2018年8月31日金曜日

(私事)失恋もまた「別れのないさよなら」かも

ポーリン・ボス氏は、ベトナム戦争で戦死したと認められるものの遺体が見つからない米軍兵士の遺族、認知症患者の介護家族といったような、近しい人の喪失・困難に対して継続的に向き合わざるを得なくなった人々を支援し、研究を続ける中で、「あいまいな喪失(ambiguous loss)」という概念を提唱し、その内実に「さよならのない別れ(leaving without goodbye)」「別れのないさよなら(goodbye without leaving)」という二種の類型があることを指摘した[1]。「さよならのない別れ」(タイプIの別れ)とは、親しい人が亡くなっていることが客観的には確実な一方で、遺体が見つからないために生者の側が死者に未練を残す状態を指し、「別れのないさよなら」(タイプIIの別れ)とは、親しい人が生きているものの、相手とのコミュニケーションが断絶してしまう状態を指す[1]。ボス氏による分類[2]を整理し直すと、

〔#タイプIの「あいまいな喪失」、悲惨で予期されないもの〕
  • 戦争(行方不明の兵士)
  • 自然災害(行方不明者)
  • 誘拐、人質、テロ
  • 監禁
  • 脱走、不可解な失踪
  • 身体が見つからない状況(殺人、飛行機事故など)
〔図1;p.12〕
があり[2]、ここに、東日本大震災の津波被害により行方不明となった方の遺族も含まれることが指摘されている[3]。また、タイプIIの状態の最も典型的な例は、認知症患者とその家族[4]であり、これを含めた事例には、
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、重篤な例〕
  • アルツハイマー病やその他の認知症
  • 慢性の精神障害
  • 依存症(アルコール、薬物、ギャンブルなど)
  • うつ病
  • 頭部外傷、脳外傷
  • 昏睡、意識不明
〔図1;p.12〕
がある[2]。より一般的な状況として示される場合のほとんどは、タイプIIに含まれようが、その事例には、
〔#タイプIIの「あいまいな喪失」、より一般的な状況〕
  • 移民、移住
  • 〔#↔〕ホームシック(移民/移住により)
  • 子どもを養子に出すこと、子どもが養子に出されること
  • 〔#↔〕子どもが養子となること
  • 離婚・再婚で親が子どもと別れること、離婚・再婚で子どもが実親と別れること
  • 〔#↔〕再婚により義理の子どもを得ること、親の再婚により子どもが義理の親を得ること
  • 転勤
  • 〔#↔〕ワーカホリック
  • 軍で派遣されること
  • 青年が家を離れて自立すること
  • 〔#↔〕コンピュータ・ゲームやインターネット、テレビへの過剰な熱中
  • 高齢の配偶者がケア施設へ入所すること
〔図1;p.12〕
がある[2]。最近読んだもののメモ代わりであるが、A・M・ナイル, (1983=2008). 『知られざるインド独立闘争 A・M・ナイル回想録』(新版), 風濤社.には、インド・ケララ州出身のナイル氏が、英国からの独立闘争に深く関与していたために、故郷に戻ることができず、老母との連絡も十分に取れない様子が記されており、ナイル氏の体験も「あいまいな喪失」の一事例に含まれるとも言えよう。


#上記引用は、転記にあたり、改変が過ぎるかも知れない。念のため。


なお、「あいまいな喪失」は、家族(遺族の置かれた継続的な環境下で生じた、家族(遺族の心の状態を表す用語である。この状態は、精神疾患ではない[4]。それがために、しばしば、家族(遺族は、サポートされるべき対象ではないと見逃され、喪失から「立ち直る」ようにと強いられてきた、とボス氏は指摘する[4]

おそらく、恋する相手から拒絶されたままの(私のような)個人もまた、先に紹介したような重篤な事例や崇高な事例に及ぶべくもないが、「別れのないさよなら」の範疇の隅っこに含めても良いのであろう※1。相思相愛の相手や家族とのコミュニケーションを失いつつある人々は、私よりも、段違いに悲しみ苦しんでいようし、周囲からの同情と共感に値しよう。けれども、現時点の私の苦しみも、私の慕う人が自らの意思で私を拒絶していることから生じているために、原因こそ全く異なるが、返事を求めても得られないという点については、タイプIIの別れと共通するのではないか。他者にとって、たかが失恋かも知れないが、色々な理由こそあれども、体脂肪率が9%程度落ちた程であるから、私の悲嘆は、「別れのないさよなら」の最もマイルドなものとしても良いだけの資格があろう。私の失恋ダイエットを主張の根拠に据えるのは、冗談が過ぎるとしても、原因が継続している「両義的な状態」は、私の状況にも共通する。愛する人が認知症に罹ったとすれば、私は、一体どうなってしまうのか、今からでも(、愛する人が傍にいてくれる訳でもないのに)、心配になってしまう。なお、

Goodbye without reason is the most painful one. Love without reason is the most beautiful one.(理由のないさよならは、もっとも心痛むものだ。理由のない愛は、もっとも美しいものだ。)
という詠み人知らずのミーム(金言)は、インターネット上では、それなりにポピュラーなようであるが、恋愛を指すものとして受け取られていて、ここでの私の主張を補強してくれるものであるとは言えよう(。5分ほどググってみたが、誰が詠んだのかは分からず仕舞いである)。


