2015年11月26日木曜日

お仕事お疲れ様です@2ちゃんねる

 以下の2ちゃんねる(sc)の板で、少し感心した一例があったので、紹介しておく。

【サヨク速報】 騒動の影響なのか、しばき隊界隈が荒れだしています
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1448369911
1 : マシンガンチョップ(岐阜県)@\(^o^)/:2015/11/24(火) 21:58:31.19 ID:YKOLjY0Y0.net ?PLT(13000) ポイント特典
(......略......)
2 : マシンガンチョップ(岐阜県)@\(^o^)/:2015/11/24(火) 21:59:02.94 ID:YKOLjY0Y0.net ?PLT(13000)
(......略......)
3 : ジャーマンスープレックス(WiMAX)@\(^o^)/:2015/11/24(火) 21:59:39.07 ID:WFubMXjz0.net
    山岳ベースまで発展するかな?

 1番および2番では、しばき隊メンバー2名の合計7ツイート、計661文字のやり取りが引用されている。各ツイートの文字数ならびにその合計は、メンションを抜いてある。
  1. 140
  2. 80
  3. 116
  4. 45
  5. 97
  6. 72
  7. 111

 この板が上げられた後、67秒以内に、3番の書き込み主は、新書本1ページ(羽生善治, (2005). 『決断力』, 角川書店.だと41*15=615文字)に相当する文字数を読み、14文字入力して送信する、という作業を進めたことになる。2番の書き込みを読まずとも、3番の書き込みに至る理解は十分に可能であるので、2番と3番の書き込みの時間差から導かれる36秒以内に書き込まれる必要はない。3番の書き込み内容は、極左の歴史を十分に理解した上で反射的になされたものである。日常的にこの種の分析を実施している人物が書き込んだ可能性も認められる。私の場合、はすみリスト以外の周辺事項については初見であり、上記引用部分のすべての文章を読み、2名のツイート主同士の関係性を理解するまでに1分程度を要した(ということにしておこう)。ただし、集中力を増すために向精神薬を常習的に摂取する研究者がいるという事実自体は以前から知っている(体験的には知らないので、念のため)。

 まじめに全ツイートラインを読み込むのには、30秒程度を要するだろうし、書き込みには、アプリを利用するにせよ、PCブラウザを利用するにせよ、10秒程度を要するだろう。新スレに気づく余裕は20秒程度しか残されていない。21時過ぎのリラックスする時間帯に、たまたまその20秒間内に気がつき、反射的に気の利いたことを書くことのできる人物がいるということは、まあ日本も広いと言えば広いのだろうか。1~3の書き込みがセットになっているとか、できるだけ早い時間帯にスレを伸ばす書き込みを行うことが仕事になっているという可能性も、ないわけではないだろうが。


2015年11月24日火曜日

著作権法の引用に係る硬直的解釈は、知識社会における「共有地の悲劇」を招く

#毎日、学術的な方法に基づき、正確かつ新規性のある内容を作成し、投稿しようとすることは、私にはとても無理なことである。学術的な方法を心がけると、難度が格段に上がる。今までの不勉強が、最も根の深い問題であり、基礎的な先行文献を収集して読み込むことに、多くの時間を取られている。また、過去、ブログに移行する前に作成してきたテキストファイルやデジタルノートなど、デジタル化した作業メモを成果に直結できていないことは、我ながら、もったいないことであるように思う。しかしながら、私を取り巻く外部環境に問題が全くないわけではない。本記事は、その外部環境を話題に取り上げる。

SNS中心のウェブ上で流通する(論文以外の)日本語情報の多くは、学識経験者の発信したものでも、含まれる情報密度が低めであるが、その背景は、三点の理由が考えられる。第一は、著作権法における引用の問題がある。第二に、現今の日本語ウェブ環境では、正確性よりも先取性を過度に重視する傾向、あるいは「言った者勝ち」の風潮がある。第三に、学術的な文章の読み書きの作法が日本語話者に浸透していないという現実がある。第二と第三の観点は、知識社会における「情報爆発」を舞台とした「共有地の悲劇」であり、相互に関連している。このほか、ウェブ上の書き手と出版業界における書き手は、両立していない場合が多いこと、また、ウェブ上で有名になり出版社からお呼びのかかるようになった論者の世代交代が「マタイ効果」によって進まなくなっていることなど、わが国の情報産業における固有の課題も挙げることができようが、これらの課題については、別稿で考察することとしたい。

