『ヘーゲル初期哲学論集』(平凡社ライブラリー、2013年)所収の教授資格取得論文「惑星の軌道に関する哲学的論文」(1801年)[1]は、予断を以て臨むと、従来指摘されてきたような致命的な誤りを補論に含むだけでなく、どうにも、ニュートン力学全体に対する敵意を払拭できていないように読めてしまう。訳者の村上恭一氏の解説によると、この論文に対する後世の批判は、補論に対して集中しており、論文全体が不問に付せられることとなった〔p.519〕という。その補論は、太陽系における惑星同士の距離が等比級数状となっているとの主張を、思弁的に展開するものである。ニュートン力学に対するヘーゲルの誤解・難癖は、ほかにも本文中に複数を認めることができるが、それらは、現代の中等理科教育を修めた者からすれば、何とも据わりの悪いものである。万有引力による円運動における慣性力の方向が円の接線上、進行方向であるとする誤り〔p.329〕は、訳注にも指摘されており、これは翻訳書のミスを引き継いだものではないかと、村上氏は解説している〔pp.389-392の訳注34〕※1。また、完全に誤りとまでは言えないが、天体の質点を仮構的な存在とするモデリングの有用性を一旦は認めながら〔p.324、注20〕も、ニュートン力学が力を分割して考察するという方法を否定する辺り〔pp.327-329〕は、およそ、整合的な態度ではない。ヘーゲルがいかなる合理的な理由に基づいてこのような記述に至ったのか、私には(、モーメントを意図していたの?などと、適当には理由を予想できるものの)、その思考を追い切れない。
本ブログが考えるヘーゲルの失敗の理由は、もちろん、高校物理に係るものではない;ヘーゲルは、実のところ、フリーメーソンのグランドマスターでもあったというニュートンに対して敵意を有していたために、ニュートン力学に対しても個人攻撃を試みるあまり、『プリンピキア』に対する誤読が甚だしく、突飛な補論についても、自己検証を欠いたのではないか。これが、下衆(である私)の勘繰りというものである(。つまり、これが、ヘーゲルの誤りの原因として、採用可能なアブダクションの一つである)。以前も触れた(2017年8月28日)が、改めて考えてみ(て、一部の内容を微妙に変更す)ると、弁証法が提唱された事情について、彼が単なる走狗であった場合、(昭和の)仮面ライダー的なキャラであった※2場合、国際秘密力集団とは無関係ながらも弁証法のアイデア自体が偶然に一致した場合、という三通りを、仮想的には考えることができる。本記事に見たヘーゲルの誤りは、このうちの残念なものが真実であったという可能性を高めている。とりわけ、先に言及した補論の内容は、現代においても有神論的な神秘主義者が良く主張する種類の宇宙観に良く類似する。悪感情と先入観に基づき、先人の思考を追っているからこそ(、私がヘーゲルの思考を追い切れないのと同様に)、ヘーゲルは、ニュートン力学の全体を捉え損なったのではないか。ヘーゲルの思考のうちに、オカルトが入り込む余地は存在しなかったのか。
このような読み方は、真面目に科学史に取り組んでいる研究者たちにとって、迷惑この上ないことかも知れないが、これでも私は、組織犯罪・権力犯罪における最重要事例の歴史を追究しているつもりである。国際的な権力ネットワーク(=国際秘密力集団)の存在自体は、現代においては、間違いなく真である(と、私は考えている)。ただ、その歴史と悪意の範囲がどこまで広がりを有するのかについては、人により見解が異なるようである(。