アジア通貨危機に先立つIMFの政策が「東アジア地域の弱体化か、少なくともウォール街の金融の中心にいる人々の所得拡大を狙って進められた」という議論を、ジョゼフ・スティグリッツ氏は、「IMFは陰謀に荷担していないが、西洋金融界の利害とイデオロギーを反映している」と評したという。スティグリッツ氏は、後日、この見解の前段と後段とが互いに矛盾(訳語は「排除」)するかのようであるがと質問され、次のように補足している。
お互いを補強し合うこともありえます。イデオロギーと利害が、明白な陰謀を補強するために用いられることもありえます。わたしが陰謀論を疑わしく思うのは、米国のような多様な市場経済において、全員を陰謀に加担させることなどできないだろうと思うからです。米国金融市場には、東アジアが強くなったほうが、グローバル経済のためにも合衆国のためにもよいと思う人がたくさんいます。
ここに言う「陰謀」の語には、注意が必要である。市場参加者全員の明白な意見交換を伴う計画のみを陰謀と呼ぶのであれば、陰謀は存在していないであろう。しかし、きわめて多額の資金を擁する少数の人物たちが、入念に公的統計などから「儲けの種」を選び出し、いくつかの通貨や国債に仕込みを入れておき、タイミングを見て売りを仕掛けたということを陰謀と呼ばないのも、これまた語感に合わないことである。大多数のウォール街の住人が大きな値動きに追随したことは、陰謀とは呼ばないが、陰謀を企図して仕掛けた者たちの思惑通りの動きであろう。
陰謀の語には、非難の意が付随する。非難の意を表現したと誤解されることを避けるため、学者が陰謀の語の使用を避けることは、安全策として必要かも知れない。ただ、この誤解を避けるがあまり、アジア通貨危機におけるクァンタム・ファンドの一連の動きを「陰謀」と呼ぶことを否定するとすれば、一体、何を陰謀と呼べるであろうか。ジョージ・ソロス氏の他国への関与がより確実な形で明るみに出されている2016年時点においては、当時の共起関係に基づいて、アジア通貨危機を陰謀と呼ぶことには、それほどの問題性は見られない。(2007年までの間にも、アジア人の側では、十分に関係性が疑われていたことを申し添えておく。)
スティグリッツ氏の指摘通り、ウォール街の金儲けを第一とする論理を内面化した人物が同調的な行動を起こすというだけでは、陰謀とは呼べない。ここで、陰謀と呼べるだけの十分条件を考えてみる。クァンタム・ファンドに何らかの形で協力した人物が、その時点でIMFに在籍していたことや、ファンドにIMFの元インサイダーを招聘してその内部知識を利用することに対しては、陰謀を認めることができよう。もっとも、この条件は緩やかに過ぎると考える者がいるかも知れない。陰謀と呼ぶには、IMFの政策がクァンタム・ファンドを具体的に利さなければならない、と考える者もいよう。いずれにしても、この両者の間に、陰謀と呼ぶことのできる境界線が存在するであろう。この条件をどれほど緩めれば、アジア通貨危機の構図になるかと言えば、共謀と呼べる密な連絡を一般人が追跡不可能であるというだけの条件しか存在しないのである。(この点、「寿司友」は「寿司友」と呼べるだけの状態にあるだけでアウトである。)
スティグリッツ氏の指摘したアジア通貨危機の構図は、俗に言う「阿吽の呼吸」で動いたもの、というものと言える。関係者の「忖度」や「期待」と呼び変えても良い。これらの心性は、陰謀とまでは呼べないものの、公正さとは程遠いところにある行動を生み出すものである。単に、「共謀」の要件である「謀議」が存在しないだけである。各人が己の職分に基づいて行動した結果、同調的な役割分担が生じたということであろう。カレル・ヴァン=ウォルフレン氏は、日本の政財官報の成員からなる、利権を死守するムラの心性を「鉄の四角形」と呼んだが、この構造は、成員の各人に内面化された心性を必要とするという点で、先のスティグリッツ氏の表現とほぼ同一の内容を述べている。ミシェル・フーコー氏の指摘した、規律の内面化という概念は、あらゆる職業人に敷衍できる一般性を有するものである。
私からすれば、スティグリッツ氏が「陰謀」の語を避けるのも、また、これを面と向かって問われた場合に否定するのも、理解できなくもないことではあるが、アジア通貨危機の状態を「陰謀」と呼ぶ者がいたとして、これを批判することは、避けるべきではないかと考える。公正な経済行動をはるかに超える悪質な行動であって、陰謀未満であるためである。それに、このような行動を繰り返してきた人物を重用してきたからこそ、アメリカは、その精算に苦しむことになっている。人は記憶から成り立つ生物であるし、歴史はその記憶・記録から成立する人工物でもある。戦争屋であることが明白な人物が弱みを見せているとき、そこから正当な取り分を奪い返そうとする諸国民の動きが生じることは、世の習いである。経済学者たちは、容疑が明白な戦争屋たちの行為を擁護したと糾弾されないように、99%にとって「悪」に荷担するように聞こえかねない言動を控えるべきであろう。
ネルミーン・シャイク[著・聞き手], 篠儀直子[訳], (2007=2009). 『グローバル権力から世界をとりもどすための13人の提言』, 青土社.(リンクはNDL-OPAC)
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