2018年7月18日水曜日

(私事)深夜1時(から)の想念

#どうしても悪念を払いきれずに寝付けなくなってしまったので、バッドエンドを見据えた準備を進めることにした。この段階の準備作業とは、いち日本国民に許された方法を使用して、私が自分の体験と感情を整理して、本ブログに掲載するのに問題ない形に仕上げる以上に、何かしらの具体的な行動を起こすものではない。念のため。


別記事(2018年7月4日)で、私は、思い人に対して、自身の心の内を穏当に示し、働きかけたつもりであったが、かの人は、私が相当のことを理解していると自覚しながらも、現状の生活を改める気がないように思われる。私は、先月以降も多くのことを知り、悲しみに溺れる度合いを増しながらも、なお、普通の男から見た場合には、見の姿勢と呼べる範囲に留まることができているように思う。この点(、勝手に私たちと呼ぶなと言われそうであるが)、私たちの状況は、進展してもいないし、後退してもいない。私は、私に許された範囲のことを着々と行う一方で、次の行動に移らないだけの勇気を磨り減らしながら、生き延びている。

と誰との関係であれ、二人の関係は、お互いが相手について知る内容に応じて、刻々と変化するものである。私は、5月下旬の時点で、かの人の生活を必要十分な程度に理解したと確信した上で、その愛情を求めたつもりであった。私は、他人様にコミュ障に思われがちで、現実にはその通りでありながらも、五感を活用した観察人並み程度には得意と思っている。私は、それなりに以前から、かの人が他人に隠しておきたい習慣を有していることを確信していた。その上で、私がその秘密に気付いていることを、かの人が認識していていようがいまいが、それなりに読めるように文章を編み、手紙を渡したのであった。この点、私の最新の二通の手紙は、両方とも、二段底であった。ただ、とも呼べるような二重の表現は、私がより残酷とも呼べる偶然に思い当たり、それに耐えかねて、直接電話して、かの人の秘密に気が付いていることを伝えようとするまで、1か月にわたり、かの人には気付かれなかったようである。これらの手紙がどこまで深く読み込まれたのか、かの人の周りの誰が手紙の存在(あるいは中身と解釈の方法)を知るのかは、私には分かりかねることである。しかし今では、私の思い人は、この人自身に係る私の知識について、おおよそ誤りなく理解しているものと認められよう。

従来ならば、私が説明抜きに拒絶されることも、やむを得なかったかも知れない。刑法学では、故意と過失が厳密に区別される。私の陥った状況においても、故意の有無は、十分に考慮されるべきであろう。かの人に対して、私は、自身の認識を分かりやすく示してはこなかった。このために、私たちの出会いの全てについて、私が十分に思い出せていないと、私の思い人が誤解していたとすれば、その誤解は、私の伝え方が下手だったために生じたものと言えよう。かの人は、私を拒絶する方便として「どうせ私のことを何も知らないくせに」という理由を立てることができたであろう。決してこのように私が断られなかった点、かの人の表面的な優しさは、私には、否定し切れないものがある。

しかし今では、私たち二人は、お互いが何をどこまで知るかについて、従来よりも、段違いに、誤解を正してしまっている。今では、従来の建前によってかの人が私を拒絶できなくなったことを、お互いが知るに至っている。今でも、私は、かの人の生活に対する、きわめて悪質な侵入者に過ぎないのであろう。しかしそれでも、多くの出会いが偶然によるにせよ、また、私たちのやり取りだけが私の基本的な考察の材料であるにせよ、私は、これだけのことを知る(と錯覚した状態)に至っている。私の思い人は、これ以上、自分だけの道を進み続けることができるのか。また、このような行動を取り続けた自分自身と私を許すのかという疑問が、私を捉えて放さないのである。

以前に比べて、私たちには、はるかに心を割った話し合いが必要とされている。たとえば、(2018年7月18日から)117日前のお喋りの中で、かの人が「生きていても仕方が無い」と思わず溢したときよりも。たとえば、1609日前、私が「全てを捧げてくれるのなら、自分も身を擲つ」と、戯れに囁いたときよりも。私は、かの人に先駆けて、自身の過去の誓約を意図せずに果たしたことになる。

私は、当面、今の暮らしを続けることを決めているが、このとき、かの人に許された選択肢は、さほど多くはない。かの人には、今なお、三つ程度の選択肢が可能性として許されているが、人として許されている方法は、一つくらいしかなく、私は、その一つの方法を切望している。私が生ける屍として生きながらも、万が一の嬉しい誤算を考慮しながら生き延びようとするからには、尚更である。

