主張の中には、当初の主張よりもより良い説明を与えるものも含まれるだろう。
前さばき以外の原因や、前さばきとその他の要因との交互作用を確認する作業は、わが国で計量犯罪学研究に取り組む者の宿題である。前さばきは、参与観察などの現場作業により記述・実証できる行為である。被害者あるいは加害者としての経験から前さばきの機能を記述することも可能であろう。しかし、前さばき説を全面的に採用する者にとっては、この説が有力説である以上、この説を深め、その機能を分析する動機は小さなものに留まりうる。他方、前さばきの機能を限定的にとらえようとする者は、皮肉なことであるが、前さばき説が有力説と化した後では、警察行政の担当者に協力してもらえないという事実に行き当たる。これらの理由が相俟って、現在でも、学術的に十分な水準の論考は不足気味である。
誤解のないように補足すると、犯罪統計を利用してグラフを描き、これらを比較するという記述統計的手法は、専門外の者によるものを含め、多数存在する。しかし、繰り返しになるが、これらは、基本的にアブダクションであり、また、時系列グラフを多用するにしても、その考察は静的なものである。前さばきという機能を含め、犯罪情勢という現象は、本来、動的な構造の下にある。このため、その変化は、動的なモデルによっても説明できなければならない。犯罪統計は、被害発生→通報→対処→加害者への対処→被害発生...というように、循環的な構造の中で計上される統計であるため、規範意識などのパラメータの微少な変化が結果に対して指数関数的に影響しないとも限らないのである。
エリオット・ソーバー氏の『科学と証拠』は、アブダクションという論証の形式を理解する上で、とても良い書籍だと思う。屋根裏のグレムリンという比喩は、一読に値する。
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