本稿では、ジョン・M・L・ヤング, 後藤牧人〔訳〕, 川口一彦〔監修〕. (1984=2010)『徒歩で中国へ:古代アジアの伝道記録』, イーグレープ.[1]〔以下、本書とする。〕(AmazonへのURL)について、読書メモを示す。なお、英語版の原書については、ネット上で閲覧できる[2]。ヤング氏自身の内心を正確に理解するには、原著を確認する必要がある。
本書は、景教の伝道と普及・衰亡までを概観し、衰退の理由を考察するもので、ヤング師〔以後は敬称を氏で統一〕の修士論文が底本。中国における景教は、ネストリウス派ではなく、アンテオケ学派の内容を備えていたとする。中国に伝播した景教において始まった死者礼拝あるいは祖先祭儀の習慣を、中国文化へのコンテクスチュアライゼーション(文脈化)を反映したものである一方、衰退の原因でもある〔p.194等〕と推察する。
本書の第3章〔pp.56-57〕に、広隆寺・その通称である太秦寺の謂れ・弥勒菩薩についての記述があるが、訳書では、参考文献として挙げられるP.Y.Saeki(1951)『The Nestonian Documents and Relics in China』[3]を含め、直接に参照した文献が示されない。なお、「P.Y.サエキ」は、「景教博士」と呼ばれた佐伯好郎氏が、同書を記す際に示した名である※1。ヤング氏は
手島氏によると603年に建てられたもともとの建物は、キリスト教建築であって
と記すが、この手島氏が誰であるのか、訳書では出所を欠く。また、ヤング氏は、佐伯氏が太秦(うずまさ)をアラム語のイェシュ・メシャッハはメシヤの意)であると主張したとも指摘するが、本訳書ではこの出所が明確な形で示されない。また、広隆寺の弥勒菩薩像について、ギリシャ神話のメタトロン神から影響を受けている、とヤング氏は指摘するが、これも明確な出所がない(ゆえに、この記述はヤング氏の観察に基づく結論である、と訳書を読んだ読者は推認することになる)。
本書の第9章〔pp.191-193〕では、先祖供養の要素を中国において導入した景教に伝教大師(最澄、天台宗)と弘法大師(空海、真言宗)が接触したために、日本の仏教にも先祖供養の伝統が持ち込まれた、と、M.アネサキ(1963)『History of Japanese Religion』, Charles E. Tuttle.を参照しつつ、分析する(。前掲書の著者は姉崎正治氏。出版年が没後(1949年没)であるのは、版を重ねたためか)。
私には、以上に示した本書に係るいずれの記述にも、大きな誤りがあるとまでは思えない。とはいえ、学術においてなら問題となる程度の不備は、以上に見たように訳書には存在するし、この不備に伴う政治性を扱うには(、また以下注でも扱う話題についても同様であるが)、十分な注意が必要である。また、この先の事実確認を進めるには、まず、英語原書を手掛かりに佐伯氏の著作に当たる方が、早かろうし、何より正確である。
※1佐伯氏のクリスチャンネームは、Peter[4]。なお、佐伯氏は、秦氏が古代ユダヤ人に由来するという点で、日猶同祖論を概ね肯定した。Wikipedia英語版の"Hata Clan"[5]に1908年提唱との記述があるが、原典は不明。本書監修者の川口氏は、佐伯氏に係るここまでの指摘事項を必要十分にカバーする記事を『クリスチャン・トゥデイ』紙に寄稿している[6]が、その記事中、佐伯氏の日猶同祖論について、ユダヤ大資本の導入を企図するために根拠なく提唱したものと批判する。
読書メモは以上であるが、原著者のヤング氏は、この政治性に十分に注意した結果、本書の題名を採用し(、また、題名については、訳者の後藤氏は、忠実に原典の意図を踏襲し)たとも読める。
