私が身代を滅ぼす程度のゲーム中毒でもあることは、読者にはバレているところであろうが、今回は、その話である。とはいえ、本ブログの意図する内容と無関係の話ではない。安倍晋三氏が利己的な存在であることを、私がいかにキャラ付けしているかの説明である。飯山一郎氏が主張するように、利己的な存在が政治家であると仮定するならば、彼らの行動原理をとことん利己的なものとして解釈した方が、現在の森友疑惑の背景にある闘争を理解できるし、その行く末を期待を持たずに見守ることができようというものである。今回の話は、あくまで、より良い理解のための補助線である。
『ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)』というテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム(略称TRPG)は、会話とルールブックとサイコロを道具立てとする、幻想世界を主な舞台とするゲームであり、RPGの嚆矢である。1960年代以降の心理学の発展を受けて、ロール・プレイがセラピーの一手法として確立したことをも受け、1974年に登場した。現在の(選択肢を有する)サウンドノベルの源流にあたるゲーム・ブックとともに、現在までに至るコンピュータRPGの原型を創造した。軍事学や防災訓練における図上演習は、実のところ、この辺の話とも関係を有する(が、この点に触れる防災研究者は、ほぼいない)。
#脱線。陰謀論マニアには、Steve Jackson Gamesの『Illuminati』のカードデッキは良く知られた存在であるが、Steve Jackson氏は、ゲーム・ブックの創生期に活躍した一人でもある。なお、『D&D』等のTRPGに対しては、登場以後、アメリカ国内では「悪魔のゲーム」という宗教的な批判も存在しており、これらの批判への対応のために理論化が図られたという、わが国とは異なる事情を作家・翻訳者の安田均氏が解説していた(はずである)。
本題。優れたゲームは、現実の理解にも役立てられるような方略を提供することがある。囲碁や将棋の例を見れば、優れたゲームが世界を現実に変えており、日中韓という問題含みの国際関係における友好関係にも役立っていることは、十分に理解できる。また、囲碁や将棋は、諺や慣用句といった形で文化上の大きな要素となっていることも言うまでもなかろう。私自身は、囲碁や将棋を嗜んではいないが、本段落のここまでの指摘は、そう外れたものではないだろう。今回の指摘は、『D&D』のルールに示されるキャラクターの性格設定も、現実の理解に役立つというものである。
『D&D』のキャラクターの性格設定である「アラインメント」(alignment)は、「秩序・中立・混沌」(lawful, neutral, chaotic)と「善・中立・悪」(good, neutral, evil)との2軸からなる9種類である。基本的には、この設定は変更されておらず、ゲームにおいて、プレイヤーがキャラクターを演じる際の指針(プリンシプル)をなしている。解釈には多少の差が見られるが、おおよそ「秩序~混沌」の軸は、法や既存の秩序に沿うか否かを意味しており、「善~悪」の軸は、キャラクターが利他的であるか自己本位であるかを指す。『Star Wars』エピソード4~6の帝国皇帝は、Lawful-Evilであるという説明をどこかで読んだ遠い記憶がある。ハン・ソロは、登場時はともかく、行動の全体を通じてみれば、Chaotic-Goodと説明されることになる。
実のところ、この二元配置モデルは、わが国の官僚の多数がLawful-Evilであることを説明する上で重宝する。外国の映画に見るような汚職警官も同じ枠に収めることができるし、映画的テンプレ上のナチス・ドイツや大日本帝国も同様である。場合によっては、彼らの一部は、自身に課せられたルールをも都合良く逸脱するので、Neutral-Evilであると説明できるかも知れない。いずれにしても、Lawful-Neutral-Chaoticの軸上の配置によって、看守による捕虜の虐待の頻度(つまり組織内における逸脱行為の確率)などを表現することができるのである。Chaoticなら好き放題に虐待するであろうし、Lawfulなら自制が効くであろう。Neutralなら、状況次第であり、都合良く通達や要綱の解釈を曲げることもするであろう。近年の右派犯罪学等においては、日和見または機会主義(oppotunistic)という語が重要な地位を占めているが、日和見的なキャラクターは、Neutralに相当すると解釈しても良いであろう。