私は、これまでに構成した記憶を、その正しさに対する確信の強さを上回る衝撃と正しさを以て否定されるほか、忘却へと追いやることができそうにない。私には、真実を探り当て・記憶し・伝えるという仕事を生業としてしまった経験があり、その経験を総動員して、今の誤りであるかも知れない記憶を構成してしまっている。私は、自分自身で作り上げた「記憶し続ける社会」の恐ろしさから逃れることができないでいる。私は、一人では、よほど頭を強く打つか・酩酊し続けるか・何事をも忘れられる緊張に身を委ねる位か、とにかく、どうにもならないでいる。


バッドエンドが急速に近付くかのような文章に仕上がったが、これは、夜のなせる業だと思うことにしよう。聞く耳があれば、解が一つしかないことは、誰にとっても明白である。他方で、あえてそうしない人々がいることも、弁えているつもりではある。キルケゴールは、惨めな自分のままで絶望することを望む態度を、反逆と呼んだが、これこそ、悪魔に与えられた役目である。悪魔という象徴によって描かれた愚行を繰り返してしまう程には、私の思い人は、反逆を格好良いものとしては捉えないであろう。格好良い・悪いについて、最後に付言しておけば、私がプロフ写真を変えたのも、格好悪さを追求してのことである。今や私も、道化の列を志す一人という訳である。




2018(平成30)年08月01日02時20分訂正

この記事を書いたときと同様、寝付けなくなったので、分かりにくい部分を訂正した。

7月4日から二週間後に本文を作成したのだが、それからまた、二週間が経過した。非常に長く思えた二週間であった。『チコちゃんに叱られる!』(NHK、本年7月20日放送分)にあった、日常生活にときめきがあ(り過ぎ)るからという説明は、何の慰めにもならない。夜を迎える恐怖感は、高校生のときに観たフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』以来のものである。これがほとんど毎日に及ぶのは、いくら、私のウォーキングの際のBGMが『悪魔城ドラキュラHD』だからといっても、過剰である。

人には自由があるが、その行動には責任が伴う。ある人が、相手のあることで自身の責任を軽くしようとする際には、相手の納得が求められよう。おそらく、私自身は、相手の納得を得られることなく、現時点までの行動を引き受けることになるであろうが、かの人に対しても、同じことが言えよう。将来がバッドエンドを意味するものか、はたまた、かの人の行動によって、未来が安定的なものに推移するかは、私には、量りかねているところである

2018年7月16日月曜日

(メモ)『ヘーゲル法哲学批判序説』を陰謀論者として読む(1)

まったく、ドイツの歴史が自讃しているのは、歴史の領域でどんな国民もまだやったこともなく、今後も真似することもあるまいと思われるような動きである。すなわち、われわれは近代諸国民と革命を共にしないで、ただ復古だけを共にしたのであった。われわれのところで復古がおこなわれたのは、第一に、他の諸国民があえて革命をおこなったからであり、そして第二に、他の諸国民が反革命の厄にあったからであり、はじめはわが国の支配者たちが恐怖を感じたからであり、次にはわが国の支配者たちが恐怖を感じなかったからである。われわれは、われわれの牧者を先頭に立てて、ついにたった一度だけ自由の社会に加わったのであるが、それは自由の社会のであった。

カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844, 岩波文庫1974年版, 城塚登訳, p.74)は、冒頭のような段落を含むが、このマルクスの記述は、彼自身を稀代の二枚舌と解釈できるようなテクストをほかにも残していることを考慮すれば、何らかの誘い受けであると読めてしまうものである。というのも、その後のわが国は、現に、明治維新という名の王政復古を成し遂げたからである。どこから出版のカネが出ていたのかを考慮すれば、この種のアジテーションは、常に、諸刃の剣として機能する。あらゆる知識・情報は、大破壊を企図する側にも、その抑止を願う側にも、活用可能なものとして開かれている。

明治維新の流血の度合いの少なさは、流血に対する当時の世相のスタンダードを考慮すれば、やはり特殊なケースと考えても良かろう。諸外国に完全な支配を許さなかったこともまた、当時のわが国において、マルクスの知性の水準と同等の集合的知性が発揮された結果と解釈できる。当時の知性と同等の悪知恵を発揮することができれば、わが国もまた、TPP11なり何なりを乗りこなすことができるやも知れない。が、現状では、その時代を見ることが私にも叶うのか否か、甚だ疑わしいことである(。何十年かかることやら、という意味である。念のため)。