第一点目の理由は、わが国の著作権法であるが、この法律は、硬直的に運用されると、ウェブ社会においては、学術的な文章作成過程とまことに相性の悪い存在となりうる。一つ一つの資料についてブログ記事を作成したとすれば、その主従関係において、ブログ主の主張が従たる関係にあるとみなされる虞を否定できないためである※1。自分の言葉で引用部分をパラフレーズしたとしても、文献についてのメモを掲載することは、著作権法違反の非親告罪化と、主従を総合的に判定するという従来からの引用に対する解釈との組合せをふまえれば、相当に危険な行為と化す。言うまでもなく、著作権法違反の非親告罪化は、ACTAひいてはTPPを見据えたものである。このような危険を承知しているかは不明だが、学術的な内容を含む匿名ブログには、自身の意見や情報が明らかに従たる関係にある記事をアップする形式が無視できない程度に多く見られる。

第二点目の理由は、正確性よりも先取性を重視しすぎであるという風潮であるが、この風潮は、文章の質を高めるための推敲作業を省略する誘因となりうる。査読制度は、先取性を優先する著者の焦りに対して、一定程度の質の文章を保持するための制度でもある。学術関係者は、査読を受けるならば、新規性が高いとみなされる部分の情報密度を一定以上に維持し、読者を新規性の高い情報へと誘導するように文章を整理するはずである。しかし、このような推敲作業は、現在のSNS+Googleという、拙速が限りなく尊ばれる環境下では、後手を踏む工程となるだけに終わる可能性が高い。

通信理論において、導入部分においては、「0を1と間違える」ことと「1を0と間違える」ことは、必ずしも異なる種類の誤りであるとはみなされないように思われる※Aが、実社会においては、これらの二種類の誤りは、まったく異なる結果を意味する。真犯人に無罪判決を下すことと冤罪を着せることは、異なる結果を異なる二人に及ぼす。わが国の法制度は、この二つの誤りのうち、冤罪を避けるように制度を整えてきた。ところが、犯人を捕まえるための警備システムは、あまりに誤報が多いと困りものではあるが、しかしそれでも、侵入者を見逃すことをより大きな問題だと見なす。テストの採点に不備があり不合格となった学生には、救済措置が与えられるのが常であるが、だからと言って、採点基準が改められたことにより、ギリギリ合格であった学生が不合格に落とされることは、まずないと言って良い。統計学は、数学を基礎におきつつ社会現象を対象とする学問体系であるが、主要なツールである(ネイマン=ピアソン流の統計学的)検定は、「見逃し」と「早とちり」とを区別して扱い、基本的に「早とちり」してしまう失敗(第I種の過誤)を一定に保とうとする。

近年のウェブ環境下の日本語言説は、短文や動画像中心のSNS情報が大量に流れゆくという特徴のために、(多義的な意味での)間違いを含むとしても、他人の興味を引く情報を速報することが優先される。この風潮が昂じて、ここ数年、アルバイト店員がいたずらをSNSにアップするという流行に至ったと理解することもできる。東欧諸国では、高所での曲芸(パルクール※2)がその代替物として流行しており、深刻な社会問題になった。有名な事例では、官邸ドローン事件も、JR東日本連続放火事件(2017年4月17日;今となってはこの呼称に誤りがあるとも言えるが、このままとしておく。)も、古くは秋葉原無差別殺傷事件もそうであるが、大きな事件後、容疑者のアップしたコンテンツに対するアクセスは、飛躍的に増加する。神戸連続児童殺傷事件の犯人の元少年がウェブサイトを開設したことも、この流れで見ることができる。村上直之, (2011). 『近代ジャーナリズムの誕生』[改訂版], 現代人文社.か、澤康臣,(2010). 『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』, 文藝春秋.がジャーナリズムも同様の側面を有することを指摘していたような覚えがある。私の記憶がこの点で正しいかどうかはともかく、これらの書籍は、それぞれ、犯罪予防研究者なら一読に値する。

いたずらや犯罪などの事実が炎上して本人の責任に見合う以上の(社会的)制裁が加えられがちである一方で、専門家として社会に認知されている学識経験者の言説が、明白に間違っていようとも、実際的な制裁に帰結しにくい※3という事実は、注目されて良い。学識経験者のコミュニティの成員が外部からの真正性に対する指摘・批判を無視し、コミュニティがその状態を黙認するようであれば、その状態は、専門外における比較的些細な話題に係るものであろうと、自らの存立基盤を蚕食しかねない。なぜなら、学識経験者に期待されている役割は、専門分野について是々非々で物事の真偽を検証することであり、間違いを訂正しないという態度は、この役割期待とは相容れないものだからである。

