2018年2月3日土曜日

犯罪者たちは「下手な鉄砲も数撃てば当たる」ビジネスモデルを良く理解している

#以下は手習いであり、刑法学などにおける蓄積を考慮・参照していないし、整理されてもいない。しかし、本記事は、本ブログを利用する際の注意点ともなることから、とり急ぎアップした。また、理論に係る新規性が認められないことは承知している(ので、法律家の卵の読者の方々には、大変申し訳ないが、典拠のないまま、既出の議論が展開されていることになり、読むのに苦労するかも知れない)が、切り口が法律家とは異なるであろうから、そのために、面白い観点が含まれているかも知れない。

#私がブログで取り上げる人物たちの中には、必ずしも完全に遵法的な人物たちだけが含まれる訳ではないが、彼らのすべての活動が違法という訳でもない(。それに、日本人は、咎められる機会に乏しいけれども、日常生活において微罪を犯しがちであるから、ネット上の行動が合法であるからと言って、現実社会における生活がいかなるものかまでは、保証の限りではない)。以上の説明と最近の記事を良く読めば、注意深い読者であれば、私が何を言わんとしているのかを、ご理解いただけるものと思う。


詐欺犯罪についても、ルーティン・アクティビティ理論は有用である

わが国における現在の詐欺犯を考察するにあたっても、「日常生活理論(routine activity theory、ルーティン・アクティビティ理論などとも)」は、利用可能である。この理論は、現在、「環境犯罪学(environmental criminology)」の根幹に据えられている。この理論は、犯罪を、①被害を抑止できる能力を持つ保護者がいない状態(the absence of capable guardians)、②被害対象としやすい個人・物品(suitable target)、③犯罪を今まさに行おうとしている犯罪企図者(motivated offenders)の三つの要素が同時に揃ったときに生じる「出来事(event)」であると考える。逆に、揃わないようにすることで、犯罪を防げるものと考える。以後、丸数字は、上記の説明に対応している。この理論は、フェルソンとコーエンにより1979年に提唱され、近年では、これら三要素に対応して責務を担う組織等の所掌(①にはManager、②にはGuardian、③にはHandler)が合わせて示されるようになり、「犯罪の三角形(The crime triangle)」と呼び習わされている[1](。ただし、順序については、スティーブン・ラブ『犯罪予防』に示された一次予防・二次予防・三次予防の考え方を元に変更している)。


一般の詐欺師によるビジネスモデルは、多数者に向けての情報発信・少数者からの搾取という二段構えである

現代的な詐欺のビジネスモデルは、詐欺師たち(③)が情報通信技術(①)を悪用して、大量の人々(②)を相手に情報発信し、情報不足である少数の被害者を獲得したら、重点的にその被害者を狙うというものであり、つまりは、「下手な鉄砲も数撃てば当たる」というスタイルを第一段階とする。現代の特殊詐欺($\supset$振り込め詐欺$\supseteq$オレオレ詐欺)は、この諺を地で行くものであるが、電話という「足の付きやすい」手段ゆえに、これらの犯罪においては、いかに警察の追跡をかわしながら被害者から金品をせしめるのかという点に、工夫が施されている。郵便・小荷物を悪用する方法が効果的に抑止されるようになった後は、直接の手渡しを試みたり、電話の発信拠点を外国に移したり(、インターネット通信を外国経由としたり)などと、通常の生活人が追跡・警戒する手段を超えるだけの(悪しき)努力が重ねられている。情報通信技術の悪用の仕方は、なかなかバラエティに富んでおり、それゆえに、受け手にはリテラシーが求められる。

加害者(③)・被害者(②)双方に備わる情報の非対称性は、詐欺という犯罪を考察する上で、キーポイントである。被害者になりうる人々は、詐欺師たちの手口を、さほど知らないままに生きている。他方、詐欺師たちにとっても、犯罪に手を染め始めた時点では、誰が騙されやすいのかを知らない。そこで、彼ら犯罪集団は、付け入ることのできそうな弱味を抱える人たちの名簿を入手したり、撒き餌を用意して、個人情報を獲得する。被害者候補の名簿と加害の実績は、複数の詐欺師集団に共有され、特定の被害者を重点的に狙うという結果を引き起こす。この方法は、悪徳販売については、次々販売と名付けられている[2]。昨今の仮想通貨ブームは、この点にも注意する必要がある。仮想通貨の顧客に限らず、あらゆる経済活動は、名簿化されている場合、詐欺に悪用される余地を有するとも考えられる(。多くの名簿が組み合わされて悪用されていることは、巷間、指摘されたことである)。