私は、かろうじて今も、お慕いする人からの連絡を、待ち続けていることができてはいる。三か月前からの私の願いは、受け入れられていないが、私のメッセージそのものは、思い人には届いている。私の願いは、かの人の心に確実な気付きをもたらしたはずであるし、変容をもたらし続けているはずである。ただ、私は、現在の苦しみに早晩耐えられなくなるという自覚を有してもいる。そうである以上、私の申出は、不定ではあるが、期日が設けられたものである。それゆえに、問題は、私がどれだけ今の状態のまま、自身の精神を、たとえ最低限の状態であるにしても、保持し続けられるかである(。あるいは、どれだけ潔く、未練を断ち切ることができるかである)。


※1 怠惰ゆえに、同種の考えがすでに表明されているか否かを確認していない。が、『認知症の人を愛すること』の訳[4]が素晴らしく柔らかいので、その正確性を信じることにすると、

〔p.6〕ふだんでも、私たちが愛する人たちと離れる事はよくあります。〔…略…〕現代のモバイル社会において、私たちのほとんどは、愛する人たちと多くの時間離れたままです。それにもかかわらず、現代の家族は、身体と心が同時に同じ場所にないことに、うまく対応しているように見えます。望めばいつでもまた一緒にいられるとわかっているからでしょうか。認知症の場合と違い、この手の喪失は、取り戻すことができるものです。〔…略…〕

恋人同士や家族が身体も心も完全に同じ場所に置くのはまれだと気づくと、分離と距離というものの(あい)(まい)さを抱えて暮らし、何とかやっていくための何らかのすべを、私たちのほとんどは備えているとわかることでしょう。この前段階の経験が、違いがあるとはいえ、認知症を患っている愛する人とどう生き延びて〔p.7〕よいかを探る手助けとなります。

(ボス(2011=2014)『認知症の人を愛すること』)
とあるから、やはり、失恋の悲しみも、「あいまいな喪失」の周縁に位置付けられると主張することはできよう。


[1] Boss, P., (1999). Ambiguous Loss: Learning to Live with Unresolved Grief, Harvard University Press.
(ポーリン・ボス〔著〕, 南山浩二〔訳〕, (2000=2005.4). 『「さよなら」のない別れ 別れのない「さよなら」:あいまいな喪失』, 東京: 学文社.)
http://id.ndl.go.jp/bib/000007706830
#リンクは、国会図書館の和訳本。

[2] ポーリン・ボス〔著〕, 中島聡美・石井千賀子〔監訳〕,(2015.2). 『あいまいな喪失とトラウマからの回復 家族とコミュニティのレジリエンス』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/026149473

[3] 中島聡美・山下和彦, 「福島におけるあいまいな喪失」, 前田正治〔編著〕, (2018.6).『福島原発事故がもたらしたもの 被災地のメンタルヘルスに何が起きているのか』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/029000937

[4] ポーリン・ボス〔著〕, 和田秀樹〔監訳〕, 森村里美〔訳〕, (2011=2014). 『認知症の人を愛すること 曖昧な喪失と悲しみに立ち向かうために』, 東京: 誠信書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/025454865




2018(平静30)年9月6日訂正

一部を訂正した。

2018年8月23日木曜日

(一言)ジェンダー論を利用したマウンティング

は、言説者が、異性愛秩序(heterosexual order)を至当とする当人の先入観を意識していないからこそ、表れてしまうものかも知れない。成人後の私の勉強は、常に泥縄なので、上野千鶴子『〈おんな〉の思想』のイヴ・K・セジウィック評によって、異性愛秩序という言葉をようやく理解し、拙稿(2018年08月05日)で言及した

〔…略…〕その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。〔…略…〕
と考えた内容が(恥ずべきレベルの)既出概念であったことを、遅ればせながら知った。また、同稿で言及した小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).についても、著者らが、旧来的なホモソーシャルに対する意識こそあれども、自身の中になお残存する異性愛秩序のあり方に意識的でないがゆえに、性愛の多様性に対して、自身の評価に基づく優劣を無意識に下しているものと、パラフレーズし直せよう。

#上野書については、私自身の貧困な経験から付け加えることもあるが、神奈川県央地域だと、ご覧に入れられるだけの文章を記そうと思うと、今一度、複数の公共図書館を巡らないといけないという不具合があるので、またの機会にしたい。

2018年8月11日土曜日

(メモ・一言)トルコリラ大下げ・台風13号

ポジショントークになる事を承知で記しておくが、トルコリラが大下げしており、エルドアン大統領再選後、しばらく20~22円台を保っていたところ、9日に19円台、10日に17円台まで下げた[1]。レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、ニューヨーク・タイムズ紙(NYT)に寄稿[2]し、現在の非対称的な関係を改めなければ、トルコが新たな友人を求めなければならなくなると警告している(が、掲載先がNYTになること自体、真に捻れた状況である)。ところで、日本の右翼は、常々、トルコを親日国と呼んできたが、困った時の友こそ、真の友ではないのか。私のような左翼がかった発言をなすことのあるリベラルでさえも、リラ建て債に一段目に下げた時に突っ込んだのに?などと思ってしまう。米国株にまで影響する(ということは、間違いなく、日本株にも影響する)との評価もあるのに、なぜ、ここまで売り込まれるリラの防衛役を買って出ないのだろうか。