私は、(都内に出掛けるのが大変という)現在の住環境を前提に、古典をダラダラ読みつつあるが、その作業を進める度に、陰謀論とされる諸説までを視野に含めて、真剣に過去の書籍を読み解き、その成果を世に問う日本語著者の人数の少なさを感じてしまう。もっとも、ポスト真実時代において、陰謀論を真正面から論じて否定するという方法論が通用しなくなったためか、現在の陰謀論否定論のトレンドは、相当に狭い分野の(歴史学などの)研究実績を梃子として、陰謀論の諸説全てを否定するという、誇大理論の形式を応用するものへと移行したように見える。これは、譬えて言えば、「私は林檎について研究して社会に認められた。林檎は果物であるので、私は(存在もしていない)蜜柑泥棒を許せない。」と主張するかのようなものである。このようなレベルの藁人形論法のおかしさは、真っ当に陰謀論とされる諸説を検証する人々には、とっくにお見通しであろうが、Googleアラートは、まあまあの人数のアホが、マスコミのヨイショに騙されて、この種の誤謬が流通していることを報告してくる。この点、わが国では、(大日本帝国=ナチ連合の衣鉢を引き継いだ)Aチームの方が、陰謀論を道具主義的に利用している分、陰謀論とされがちな諸説の本質に迫る理解を有していると言えよう。他方、2018年現時点のわが国において、Bチーム側マスコミの陰謀論に対する理解は、浅薄で役に立たないものである。両建てを乗りこなす上で、マスコミのヨイショと偏向報道は、明らかな障害である。

2018年7月15日日曜日

(メモ)日銀ETF購入額

金子勝氏は、日銀のETFの大量買いを批判していた[1]が、7月に入り、日銀の「その他株式」の買いのペースは、6月最終週の毎日ペースから週1ペースとなり、落ち着いたものと見える(図と文末の表を参照)。これらの図と表は、日銀が随時公開しているデータ[2]を再加工したものである(。そうしておいた方が、私自身の考察に役立つというだけの理由である。2018年7月16日:役に立つか分からないが、XLSX形式ファイルをアップした)。

7月の第1週は、円安なのに日経平均安という、市場メディア関係者を惑わせるような傾向が見られた。この不可思議さは、それまでの日銀ETFの買支えがなくなったことによるものかも知れない。2018年6月最終週の毎日ペースが突出してはいるが、均してみた場合には、2017年以降のペースと、さほど変わらないもののように見える。タイミングが良ければ、他者の資金を市場に呼び込み、購入額以上に株価を変えることが(可能性としては)あり得るだけに、金額そのもので判断する訳にもいかないのであろうが。


図 日銀ETF等購入額(週別合計:2016年1月第1週~2018年7月第2週)
図 日銀ETF購入額(週別合計:2016年1月第1週~2018年7月第2週)

同時に、現在の値動きについては、海外勢が売り傾向であったという側面にも着目すべきかとは思うが、そこはそれ、無償の機械可読性の高いデータの存否の確認も含めて、いずれ行うかも知れない程度に、約束を止めておきたい。


[1] 国債が売れず…ついに売買不成立が今年6回目の異常事態|日刊ゲンダイDIGITAL
(2018年07月11日)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/233028/1

一方、日銀によるETF(指数連動型上場投信)買いもすさまじい勢いだ。6月の中旬以降、ほぼ連日買っている。1回当たり703億円買っているので、2週間で7000億円も株を買い上げている計算だ。そして、年金、共済、ゆうちょから国債を買って株を買わせる。安倍内閣の支持率を下げないためだろう。

[2] 指数連動型上場投資信託受益権(ETF)および不動産投資法人投資口(J-REIT)の買入結果
(更新日不定;2018年7月13日確認)
https://www3.boj.or.jp/market/jp/menu_etf.htm


表 日銀(人材・設備投資)ETF購入額(週別合計:2016年1月第1週~2018年7月第2週)