情報密度が低い理由の第三点目は、学術的な文章の読み書きの作法が日本語話者に浸透していないという現実に求められる。この現実は、中等教育にパラグラフリーディング(ライティング)の課程を導入すれば解消される問題である。問題は、洗練された教育を受けられなかった(あるいは、私のようにその機会を無駄にした)成人が多数存在してしまっていることである。飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子, (2015). 『「30万人都市」が日本を救う! 中国版「ブラックマンデー」と日本経済』, 藤原書店.は、ロスジェネが未熟練労働者の状態に置かれており、今後技能を向上させる見込みもないと断じているが、専門的な文章執筆および読解能力については、そのとおりであろう※4。パラグラフリーディング(ライティング)の未学習世代が大多数を占める環境下では、大多数の話者は、効率的に情報を摂取も提供もできないので、他言語のコミュニティの成員に比べ、思索を深める上で不利な立場に追いやられることになる。反対に、ある研究分野における文章がすべてパラグラフリーディングできるものとなっていれば、研究コミュニティ全体の効率は、そうでない分野に比べて高くなる。パラグラフリーディングできた(良い)書籍で直近のものは、清水克行, (2015). 『耳鼻削ぎの日本史』, 洋泉社.である。歴史研究は、(私にとっては、)随分と日進月歩の感がある。

本ブログの多くの記事は、パラグラフライティングを心がけており、段落の最初の文章さえ読めば、論理が追えるように作成されているはずである。

正確性よりも迅速性が優先されるあまり大量の文章が算出され、文章が構造化されていないために大量の文章の正確性を判定しにくいという状況の下では、専門家として周囲に認められるための条件は、いきおい、肩書きがあること、質は問わないので実績があること、というものになる。また、個々の文章に対する是非が問われない環境では、ある論者についての評判は、現状のものから変化しにくくなる。わが国では、論者の当初の評判は、議論の正しさよりも、しばしば肩書きや資格を元に形成される。物事の真偽を判定する上で、ほかに手がかりを持ちにくい状況では、このことは、やむを得ないことであろう。しかし、何より困ることは、わが国では肩書きと議論の正しさが本来あるべき関連を有さないことである。たとえば、教授職を勤める人物が平気で嘘を吐き、その嘘を訂正しないということは、社会の正常な機能からすると、考えにくいことである。しかし、わが国では、よほど道を外れた発言でなければ、公職を追われることはないし、正職員であれば、その発言が犯罪として扱われない限り、本職を追われることは無い。このため、わが国では、肩書きを得た正職員こそ、クビにおびえる非正規職員に比べて、やりたい放題となることが否めないのである。このような硬直的状態は、論者の肩書きをきっかけとする「マタイ効果」の亜型であるとみなすこともできる。

個々の言説の是非が十分に検討されないままに大量の文章が産出される学術コミュニティは、何が正しいことなのかやがて分からなくなり、存在意義を失うことになる。この状態は、正しい知識に価値を置く「知識社会」における「知識体系」を劣化させるという点で、一種の「共有地の悲劇」であると見なすことができる。人間の文章読解速度には限界がある。そのため、ルールに準拠しない文章は、読者側の時間という有限の資源を奪い、批評を甘くすることにつながりかねないのである。

※1 一度、この危険性を検証すべく、木走正水氏が村上春樹氏に辛辣な批評を加えているブログ記事(リンク)について、著作権法上の問題がないかどうか、文字数をカウントしてみたことがある。その結果、木走氏は、2分の1を超えないように他者の記事を引用していることが分かった。ただし、その記事における解決方法は、スマートとはいえないものであるようだ。木走氏は、著作権法における引用に係る解釈にこだわるあまり、引用する必然性のない自身の記事を多量に引用し、文字数を増やしたことが認められるのである。別記事で紹介することにしよう。法律が誰にも平等に適用されるものであるから、木走氏の措置は分からなくもないが、このように著作権法上の規定が硬直的に解釈される状態は、学問の発展にとっても、ウェブ資源の利用法からみても、もったいないことである。

※2 どこかで学識経験者とみなされる人物が「ゲームなんかしてないでリアルで楽しめ」なんて言っていたような記憶があるが、リアルで『Dying Light』のようなことができる(リンク)のは、ほんの一握りの人たちだけだろう。実在のパルクール集団『YAMAKASI』による『MAXX!!! 鳥人死闘篇』(2004, 2作目)のようなアクションは、誰もに可能な動きではない。

※3 社会的制裁が学識経験者に加えられようとした事例として、光市の母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求事件(リンク)を挙げることができる。本件懲戒請求が殊更に注目された理由は、殺害事件における弁護に大衆の感情を逆撫でするような内容が含まれたこと、弁護士が地方テレビ局の番組でこの方法に言及したこと、弁護士会という専門的職業における自治に直結したこと、被害者遺族が来るべき裁判員制度の創設と実施に大きな影響を与えたこと、が挙げられよう。