詐欺のビジネスモデルは、被害の対象となり得る人々(②)に注目すれば、次の被害を予防しにくい(①)ものとなっており、また、時には、最初の被害者が加害者となり、連鎖的に被害者を作り出すように設計されていることもある(②、③)。多くの人々は、これらの犯罪に遭遇した時点で、気が付き、巻き込まれないように行動できるが、通報したり、身内の連絡を密にしたり、友人をたしなめたりする以外、効果的に次の犯罪を予防するための行動を取りにくい。情報・通信環境の発展(①)は、犯罪者たちが一度に沢山の人々に対して連絡を取ることを可能としている。詐欺のビジネスモデルにおいては、詐欺師たちの活動の旺盛さに比べれば、ごく少数の人々が被害に遭う。しかし、その被害金額は、犯罪者たちにとって、身バレ・逮捕のリスクを冒しても割の合うものとして理解されているほどに、高額なものとなりがちである(。悪徳商法の被害は、被害者一人につき、数百万円・数千万円にも達する)。それだけでなく、当面の間、被害者たちが被害を受けた状態に満足したり、彼らが新たな被害者を紹介するようにインセンティブが設けられたりすることもある。無限連鎖講(ネズミ講)、無尽講で配当者に仕込みがあるもの、カルト宗教で高額商品の販売を信者に課すものなどは、この典型例である。ネズミ講においては、末端の被害者たちは、自分たちが満足した結果、あるいは、被害を受けたと内心感じているにもかかわらず、その被害を回復できるだけの見込みをシステムの元締め(や高位者)から与えられることによって、次なる被害者を探すように、加害者として動き始めてしまう。いわゆるマルチ商法(のうち、合法とは見做されているもの)も、末端の販売者が外部者の加入を促進しようとするという点において、共通した性質を備えている。無尽講で配当者に仕込みがあるものは、本ブログを隅々まで確認すれば、類似したシステムが現存することに、読者も気が付かれるはずである。また、一時期、統一協会が霊感商法によって大きな社会問題を引き起こしたことは、中年世代や高齢世代であれば、覚えておられることであろう。かなり多くの大学生活をカルト宗教が台無しにしていることは、大学関係者によって、真剣に憂慮されるべきことである(が、当のカルト宗教関係者が大学経営の実権を握る地位にいたりすることは、わが国において、戦争屋系の国際秘密力集団が暗躍していることの、またとない証拠である)。

被害者が新たな加害者になるという特徴を有する詐欺(的)システムは、しばしば、性愛の搾取をもたらす(③)。新たに女性を騙すために、被害者である女性が上位者により使役される(。同性による化粧品やサプリメントの販売は、安心感と共感を相手にもたらす)。被害の末端に位置する女性が、新規の被害者を開拓できないために、自身の性的魅力を利用して男性を誘惑することもあろう。ホストクラブ通いのために風俗産業に勤務する女性は、詐欺に引っ掛かっているとは言えないが、類似の構造に落とし込まれている(が、今のところ、いくら支払われる金額が多額であっても、ボッタクリという店舗の営業システムに係る行為でない限り、有効な規制は存在していない)。