日曜
その他
株式
人材設備
投資ETF
J-REIT
2016/12/270 0
2016/01/031073 48
2016/01/10704 24
2016/01/171056 24
2016/01/24352 12
2016/01/31990 36
2016/02/071320 36
2016/02/14330  
2016/02/21   
2016/02/28  12
2016/03/06672  
2016/03/13   
2016/03/20  12
2016/03/27336 12
2016/04/036666024
2016/04/106666024
2016/04/1733360 
2016/04/249994824
2016/05/016812424
2016/05/086966024
2016/05/15 6048
2016/05/226966036
2016/05/296986012
2016/06/0514006036
2016/06/1210506012
2016/06/197006024
2016/06/2635060 
2016/07/0313446024
2016/07/10 60 
2016/07/176724812
2016/07/246726012
2016/07/3114016048
2016/08/0770748 
2016/08/14 6012
2016/08/21141460 
2016/08/28 6012
2016/09/04146660 
2016/09/1129326036
2016/09/1873336 
2016/09/25293260 
2016/10/02 6036
2016/10/0970748 
2016/10/16 60 
2016/10/2314146036
2016/10/3028264838
2016/11/067066026
2016/11/13 6026
2016/11/20 4813
2016/11/27144860 
2016/12/0474260 
2016/12/1114846013
2016/12/1822264826
2016/12/2522266013
2017/01/017033613
2017/01/087034812
2017/01/1521096012
2017/01/2270360 
2017/01/2921096024
2017/02/057046012
2017/02/1214086012
2017/02/19140860 
2017/02/267046048
2017/03/057246024
2017/03/1221726012
2017/03/1914484812
2017/03/267246036
2017/04/0214506036
2017/04/0929006024
2017/04/167256012
2017/04/23 6024
2017/04/30 24 
2017/05/0772760 
2017/05/1421816024
2017/05/21 6024
2017/05/287276012
2017/06/04145660 
2017/06/1172860 
2017/06/187286048
2017/06/257286048
2017/07/027076024
2017/07/097076036
2017/07/1614144812
2017/07/23141460 
2017/07/30146660 
2017/08/0621994824
2017/08/1314666024
2017/08/207336024
2017/08/277336012
2017/09/0322176036
2017/09/10 6024
2017/09/1773948 
2017/09/2414786048
2017/10/01 6012
2017/10/08 4813
2017/10/15 6039
2017/10/22 6052
2017/10/2914184813
2017/11/05143460 
2017/11/12215160 
2017/11/19143448 
2017/11/26143460 
2017/12/03141660 
2017/12/10212460 
2017/12/177086036
2017/12/2470860 
2017/12/31 24 
2018/01/07147048 
2018/01/147356012
2018/01/2114706012
2018/01/2814666036
2018/02/0421936036
2018/02/117314824
2018/02/18146260 
2018/02/2521976048
2018/03/047356024
2018/03/11147060 
2018/03/1829404824
2018/03/2514706012
2018/04/0114286012
2018/04/08 6012
2018/04/15 60 
2018/04/2271460 
2018/04/29 24 
2018/05/06144060 
2018/05/13 6024
2018/05/2021606036
2018/05/2721606036
2018/06/03 60 
2018/06/1070360 
2018/06/17281260 
2018/06/2435156024
2018/07/017056012
2018/07/0870560 

2018年7月12日木曜日

(一言)記録され続ける社会の元ネタは『はてしない物語』

だったということに、自分の考えを自分のものであるかのように記しておきながら、たった今、ようやく考えがつながったので、メモしておく。ネタバレのために詳しくは記さないが、『はてしない物語』の中盤のクライマックスでは、主人公(の一人)のバスチアンの行動が、恐るべき堂々巡りを打破することになる※1。この場面は、「記録にいつまでも残されてしまう」社会において、私たちに必要なものが度外れた相互信頼であることを示す、この上なく優れた創作上の事例である。作者のミヒャエル・エンデ氏は、われわれ現代人がぶち当たる種類の悩みに対して、物語を通して、優れた示唆を与え続けてきている。私は、自身の考えの元ネタが分かったので、ようやく、ある意味、安堵しているところである。


※1 映画版では、パート1の終盤に当たる場面であるが、基本的に、映画版では、描写が省略されている。大事なことなのに。

2018年7月11日水曜日

(私事)プロフ写真を変えてみた

プロフ写真を変えてみたが、ゾンビものに詳しい読者なら、この写真が羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』(2016年11月, 講談社)の冒頭シーンのコスプレだということに、気が付かれたかも知れない。あのシーンを再現するなら、俺でも行ける!とか思ってしまったのである。慣れない『GIMP』を利用して、タッチパッドで適当に作業しただけなので、作り込みが甘いのは、やむを得ない。ただ、必要なだけの雰囲気は、出たものと思う。

私は、周りへの迷惑を顧みることなく、また、激変するわが国の状況を後世に向けて的確に説明することなく、案外、生ける屍としての暮らしを楽しんでいる。今後とも、噛まれたりすると、感染してしまうような思考を重ねたいと思いながらも、いくつかの制約のために、現今の災害については、言及することができない。私事に注力して記述を厚くしているのは、そのような事情もある(。いかなゾンビのような私であっても、自分の食い扶持位は稼ぐだけの権利を有している)。


陰謀論者の大勢は、最近の立て続けの災害を、ショック・ドクトリンの一種として捉えるであろう。ただ、私は、陰謀論者の意見の大勢が示唆するように、気象操作を実行した連中について、わが国の権力を掌握した側にいる、とは考えない。わが国の現政体を支える中核である武官組織にとって、災害の惹起によるショック・ドクトリンは、文字通りのマッチポンプとなってしまうからである。他方で、現今の災害に対して、異常に感度高く行動している人物たちに注目すると、仮に、これらの災害が人為的に発生させられたものだとしても、その目的は、権力奪取にあるのではないかと観取することができてしまう。現今の政界に類似した事例として、阪神淡路大震災後の村山富市総理に対する批判の盛り上がりを想起すべきであろう。1995年当時、政権と武官組織とは、対立関係にあったと言えるのではあるが。