ただ、いわゆる啓蒙時代における西欧貴族社会や、西欧の秘密結社のうち、著名なものについては、その内実が闘争か協力かを問わなければ、これまた関係が深いものと確実に主張できそうである)。彼らの影響力の範囲を大掴みしておくことは、現代の様相を理解する上でも、必ず役に立つ種類の作業であろう。ただ、わが国の倫理教育を見るに、高校までの教科書に留まる内容だけでは、この種の興味を満たすことはできない(。ただし、わが国の倫理教育は、国際秘密力集団の全貌を理解する上で、必要な内容を網羅している)。私が抱いている種類の疑いを確認するためには、疑いのかけられている人物について、原文と当時の事情に通じた解説書が必要である。日本語でこのような書籍に安価に接することができるということは、大変に恵まれたことである。逆に、仮に、この種の悪意を有する権力集団が現実のものであるとするならば、日本人の大多数は、世界の実相を理解するための材料を十分に手にしながら、みすみす、その機会を逃しているということになる。
#通常、好き嫌いという感情は、社会科学において言及すること自体を避けられがちであるように見える。しかし、この感情は、ヘイトについては主題として取り上げられるように、世界を動かす大きな要因の一つである。犯罪や戦争を考察する場合にも、必ず考慮されるべき要素である。STS研究においては、特定個人の他者に対する好悪が科学研究という活動に影響するという可能性は、考慮されているのかも知れないが、この話を前面に押し出した議論を展開し過ぎると、自らの土台を掘り崩すことにもなろう(。ラポールと社会的身分は、どの研究でも重要である)。
もちろん、ヘーゲルの立ち位置についての私の疑いは、(私の中でこそ、鉄板レベルであるが、)仮説に過ぎない。ただ、神意によって(←適当)惑星が等比級数状の距離で分布しているなどという考え方は、自然科学に馴染んだ者であれば、当時の思考水準であっても、一蹴できそうに思われる。当時の実態こそ私には分かりかねるものの、仮に、ヘーゲルが現役であるうちに、当時の知識人がこの論文に対する決定的な反駁を加えることが定性的に可能であったとすれば、この補論は、国際秘密力集団によって、ヘーゲルの裏切りを抑制するために加えられた一種の保険であったという場合をも可能性に含むことができる。自分でも、相当に猜疑心の強い理解であるとは思うが、現代における国際秘密力集団のリサイクル手法(2017年9月7日)を参照すれば、可能性がまったくのゼロという訳でもあるまい。逆に、自然科学の発展に比べれば、人々を脅す技術は、200年以上が経過しても、ほとんど進歩していないとも言えそうである。
※1 これは、一応、私にも一回目に通読したときに指摘できたことであるので、訳注だけに頼らない形で提示しても構わないであろう。また、この誤りは、些末かつしばしば起こる誤りではあるが、飯山一郎氏の掲示板『放知技』における佐野千遥氏と「木枯し紋次郎」氏との論戦において、「木枯し紋次郎」氏が提示した誤り(リンク)と同種である。この誤りを佐野氏が指摘しなかったことは、佐野氏の古典物理学に対する理解の程度を暴露するものである。時の経つのは早いものである。
※2 いわゆる平成ライダーは、残念ながら、現在、小学館『ビッグコミック・スピリッツ』で連載中の『風都探偵』を含め、一番大事な構図を強調する姿勢に欠けているように見えてしまう。その重要な構図とは、人類の敵に育成された主人公が、人類という種に味方して、同族に立ち向かうというところである。
[1] G.W.F.ヘーゲル〔著〕, 村上恭一〔訳〕, (2013). 『ヘーゲル初期哲学論集』, 平凡社ライブラリー.