賭博と詐欺との違いは、情報の取扱に対する公正さにもある

通信・広告手段(①)は、歴史的には大きく発展しているが、詐欺師集団、とりわけ、そのトップクラスに位置する国際秘密力集団(③)は、これらの手段を有効に利用する方法を、同時代の他者(②・③)を上回る形で身につけてきた。「情報を制する者が世界を制す」という訳である。「黄金の国・ジパング」というキャッチフレーズが西回り航路について使用された経緯は、当時に立ち返ってみれば、搾取できる大陸と人々を、結果的に「発見」したとはいえ、当初の目標である日本には到達できなかったのであるから、欺瞞的であると評することもできよう。チューリップ・バブルと南海泡沫事件といった古典的事件においても、人々を後から投資に走らせるように、宣伝と誇張が使用されている。故意に創出された市場の乱高下を通じて、たまたま儲かった被害者たち(の一部)は、むしろ、この構造を乗りこなそうと考えるようになり、しばしば、このような混乱を是認する経済制度の信奉者(advocate)ともなる。彼らは、国際秘密力集団の走狗ともなり、その栄光と没落さえもが「(スーパークラスについての)階級間の流動性が高い」(デヴィッド・ロスコフ, (2008=2009).『超・階級』, 光文社. p.163)ことの証拠として悪用されたりもする2018年1月28日

詐欺における被害者(②)・加害者(③)の関係性を考慮すれば、現代の市場経済システム(①)は、被害者・加害者双方の共認的な構造の上に成立している壮大な詐欺(的)システムである。現代の市場経済システムが現状を維持し続けていられるのは、加害者だけでなく、被害者である99%も、マスメディア報道と義務教育課程を通じて、その仕組みを認めたことになっているからである。被害者の大多数が、御用経済学者の言うことを理解せずに拝聴し、この社会システムが詐欺ではないと考え、日本経済新聞の一面記事の多くに見られる恣意性を見逃しているからこそ、この社会システムは、成立していられるのである(。大事なことであるので、ついつい、重複した内容を3回パラフレーズしてしまった)。

現代の資本主義システム(①)は、被害者たちの黙認・誤認(②)という不安定な思弁の上に成立している。このシステムへの信認は、リーマン・ショック以前の数々の大恐慌や、最近の仮想通貨に対する信認の乱高下に見るように、容易かつ決定的に変化する(。なお、現状の仮想通貨は、理論的には、同一主体が多数の口座を通じて多数の取引を実行することによって、値を動かし始めることができるようにも見える)。この不安定さゆえに、ジャーナリズムと高等教育(のうちの経済学)は、最も優秀な詐欺師集団である国際秘密力集団によって、積極的な操作の対象とされ続けてきている。この点、文字通りの国営放送は、国益を最大化するという目的によって駆動されている限り、詐欺師たちを明るみに出し、国民の利益をも増進する上で、計り知れない潜在力を有している。現在では、一国の利益が国際秘密力集団の利益と衝突しがちであるから、この潜在力は、従来以上に増大している。マスメディアに接する人々が彼らの内心を逐一疑うことは、この詐欺における主要な舞台装置を打破することにつながる(から、推奨されることである)。不買運動は、もちろん、一つの方法である。ただ、痩せた土地に生まれるあらたな言論統制環境が人々のためになるものか否かは、私の手に余る考察となるが、甚だ疑わしい。現在のシステムを利用して、流され続けている言論の内容を変質させる方が、よほど効果的かつ効率的であろう。

なお、ギャンブル(賭博)は、情報の特性を余すところなく活用した、一種のサンドボックス的システム(①)である;参加者(②・③)がいなければ成立しないが、そのシステムは、社会一般に比べて透明性が高く(①)、参加前の誰(②・③)にでも理解できる内容であり(①)、参加を検討する人物(②・③)が勝てる見込みを持てるように、寺銭が設定されている(①・③)。この仕組みは、イカサマ・チートさえなければという前提があるにせよ、契約を重んじる現代社会の特性から見れば、倫理的に何ら問題のないものである(「買わなければ、当たらない」)。現行の賭博が詐欺と究極的に異なる点は、競争の仕組みが合法であると社会に認められており、常に勝つことになる主催者が公的主体であるか否かにあるが、そこから派生して、競争の仕組みが比較的分かりやすく単純にできているという点にも、ギャンブルという経済活動の特徴があろう。違法とされている種類の賭博行為が摘発・処罰されることは、ままあることではあるが、参画する顧客たちからすれば、それらの違法なギャンブルも、公正な仕組みによって運営されているものと受け取られていよう。野球賭博について想起せよ。ハンデ師は、非合法な存在ではあるが、賭けを面白くする上で、なくてはならない職人的な存在であったと言われているではないか(。ぱちんこは、グレー扱いであるが、釘師も、同様の職人である)。違法・グレーなギャンブルにおける開帳者・参加者の間の了解は、合意の有無という点では、先に言及したマルチ商法における中間販売者に近いものがある(。違法なギャンブルは、罰の重さこそ違えど、開催者・参加者の双方を罰するのであるが)。