この二軸の組は、法匪という語を的確に位置付ける上でも役立つが、それだけではなく、日本人の組織人の大半が善を積極的に志向せず、他人にも強要しない一方で、秩序を志向する傾向がある(つまり、Lawfulではある)ということを表現する上で、非常に役立つ。また、「チームのため」を強要する人物が必ずしも善ではないことも示唆する。日本人の組織人には、かなりの割合でLawful-Neutralが含まれるのであり、Lawful-GoodやLawful-Evilは比較的少数派ではないか、という可能性が見込まれる。杓子定規とは、Lawful-Neutralか、Lawful-Evilを指す形容であり、ここに日本ならではの失敗に至る陥穽が潜んでいるようにも思うのである。組織内で語られる「個人としては良い人」という表現は、この二軸から生じるジレンマを部分的に表現するものである。郷原信郎氏の指摘であるが、「合法でありさえすれば何でもあり」症候群である。吉本隆明氏の思想も、この点を曲解されて、ビートたけし氏の「赤信号みんなで渡れば怖くない」の表現のように悪用される余地があったという点で、脆弱であり得ると評しうる。
わが国では、この二元配置のうち、Chaotic-Goodは個人の生き方として評価されない一方で、Lawful-Evilは「抜け目ない」などと評価される。この対立関係は、上掲したように『Star Wars』シリーズ(Ep.4~6)の世界観でもあるし、大資本が投じられた近年の多くのPCゲームの世界観でもある。この対立を煽る思想は、もちろん、「国際秘密力集団」の両建て構造に由来しよう。しかし、わが国では、『アノニマス』が渋谷でゴミ拾いするという行動に変質したことを鑑みれば、この対立関係は、幼少期以降に社会規範が内面化される過程において、すでに決着が付けられるよう、何らかの諸力が作用していると見て良いのであろう。3月22日のロンドンにおける自動車暴走事件は、テロ集団ネットワークの関与したテロ事件であると報じられており、その点自体については報道が嘘を吐いているということはないが、わが国においてより高い頻度で生じている故意の暴走事件は、いずれも犯人個人に由来する、自己本位のものである。
少々脱線する。赤木智彦氏は「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」で、生活に由来する個人の閉塞感を、戦争への期待感へと転嫁する心性を説明していたが、この心性も、故意の暴走事件と同様、利己的な欲求に根差して全体の便益を減少させる点で、Evilである。赤木氏は、「けっきょく、『自己責任』 ですか」と題した批判への応答の中で、わが国では革命が成功しないという趣旨を述べているが、利己に駆動された革命が、利己思想の蔓延した社会で成功しないことは、当然である。功利主義的側面から赤木氏の提起した課題に対して誰かが回答しているのかは分かりかねるが、功利主義からみれば、赤木氏の提起した問題は非常に簡素なモデルで提示可能ということになる。いずれも後知恵であるが。
#さらに脱線。現状と比べると興味深いことであるが、Neutral-Neutralは、生き方の理想の一つとして確立されている。老荘思想と仏教における中庸思想、無常観に影響を受けているものと思われるが、『徒然草』から『雨ニモ負ケズ』まで、「なるようになるさ」「自然のままに生きる」志向は、日本人の人生観の中枢を占めるようにも思われる。リチャード・ターガート・マーフィー氏の『日本 呪縛の構図』は、窓際族・引きこもりなどの現象に触れてはいるが、この状態を成立させる上での重大要因である無常観・諦観への言及が欠落しており、日本人の問題発生時において行動を駆動させる原理の主要部分を見落としたものともなっている。逆を言えば、この伝統的で強固な社会観に着目した優れた研究が存在していないか、マーフィー氏が見落としたことになる。もちろん、この種の諦観は、研究を「机の抽斗効果」(desk-drawer effect)に向かわせる諸力と親和的である。「登載されるか放逐されるか」(publish or perish)なんて考え方は、肉食系過ぎて、草食系の考え方である無常観とは、対極にある。