エルドアン氏の再選後、しばらくリラが小康状態を保っていたこと、この状態に至ってもエルドアン氏が強硬姿勢を貫ける理由は、昨年9月、ロシアのミサイル防衛システムを導入配備した[3]ことにより、安全保障上の懸念なく自国の利益を主張出来るようになっていたことにもあると認められよう。エルドアン氏は、売りを仕掛けた金融勢力と連携する軍事力に対抗可能であるという自信を持つからこそ、強行姿勢を継続できているのであろう。ここまで売り込まれる可能性は、一応、懸念されていたことではある。それに、例のごとく、ここでの経済的緊張が、多くの政治上の高位の人物を巻き込んだ国際的な大仕掛けによるものであるとも考えられる。シリアという隣国の存在を考慮すれば、この売り仕掛けは、当然に、戦争屋の相乗りまで織り込まれているはずであろう。このような通貨戦争において、個人の端金など、存在しないに等しいが、わが国の政府が国レベルで(口先だけでも)介入した場合、中東地域のバランサー役として機能してきたトルコに対して、窮地に手を差し伸べたことになろう。代わりに、トランプ大統領の矛先を引き受けることにもなりかねないのであるが、仮に、この急落が一種の八百長である場合には、このような動きは、全然問題ないことにもなろう。エルドアン氏がNYTを寄稿先として選択したことも、注目されて良かろう。自由奔放に見えるトランプ氏を宥める役として、トランプ氏から批判されがちなNYTが選択されたという訳である。


台風13号は、絶妙なコース取りで、関東地方や東北地方にではなく、海上に大雨を降らせながら太平洋を北上していった(気象庁の過去の台風情報には、8月11日現在、未掲載)が、このコース取りが何を意味するものか、私には、全然分からない。ただ、私のように、気象操作を平気で攻撃に利用する連中が、日本の国土に対して攻撃を試みようとしていた、と解釈する場合、(1)何らかの理由によって今回は攻撃を手控えた、(2)ほかの主体による防衛行動があった、の2通りの理由を挙げることができよう。首都圏の停滞は、地方へのダメージとは異なり、経済活動を停滞させることで、日本株市場の全体の下落を招きうる。いくら惨事便乗型資本主義といえども、どれだけの財政出動が見込まれるのかが明らかにされない中では、攻撃しても仕方ないと見送られたのであろうか。この結果かどうかは知らないが、結局、建設株は、第一四半期の業績にかかわらず、総じて軟調である。その後の平成30年7月豪雨被害にもかかわらず、である。防災をイチオシしている飛島建設も、直近の決算が好調と見えたにもかかわらず、最近の安値から戻しきれていない。国内産業であるにもかかわらず、また、(今後大量供給されるであろう海外からの建設作業員にとって魅力的になる)円高であるにもかかわらずである。全く、私には理解できないし、懐の痛いことである。


おまけ・多少のネタバレ注意;スロバキアで、警告を受けたにもかかわらず、隣人への嫌がらせとして『椿姫(La Traviata)』の『乾杯の歌』を流し続けて収監されたという女性がいるとのニュースに接した[4]。BBCのポッドキャストで知ったことであるが、直リンがないので、該当するニュースのリンクをBBCのサイトで示しておく[5]。わが国では、類似事件がニュースになる場合にも、オリジナリティ(溢れる才能)が求められる。わが国は、女性にとって、何と生きにくい国なのであろうか。なお、『椿姫』のパーティのような場面に接するにつけ、私は、栗本薫氏の『グイン・サーガ』シリーズの登場人物の一人であるアルド・ナリスを想起してしまう。この人物造型の一側面が光源氏の「中原(グイン・サーガの舞台)」版であることは、まあ正しかろう。ミュージカル『ラ・マンチャの男』は、『椿姫』のハッピーエンド版であるという側面を有しよう。これらの作品についての知識や親しんだ経験は、他者の恋愛を追体験したことにはなってはいるが、個人的な悩みの解決には、ほとんど役立ってはいない。


[1] TRY JPY 過去データ - Investing.com
(2018年08月11日確認)
https://jp.investing.com/currencies/try-jpy-historical-data
#公的データからは、USD/JPYとTRY/USDとの組などのデータが必要。

[2] Opinion | Erdogan: How Turkey Sees the Crisis With the U.S. - The New York Times
(Recep Tayyip Erdogan、2018年08月10日)
https://www.nytimes.com/2018/08/10/opinion/turkey-erdogan-trump-crisis-sanctions.html

[3] トルコ、ロシアからミサイル購入へ 両国接近、米は懸念:朝日新聞デジタル
(イスタンブール=其山史晃、モスクワ=中川仁樹、2017年9月13日10時47分)
https://www.asahi.com/articles/ASK9F02DGK9DUHBI048.html

[4] Woman detained in Slovakia for playing Verdi for 16 years - BBC News
(News from Elsewhere as found by BBC Monitoring、2018年08月09日)
https://www.bbc.co.uk/news/blogs-news-from-elsewhere-45127006

[5] Silence finally? The owner of the “opera house” in Štúrovo detained - spectator.sme.sk
(Compiled by Spectator staff、2018年08月07日12:47)
https://spectator.sme.sk/c/20886920/silence-finally-the-owner-of-the-opera-house-in-sturovo-detained.html