(その名が出てきたため、脱線して記しておくと、また、本段落以降も、本稿のごとき低水準のメモを公開する目的の一つとなるが、)なぜ、ネストリウス派による主イエスの神性・人性に対する解釈が異端とされたのか、また、なぜ、量子論が研究されている現代においてすら同派に対する異端との言挙げが撤回されぬのか、私には理解し難い。単性説・両性説・単意説・合性説等々は、とっくのとうに、観察不能性という観点から考察し直せたのではあるまいか。少なくとも、「"単性説" "両性説" "観察" "二重性"」というクエリをググらせてみても、日本語ではクリスチャンのものと明確に認められる議論が返ってこない。女神転生シリーズの信者が西村博之版2ちゃんねる(sc)にどこかからコピペした記述の断片[7]が、何なら一番、私の疑問に答え得るような努力を(同シリーズを崇める目的の下で)払った結果、何となく私の疑問に係る考察をしてみせたかのような配列を提示している。クリスチャンにとっては、「主イエスが(罪なき人として)十字架に掛けられた」ことだけが、大事なのではあるまいか。議論は必要であろうが、この話題は、直前のカギカッコに含まれる考えを持ちつつも意見を異にする相手が父なる神により救われぬとの言明を公に示すに十分な深刻さを持つものとは、私には思えない。他面、ユニテリアンについては、(イエスを人であるとのみ考える派を含むがゆえ、ただでさえ高等批評が必要であると考えてまとまりのない結果に陥っている)私には扱いかねるものの、それでも、ユニテリアンもまた、クリスチャンが迫害する対象としてはならないとも言えるのではあるまいか。
(私もある程度はこのカテゴリーに含まれるつもりであるが、)四福音書の内容を信じる者は、観察可能性を念頭に、主イエスの神性と人性の二重状態を信じるほかなく、信じる者ならクリスチャンであるといった程度に、緩く捉えるべきではあるまいか(。この私見が各種信条の形成過程を押さえぬものであることは、重々自覚はするが)。人間として主イエスが十字架までの生を生きたとすると、(また、単性説の説明は、時間軸において途切れることなく人性か神性かのいずれかを有するとの副バージョンを含み、この副バージョンによるならば、という条件を必要とはするものの、)数々の奇跡の説明が付かない。しかし、主イエスを取り巻くごく近傍(、たとえば、衣の房)に父なる神が奇跡を起こされていたという説明は、断然、成立する。神性のみで一貫するとする解釈は、創世記において示されたアダムによる罪を(人としての)イエスの血が贖ったという理解を成立させぬ点では、困難を抱える。が、同時に、紀元1世紀前後から現在に至るまでの人間の観察不能性を考慮すれば、無下に否定できるものでもない。ただ、正直、かくもつまんねぇ話で、権力争いどころか流血に至る種類の対立を繰り広げてきたものである、と、これまでこの課題に関わってきた「聖職者」達を評価できるのみである。しかし、この一方で、これらの無駄に(文字通りの)真剣な考察があって初めて、20世紀以降のごく微小なスケールでの物理学における観察可能性の議論がここまで進んできたものとも考えうる。ゆえ、神の采配ならびにこれを慕い求める人間の努力には、無駄など一切ないのかも知れない(。とはいえ、やはり、私には、現在のキリスト教の歴史において、相当程度、無用に血が流されてきた、としか思えない)。
なお、クリスチャン・トゥデイ紙については、(己を現代のキリストであると自称するという)ダビデ張こと張在亨のグループとの関係性が指摘されており、このうち、キリスト新聞社の記事[8] には、一定の信憑性が認められるように思う。このややこしい指摘をふまえると、研究者は、よくよく、持論の正確性や己の社会的な地位等に基づく正統性がカルトに悪用されぬよう、注意し身を処す必要があるのではあるまいか。要注意人物共が(第三者には)どこまでも野放しと見えるままに存分に活動する今の世の中は、確かに邪悪である。この世の邪悪に対抗するためには、クリスチャンこそが学術上の瑕疵を生じない程度の警戒心を絶やさぬことが必要であるとも思える。本稿に見た程度に、景教を巡る研究そのものに相当の政治性を看取できるが、その政治性に対し、ここに見た研究者の複数名が、期せずしてか学術上の水準を満たさぬ成果を世に問うているためである。
公平のため述べておくと、私は、あくまで事実を事実として受け止めた上で、罪が主イエスにより赦されると信じる者についてはそうあって欲しいと祈る。この点、事実を歪めることは、人間が他者に対し施す赦しに伴う行為を、誤った内容のものとしてしまいかねない。父なる神は、間違いなく、全人類の全行為を把握されているであろうけれども、である。
[1] 徒歩で中国へ : 古代アジアの伝道記録|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