なお、現今の災害についてのこれ以上の言及は、私にとって、リスクとなるために避けるべきことである。普通の人間よりも、私は、インサイダーと見做されてしまう種類の過去の業績を有する。わが国を取り巻く状況と、政策上の含意を解説すると、狙ったように、「風説の流布」と言われたりする可能性がある。この一方で、私は、別の観点から、もう少し前から、自身のポジションを(平和主義に基づいたつもりで)形成してしまっており、現今の災害によっても影響を受けている。私のポジションについては、『週刊プレイボーイ』の記事[1]における国際法学者の金惠京(キム・ヘギョン)氏の話を参照されれば、おおよそ、読めるものではないかと思う。

ただ、本稿でも、地価に水害へのリスクが織り込まれていることだけは、指摘しておきたい。住宅価格は、低湿地にあると、ざっかけ1割程度も安くなる。このため、わが国においても、経済的弱者ほど、災害の被害を受けやすくなるという社会構造が存在する。東日本大震災後、各自、水害ハザードマップを確認しろとの報道が度々流されたことも事実であるし、避難勧告の意味合いも一応解説されてきてはいる。これらを考慮して、今回の被害を、自己責任のものとして切り捨てるのかは、読者諸賢の考え方次第である。この社会構造は、カトリーナやリーマン・ショックによる被害を想起すれば、日米で共通する。(個人的な抜駆けによって解決を図るのではなく、)社会的な取組(例えば、金融教育・災害対策教育の組合せ)を通じた貧困の解決は、ショック・ドクトリンの効果を低減しつつ、同時に、マクロ経済を刺激する上でも役に立つ。


[1] トランプ発言「北朝鮮の非核化費用は日韓が負担」...で日本が存在感を高める大チャンス? - 政治・国際 - ニュース|週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]
(2018年06月22日、取材・文/田中茂朗 撮影/細野晋司
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2018/06/22/106492/




2018(平成30)年7月13日追記・訂正

本文の意図を変更しないよう、文面を訂正した。

本文中で示した私のポジションは、田中宇氏の有料記事でも解説されていた。念のため、私は、田中氏に先立ち、自身のポジションを形成していた。また、良く調べもせずに、自身のバスケットを関連分野で拡げた挙げ句、妖怪ジェットコースターと呼ぶべき現象に巻き込まれたのであるが、それはまた、別の話である。株式市場のメジャーな論調は、Aチームのもの(=日経平均2万7千円超え)であるが、この論調は、案外、田中氏の示唆するポジションに対しても親和的である。これらの議論に対して、拉致被害の解決が課題となっていることは、言うまでもないであろう。


[1] 北朝鮮に甘くなったトランプ
(田中宇、2018年6月15日)
http://tanakanews.com/180615korea.php

とはいえ、トランプ式の太陽政策は、朝鮮半島和平後の北への投資を、米国の企業が手がけようとするものでない。米国は、今後の北朝鮮の再建(核廃棄とその後のインフラ整備など)にカネを出さない姿勢だ。トランプは、北の核廃絶の費用を負担するのは日本や韓国だと言っている。日本では「カネだけむしりとられる」と狭隘・後ろ向きの見方ばかりだが、実のところ、核廃絶の費用を負担する外国勢は、その後、北の経済発展に投資して儲ける権利を得る。世界で最後の、発展する潜在性が豊富な未開発地域である北朝鮮への投資は、最終的に大きな儲けを生む。日本は、北の核廃絶の費用を出すと積極的に表明した方が、子孫の代に得をする。日本は間抜けなことに、この話に乗りそうもないが、その場合、韓国と中国が手がけて儲けるまでのことだ。日本は、今よりさらに落ち目の国になっていく。

2018年7月4日水曜日

(私事)私の内のコントロール欲求

先週、私自身が関知できる程度の周囲では、「ロマンティックな変化」が起こらないように見えた。『週刊ビッグコミック・スピリッツ』の「来れば?ねこ占い屋 週間占いランキング」が明言していたようには、である。しかし、そこはそれ、私は、自身に都合の良い話ならば、ホイホイ信じてしまう性質である。なので、先週、何かが起きたのだろうと肯定的に捉え、その気配を捉えるように心掛けたのである。何しろ、今週号(第39巻第34号、2018年31号))のベンガル族は、「ジレンマが解消される」とのことだし、何より第一位だし。

私は、外部へのコントロール欲求を強く持つが、同時に、自身が及ぼしたいと願う範囲にだけ、自身の影響力が限定されるように、自身を律してきたつもりであった。私は、ここ数年、「社会はこうあるべきだ」(=当為論)とか、事実や理想や予測こそ、述べてはきた。しかし、他者に対して、具体的な行動を求めたつもりはなかった。そう読めるような文言も、本ブログの随所に含まれてはいるが、それらは、基本的に、反語的な表現である。絶対に、こうはならないであろうという予想の元に、自説を補強するための論拠として、ばらまいた餌である。