2018年8月7日火曜日

(私事)日々の思いは失われるばかり

日が経つにつれて、私は、大切に思う人に向けて綴ることのできる新しい言葉を徐々に失いつつある。思いを伝えたい相手と日々の経験を共有できていなければ、誰しも、それまでの相手との交流だけを手掛かりに、相手に届くように言葉を編んでみて、放つほかない。コミュ障で生活の起伏に乏しい私であっても、相手が私の言葉に耳を傾けてくれて、返事を与えてくれるのであれば、どうにか自身の葛藤と日々の生活を、次なる言葉へと紡ぎ続けることができる。しかし、沈黙を前にしてしまうと、私は、以前から変化のない心中を繰り返すことを躊躇い、思いを伝えようとする努力をも放棄してしまいそうになる。

私は、かの人からの返事を近い内に受け取れるものと信じようとしながらも、更なる呼び掛けの言葉を紡ぐことができないでいる。私が思いを打ち明けてから2か月と2週間が過ぎたけれども、かの人は、私の与えた傷から立ち直れたのであろうか。これ以上、どのように何を記せば、今更ながらの話し合いに応じてもらえるのか。私がここに残す言葉は、かの人にとって、背中を押す力になるのか、かの人を傷付けるだけに終わるのか。私は、これらの疑問に捕らわれてしまうだけで、その先にある対話への願いを、かの人に響くものに仕上がったと自負できるまでに縒り合わせて投げ掛けることができないでいる。

私は、かの人からの助言に感謝するために直接対面したいと願いながらも、自分からは踏み出せないでいる。かの人からの助言は、今の私にとって、宝物でもあり、一人で生きる上での呪いでもある。しかしながら、私は、かの人の助言に従い、傍目にも分かるほど、自らの生活を高めることに成功している。私は、かの人に対して、あなたが現実に対して善き力を及ぼすことができると、自らを以て実例として伝え、感謝したいと願う。私自身の努力は、かの人との思い出を補助線にしてきたからこそ、継続できたものである。しかし、日本語論壇の最果ての地にあるとはいえども、本ブログのような公開の場では、自ずから制限があり、詳細を記すことは適わない。また、前稿(2018年08月05日)にも記したとおり、私から押しかけることは、望まない展開を生むことになりかねず、私は、待つほかない。

手紙を認めた時には、多くの時間を掛けてもまとめかねる程の伝えたい話があった。しかし、今の私には、それらの話の続きをプライベートで伝える術もなく、日々の思いは失われていく一方である。精神の働きに緩みが生じたときには、かの人への思いが必ず湧き上がる。けれども、思いを全て書き留める訳にもいかず、私は、大切なはずの人への思いの大半を、失うに任せている。そうして私は、かの人と話をしたいという願いを叶えることもできないまま、浮かび流れる記憶を無くし続けている(。かの人や読者諸賢が、本ブログを少しなりとも後追いして下さっているのなら、ここで、私が『はてしない物語』を参照していることに気が付かれたかも知れない)。

私は今でも、見聞きする全てのものに、かの人の影を読み込んでしまい、その度に、立ち止まってしまう。私は、他者と思しき恋愛の苦しみを読むにつけても、かの人の今までの沈黙の理由を考えてしまう。私をこの上なく嫌うがゆえに罰するためなのか、あと一歩の勇気を持てないからなのか、何と切り出せば良いか分かりかねているだけなのかと、私たち自身の関係に引き寄せてしまう。その上で、私は、ただ名前を呼んで欲しい、近々会うための約束をして欲しい、と願いながらも、それ以上にできることもなく、考えを打ち切ることしかできないでいる。

どうか、会って、話をして欲しい。たとえ、その話し合いの結果、別れることを私たちが選ぶとしても。この願いは、先の手紙にも記したとおりであり、この点、私の気持ちは変わっていない。しかしながら、手紙に記した決意よりも遙かに早く、私の忍耐は磨り減ってしまっている。私は、立派に生きる(、たとえ一人で生きざるを得ないとしても)という、自分で決意して表明したはずの約束を、自分では守れなくなりつつある。

2018年8月6日月曜日

(メモ)北朝鮮が日本の核武装に言及した

と『スプートニク日本』が編集部名義での記事[1]を昨日(2018年8月5日)にアップしたが、このことは、穿ち読みすれば、北朝鮮の弾道ミサイルが東よりも西へと向けられている可能性を示すものとも解釈可能である。わが国が密かに核武装を志向してきたことは、方々で指摘されてきたことであるから、説明するまでもなかろうし、最近の直下型地震が日本の核実験を意図するという指摘も散見されるくらいである。私は、すべての直下型地震が核実験だとは思わないが、最近の地震の中から核実験と認められる程度のマグニチュードのものを見繕ってみると、7月31日17時42分頃の福島県沖の地震[2]に行き当たる。仮に、この地震が核実験のデモンストレーションであったとするならば、ロシアや北朝鮮や中国が警告を突き付けることも当然とはいえよう。

このメッセージの中身が日本国とその後ろ盾である米国だけを牽制するものではないと解釈できる点は、メッセージそのものと等しく、重要であろう。核武装を実現・維持しようとする他国にとって、福島第一原発事故の始末を付けられていない(ように見える)わが国は、使いやすい資源である。私の見立ては、核武装への意思を有するわが国の一部勢力が他国の一部勢力と結んでいるというものに過ぎない。が、この見立てが正しければ、具体的にわが国と共謀している国名を特定しないとしても、私の予想は、まあまあ分の良い賭けになる。というのも、北朝鮮から見て、世界の国の多くは、西向きに多く分布しているからである(。まあ、それだけの根拠と予想でしかないと言うこともできようが)。