※4 なお、同書は、パラグラフリーディングできない書籍であることを申し添えておく。ともあれ、少なくとも一昔前の、中学・高校教育課程の国語(現代文)の授業は、一文一文を逐次的に読み進めなければ文意を追えない文章を許容するものである。そのような教授法は、間違いとは言えないが、今時の情報爆発に十分に対応したものではない。しかし、このような教育環境の下でも、2ちゃんねるの「今北三行(今来た、三行で説明をお願い、の意)」や、これに起源を持つLivedoorニュースの「三行まとめ」が生まれている。これらは、きわめて優れた大衆文化だと思う。時間を節約するという同じ理由から、行政分野では、いわゆる「一枚物」が流行している。この動き自体は否定されるものではないが、アクセス性という点では、機械可読性を高める措置が望まれる。(日本語フォントを用いたPDFでは、余分な改行記号が含まれ得る。)




2016年10月20日追記・訂正

情報を追記し、文意を変えない訂正を行った。淡赤色で示した。




2017年05月29日追記・訂正

本文中の誤記を訂正し、レイアウトのタグをpタグへと変更した。淡橙色で示した。

※A 伊藤隆〔編〕(1956=2012).『情報の哲学 ロシア哲学者の情報論』(東洋書店)所収、イリヤ・ベンチオノビッチ・ノビクの「サイバネティクスの哲学的・社会学的諸問題」は、シャノンの『通信の数学的理論』に対して、次のように述べている。

現在の情報理論では、通信容量はそれを占有する記号の量(ビット数)だけで扱われており、(単位)情報はどれも同一の価値しか持っていない。したがって、これにたいしては質的な面から情報を考察するような、情報の内容に冠する理論敵研究がどうしても必要である。(pp.26-27)
ここでの私のこじつけは、素朴なものではあるが、情報理論の創生期においては、さほど外れたものではないであろう。ここからの発展状況については、十分に追えていない。

2015年11月22日日曜日

公的事業従事者は、集団移住の経験を日系企業社会から学ぶべきである

#本記事も、少し妄想の気が多めであるが、あくまで可能なシナリオとして、私なりの客観性をもって記述するものである。「世界的な悪意」をシミュレートしていけば、その動機は、(1)自分や家族やコミュニティの安全を図りたい、という基礎的な欲求に根ざしたものから、(2)旨い物をたらふく食べたい、(3)(オスなら)綺麗な女性を抱きたい、(4)良い環境、景色の場所に快適な住居を構えたい、(5)苦役は他人に任せ、楽しい(仕)事をしたい、といった贅沢なものにまで及ぶであろう。こうした普遍的な(?)欲求に即して内容を詰めていけば、ある程度、個人が何を動機とするのか、その動機がいかに国益に進化・転化しうるかを個別に予測することは、さほど難しいことではない。問題は、その内容の網羅性であり、その交渉に対応する(日本人の利益を代表する)人材の不足であろう。

 日本集団移住なる計画を構想(夢想)する際、日本人(日本語話者)の今までの経験の蓄積は、無視できないものがある。日本人は、世界各国からすれば人数が多く※1、高齢者世代であっても他人に自身の経験を伝達するのに十分な程度の中等教育を経ている※2上、無類の書き物好きの民族でもある※3。先達の経験を大局的な見地から収集して編纂する方法を日本社会が開発していたならば、何らかの教訓を多数の先達の経験から引き出すことも可能であったであろう。一部の掲示板やSNSでは、1990年代前半にはその機能が発揮されていたと目されるが、その機能は、日本国民の一部に限定されており、そこでの話題や議論は、あくまで同時代的なもの、当時の学問における先端的な興味に限定されていたように思われる※4。1990年代前半までのPC通信時代には、その(肯定的な意味での)オタク(またはギーク)なコミュニティに関与しなかった「日本国民すべての経験」を蓄積できているとはいえないだろう※5。そのころの情報資産は、あくまでアナログ出力(ビデオテープや写真、紙という媒体)に多くを負うていたのである。

※1~※4 仮に、この予想(妄想)をより訴求力のある内容に仕上げる暇があるのであれば、これらを補足していこうかと思う。しかし、あまり時間がなさそうである。
※5 本稿は、当初、いち日本国民としての海外滞在者の経験は、今後に活用できる形で蓄積されていないということを反例として指摘すべく用意したものであった。本記事は、末尾に付した関連サイトをメモするため(#つまりこれから本格的調査するため)の、「はてブ」風の記事のおまけとして構想していた。テルフォードは、英国の第3次ニュータウン計画におけるシュロップシャー州のニュータウンであるが、地元の土木事業に尽力したトーマス・テルフォードを顕彰して名付けられた街である。わが国では、東京湾岸のニュータウンが後藤新平を受けて後藤町と命名されるようなものである。しかし、テルフォードが石工修行だったというのは、改めて知った感がある。確かに、現地でそうであったと学んだ記憶がある。大学2年のときの教養課程のレポートを仕上げようとしていたときにも意識していなかった。改めて知る(意識してとらえる)べきことの多かったことを思い知らされる。