#本記事のファイル名については、市村操一氏の「Publish, or perish!「出版せよ、しからずんば死を」」, 『東京成徳大学臨床心理学研究』, 13,2013年.を参考とした。
2018(平成30)年1月27日追記
ニュートンとヘーゲルは、本人の器量を示すのに、うってつけの先人のようである;文春新書の池上彰氏と佐藤優氏の対談本『新・戦争論』(2014)[2]は、「新帝国主義」に係る佐藤氏の次の発言を掲載している。
〔p.243〕この後、佐藤氏は、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』[3]の冒頭を引用しながら、世界大戦を避けるべく活動したいと抱負を述べる〔p.250〕。世界大戦を避けるという目的には全面的に賛同できるし、「新帝国主義」の時代であるという佐藤氏の説明には、先の説明の不確かさを除けば、納得できる。しかし、dynamic equilibrium modelの内容が何を意図しているのか、私にはとんと分からない。おおよそ、各国の力関係で交渉の内容が決まるということを意図しているのであろうとまでは分かる(。ある1つの物体に対して、互いに逆向きの2つの力を加えるということであろうか。そうであるなら、完全に2つの力が同じ大きさでない限り、力を加えられた物体は、どこまでも等加速度運動をしてしまうことになるし、力の向きが真逆でなければ、やはり合力の方向にどこまでも等加速度運動することになる(。これこそ、パートナーシップというやつである)。もちろん、ここでは、古典力学の範囲内で、意地悪になるように、モデルを想定してみている)。外交面においては、ニュートン的な力学モデルです。すなわち力による均衡。新帝国主義国は、相手国の立場を考えずに自国の立場を最大限に主張する。相手国が怯み、国際社会が沈黙するなら、そのまま権益を強化していく。他方、相手国が必死に抵抗し、国際社会も「やり過ぎだ」と言う場合には譲歩する。それは心を入れ替えたからではなくて、譲歩をしたほうが結果として、自己の利益を極大化できるという判断によるものです。
これは、非常に古典的な力学モデルで、ある意味では、新自由主義的、新古典派的な市場モデルと似ています。強いて言うと、動学的均衡モデルに似ている国際関係です。そういうことを強調したいので、「新帝国主義」という言葉を打ち出したわけなのです。
この見当外れの比喩がなかりせば、佐藤優氏の主張をより受容しやすくなるのにと思う「理系」の皆様は、圧倒的に多数派ではなかろうか。もっとも、ここで提言された改善策(=物理学なり経済学なり、数学を利用する学問分野の喩えを用いて見当外れとなることを避けよ)は、実行されないものと予測できる。現に、佐藤氏の理系に係る記述に対して、多くの批判がインターネット上に見られるが、それらが顧みられた形跡は、佐藤氏の近著から読み取れない。
一例だけ、佐藤優氏が外野の批判に対して過剰とも形容できる形で反応した事例が存在するが、これこそが日本の論壇の不毛を象徴する事例でもある;金光翔氏による「〈佐藤優現象〉批判」である。論文自体の出来は、2007年往時の私には、真似できない高度な内容ではある(。良くできているために、金氏の論文は、宣伝工作の一種として、佐藤氏には認定されたのではないか。この疑いを、私は、捨てきれていない)。佐藤氏には、自身の執筆活動を「召命」と見做している節がある。この佐藤氏の使命感は、金氏の論文を、文字通りの挑戦として受け取る理由として機能したように思われる。国=日本語の言論界を守る戦いという訳である。金氏が事後に岩波書店を解雇された話は、それなりに知られているし、加えて、それ以後、インターネット上で、金氏が論客として活躍できているという形跡を、私は見付けることができていない。この点、佐藤氏の意図がいかなるものであれ、佐藤氏が出版業界に対して築き上げた彼自身の影響力は、日本語の論壇を豊かにしたものとは、私には思えないのである。加えて、佐藤氏自身が、自己の評判を維持するためにも自己の誤りを修正するという習慣を職業的に形成したとは読めない辺り、つまり、出版業界が佐藤氏を従来以上に支援しているとは見えない辺り、出版不況には、何らかの構造的な問題が潜んでいるとしか思えないのである。金氏を社会的に排除して生じた結果が論壇の不毛さを増したという批判こそは、実は、私が未完としていた昨年の記事(2017年4月26日)のトリに持ってくる予定の話であった(。このため、本記事を以て、先の記事の続きとさせてもらう)。