本来ならば、日本人は、自力で、一部日本人を含む両建てAチームにより進められた核武装という背信行為に気付き、反原発の声を通じてこの裏切り行為を非難し、全国民的な運動により原発ゼロに成功し、わが国が核燃料物質輸送の国際的な抜け穴となっているという脆弱性を解消し、他国の邪(ではあるが、同国の生存のためとしては理解可能)な目論見から距離を置けるように身を処すべきであった。しかし、日本人の大多数は、日常業務における様々なレベルの不正に対して実効的に反抗してこなかったし、この国民に蔓延する「見て見ぬふり」という脆弱性は、他国の情報機関によって、しばしば利用されてきた(のは、本ブログからも垣間見えることと思う)。原発ムラの住人たちは、なおさら、不正を黙認してきたであろう。多くの不正告発者が、謎の死を遂げているからである。原発業界の不正行為の中には、他国に密かに核燃料物質を輸出し、それと同量の劣化したプルトニウムを輸入するという作戦が含まれていたとしても、全く不思議ではない。なお、この推測は、あくまで二次情報を集成した結果に、ほんの少しの機転を加えたものである。日本語話者なら誰でも、ほんの少しの想像力の飛躍によって、私の推測と同様の結論に至ることが可能である。が、むろん、具体的な証拠に行き当たることなど、一般の人々には、期待しようもないことである。

繰り返しとなるが、現時点では核保有国として内外に認められるに至った北朝鮮が、わざわざ、わが国の核武装だけを取り上げて非難することは、わが国のみならず、わが国の一部連中と共謀関係にある他国をも牽制する効果を有する。北朝鮮がわが国の核開発だけでも十分な脅威であると主張するとき、米国を含めた周辺国は、その言い分を認める(に留まる)ことであろう。実際、北朝鮮の声明に先立ち、中国もロシアも、日本が核武装することが脅威になると警告している。今回の北朝鮮の警告そのものは、『スプートニク日本』の指摘するとおり、米国に向けられていると解釈すれば良い。米国を通じて日本に対する圧力を掛ける、という段取りであろう。ただ、さらなる解釈を許すとすれば、わが国の核武装への意思がいかなる理路によって今まで保証されてきたのか、それは単にアメリカという国だけによるものか、と考えておくことは、日本人(のサバイバル)にとって、全く、無駄なことではない。北朝鮮は、わが国だけを、核武装の意思がある悪役として非難し続け、米国に対処を求めるという形で、自国の要求を押し通すだけであろうし、中露の二か国は、北朝鮮を押し立てたり、必要に応じて、彼らの認めた事実を公表するだけであろう。しかし他方で、中・露・北の三か国とも、日本が単独で自国の核武装を達成できないことは、十分に理解していることであろうし、わが国と他国との核燃料物質の循環関係についても、それなりに把握していよう。その上で、わが国だけが核武装の意思有りとして非難されている。このとき、最後にバッサリ斬られるのが日本国(民)だけではないのかと、私は、心配しているのである。

今日という(トルーマンが広島に原爆を投下させた8月6)日に対する大メディアの論調を見れば自明であるが、多くの日本人にとって、人間なら誰もが賛同できるはずの核廃絶でさえも、他人事であるかのように、紋切り型(=平和が大事)に、情報操作されている。ましてや、多くの日本人にとって、被爆国だからこそ核武装が必要だと考えるタカ派上級国民たちの先走った行為に対する責任は、感じる機会すらもなかろう。日本語メディアは、出版事業までを含めて、日本人が知るべき情報を総合(=止揚)して伝えるという努力を回避してきた。連合国最高司令官指令(SCAPIN)に基づく戦後占領期の新聞検閲体制(プレス・コード、SCAPIN-33)などは、自主検閲=忖度の文化を派生させながら、実効的に日本の言論空間を統制してきた。論証を端折る(し、そもそも、知識の吸収がなかなか進んでいないのだ)が、この言論封鎖の中で、日本の核武装への意思は、十分に周辺国に気付かれながらも、いくつかの理由のために手出しされないまま、存続してきたものと認められる。仮に、日本国政府(の一部)が単独でこの目論見を達成しようとしてきたのであれば、必ずや、この試みは、早期に潰えていたことであろう。わが国の両建てAチームは、提携可能なパートナーとしての他国政府と協力する程度には、目端が利いている。しかしながら、本当に、この先、わが国は、核武装に成功できるのであろうか。国連憲章の敵国条項を、今のままで、出し抜けるとでもいうのであろうか。(当然といえば当然であるが、)これらの話を、一か所の論考で、人々に分かるようにまとめて示している論者を、私は、見たことがない。この言論の焼け野原状態を意識してようがしてまいが、一般の日本人は、自らの考察のみによって、政治的に、できる限り狡猾であらねばならないという状況に追い込まれている(。そして、私の知能がポンコツであろうがなかろうが、基本的に、私の論考が一般に入手可能な情報のみで構成されている以上、残念なことに、一般の日本人が一部の上級国民による核武装計画を知りませんでした、と抗弁することはできない。つまり、国民の多くがこの計画を知っていようがいまいが、一億総懺悔という道筋がデフォルトになろう)。


