ポーリン・ボス氏は、ベトナム戦争で戦死したと認められるものの遺体が見つからない米軍兵士の遺族、認知症患者の介護家族といったような、近しい人の喪失・困難に対して継続的に向き合わざるを得なくなった人々を支援し、研究を続ける中で、「あいまいな喪失(ambiguous loss)」という概念を提唱し、その内実に「さよならのない別れ(leaving without goodbye)」「別れのないさよなら(goodbye without leaving)」という二種の類型があることを指摘した[1]。「さよならのない別れ」(タイプIの別れ)とは、親しい人が亡くなっていることが客観的には確実な一方で、遺体が見つからないために生者の側が死者に未練を残す状態を指し、「別れのないさよなら」(タイプIIの別れ)とは、親しい人が生きているものの、相手とのコミュニケーションが断絶してしまう状態を指す[1]。ボス氏による分類[2]を整理し直すと、
〔#タイプIの「あいまいな喪失」、悲惨で予期されないもの〕があり[2]、ここに、東日本大震災の津波被害により行方不明となった方の遺族も含まれることが指摘されている[3]。また、タイプIIの状態の最も典型的な例は、認知症患者とその家族[4]であり、これを含めた事例には、〔図1;p.12〕
- 戦争(行方不明の兵士)
- 自然災害(行方不明者)
- 誘拐、人質、テロ
- 監禁
- 脱走、不可解な失踪
- 身体が見つからない状況(殺人、飛行機事故など)
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、重篤な例〕がある[2]。より一般的な状況として示される場合のほとんどは、タイプIIに含まれようが、その事例には、〔図1;p.12〕
- アルツハイマー病やその他の認知症
- 慢性の精神障害
- 依存症(アルコール、薬物、ギャンブルなど)
- うつ病
- 頭部外傷、脳外傷
- 昏睡、意識不明
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、より一般的な状況〕がある[2]。最近読んだもののメモ代わりであるが、A・M・ナイル, (1983=2008). 『知られざるインド独立闘争 A・M・ナイル回想録』(新版), 風濤社.には、インド・ケララ州出身のナイル氏が、英国からの独立闘争に深く関与していたために、故郷に戻ることができず、老母との連絡も十分に取れない様子が記されており、ナイル氏の体験も「あいまいな喪失」の一事例に含まれるとも言えよう。〔図1;p.12〕
- 移民、移住
- 〔#↔〕ホームシック(移民/移住により)
- 子どもを養子に出すこと、子どもが養子に出されること
- 〔#↔〕子どもが養子となること
- 離婚・再婚で親が子どもと別れること、離婚・再婚で子どもが実親と別れること
- 〔#↔〕再婚により義理の子どもを得ること、親の再婚により子どもが義理の親を得ること
- 転勤
- 〔#↔〕ワーカホリック
- 軍で派遣されること
- 青年が家を離れて自立すること
- 〔#↔〕コンピュータ・ゲームやインターネット、テレビへの過剰な熱中
- 高齢の配偶者がケア施設へ入所すること
#上記引用は、転記にあたり、改変が過ぎるかも知れない。念のため。
なお、「あいまいな喪失」は、家族(遺族)の置かれた継続的な環境下で生じた、家族(遺族)の心の状態を表す用語である。この状態は、精神疾患ではない[4]。それがために、しばしば、家族(遺族)は、サポートされるべき対象ではないと見逃され、喪失から「立ち直る」ようにと強いられてきた、とボス氏は指摘する[4]。
おそらく、恋する相手から拒絶されたままの(私のような)個人もまた、先に紹介したような重篤な事例や崇高な事例に及ぶべくもないが、「別れのないさよなら」の範疇の隅っこに含めても良いのであろう※1。相思相愛の相手や家族とのコミュニケーションを失いつつある人々は、私よりも、段違いに悲しみ苦しんでいようし、周囲からの同情と共感に値しよう。けれども、現時点の私の苦しみも、私の慕う人が自らの意思で私を拒絶していることから生じているために、原因こそ全く異なるが、返事を求めても得られないという点については、タイプIIの別れと共通するのではないか。他者にとって、たかが失恋かも知れないが、色々な理由こそあれども、体脂肪率が9%程度落ちた程であるから、私の悲嘆は、「別れのないさよなら」の最もマイルドなものとしても良いだけの資格があろう。私の失恋ダイエットを主張の根拠に据えるのは、冗談が過ぎるとしても、原因が継続している「両義的な状態」は、私の状況にも共通する。愛する人が認知症に罹ったとすれば、私は、一体どうなってしまうのか、今からでも(、愛する人が傍にいてくれる訳でもないのに)、心配になってしまう。なお、