ところがどっこい、私事に心を囚われてからの私の願いは、際立った頻度で発せられたし、その中身は、いずれも似たり寄ったりの、最大級に欲張りなものであった。しかも、そう願ったゆえに、私が引き起こした結果は、私の思い人のみならず、周囲の人々に対しても、かなりの強烈な記憶を残してしまうような(精神衛生上の)大惨事となってしまった。私に償いようがあるとすれば、その方法は、せいぜい二通りくらいしか思いつかないのであるが、その内の一つである隠棲は、ここまでの話の円環が閉じてからでも可能であるので、もう少しだけ、無視することにした。私には、社会防衛主義的(=社会集団に落ちこぼれを作らず、犯罪やテロなどの不幸を起こさせないため)にも、リベラリズム的(=個々の人物の内面の自由を最大限に実現するという目的を達するため)にも、醜くも足掻き続けることが、社会的にも、個人的にも、最適解に至る道であるように思えて仕方ないのである。この結論は、私にとっては、これでも、物事を突き放して見るという訓練を数十年にわたり重ねてきた成果の集大成のつもりである

私の発話がコントロール欲求の高いものと読めてしまう余地があるとすれば、その理由は、私の予測に不吉なものが多く、しかも、悪い予測ほど当たりがちであるという点に求められよう。カント風の表現による「仮言命令(もし~なら…せよ)」は、ごくごく普通に、人工知能研究やそのベースをなす情報科学全般・統計的手法(因果推論研究)などで利用されているが、しばしば、非人間的な響きを持つし、そのような結果を引き起こす※1ために利用される。他方、人間は、未来を変えられるけれども、場合によっては、このまま事態が進めばこうなる、と予測することしかできなかったりもする。このような不穏な言明は、単なる予測・予想の域を出ないにしても、人によっては、この種の表現を脅すような響き※2を持つものとして受け止めることができよう。例えば、「交通事故を起こす虞が高いのに、何故、飲酒運転をするのか」という言明は、どこまでも正しい指摘であるが、それでも、一部の人間に対しては、家父長主義的な警告(=余計なお世話)として響くかも知れない。

私は、今後、現在の魂の削り合いのような状況から、三通り程度のパターンへと事態(というよりも、私の思い人の心)が変化するものと予測する。大抵の場合、「両建て構造」に落とし込まれた個人その人に対しては、二通り(伸るか反るか)しか選択肢を与えられないことを思えば、「正」「反」だけでなく「合」の三通りまで選べるとは、随分と自由度の高いことである。そして、私の思い人が自身の思想を変えるまいと抵抗しても、私ではない周囲の人々は、私の指摘を知らずして、私が内心に出した結論の正しさを駄目押しするかのように振舞うであろう。それに世の中は、私の悪しき予測を裏付けるような悲惨な結末に事欠かない。

しかし同時に、私ではない人(の存在)がこの方向へと至らないように(私の思い人の)行動(を抑制)し、結果として、私たちを助けてくれるであろうとも、私は考えている。私は、そのような展開を予測する程には、他者の善性を信じており、私の思い人も、この他者に含まれるものと認めている


※1 もし、顔認証技術によって計算された複数の特徴量が、ある閾値を超えており、かつ、パイロットが攻撃命令を出したならば、ドローンは、その高度に疑わしい人物を暗殺する、といった具合である。この種の人種的・地理的・社会プロファイリングは、この制度内で実務を担当する人員の心理的負担を軽減するであろうが、けれども、制度設計に従事した人物たちとその制度の実現にお墨付きを与えた人物たちを免責する訳ではない。この点、この種の技術開発に従事する技術者は、すでに、政治的な存在であり、学術研究者であろうと、その政治性を免責されることはない。ここでの私の主張のニュアンスとは異なるが、重田園江氏の『フーコーの穴』(2003年9月15日, 木鐸社)は、ここでの(現時点まで通用する程度には正しかろう)理解を、当時の現象に照らして把握する上で、一読に値しよう。

※2 田中聡氏は、陰謀論者に預言者というモチーフを当てはめているが、彼の指摘は、悲壮感という意味付けを陰謀論者のすべてに対して付与しようとする試みであるとも解釈できる。もっと自身を突き放した気持ちで、陰謀論者と呼ばれる人物が発言しているのかも知れないにもかかわらず、である。これは、過度の一般化であり、ラベリングそのものである。面倒臭いので、本稿でも、『陰謀論の正体!』が出典だとだけ述べておく。通常、ブログだと、これで十分である。