詐欺という一連の出来事を考察するときには、具体的な対人関係の発生時点における被害者・加害者の情報の非対称性と、両者の立場を逆転させたときの不公平感を考慮する必要がある。先に考察したが、公営ギャンブルについては、システムが法律により規定され、その仕組みが万人に向けて、必要十分な程度に開示されている(という建前である)。この担保ゆえに、公営賭博で身を持ち崩す個人(②)は、今でこそ治療の対象として見做されるようになったものの、従来であれば、自己責任と片付けられていた(③)。この自己責任という建前は、現在、金融取引のみならず、経済行為全般について、敷衍されている。他方で、論理をはしょるが、詐欺犯を非難すべき理由は、平たく言えば、「法律で許されている範囲を超えて騙しているから」である。法律で許されている方法に則っているのであれば、あるいは、法律の規制の対象となっていなければ、被害者は、たとえば、いくら多額の金融商品が暴落しようが、いくら土地のバブルが弾けようが、売主を詐欺師として責めることができない。特に、合法とされるシステムについては、「騙す」側に知恵も経験も技術も集中しているという非対称性は、法律において、相当に軽視されがちである。


脱線;需要者=黒幕は「下手な鉄砲も数撃てば当たる」システムから決定論的に一人以上の走狗を得ることができる

なお、参加費用が分かりにくく個人の人生を大きく左右しうる(②・③)点を除けば、知的なスポーツ(①、囲碁・将棋・チェス)も、参加者の同意が存在するという点、同一の枠に入れることもできる。最近、海外では、eスポーツも該当しよう※1。ただし、これを敷衍していくと、事前の合意の有無こそが問題となることにもなり、決闘や肉体的なスポーツ、あらゆる競争にも話が及んでしまうことになる。どこかで歯止めを掛けた考察が必要となろう。

ただ、合意に基づく参加者が存在するという点に注目しておくことは、詐欺(的)な「下手な鉄砲も数撃てば当たる」システムの「犯罪性」を考察する上で、重要である。わが身(=人生における時間という点では、労働と同価)を供給する参加者がいる限り、需要者である芸能界は、人材に事欠かない。同じ事は、走狗の人選にも言える。成功を夢見る・何でもする若者は、彼(女)の人生と良心を供給しており、この供物に対して、番頭としての権力とカネが支払われるのである。人材(走狗)供給システムが存在し、潤沢な買付資金があり、貧乏が広く存在する限り、黒幕=主人は、イヌに事欠くことがない。

「下手な鉄砲も数撃てば当たる」式の走狗供給システムは、人材供給だけに留まらない機能を有している。多数の走狗候補者は、互いに成功を求めて争うから、成功が「努力しても叶うものとは限らない」という「冷徹な現実」を提示し、その提示された事実を通じて、人々を余計に努力に駆り立てるという機能を発揮する。しかし他方で、このシステムを用意した黒幕たちは、決定論的に、言い換えれば努力抜きに、一名以上の走狗を得ることができる。さらに、この選考過程そのものからも、黒幕たちは、利益を絞り出すことができる。大企業のピラミッド型形状がある程度高いと、中間管理職がムダに思えるかも知れないが、走狗としての性向を強く有する(奴隷根性の)人物の割合が高い場合には、この階梯は、彼らの向上心を呼び起こすことになる。なお、走狗供給システムにおける非対称性は、(供給側に多数の労働者がおり、需要側に黒幕集団がいるという)供給過多の労働市場から生まれるものであるこの状態を脱する上で、大事なことは、このようなシステムを用意する人物たちが余程のバカでなければ、供給過多を続けようと努力することに、使われる側の圧倒的大多数が、気が付くことである(。いわゆる「マトリックス」の存在に、気が付くことである)