 しかるところ、わが国は福島第一原発事故のおかげで、小松左京『日本沈没』のような目に遭う可能性がきわめて高い。このとき、たとえば、国立国会図書館は、全機能を奈良県の関西館に移動することになるものと予想される。国会図書館の機能を全部関西へと移動する事業は、放射線検査という特殊事情に発する手続きまで含め、関西館の建設を超える規模となると思われる。各地方に大量に存在する民俗資料の扱いもまた、問題として浮上することが予測される。民間企業は勝手に移転してもらう(!)としても、公的組織の移転は、今まで都合よく塩漬けとされていた首都機能移転を一気呵成に行うだけの能力と意志を必要とするのである。国会図書館の事例を出してみた理由の一つは、私の研究手法上、大変重要な研究リソースであるためである。もう一つの理由は、事例として取り上げる価値があるためである。

 今後のハードランディングシナリオにおいては、企業が採算上の理由から関与を躊躇するような公的事業は、放置されるが、その間隙は、日本国に支援を申し出る諸国により「カバー」されることが予測できる。日本語文献のデータセンターの運営は、重要ではあるが、国外移転が容易であり、民間に任せても進む仕事であろう。他方、そのデジタル化の進まない文化・有形資産は、わが国に対して食指を伸ばしている諸国にとって、潜在的な懸賞品である。グレート・ゲーム時代の獲得物(英語だとgameで良いであろう)は、大英博物館やルーブル博物館に多数収蔵されている(されたままである)。パリ同時多発テロ事件後、ルーブル美術館のピラミッド前における重装備の警備部隊を、「先進国」に生きるわれわれ日本人は、さほどの違和感を有することなく眺めているが、ギリシア以西から地中海沿岸諸国の国民は、どのように、この写真を眺めるのだろうか。おそらく、撮影者の金川氏は、このことまで意図して撮影したのであろう(が、私は確認の努力をしていない)。この写真は、非常に興味深い。金川氏がこのルーブルのピラミッドがどのような文脈で陰謀論者に受容されているのかを理解しているか否かにより、読み方がさらに異なりうるという、とても意味深な写真でもある。

<厳戒警備続く> ルーブル美術館では厳戒警備が続いていた=19日午前、金川雄策撮影
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151120000375_comm.jpg

 話を本流に戻す。

 産業分野における海外との関係構築は、官僚機構よりも民間企業の方が遙かに優れるが、その経験から得られる教訓は、民間企業のノウハウとしてのみ蓄積されているようである。1985年のプラザ合意後、急激な円高が進んだことに伴い、日本の製造業の海外進出の波が生じた。この時期の海外進出における主要な利害関係者は、研究者にあるまじき偏見から断定すると、相手国企業~相手国の行政機関~日本企業の三者のみに着目すれば十分である。政界の一部も関与していたことは、体験的に知っているものの、その検証は、研究者によっては十分に行われていないようである。日本の経済官僚の組織としての劣化は、この時期には十分に進んでおり、自身の利権に直接関連しないことに対しては、何事にも受身であった。(でなければ、組織として、むざむざバブルを弾けるに任せるということはなかったはずである。個人に対する論評でないことには、くれぐれも注意されたい。日本における企業・組織犯罪に対する私の研究上の興味は、なぜ、個人(=システムとしての入力・処理)が優秀であっても組織としての成果(=システムとしての出力)があまりにお粗末なものとなるのか、という点にある。

 してみると、一部の受入先国家と日本企業との交流が進行しつつあることは、ひとつの良い兆候ではある。しかし、本件のような国民性と国民益を保持しつつ海外進出(と融合あるいは同化)に成功するという高潔な目標を立てた場合、そこに関与する企業の中には、適格性を欠くものが含まれるようにも見受けられる。この点、私としては、個人的に存じ上げる方が在籍されていた時期の動きを注視してきた結果から、一部の公的団体の活躍にも期待したい。わが国は、公益から私益を掠取する者たちの活躍?によって、第二次世界大戦後の混乱期にも、現在のような惨状にも陥ったのであるから、現在進行中の日本脱出プロジェクトにおいても、同様の轍が踏まれないとは限らないのである。


山田 晴通, (2015). 英国テルフォード・ニュータウン地域における「第二のボーンヴィル」,ライトムア・ヴィレッジ(Lightmoor Village)の建設, 東京経済大学人文自然科学論集136, 17-44.
http://id.ndl.go.jp/bib/026401972

Home - Bournville Village Trust at Lightmoor Village
http://www.lightmoorvillage.org.uk/#

Lightmoor Village, Telford, Shropshire, TF4 3TX, U.K.
https://www.google.co.jp/maps/@52.6497817,-2.498479,14z