官僚の多数がEvilであることは、彼らの提起する政策が、基本的には狭いコミュニティを利するものでしかないという点から証明することができる。福島第一原発事故は、この構造・傾向をより顕著にしている。たとえば、「食べて応援」という施策は、受益者が汚染地域の生産者・買い叩く流通業者・汚染地域での生産を制限することにより批判を受けることがない政策立案者・政治家である一方で、負担者は国民一般である。東京電力という企業の救済も同様である。いずれも、最終的には、立案に関与した官僚らの個人責任を回避し、天下りを可能にするという点で自己の利益を維持・増進するものであると言える。なお、利己的であるという特徴=プリンシプルは、容易に囚人のジレンマに陥るものである。つまり、便益全体の最大化を図ることが苦手あるいは不可能という結果に至るものである。
善悪の定義を功利主義ふうに解釈する(=利他・利己に区別する)という『D&D』のアラインメントというルールは、何だか世界をも説明できた気になるため、特に学術上の根拠がないものとはいえ、ついつい濫用してしまう。濫用の例を挙げれば、安倍晋三氏は、私の中では、Neutral-Evilである。何だったらカオティックである。悪(Evil)が自己本位というところがミソであろう。自分勝手という語は、Lawful-Evilという性格を的確に連想させる表現ではない。また、「他者の便益の増進を図る」という功利主義的な表現は、人情味のないものに聞こえるが、これが善(Good)ということになる。
人間の行動に係る人間の理解(この分野を扱う学問は、行動科学に限られない。たとえば、宗教学や文学や美術や哲学も。)は、何だかんだ言って発展しているので、その影響をゲームが受けないわけでもない。逆に、ゲームの多くは、現実を抽象化=モデル化したものであるから、そのモデル化が成功したものであるとき、現実へのフィードバックが生じるのも当然である。現実を説明する、つまりモデル化する上でもゲームは有用という訳である。もうそろそろ半世紀を迎えようとしている(その根はパルプ・フィクションにあるので、根源自体は一世紀を迎えるということになるのかも知れないが)古典的ゲームが、これだけ類似のゲームが氾濫する中でも残り続けているのには、理由がないわけではない。もっと明け透けに言えば、ユングやフロイトよりも、よほど人間の行動原理を縮約して説明できている点、優秀であると主張することもできよう。イドとかエゴって何よ?モデルとしては全然エレガントじゃねえよ、という訳である。
最後であるが、森友疑惑の構図について。『D&D』のゲームをベースとする小説『ドラゴンランス戦記』シリーズ(英語だと3部作)の末尾には、「悪は、お互いに食い合う」のような表現が出てきたはずである(。正確に覚えていられないのが、私のクオリティであるし、ネタバレは申し訳ない)。現状の森友疑惑が噴出した後の関係者の行動には、自己保存行動という語が最も当てはまる。とすれば、ジャパン・ハンドラーズと仲違いした今後、国民益の増進という崇高な理念に根差した行動を安倍氏が取ると期待するよりも、感情に基づく闘争が単に継続すると見た方が妥当であろう。ただ、この感情のもつれから生じた混乱に乗じて、福島第一原発事故を終息させる対策に安倍氏自身が本腰を入れるとすれば、マッチポンプとも批判されるかもしれないが、安倍氏は、本当に歴史に残ることとなろう。飯山氏のごく最近の安倍氏ヨイショはこの大転換を狙ったものであると、飯山氏の主張を私は好意的に解釈している。きわめて分の悪い賭けだとは考えるが。
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