(2023年8月9日確認)
https://id.ndl.go.jp/bib/000010882243
[2] By Foot To China: Mission of The Church of the East, to 1400
(2023年8月9日確認)
http://www.aina.org/books/bftc/bftc.htm
[3] The Nestorian documents and relics in China - 国立国会図書館デジタルコレクション
(P.Y.サエキ、2023年8月6日確認)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1675728
[4] P. Y. Saeki - Wikipedia
(2023年8月6日確認)
https://en.wikipedia.org/wiki/P._Y._Saeki
[5] Hata clan - Wikipedia
(2023年8月6日確認)
https://en.wikipedia.org/wiki/Hata_clan
[6] 新・景教のたどった道(57)景教を日本に紹介した人々(1)佐伯好郎 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ
(2021年8月17日11:51、川口一彦)
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29861/20210817/shin-keikyo-57.htm
[7] 愛の道阿修羅 真・女神転生ウィッチオブフォローワーズ2
(2021年12月4日~)
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/gamerpg/1638628217/
[8] ダビデ張グループ脱会者が緊急声明 消えぬ苦痛 報復に怯える日々 2018年10月11日 - キリスト新聞社ホームページ
(2018年10月11日)
http://www.kirishin.com/2018/10/06/19090/
2023(令和5)年8月15日訂正・補足
私自身の当初からの執筆意図を曲げぬよう、本文を一部訂正した。
私の意図を明確に改めて述べておく;原著者のヤング氏については、間違いなく、景教研究を巡る日本での事情を踏まえ、題名含めた内容を注意深く執筆したことが原著の内容から読み取れる。事実を事実として記すことは、研究の基本である。これを曲げると、後世の研究者に余計な負担を掛けるだけでなく、彼らからの誤解も呼びかねないこととなる。私からすれば、ヤング氏の著書を正確に和訳することに、何らかの問題があったとは思えない(が、己に対する嫌がらせ等を見極める作業を通じて、日本人全般に対し一律となる・アッサンブラージュと呼べる種類の言論統制が存在することを理解するにも至っており、こう意見表明すること自体がトリガーとなっていることを重々自覚もする。しかし、この再帰性を込みにしたとしても、正しく原著を訳した方が、結果的には、各人にとっての公平な判定を(死後に)受けることができるのではあるまいか。なお、ここで誰からの判定と明記しなかったのは、当然ながら、クリスチャンであろうと非キリスト者であろうと、好き好きに解釈できる余地を残したためである)。
なお、恥ずかしながら、ごく最近まで、アラム語が存続の危機にあるという話がディープ・ステイト共の策略の一つである可能性に気付いていなかった。(トランプ政権より前の米国を主たる暴力装置としつつ、そこに関与する米国人達の心身をも傷付けてきた)イラクからシリアに至る地域を対象としたグローバルな戦争屋共の策謀は、聖書に係る歴史修正主義の実践をも兼ねていた可能性が高かろう。正統なクリスチャンを自認する者達がどのように本件に係る己の責任に気付き行動を改めることになるかについては、皆目見当が付かない。が、この点についての事実の解明・被害者達への補償もまた、当然、戦後に必要な営みであるのではあるまいか。この点に係る動きの(今の権力を保持していると大多数から見える者共からの)ゼロ回答ぶりを考えると、まだまだ、我々は、第三次世界大戦の渦中に置かれ続けることになるのであろうか。