テルフォード補習授業校
http://www.telfordjs.org.uk/

知野 泰明, 大熊 孝, (1992). 英国土木学会初代会長トーマス・テルフォードに関する研究:テルフォードの事績とテルフォード賞を中心に, 『土木史研究』12, 97-110.
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005237623
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/6170/1/5_0005.pdf

ジョン・リックマン[編], 永井厚[訳・著], (1985). 『自伝トーマス・テルフォードの生涯:その叙述的物語』, ニチマ.
付・日立マクセルテルフォード工場創設記.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001819067

平成27(2015)年11月22日18時15分追記

パリ同時多発テロ:仏大統領、対テロ戦で憲法改正へ - 毎日新聞
http://sp.mainichi.jp/select/news/20151118k0000m030139000c.html
http://img.mainichi.jp/sp.mainichi.jp/select/images/20151118k0000m030140000p_size5.jpg

 先に引用した朝日新聞の金川氏の写真について追記する。毎日新聞(AP)の画角を見れば、金川氏の視野の広さがさらにはっきりするように思われる。被写体の兵士たちも兵士として必要な仕事の水準を満たしていることが分かる。奥の兵士が金川氏にも目線を配っている。読者にも、読者の仕事がある。私は、読者としての仕事を果たしただろうか。

2015年11月21日土曜日

経済原理主義者は顧客を選ばない

世界はなぜ「暴力の時代」に逆戻りしたのか? ターニングポイントは中・露の「無法行為」だった! 「話せば分かる」はもう通じない | 長谷川幸洋「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46454

 敵対思考に傾斜した相手に対して、いま相互依存思考で語りかけるのは間違っているだけでなく、効果もなく危険である。思考の原理そのものがまったく異なるからだ。
 敵対思考は基本的に相手を「敵か友人か」で判断する。これに対して、相互依存思考は基本的に相手を友人として扱う。

 長谷川幸洋氏は、自身を経済原理を重視するエコノミスト、つまり、上記の引用にある相互依存思考の論者であるかのように論じ、世界が混迷に陥った(と彼には見えるようだが、その)原因を中露二国に求めている。また、ロシアを米国と覇権を争い負けた国であり、中国がその二の舞を演じようとしていると指摘する。しかし、イラク・リビア・シリアは、中東諸国の中でも、21世紀に入り米国が外交上の関与の度合いを強めた国であった。長谷川氏の議論が正しければ、他の経済重視国と同様、相互の利益を増進させた結果、これらの3か国は、当時より豊かになっていて然るべきであった。しかし、奇妙なことに、これらの3か国は、現在、ロシアのプーチン大統領が指摘したように、国家主権を失い、従来の社会秩序が完全に崩壊した状態にある。この逆説は、何により生じたものであろうか。

 世界史の事例から見れば、帝国主義は、相手国が与しやすければ相手国を明白な敵として扱うかも知れないが、常にその費用と便益を冷静に計算し、帝国の規模に応じた効率性を重視し、他国との力の均衡に達しようとするものである。東西ローマ帝国は、分割により最適化を図った好例であるし、その片割れである東ローマ帝国は、サーサーン朝ペルシアと微妙な均衡を維持し続けることに成功した。現在のシリアの混迷の背景がサイクス=ピコ協定にあることは、有名なことであるが、同協定は、英仏という2つの帝国主義国家のグレート・ゲームの産物であり、私の主張を裏付けるものである。大日本帝国は、帝国と名乗った存在ではあるものの、その振る舞い方は、帝国主義の諸国の影響がグローバル化していた当時に、例を見ない形で急激な膨脹を経験したことをふまえれば、他列強との関係を論じる題材としては、特殊な存在であるとみなして良いように思う。大日本帝国の特殊性に無自覚であり過ぎると、帝国主義国家が他国と協調関係を取りうるという当然の可能性にも配意しないようになる。米国(の一部の政策)はもちろん、中国やロシアの所作も、帝国主義的な度合いを強めつつあるものである(が、日本でそのことを強く主張する論者は、マスメディアにおいては、佐藤優氏ひとりである)。

 通常の帝国主義は、戦争という行為に対する計算高さを持ち合わせているが、無節操な経済原理主義は、場合によってはマッチポンプに奔走することさえ厭わない。経済原理を重視すれば、戦争も商売となる。長谷川氏は、この当然の事実を認識していない。無節操な経済原理主義は、たとえば、南北戦争における武器供給にも、また南北戦争終結後の余剰兵器の輸出にも、看取することができる。南北戦争後に陳腐化し不良在庫と化したマスケット銃は、わが国の明治維新に役立てられたのである。この事実は、ひるがえって、セキュリティ産業にある種の節度が求められる所以となる。