#とりあえず6日にアップするのが重要だと考えたので、段落書きがなっていないが、公表した。


[1] 北朝鮮、日本に「核の野望」と批判 - Sputnik 日本
(スプートニク日本、2018年08月05日 17:05)
https://jp.sputniknews.com/asia/201808055194189/

[2] 地震情報 - Yahoo!天気・災害
(2018年7月31日17時46分)
https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/jp/earthquake/20180731174227.html

発生時刻2018年7月31日 17時42分ごろ
震源地福島県沖
最大震度4
マグニチュード5.4
深さ20km
緯度/経度北緯37.2度/東経141.3度
情報この地震による津波の心配はありません。

2018年8月5日日曜日

(私事)わが信条めいたもの

私は、社会的な評価からすれば、はぐれゾンビ (純情派)と形容できる境遇を生きてはいるものの、本ブログを訪れる読者諸賢が予想されるであろうよりは、この暮らしを楽しんでいる。私も「可哀想な」種類の男の例に漏れず、どうにも生じてしまいがちな負の感情に悩まされてはいる。自分の不行状ゆえに大切な存在を失った(ばかりの)先進諸国の独身中年男性ほど、扱いに困るという点で、テンプレ的なキャラクターもなかろう※1。普段は、満たしようのない空虚さを埋めるために生き急ぎ、他人の迷惑を顧みず、自身の正しいと思うところを行い、そこで生じた些細な行き違いで、容易に攻撃的になる。私も、全くその例に漏れないし、その点を自覚してはいる。しかし、そこはそれ、私の信条のひとつは「勿体ない」であるから(、一部のマウンティング系男性「フェミニスト」とは異なり)、この境遇自体が、生きる実践であり、参与観察であり、リサイクルの対象となっているのである。今の私は、知ったこと・学ぶべきことが多く、やることも山積しているので、その点に慰めを得ることができている。

同時に、現時点の私は、今までのイージーゴーイングな生涯において、調査や分析や考察や思索をもっともっと進める必要があったことを痛感している。今後、思いを寄せる人から幸せを沢山受け取りたいと願う余り、向こう見ず(だが、遵法的なはずで、かつ、かの人には、明示的に制限されなかったと理解しているよう)な行動を起こすとしても、私は、それまでの準備なくして、自身の経験をその後の考察に十分に生かすことはできないものとも思っている。その準備作業を終えたり、(能力不足などから私自身が)耐えかねたりすることは、私がいくら遵法的と思う行動に留まろうと考えているとはいえ、相手のあることであるから、一定の社会的なリスクを生じさせることにはなろう。しかしながら、ネットで何かを訴え、次いで大きな(被害や不幸を意図的に生じさせるという)事件を起こす人々は、一定数いるものであるが、私は、その列には加わらない。この点だけは、重ねて強調しておきたいことである。私が本ブログを記し続けること自体を一種の自傷行為と見ることも可能ではあるが、それでも、私は、他者への不幸と自身の不幸とを分別し、他者には余分な不幸を与えないようにしているつもりである(し、重ねていうが、私は、自分も他人も身体上の危害を与えるつもりは毛頭ない。精神上の厄災とも呼べる結果は、ここまでの道行きからして、避けようがなかったとはいえ、その後については、本ブログの記述を含め、悪影響を極小化するように行動しているつもりではある)。

本ブログは、私事に言及するようにはなったものの、依然として、公開座敷牢のような場所で、公的な事柄を述べるに留まるものである。(もっぱら、私自身や日本人という社会集団に係る)不吉な予測は含むものの、私自身の具体的な行動に先立つ、いわゆる「ネット予告」の場ではない。あくまで、自身の経験をリサイクルして言論と化すのが、平和志向の(、他称では嘘吐きとされる、)陰謀論者の矜恃というものである。それよりも、本ブログは、どちらかと言えば、かつてのフリーク・ショーの現代版であり、万国博覧会の人類展示の延長である。後者は、前者よりも、多少の差別性が減じられたものであったが、依然として、優生学的な見地を有していた(#出所は、講談社学術文庫辺り?の記憶しかないが、またの機会に)。むろん、ここでの比喩は、一種の差別的表現になると知りながらも表出したものであるが、私が陰謀論者というラベリングを甘受し、同様の視線がこのレッテルに付随していることを承知している以上、その差別性を余すところなく表現する上で、最適と判断したために利用したものである。また、現代的な作品の一つとしてとらえた場合、本ブログは、リアリティ・ショーというには、読者を楽しませようという心掛けに欠けはするが、それでも、この一亜型に含めることができよう。本ブログを研究素材であると形容することは、十分に可能であろうし、当初の意図からしても、適切である

私自身は、今までになく作業スピードを上げているつもりであるが、やることリストは、やればやるほど、積み上がる一方であるから、当面、私から自身の環境を大きく変えるような挙に出ることは、ないものと言えよう。このため、現時点までの表現活動の範囲に留まる作業(質問や問合せ)の影響を除けば、私のリスク判定結果は、まだまだ低いものであると思う。通俗的な社会的プロファイリングに基づけば、私は、最も危険な状態にある属性の組合せと判定されるものとは理解している(。しかし、この種のプロファイリングは、「あなたは幸せですか」「大切に思う人がいますか」「そのほかの人たちを傷付けることで、大切に思う人たちや幸せを得ることができると考えますか」という最も大事な質問を、対面的に把握しようとしないため、かなり、効率的に失敗するのである)。それでも、私は、まだまだ平和裏にやり終えたいことを、沢山、積み残してしまっている。私自身の願いを叶えるために、私は、生きた屍※2として過ごすと宣言しながらも、人間としての幸せを求めるために行動しているつもりである。