2018(平成30)年7月11日

「私事(2018年7月4日)」からタイトルを変えた。

2018年7月2日月曜日

(私事)海を見に行き、「帝国」の今を考えた

2018年7月1日(日)朝の鵠沼海水浴場
2018年7月1日(日)朝のくげぬま海水浴場

一昨日(30日)の夜、私は、以前の記事の「ネコバイス」に従い、突然、海を見に行こうと思い立った。明朝6時、ロードバイクで出発した。「田舎の香水」の残り香を思わずもたっぷりと吸い、自転車に乗りながら泣きながら坂を登る若い女性の横をすっ飛ばし、東海道線の陸橋の上で貨物列車を待っていた鉄女の用意周到ぶりに感心し、その脇の道路で朝の別れを告げるカップルを羨しく一瞥しつつも、自分としては、ひたすらに海を目指した。

日曜朝の鵠沼海水浴場を目の前にした私は、わが国でも「帝国」が完成の域に達しつつあることを実感した。そこでは、東京の木造密集市街地とは異なり、ゆっくりとしたテンポの時間が流れていて、サーファーや月例マラソンのボランティアは、リア充と呼ぶに相応しい人たちに見えた。これらの満ち足りたように見える生活を送ることができる人々と、大切なはずの時間をみすみす差し出して灰色のゾンビと化した私や、日に焼けたホームレスが並存するこの国は、人々の心の中身については、ほかのどの国にも劣らない程度に、幸・不幸の幅広さを誇るのではないか。海辺の人々の人生の眩しさに向き合い、私は、「帝国」に対する自分自身の観念的な理解を一歩進めることができたように思う。とりあえずメモしておく。


陰謀論を真面目に論じる人たちの多くは、人々が幸せに生きていける世の中を目指して、汚名を被る覚悟で、他人と異なる意見を強く主張しているものと思うが、そもそも、陰謀論者の言葉は、この国で幸せに生きているつもりの人たちの心まで、果たして届いているのであろうか。私自身について言えば、陰謀論を扱うことが私自身にとってもやがては経済的なプラスの利益を生じるように、その材料として、本ブログの論考を編んできた。だからこそ、多くの人に本ブログが届くかどうかに構わず、醒めた気持ちで作業を続けられたところがあるし、私事を大切にしてきたつもりでもある。世界の潮目は、今、大きく変わりつつあるが、この海に遊ぶ人たちのどれだけが、この世界に作られた人間社会の歪さを気にして、自分たちが加害者の側にもいることに気が付いているのだろうか。幸せな人々に限らず、私たちの言葉は、どれだけの日本語話者に、まともに届いているのであろうか(。もっとも、陰謀論とされる知識は、活用すれば、世界経済を読む上での武器になるから、市場関係者は、案外、陰謀論を真面目に、しかし陰謀論と誹謗されないように、上手に取り扱っている。『東京マーケットワイド』を毎日観るようになり、飯山一郎氏が主張してきたこの定性的事実を、改めて確認している次第である)。

この国に生きる人々は、この国の社会・経済的構造への理解と自身の地位に対する自覚とは関係なく、幸せを感じたり、不幸に浸っているのではないか。そして、理性ではなく、外部環境に対する当人の幸・不幸に係る認識こそが、世界中に張り巡らされてきた社会・経済システムに対する当人の態度を決定しているのではないか。これは、私の感想に過ぎない。しかし、日曜朝をサーフィンに興じることのできる人たちは、必ずしも、全員が全員、経済的に完全な勝ち組とまでは呼べる人たちではないものの、工夫を重ねることで、上手いこと、幸せな気分を得ているのではないか。そして、自分では外部環境を変えようがないという無力感に打ちのめされない内は、それなりに幸せであって、無意識的にせよ、現状の社会・経済システムを肯定してしまうのではないか。つまり、『マトリックス』に譬えられたヒラリー・クリントン氏の「フィール・グッド」政策は、かなりの部分、わが国では成功し続けているのではないだろうか。

「帝国」の構造的不正は、確かに酷いものではあるが、ただ同時に、一般の人々にとって、この構造は、乗りこなす対象でしかないかのように受け止められているのではないか。この結果、「帝国」に対する当人の態度・この環境から得られる当人の利益・当人の幸せ、の三つの要素は、自己責任の名の下に、強い相互作用を持たないかのように処理されているのではないか。これら三者についての定性的な因果関係は、確かに存在しているのであるが。3.11や、それ以前からの新自由主義による被害からの回復を求め、社会的公正を主張する運動や、これらの正義の実現が必要であるとする態度は、尊いものである。けれども同時に、この三者の関係は、「普通の人たち」にとっては、彼らが採用して我慢し尽くす方法(夫婦共働き・親との同居による介護・少ない子どもの人数)に則る限り、決して乗り越えられない種類のものではない。そうであると大勢が考えるがゆえに、皆が皆の足を引っ張り合う世の中が出現してしまっているのではないか。「普通の人たちが取る方法によらない人物は、負けて当然」という意識は、「普通の人たち」が採らない方法により生きている人々を含めて、われわれの中で、抜き難く存在しているのではないか。てんで生活能力の低い私であっても、我慢し続ければ、何とか生き延びることができるのである(。だからこそ、無料のブログであけすけなことを書けてきたとも付け加えておく。もっとも、数千万の単位の国費や私費が投じられて高められて?きたはずの私の能力が十全に活用されているとは、とても言い難い)。