Goodbye without reason is the most painful one. Love without reason is the most beautiful one.(理由のないさよならは、もっとも心痛むものだ。理由のない愛は、もっとも美しいものだ。)という詠み人知らずのミーム(金言)は、インターネット上では、それなりにポピュラーなようであるが、恋愛を指すものとして受け取られていて、ここでの私の主張を補強してくれるものであるとは言えよう(。5分ほどググってみたが、誰が詠んだのかは分からず仕舞いである)。
私は、かろうじて今も、お慕いする人からの連絡を、待ち続けていることができてはいる。三か月前からの私の願いは、受け入れられていないが、私のメッセージそのものは、思い人には届いている。私の願いは、かの人の心に確実な気付きをもたらしたはずであるし、変容をもたらし続けているはずである。ただ、私は、現在の苦しみに早晩耐えられなくなるという自覚を有してもいる。そうである以上、私の申出は、不定ではあるが、期日が設けられたものである。それゆえに、問題は、私がどれだけ今の状態のまま、自身の精神を、たとえ最低限の状態であるにしても、保持し続けられるかである(。あるいは、どれだけ潔く、未練を断ち切ることができるかである)。
※1 怠惰ゆえに、同種の考えがすでに表明されているか否かを確認していない。が、『認知症の人を愛すること』の訳[4]が素晴らしく柔らかいので、その正確性を信じることにすると、
とあるから、やはり、失恋の悲しみも、「あいまいな喪失」の周縁に位置付けられると主張することはできよう。〔p.6〕ふだんでも、私たちが愛する人たちと離れる事はよくあります。〔…略…〕現代のモバイル社会において、私たちのほとんどは、愛する人たちと多くの時間離れたままです。それにもかかわらず、現代の家族は、身体と心が同時に同じ場所にないことに、うまく対応しているように見えます。望めばいつでもまた一緒にいられるとわかっているからでしょうか。認知症の場合と違い、この手の喪失は、取り戻すことができるものです。〔…略…〕
恋人同士や家族が身体も心も完全に同じ場所に置くのは
(ボス(2011=2014)『認知症の人を愛すること』)稀 だと気づくと、分離と距離というものの曖昧さを抱えて暮らし、何とかやっていくための何らかの術 を、私たちのほとんどは備えているとわかることでしょう。この前段階の経験が、違いがあるとはいえ、認知症を患っている愛する人とどう生き延びて〔p.7〕よいかを探る手助けとなります。
[1] Boss, P., (1999). Ambiguous Loss: Learning to Live with Unresolved Grief, Harvard University Press.
(ポーリン・ボス〔著〕, 南山浩二〔訳〕, (2000=2005.4). 『「さよなら」のない別れ 別れのない「さよなら」:あいまいな喪失』, 東京: 学文社.)
http://id.ndl.go.jp/bib/000007706830
#リンクは、国会図書館の和訳本。
[2] ポーリン・ボス〔著〕, 中島聡美・石井千賀子〔監訳〕,(2015.2). 『あいまいな喪失とトラウマからの回復 家族とコミュニティのレジリエンス』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/026149473
[3] 中島聡美・山下和彦, 「福島におけるあいまいな喪失」, 前田正治〔編著〕, (2018.6).『福島原発事故がもたらしたもの 被災地のメンタルヘルスに何が起きているのか』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/029000937
[4] ポーリン・ボス〔著〕, 和田秀樹〔監訳〕, 森村里美〔訳〕, (2011=2014). 『認知症の人を愛すること 曖昧な喪失と悲しみに立ち向かうために』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/025454865
2018(平静30)年9月6日訂正
一部を訂正した。