これらの機能を考慮したとき、現在の経済システムへと「望んで参加した訳ではない」多数の参加者に対する現在の経済システムの詐欺師ぶりは、詐欺における加害者・被害者の非対称性と非常に近い様相を見せるものとなる。現代型の詐欺は、突然、被害者に対して、不意打ち的に仕掛けられる。しかも、その際、不意打ちを仕掛ける側の方が、被害者よりも、状況に対する経験と対応力を有している。状況を制御する力に乏しく、相手の方が上手になりがちであるという点で、現今の資本主義システムと詐欺師は、類似した力関係を、相手に対して振るっているのである(。この点、ナンパも、藤沢数希氏が小説で「モテ=ヒットレシオ×試行回数」[3]と語り、宮台真司氏も同種の話を方々で語っているが、経験と実績を表す「モテ」が試行回数に比例するというモデルに基づくようである。つまり、(彼らの主張が正しければ、)ナンパにも、非対称的システムの側面がある)。

このとき、ベーシック・インカム(収入保証制度)は、イヌ候補である個人の内面において、同一貨幣単位の限界効用を低減させるという効果を有するものとして機能する。他人も等しく、しかも気楽に生活できる様子を見せつけられていたら、よほどの餌で釣らないと、あるいはよほどの嗜虐趣味の人物でなければ、非道を嬉々として実行しなくなるというものである。このように考えると、ベーシック・インカムを提唱していたエーリッヒ・フロム氏が、ナチス・ドイツの心性をサド・マゾ関係で説明していたことは、偶然とは思えないのである(。このように書かれていた訳ではないが、貧乏を防ぐことが平和を達成する上で役に立つことは、指摘していたような。いずれにしても、この効果まで見越した上で、ベーシック・インカムを提言していたのではないかとも思えてしまう)。


現代社会における知識の増大は、詐欺全般の機会を増大させている

詐欺のビジネスモデルの全体(event)と詐欺師の機転(③)は、それこそ、15世紀から大きく変化していないが、この一方で、日常生活を維持する科学・技術の発展が著しく、法律や行政制度が大量でありながらも詐欺の予防に全力を傾けていないために、被害者になりうる人々の一般的な知識が追いついておらず(①)、人々の騙される機会が増加している。この構図に係る説明は、極論である。しかし、極論である方が、程度問題という詐欺の本質を理解する上で分かりやすいので、極論を続けよう。仮に、全てのマスコミが、つまらないニュースと娯楽番組(記事)を、全て、詐欺の類型と予防に係る広報に振り向けていたとすれば、いかな視聴者(読者)と言えども、相当の耐性を身につけることとなっていたであろう。同時に、この結果、たとえば、日本経済新聞の一面記事は、現行で掲載されているような記事の多くが掲載の余地を失うこととなっていたであろうし、読者は、その結果に接し、同紙に対して常に警戒を以て接するようになったであろう(。現代社会においては、記事の発表のタイミングが1日ずれれば、インサイダーの危険が常に生じる)。究極的には、あらゆるメディア=情報の流通業者は、詐欺の片棒を担ぎかねない危険を抱えながら、日々の業務を続けている(。むろん、本ブログもその危険を免れてはいない)。

現在のマスメディア(③)、SNSまたはインターネット(①・②・③)、双方の環境において、詐欺師と呼ばれている人物の異同を比較すると、面白い結果が得られる。ネットにおいて詐欺師と指摘されたことのある人物が、マスメディアにおける露出の機会を有しており、または、職務上の継続的な関係をマスコミ関係者と結んでいるために、結果としては、マスメディアから排除されていないという事例を、相当に見かけることができる。詐欺と呼べるだけの実績を(裁判官ではなく)一般人から見た場合に認めることができる人物たちであってもである。この異同は、現時点では、マスコミ関係者に気が付かれていないようにも見える。ただ、元・受刑者であっても、従来名が売れていた芸能人であれば、非・芸能人枠でマスコミに露出する機会の職業に比べて、マスコミへの復帰が比較的容易であるようにも見える点は、この辺の機微を反映しているようにも見える(。元・受刑者の発信する情報の種類が、演技であったり、演芸であったり、音楽であったりすれば、言論に比べ、不問に付されやすいという構造があろう)。言論を本業とする人物が詐欺師と認定された場合とは、扱いが異なるのは当然ではあろう(。言論人が嘘を吐くと、自己言及のパラドクスが生じてしまう)。しかし、そこに例外が見られるとすれば、それは、いかなる理由に基づくものであろうか。芸能事務所の存在は、要因として認められるであろう(が、今回、これに立ち入る暇は、ほとんどない)。