この「普通の人たち」の現実に対する相場観を変えてゆかない限り、わが国は、このまま漫然と場当たり的な対処を繰り返し、上級国民が一般国民から欲しいものを搾取し続けるという不公正な構造を、今まで以上に固定化するであろう。そこでは、見かけ上の平等は存在する。当人の自己責任・自助努力が強調され、それらに対しては成功があると喧伝される。つまり、「負け組になる自由」もあれば、「頑張る自由」もあるという訳である。

しかし、上級国民が乳児のときから教育される中で獲得する自己肯定感は、一般国民の家庭の子どもたちにとっては、ほとんど高嶺の花である。この結果、ゆとり教育が当初目指したような、自らを主体的にコントロールしてなりたい自分を創造するという目標を目指して弛まなく歩み続けることができる人格は、上級国民の家庭においてのみ育まれることになる。将来、一般国民の世帯の子どもの大多数は、成長しても、従来とと同じ負け組感を味わい続けることになろう。一般国民の子どもたちには、わずかに、スポーツ選手などの道で成功するという道が残され、ごく少数の成功者は、一般国民のロールモデルとされるであろう。しかし、幼少期に自己肯定感をインストールし損なった大多数の一般国民の子どもたちにとって、この細き道は、険しすぎて転落するだけに終わるものであろう。このとき、現状に適応可能な一般国民の子どもたちには、当人たちが許容できる範囲の悲惨な生活があてがわれる一方で、その現実に甘んじることができるように、種々の娯楽が提供されることになろう。

氷河期世代の非正規雇用者層は、ちょうど、今後の社会モデルにおける一般国民の雛型である。どれだけ努力しても報われないという絶望感は、ロスジェネの負け組に共通する感覚であろうが、この現状は、当人の努力不足・キャリア形成不足として、片付けられている。この絶望感は、今のところ、対処可能なものとして社会に理解されている(。でなければ、もう少し、まともな対策が採られるはずである)。この世代が現状に甘んじている限り、この状況は、国民全体が肯定しているものとして、受け止められ続けるであろう。この社会状況下においては、個人の過去の落ち度は、自己責任の名において、当人を断罪する材料として殊更に取り上げられるであろう。しかも、前稿でも言及したように、今後のわれわれは、常に過去の記録に苛まれることになる初の世代である。人生を上手く生き抜けない個人は、粗探しされた上で、当人の責任でそうなったのだと解釈され、晒され続けることになるのである。

この悪しき「貧乏農場」サイクルを生き抜くことは、一人ではなかなか難しい。一般国民なら、何より経済的に苦しいことになるであろうし、そうでなければ、何よりも必要な自己肯定感を生贄にする形で、経済的利益を確保する必要に迫られる。たとえば、犯罪は、当人の心をも苦しめる。この悪しき二者択一を乗り越える上で、大多数の人間にとって、一人のパートナーの存在は、もっとも受け容れやすい選択肢であるはずである。世の中、誰にでもチヤホヤされなければ我慢ならない人物は、存外少ない。上級国民と呼べる人物たちでも、そうである。むしろ彼らは、一般国民よりも、誠実に振舞うことの大事さを体得している。そうであるなら、一般国民も、この選択肢を受け容れ、安価に・かつ・確実に、次世代にこの考え方を体得させていくほか、一旦、固定化された帝国の現状を内部から変革することは、望めないのではないか。

現在の陰謀論の論者たちは、現時点の権力者の一部を追い落とすだけで、理想の社会が実現すると考えているのであろうか。私は、そうは考えないからこそ、現時点の構造を共依存的に支持する大多数の幸福感、という要因を挙げてみたのである。私は、幸福な生活を実践しようとして、大失敗を重ねている最中であるが、自分幸せだと思えなければ、彼らに耳を傾けてすらもらえないのであろうと、波と戯れる人々を見ながら痛感したのである。人は、自分の幸福を守るために、他人の不幸に無関心になるようにできているのかも知れない。


#本稿は、私事と銘打った以上、ある種のお手紙のつもりである。このほかには、本稿でほとんど伝えるべきことがない。私に残ったのは、日焼けのために痛む首筋と、今も残る筋肉痛と、一人でいることの寂寥感だけであった。




2018(平成30)年7月3日訂正

一部の文言を訂正した。