 長谷川氏の錯誤が、本来独立である「敵味方を判別する能力」と「経済に対する考え方」とを無根拠に連関させた点に由来することは、以上の議論から明らかである。世界が「暴力の時代」に逆戻りしたと喧伝することは、無理筋である。その上、過度な危険の強調は、セキュリティ産業への需要を徒に喚起し、人々の相互不信を亢進させることになりかねない。もっとも、長谷川氏の仕事は、その辺にあるのかもしれないが。

#私の基本的な考え方は、米国とは仲良く(せざるを得ないが)、中国やロシアとの無用な摩擦は、双方のためにならないので、共存を図ることを目標にすべきである、というものである。福島第一原発事故がなかりせば、そうであるべきと考える、というのが正確な表現である。事故後は、いっそ米国の州となった方が事故の終息が図られるのではないかとさえ思うところである。正確には、事故の終息を図る上で協力を求めることができる相手国を慎重に見極めるべきである、としか言えず、対外関係がどのようにあるべきか、は正直分からない。

2015年11月20日金曜日

警視庁機動隊の辺野古警備任務における宿泊施設の予算はどこから?


沖縄県民“弾圧”のひと仕事を終えて警視庁機動隊ご一行さま、一泊ン万円の高級リゾートホテルにご帰還【週刊プレイボーイ】 : どこへ行く、日本。
http://blog.livedoor.jp/gataroclone/archives/46042879.html

カヌチャベイホテル&ヴィラズ - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/@26.5488014,128.0767652,15z

  私は、機動隊員がカヌチャベイホテル&ヴィラズに宿泊しているという事実自体は非難できず、非難されるべき者がいるとすれば、それは、現政権(の閣僚)のほかないと考える。第一に、宿泊する機動隊員には決定権がない。第二に、宿泊先の選定に従事した部署にとっても、宿泊先の選択の余地が少ない。第三に、この事実は、リゾートホテルに宿泊させてストレス緩和を図らなければならないほど、(誰にも心はあるのだが、思いやりの)心のある部下にとってストレスフルな仕事をさせているという自覚が上層部にあることを、図らずも暗示するものでもある。

 辺野古の新基地建設に係る警備任務の責任は、国内トップの政治上の要請から生じたものであるから、その要請を生じさせた者たちにのみ、帰することができる。この点において、政治的中立という観点についてはともかく、本件警備業務は、最近の警察政策上、きわめて興味深い案件である。突然、1970(1960)年代的課題が2010年代に浮上したようなものである。

 なお、カヌチャベイホテル&ヴィラズのグーグルマップに出てくる広告は、一泊21,000円などであり、通常のビジネスホテルの相場の3倍程度と考えて良いだろう。リゾートホテルと呼んだ『週刊プレイボーイ』の表現は、的確である。しかし、500名のコンベンションホールがあり、何かの大会などを開ける施設を備えているということは、団体割引もあると思われる。季節柄、秋雨など天候が比較的悪く、本土における紅葉と競合すること、宿泊が長期にわたること、の二点を考慮すれば、おそらく半値の10,000円程度ではないか、というのが私の勝手な(調べもしないでの)予想である。

 ところで、リゾートホテルに宿泊させなければならないという事情に起因する差額分は、どのように支弁されているのだろうか。東京都民としては、本件警備は、どこまでも沖縄県についての政府の事情によるものでしかないのだから、警視庁機動隊が沖縄県内で仕事すること自体は(、つまり、本件に係る機動隊員の給与を都民が負担することは)、許容されうることであるにせよ、リゾートホテルで宿泊せざるを得ないことから生じる宿泊費の差額分は、官房機密費などの国費から支弁されることが適切ではないか、と思う。本件警備任務に係る経費をすべて都民に回しているという公私混同状態は、いくらわが国が危機に瀕していようと、実務レベルで調整されたために生じていないであろう。せめて、経費の面だけでも、国家として正常に機能していることを、私は期待しているのである。

 なお、『週刊プレイボーイ』の「辺野古新基地建設が不可能なこれだけの理由」には、公務執行妨害で逮捕された者が「取り調べを受けて実感したのは、警察にも気持ちの通じる人たちが間違いなくいる」と述べたことが記されている。新基地建設は、現場に非常に微妙な舵取りを要求する案件であるが、わが国のトップ周辺の政策が降りてきた結果であり、その責任を現場に帰することのできるものではない。おそらく、その帰結を予測できていない利害関係者は、わが国のトップ周辺だけかもしれない。