現代の詐欺師たちは、被害に引っ掛かることのない多数の人たちに犯行を重ねていることを気付かれ、指摘を受けながらも、逃げおおせることができる手段と理屈を用意した上で、ごく少数の騙されがちな人たちから、多量の金品(や性愛上のリソース)をせしめることを目的に、日々、積極的に活動している。新手の手口であっても、早晩、警察や消費生活センターに認知され、警告が始まることになる。騙されやすい人々の数も限定されているから、彼らをとことん搾取するにせよ、未開拓の顧客を絶えず獲得する必要がある。このために、詐欺という犯罪は、「よほど確立された状態」にシステムを持って行かなければ、結果としては、自転車操業的な業態、焼き畑農業的な業態に陥りやすいものとなる。マルチ商法という業態は、「よほど確立された状態」に至る過程までの道半ばにあると言えようし、一部のカルト宗教は、「よほど確立された状態」を確立している。多くの国に係る中央銀行制度は、「よほど確立された状態」の究極形にある。私には、仮想通貨もこの究極状態を維持・強化するためのツールの一つとして、アングラ界から引き上げられたものである、と見えてしまっている(。一般の社会からすれば、私の見方がおかしいことは、重々承知している)。


詐欺への有効な対策は、言論と経済活動との関係を追究することから始まる

詐欺に対する焼き畑農業という比喩は、詐欺の究極的な予防について、一つの示唆を与える;つまり、全員が詐欺師の手法に通暁していれば、詐欺を働くことは難しい(。読者諸賢からは、どうすれば良いのかを早く教えろ、とツッコまれそうであるが、例によって、「知は力なり」を繰り返すほか、私には有効な策がない)。市場原理がネット言論およびネット広告に浸透していなければ、「質問に答えてくれるスピーカー」が参照するデータベースを整備しておくという手が考えられる。「この人誰?」と聞いたときの答えを用意しておくのである(。「御用学者の一覧」は、同様の効果を有するが、原子力ムラが総力を挙げて潰してしまった)。しかしながら、警察や消費生活センターが注意喚起する種類の詐欺については、対象となりやすい人々の多くが、メディアリテラシーも経済的余裕もとっさの判断力も、持ち合わせていないであろうから、これについては、事後的に契約を無効とするような昨今の方策しか、有効には機能しないであろう。中央銀行制度に基本を置く現在の詐欺的資本主義システムをマシな方向に持って行くためには、トマ・ピケティ氏の指摘を、小学生のときから徹底的に教え込むしかなかろう(。ただし、だからといって、金融教育を拡充する従来の方向性は、基本的に間違いである。全生徒に数学IIおよび数学B修得させることが先であり、これらの科目が分かれば、金融屋の狡さが基本的に分かることになろう)。

唐突であるが、コインチェック社の顧客口座の運用形態に係る外野の指摘について、これが六本木・青山という繁華街で遊んでいる種類の人々の口から出てきたことは、覚えておくべきかも知れない(。この話は、一応、本項に係る話の前振りである)。仮想通貨に対する信用毀損の程度を軽減しようという目的があるやも知れず、そこには、外部者との協力関係が存在する可能性も認められる(。ジャーナリストは、取材源を秘匿できるが、取材源が存在するときには、本来、その存在自体は公表しなければならない)。仮に、指摘した人物らが仮想通貨の取引に従事していたとすれば、それは、金融関係の法律には違反していなくとも、相場に何らかの影響を与える行為である(。この点、金融関係の法律が、そもそも、カネの論理に押しまくられている)。彼らが研究者を名乗り、研究として指摘をするにしても、その行為は、立派な利益相反行為である。まあ、せせこましい世の中であると言えば、それまでであるが、カネも(言論を通じた)名誉も欲しいという欲張りな姿勢自体が、贅沢である、というのが、私の基本的な意見である。言論活動と経済活動との間に明解な一線を引くことが、現在の経済界には求められていると思うのである。