今までの記述は、全然前振りになっていないが、ここで、私事に係る私の記述を理解する上で役立ちそうな、私自身の信条を述べておくことにしよう。これでようやく、私は、自分自身を、そこまで危険ではないものと主張できようからである。


  1. 人間がその生において求めるものは、表現が異なろうとも、結局は幸せである。
  2. 幸せの具体的な中身は個人で違えども、誰しも、自身の心に嘘は吐き通せない。
  3. 人間は、一人ではたかが知れているけれども、二人だけでも随分と強くなれる。
  4. 人間は、過ちをなかったことにはできないけれども、その過ちを糧にはできる。
  5. 人間は、最期のときまで何事かをなせるし、何なら、死後にも、何かを残せる。
  6. 人間は、感情の動物でもあるけれども、理性により自身を律することもできる。
  7. 人間は、大抵、仕方ないほどに利己的だけど、ときに相手のために身を捨てる。
  8. 個人は、同時に矛盾する感情を抱くことができ、相手にその中身を伝えられる。
  9. 個人のあらゆる言葉は、呪いにも祝福にもなる。聴き方により、中身が変わる。

#取り留めがないが、本稿は、これでおしまい。


※1 私が直近で見かけた同類のキャラクターは、FOXの『HAWAII FIVE-0』のダニエル・"ダニー"・ウィリアムズ(Daniel "Danny" Williams, 俳優は、スコット・カーン(Scott Caan)氏)であるが(、原作を読んでないので、どういうキャラの変化が生じたのかも、先の展開も知らないが)、『半分、青い。』の律くんも、離婚したようである。しかしながら、これらの造型が本当に男性の心持ちを正確に描写できているのか、それらの架空の人物が何を目的として描かれているのか、それが果たして社会に良き影響をもたらしているのか、といった疑問は、私の中で解消できないでいる。日本の論文検索サービスは、CiNiiもそうである(と断定しておく)が、あまりにも一般の利用者に対して閉鎖的で、かつ、使いにくくできている。私のような無職に毛が生えたパンピーが自身の問題を解消しようと思い立ち、まともな文献に当たろうと思ったとき、怪しい(と私には思える)団体に接触する必要なくして、独習する方法に欠けているのである。世の中の半分くらいは男で出来ているのであるが、男が頼ろうと思えるだけの専門的なリソースに行き当たることは、なかなか難しいことである※3

※2 ところで、哲学的ゾンビという表現も、なぜ、ジョン・サールが、哲学的ロボットや、哲学的単細胞生物や、哲学的ゴーレムなどと表現しなかったのかを考え始めると、非常に興味深く思うところである。哲学的ゾンビは、術者の命令を聞かないから、ブードゥー教のゾンビにも当たらないが、現代的なシミュレーションにおけるオートマトン・エージェントには当たるし、何より、動物と表現すれば済む話である。端から正しくない用語の興りを調べるほど暇ではないので、明らかに概念上、不適切な命名であることだけを指摘するに留める。繰り返したことではあるが、国際秘密力集団への言及抜きに、ゾンビという概念を流行させようとするヤツは、大抵、碌でもない。

※3 ここは、あえて、このように断定しておく。これは、既存の複数の支援団体が存在することを知っている上での問題提起である。日本社会では、まともな友人に恵まれている男性なら、パーッと遊びに行こうぜと誘われて、遊んで終わる種類の話になろう。その「遊び」で容易に想像できる展開でありがちな「女遊び」は、わが国における社会構造を強化・維持し、遊ぶ側にも、遊ばれた側にも、男尊女卑の心性を植え付け・肯定し・強化することになろう。他方で、一人の日本人男性が独力で自身の弱さに起因する問題と真剣に向き合おうとしたとき、わが国=日本語環境には、まともなリソースが存在しない。その貧困さは、たとえば、『「女子」という呪い』で雨宮処凛氏がまともな男性として紹介する田中俊之氏(の著書)によって説明できる。小島慶子・田中俊之, (2016年06月10日). 『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』(祥伝社新書467).は、一言で要約すれば、著者らが男性社会に逆マウンティングしようとする対談書である。田中氏は、これ以上、男をひさぐ男だと揶揄されないためには、(坂口安吾風に誹謗すれば、)自らをとことん墜とした後に、自身の所説がそれでも変化しないかを点検する必要があろう。この点、私は、田中氏が可哀想だと描き出す種類の男性としての人生を体験しているし、その上で、本ブログを精査すれば分かることであるが、上掲の小島・田中書にも示された論点に係る自説を曲げている。まあ、(今秋発売の2ではなく)『Red Dead Redemption』の世界なら、問答無用でお終い、の話である。田中氏は、それだけの覚悟抜きに機微ある話題に触れたという自覚もなかろうから、このような対談本を世に問うてなお、リベラルを自認できるのであろう。