佐藤優氏は、両建て構造を日本の出版業界に打ち立てたが、その後の日本語の論壇は、結果的には不毛さを増した。この点を示唆するヒントとして、私は、以前の論考(2017年3月28日)において、孫崎享氏も佐藤優氏も読める日本語論壇こそが良い旨を述べたことがある。日本(語)の出版界は、道義的にも、経済上も、また国家安全保障上も、金光翔氏を発掘し直す努力を払う義務がある。佐藤氏が金氏を排除するよう要請した当時の事情も、その努力によって、一層明らかになろうというものである。
#蛇足であるが、近々言及するつもりの話を、一段落だけで言及しておく。
池上氏は、ジャーナリストとしては優秀であると思う。佐藤氏が「ジャーナリストの職業的良心に基づいて、一貫して行動する〔p.252〕」と評することは、正当であると思う。知識人としては、語らなければならないことを語るべきときに語っていないので、失格である。エドワード・サイード氏※3やハンナ・アーレント氏の主張やその顛末を考慮すると、わが国の大多数の学者・研究者は、何とも意気地のない人物で多くが占められている。ジャーナリストは、(取材源について、)語りたくないことを語らなくとも良いという例外を認められているので、ジャーナリストとして、池上氏が優秀であるとすることはできるであろう。なお、『新・戦争論』においては、私から見て大事と思えることは、ほとんどすべて、佐藤氏が語っている。
※3 年末年始に、『知識人とは何か』[4]を超・久しぶりに読み返した。内容をすっかり忘れていたものの、本ブログが同書の劣化コピー的な内容となっていたことに気が付き、恥じ入った次第である(。異なる環境下で、同様の結論・心情に達する個人がいたということは、サイード氏の主張が普遍的な内容を有し得ることを意味する。逆(=私の主張が一般性を有する)は、必ずしも成立しないが、していたとすれば、それは嬉しいことである)。和訳書の解説は、姜尚中氏によるが、最近のテレビ・コメンテータとしての氏から受ける無力な印象は、この解説を記した頃の気持ちを忘れてるんじゃね?とも見えてしまう。ついでであるが、アマゾンの書評に☆1つを付けた連中で、現今の構造的暴力について声を上げ、自分でケツを拭いた(=経済的に独立した)人物がいるとすれば、大変な驚きである。ま、そんな奴は、これらのアマゾンの書評者の中には、一人もいないであろう(。ここでの根拠は、アマゾンの日本語サイトにおいて私の知る顕名の批評者が小谷野敦氏くらいである、というものである)。これは、図らずも、日本国民の限界というものを示しているのであろう。言論や知識の正確性に対して責任を有している人物たちの、生活上の要請から生じた小市民(たいじんの反対語の意味での小人)振りが、わが国の生存に係る主要なボトルネックである。この点、西部邁氏は、自身の主張を通すために、アカデミック・キャリアからドロップアウトした時点で、東京大学の助教授という十分な肩書きを利用できたとはいえ、見習うべき経済上の経歴を辿ったのではなかろうか。これは、どのような理由があろうとも自殺がアホらしい行為であると思う私としては、精一杯のお悔やみのつもりである(。終末期の痛みを除くための麻薬なら、私は使用を認容する。あと、トランプ政権以後も西部氏が日米同盟を許容しなかった理由も疑問である。追々、調べる可能性はゼロではないが、私に言わせれば、知識が足りない)。
[2] 池上彰・佐藤優, (2014.11). 『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』, (文春新書 1000), 東京:文藝春秋.
[3] ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 - Wikipedia
(2018年1月26日閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB18%E6%97%A5
[4] Edward W. Said〔著〕,大橋洋一〔訳〕, (1993=1998).『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー), 東京:平凡社.
2018(平成30)年1月27日訂正
一部、事実関係に係る誤りを訂正した(というより、自己発見した)。
2018(平成30)年1月31日修正
一部、文言を修正した。
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