言論活動と経済活動との間に一線を引くという考え方は、実行されれば、有効に機能する。構造的でない詐欺を防ぐ上で、情報を流通させる条件・主体に制限を設けることは、マッチポンプを抑制することになるから、有効な歯止めを作ることにつながる。広告業においては、いわゆるステルス・マーケティング(ステマ)は、一切禁止され、刑事罰の対象とされるべきであろう。文筆家については、具体的な金銭の授受を伴う利益相反関係があることが証明され、平均的な国民所得を明らかに上回る効率のものであったときには、数倍返しというのも考えられよう。ウェブ広告収入に係る最高金額の規定は、アフィリエイトなどの個人の広告収入にダメージを与えないために必要であろうし、同時に、まとめサイトなどの中で問題のあるものを効果的に制限する役割も果たすことができよう。広告収入アップを狙うあまりに敢行される反社会的行為も、有効に抑止されるであろう。表現の自由は、この制限によって、全然、損なわれる訳ではない。反社会的行為をテコとする広告収入が激減するだけであり、(収入減によるため申立されるであろう)生存権も、ここでは当たらない。SNSは、マスメディアに対する登竜門として機能させれば良いし、同時に、マスメディアを現在のあり方から大きく変えれば良い(。フェイク・ニュースは、Aチーム用であれ、Bチーム用であれ、大きく変える必要がある)。

#色々とアイデアはあるものの、基本的な考え方は、広告・宣伝のスタイルを各メディア黎明期の原則的なものに戻す、というものである。これに対しては、大きな反発が予想されよう。


※1 一般社団法人日本eスポーツ連合(JeSU)が2月1日に発足したという。ゲームを対象とするプロライセンスを発効する[4]とのことであるが、そのメインイベントであると認められる『闘会議』[5]の大会種目では、非日本ネィティブのゲームは、『レインボーシックス シージ』くらいであり、ライセンス対象の中では、『コール オブ デューティ ワールドウォーII』だけであると見受けられる。もっとも、ほかのタイトルの海外における展開は、目覚ましいものがあるので、それで良いのであろうと思うのであるが、同団体は、他団体のライセンスの代理業務などを実施したり、ライセンス対象を拡充したりするのであろうか。囲碁・将棋・チェス・麻雀・MtGなどの対戦型カードゲームと比較すると興味深いように思うが、彼らプロeゲーマーがどうやって老眼を克服するのかは、考慮すべき要素であろう。勝手な意見であるが、できるだけシンプルで、プレイヤーの地位の対称性が高く、技量によって序列を明確にできる手番を有しており、偶然性が排除されていることが(、後者2点は重複気味であるが)、良いプロを育てるゲームプラットフォームの条件であるように思う。PCワードであることを祈るが、「インディアンポーカー」などのより単純な複数人によるカードゲームは、凝縮された心理戦を展開できるので、面白いのではないかと思ったりもする。


[1] A Theory of Crime Problems
(2018年02月02日閲覧)
http://www.popcenter.org/learning/pam/help/theory.cfm

[2] 高齢者への次々販売(各種相談の件数や傾向)_国民生活センター
(2018年02月02日閲覧)
http://www.kokusen.go.jp/soudan_topics/data/old.html

[3] 藤沢数希, (2015.6). 『ぼくは愛を証明しようと思う』, 幻冬舎, p.52.(リンクはNDL-OPAC)
http://id.ndl.go.jp/bib/026449984

[4] ライセンス制度 | 一般社団法人日本eスポーツ連合オフィシャルサイト
(2018年02月03日閲覧)
https://jesu.or.jp/contents/license_system/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%8D%E5%AE%9A%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB

