2017年3月28日火曜日

神はサイコロを振らない(ので重大事件も本当なら決定論で説明可能である)

佐藤優氏の論考には、しばしば、「民族や国家にも運・不運がある」という表現が見られるが、私は、この表現を「制限時間内には分析しきれないほどの複雑な関係を内に含むブラックボックス」であるとして解釈することにしている。孫崎享氏と佐藤氏は、各々の著書を通じて密かに批判の応酬を繰り広げているようである。孫崎氏が佐藤氏に向けて著書に暗に秘めたかの批判は、私が佐藤氏の表現を先のように解釈することについて、一定の論拠を与えてくれるものである。このように、私は孫崎氏の話を自身に都合良く解釈している。

佐藤氏の『日米開戦の真実』(2006年7月, 小学館)は、大川周明氏の二本の論説に解説を加えるという構成を取る書籍であるが、現に、わが国の地政学上の位置を指して冒頭の表現を指摘する(p.6)。この指摘そのものは、その通りである。少なくとも、地政学という一種のモデルにおいて、地理は、所与の条件である。しかし、孫崎氏の『日米開戦の正体』(2015年5月, 祥伝社)は、多数の自叙伝や日記等を通じて、日本が対米宣戦布告するまでの過程において、わが国においても、政策決定に影響を及ぼしうる者の中に開戦を避けようとする議論が多く見られたことを指摘する。日露戦争以後、満州における権益を不当に拡大しようとした軍部が、戦術的には大成功ではあるが長期的には大きな問題を引き起こすような謀略・工作を実施してしまい、対米戦争を避けようとする外交活動に制約が生まれる。この積み重ね・繰り返しが、日本を満州へ、次いで全中国へ、最後には南方へと出兵させる動因となる。このような解釈を可能とする材料を、孫崎氏は提示している(。そう私は読んだ)。

他方、孫崎氏の『日米開戦の正体』の構成は、氏の解釈に基づき、その折々のターニングポイントを提示し、何が欠落していたのかを考察するものであり、その体裁は、フローチャートを頭の中に彷彿とさせるものである。(怠け者なので、実際に作成するのは、長生きできたらにしたい。)誤解なきように明記するが、佐藤氏によって解説される大川周明氏の論説は、両方とも、当否は措くとして、十分に因果関係を追える内容である。佐藤氏の解説においても、すべてを運・不運として片付けている訳ではないことは、当然過ぎるほどである。しかし、孫崎氏の主張には、アメリカが満州における権益を主張したのは、偶然というよりも計算の上であるという主張が込められている。私の穿ち読みによれば、あたかも、孫崎氏の記述は、佐藤氏の指摘するように、大平洋を挟み日米両国が位置するという地理的側面が偶然であるにしても、その地理への対処の仕方には、その時々における選択肢が少ないながらも存在し、その時々の選択を経た上での複数の展開があり得た、と主張するかのようである。この読後感が「実際には細小で多数のコミュニケーションの積み上げが決定論的に作用しているが、歴史を後から巨視的にみれば、その過程は、全体的には運としか表現しようのないブラックボックスとしてしか把握することができない」といった、冒頭の印象につながってしまうのである。

システム思考は、分からなければ、かつ、問題が起きなければ、「処理」の部分はブラックボックスでかまわないとする思想でもある。実際のところ、歴史を、すべての人々の全思考・行動の過程ならびにそれらの行動の相互作用の帰結であると定義すると、歴史の全体を細部まで把握することなど、人間には無理なことである。観察が不可能であるためである。だから、観察者である人間は、どこかで観察を省略し、足らざる部分を何らかの方法で補完し、全体像を把握しようとする。その補われる程度が、解釈の当否にも深浅にも影響する。その程度問題こそが人間の批評精神の発揮されうる場でもある。実際のキャリアにおける確執は置いておいて、その違いが、佐藤氏と孫崎氏のスタンスにも現れているように思われてしまうのである。両名ともが論壇で活躍できることは、日本語環境において、インテリジェンスという分野の考察を行う上での好条件である、というのが本稿のオチである。

題名は、アルバート・アインシュタイン氏による、論争を引き起こした言であるが、本稿に紹介した密かな応酬にこそ相応しいと考えたために採用した次第である。

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