平成27(2015)年12月21日17時台追記

石平太郎氏が「辺野古移設反対派が機動隊が泊まるホテルで座り込みをし、『機動隊を宿泊させるな』と拡声器で怒鳴り散らしているという。」とツイートしていたようだ。

https://twitter.com/liyonyon/status/670740851912515584

 この反対派の行為は、警察と反対派の双方ともの憎悪を招くのみである。反対派にとって、喧嘩の相手は、現政権の閣僚の面々と賛同者だけのはずである。警察を憎悪の対象とする必要はない。このことが分からない人物は、およそ(ロールズ風の定義に基づく)リベラルとはいえない。(東洋風)リベラルの要点は、孔子の説いた仁の精神、つまり、己の欲せざる事、人に施す事なかれ(『論語』(顏淵第十二)、己所不欲、勿施於人)、である。ただ、このような拡声器を用いる人物らは、対立を煽るべく然るべき筋に雇われた者であるかもしれない。わが国は、対立があるところに利益が生じると信じる不届きな者たち(陰謀論にいう「戦争屋」)に残された最後の楽園であるから、そのような可能性を見込まなくてはならない。

2015年11月19日木曜日

テロ対策としての非常事態法制は時期尚早である

非常事態宣言、日本は可能か 憲法に規定なし…「テロとの戦い」欠陥に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151119-00000073-san-pol

産経新聞 11月19日(木)7時55分配信
 フランスのオランド大統領(...のような...)対応が可能なのは、緊急事態に対応するため、一時的に国の権限を強化して国民の権利を制限する「国家緊急権」が、憲法や法律に設けられているからだ。国際テロの脅威は日本にとって対岸の火事ではないが、憲法には同様の規定は存在せず、「テロとの戦い」の欠陥となっている。

 産経新聞のこの主張は、日本人の国民性の良さを信頼しないものであり、非常事態宣言を論じる前に、現政権に正すべきことを指摘しない、欠陥のあるものである。第一に、現政権は、安保法案の審議を通じて、国民の信頼を失った。第二に、東日本大震災のような未曾有の非常事態においても、国民の多くがリアル社会においては総じて冷静に行動した一方で、エリートパニックがむしろ多く見られた。第三に、非常事態を宣言するという行為は、テロに対して「豊かな社会」が敗北した象徴となりうるという、諸刃の剣でもある。運用次第では、日本社会や経済の衰退を決定的に促進しかねない制度である。こうであるところ、産経新聞は、第一に、現政権が安保法案で失った信頼を取り戻すよう助言しておらず、第二に、「話せば分かる」国民を信頼せず、身勝手に、かつ混乱して行動しがちなエリートに全権を委ねることを推奨し、第三に、日本社会や経済が非常事態宣言の継続により著しく低下する危険性を指摘していない。

 第一の論点、現政権が安保法案の審議を通じて国民の信頼を失ったことについてのみ、補足しよう。間接民主制は、必ずしも個別の論点についての国民の賛否を反映しない。よって、現政権が非常事態宣言を法制化することに対して、国民が賛成しているかどうかは、国民に聞いてみなければ分からない。ところで、安保法案審議時、国民は、確実に大多数が反対していたが、現政権は、制定を強行した。現政権にとって困ることに、戦争という対外関係に係る安保法案の審議のあり方は、現政権に対する国民の信頼を著しく損なった。この事実をふまえると、パリの同時テロ事件があったとはいえ、非常事態法案に対しても、相応の割合の国民は、猜疑心を持つであろう。非常事態法制は、本来なら、国内事情に限定されるために国民の賛成を得やすいはずであるにもかかわらず、安保法案の審議の後となったために、成立へのハードルが上がることとなったのである。

 非常事態宣言つまり戒厳令は、無実の国民の権利を著しく制限するものであるから、立法府に信頼が寄せられていないときに制定すれば、必ず禍根を残すことになる。

 人災に対する危機対応が十分に可能となる法制の必要性は、かねがね司法関係者から提起された主張であり、テロ行為に十分に対応できる根拠法がない、という現実に基づくものではある。ただし、最も大事な課題は、現にある制度に基づいてテロ行為に有効に対応しうる態勢を整えることにある。有力な味方になり得たイスラム教徒全員を敵に回すような方法を取り続けることなく、経済や社会への影響を最小限に留める方策を、社会から広く探るべきである。



 蛇足であるが、国際社会の多くは、日本の基本的な課題を自称イスラム国によるテロへの対策ではなく、福島第一原発事故への対応であると考えている。この見方は、理性のある者から見れば当然の帰結であり、論証を要さない。

2015年11月18日水曜日

都市と地方:私論、メモ(1)


 地方が「モノの生産の場」であり都市が「情報の生産の場」である、と上田篤氏は指摘する。また、三浦展氏の言うことには、都市は「モノの消費の場」であるとも言う。歴史人口学においては、江戸は「人命の消費の場」であったと考えることもできる。都市居住人口が人口を再生産しない、少なくとも都心居住時に子どもを作ることを見送っているという事実があれば、この命題は、日本においては、時代を超えた普遍性があるということになる。