[5] 闘会議 ~ゲームファンとゲーム大会の祭典~
(2018年02月03日閲覧)
http://tokaigi.jp/




おまけ;人々を駆動する原理に係る適当な見解

カネと酒と異性は、人々を(時と場合によっては違法に)籠絡するための手段と良く言われる。ただ、カネで酒を合法的に買うことができる時空間は多いから、カネと異性を目的としているというべきかも知れない。あるいは、現代社会においては、違法薬物・薬物乱用が、酒の代わりというべきかも知れない。この話は、戦争屋などによって悪用されていることが明白である以上、少なくとも、彼ら犯罪傾向の高い人物たちに成り代わり、車輪を二度以上発明していることを意味するが、例によって、怠惰に基づき、指摘するに留め、調査は行わないでおく。もちろん、この原理を指摘したことによって、国際秘密力集団(の少なくとも一部)は、おかんむりかも知れない(が、同時に、痛痒を感じることも少なかろう)。なお、以上の誘因は、いわゆる両建て構造においては、Aチームに対して用意されるものであろう。

他方で、性愛関係のない、あらゆる好意・執着・愛着は、現代社会において、経済上の誘因・リソースとなり得るが、それらに対する規制は存在せず、むしろ、現代社会を成立させる上では、不可侵の情念と見做されている。知への愛(=哲学)、「人気商売」における人気、ある宗教における至高の存在に対する崇拝などは、ほとんどが一方向の愛着と言えようが、一組の男女における愛情と同様、「自由・平等・博愛」という理念に基づき形成された社会を望ましいとする態度などは、循環的・相補的な関係を生じさせ、当人の対象への愛着を強化する機能を有している。この関係性に伴う執着心は、違法なもの(たとえば不倫関係)などであればもちろん、そうでないものも、国際秘密力集団によって使役される弱味になり得る。性(交渉を通じた)愛(情)はもちろん、好意・友情・民主主義的信念などといった、通常は好ましいと見做される心の動きも、場合によっては、悪用されることになる。以上の誘因は、いわゆる両建て構造においては、(Aチームよりは見劣りするカネとともに、)Bチームに用意されるものであろう。


#以上の見解は、『国際秘密力研究』の菊池氏の考察の存在にも気が付きながら、自身の知識に基づいて記してみたものである。他者の意見をほとんど直接参照せず、自分の考え方を記してみたものであるから、劣化コピーであるかも知れないが、パラフレーズされた知識としては、役に立つものであろう。AチームとBチームを駆動させるものの違いは、氏も触れていたが、こんな感じではなかったような。とにかく、建前のきれいさがBチームを成立させるために必要とされることは、特筆されて良かろう。




2018(平成30)年02月03日22時10分訂正・追記

本文の分かりにくく思われる記述を訂正した。一般社団法人日本eスポーツ連合の発足について、追記した。




2018(平成30)年02月04日追記

一部、拙稿へのリンクを追記した。

創価学会は、今でこそAチームと見做される現政権の第一の補完勢力として機能しているが、昭和中期、信者を多数獲得するに至った求心力は、Bチーム向けの駆動力によるものであった。1980年代までの公明党は、明らかにBチーム型であった。連立政権内における公明党の役割は、常にBチーム向けである。この役割は、連立政権内におけるキャスティングボードを握るという目的を内包しており、55年体制時の自民党内の多様性の代替的機能を果たしてもいる(。分割統治の一類型でもある)。

公明党および創価学会に係る以上の考察からは、国なり民族集団なりの生存のためには、おおよそ、世代に合わせた地域・文化考察が必要とされるという教訓が得られるように思う。橋下徹氏の三世代論も想起せよ(2017年6月10日)。言い換えると、この種の考察は、四半世紀ごとにはアップデートされていなければ、具体的な事例が現実に即したものとならないことを意味する。考察に使用する方法論は、現代においても、国際秘密力集団の方法論がモダンなものではないから、モダンやポストモダンではなく、近代的なものでも構わないように思われる。

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