以下、とりとめなく、最近読んだ本で関連する話題について、触れておく。(1)『男性の非暴力宣言 ホワイトリボン・キャンペーン』(多賀太・伊藤公雄・安藤哲也, 2015年, 岩波ブックレット)からも、お近付きになりたくない種類の高慢さを感じたと指摘しておく。段落読みできないという時点で、学術関係者が参画する流行輸入型運動としては失敗だし、何より、ほぼ全ての男性が日和見的に暴力を振るい得るという事実に対して、まともな回答を(本稿を世に問うた私に)与えてくれるものではない。(2)段落書きが研究者の能力を示す上で重要になり得ることは、『日本の男性の心理学 もう1つのジェンダー問題』(柏木惠子・高橋惠子〔編著〕, 2008年06月30日, 有斐閣)の構成によって、申し分なく示されている。各章の本文の書き手の女性研究者は、例外なく段落書きが徹底できている一方で、男性研究者(特に大御所と見える連中)は、恥ずかしい文章しか書けていないからである。私は、これを分かる人には分かる皮肉としての編集結果かと、穿ち読みしてしまった位である。それ程までに、女性研究者は、最近明らかになった東京医科大学の女性への不当な減点(=男性へのゲタ)と同様の逆境を生き抜いてきた結果、同僚とはいえないが、隣接分野の(元)研究者(のつもり)の私にも分かる位に、インテグリティのある文章を世に問い、したたかに生きる術を身に付けているとも(狡猾であると、良い方向に)評価できるのではなかろうか。多賀・伊藤・安藤の三氏の書への低評価は、この反動として理解すれば良かろう。彼ら(三氏)の行動は、文章の堅牢さだけで判定すれば、単に新規性の見られる分野に言及することを通じて自らの権力拡大を図るという、猟官活動の一種としてしか、理解できないのである。(3)さらに指摘しておくと、野内良三氏は、『偶然を生きる思想 「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス1118, 2008年08月30日)の第五章において、九鬼周造の考究した偶然に言及しながらも、そこに強引さを認めているようであるが、そこは、野内氏が九鬼の恋愛における苦しみを汲み損ねただけではないかとも言える。九鬼は、自由恋愛の極北の地で巡り会った女性を一個の独立した人格と認めたからこそ、「諦め」という概念を導入しなければならない程に苦しんだのであろうし、それを如何ともし難い種類の(原始)偶然と呼ばなければ、何とも説明をつけ難かったのではないか。この九鬼本人に特有の事情を、自らのものとして引き受けないで考えようとするから、評価が変になるのでは?というのが、生煮えの私見である。

2018年8月3日金曜日

(メモ)異常気象の偏在は続いているようである

北朝鮮で干魃被害があり[1]※1、韓国でも111年振りの猛暑だという[2]。前稿(2018年7月30日)では、陰謀論者たる者、気象兵器を論じるからには、世界のどこが異常気象に晒されているのかを把握せねばならない旨を指摘した。朝鮮半島においても熱波の被害があることは、彼らが犯人と言いにくい事情があることが示唆される。仮に、極東アジア全般を襲う異常気象を、すべて気象兵器によるものと考えると、その犯人として相応しい連中は、北朝鮮問題を契機として、極東アジアに戦争を起こしたい者たちだけが残されることになる。なぜなら、極東アジアの関係各国は、すべて異常気象に見舞われており、どの国も、戦争を起こす気などないからである。私の見立ては、本ブログに散々示したとおりであるが、わが国の官僚組織も、表向きこそ意気軒昂であれども、内心では戦争に賛同していないようである。このため、関係各国が異常気象の影響下にあることは、北朝鮮ともども、両建てAチーム側の企画=最終戦争には乗るつもりがない、と解釈できる証拠となろう。私を含むパンピーは、冷房をエコモードで付けることを厭わずに、気楽に過ごすのが吉ということであろう。

なお、山の高いところは涼しそうである。ただ、大陸ヨーロッパは、国境を越えた電力網が形成されているから、そこでの電力収支が分からないことには、特定国を切り取って犯人として名指しする訳にもいくまい。逆にいえば、各国の電力事業関係者は、分離された電源によって現今の気象操作が行われていない限り、犯人に気が付く余地があることになる。犯人の特定と追込みは、その筋の人々の仕事である。二次情報(又聞き)しか得られない一般庶民の考察では、ここまでがせいぜいである。


※1 BBC World Serviceの『Global News Podcast』でも、北朝鮮の干魃について、放送されていたはずなのだが、一覧性が悪いので、ここ数日間の番組の一つだとしか言えない。8月3日早版(earlier version)?では、ポルトガルとイギリスも、熱波の影響下にあるという。なお、BBCの表現では、ヨーロッパ全体が熱波の影響下にあるかのように聞こえてしまったが、調べてみると、パリはまだ過ごしやすそうである[3]

[1] 北朝鮮でも猛暑、40度超も=干ばつ被害、警戒呼び掛け:時事ドットコム
(2018年08月02日17:54)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018080201024&g=prk

[2] 韓国、111年ぶりの猛暑…各地で停電事故など「安全な生活」に脅威(1) | Joongang Ilbo | 中央日報
(記名なし、2018年08月02日10時13分)
http://japanese.joins.com/article/676/243676.html?servcode=400§code=400

[3] Paris, France 10-Day Weather Forecast - The Weather Channel | Weather.com
(2018年08月03日確認)
https://weather.com/weather/tenday/l/FRXX0076:1:FR