2018年3月28日水曜日

(感想文)トランプ大統領は北朝鮮向けの「悪い警官」役を欲したのではないか

でないと、トランプ氏は、北朝鮮から手を引くための「良い警官」役を務められない

これが、2018年4月9日に予定されたマクマスター大統領補佐官(国家安保担当)の退任(3月22日トランプ大統領のツイート[1])、同3月13日のティラーソン国務長官の解任の両件に係る私の解釈である。私事都合のために情報収集をサボっているので、私は、自身の見立てを確実なものとは考えない。(誤りを重ねる危険を冒して)本件に言及した理由は、二点ある。一点目は、本件が、従来の私の見解(2017年5月12日記事)を訂正する根拠となる可能性を指摘することである。二点目は、この拙稿に示した主張の真偽にかかわらず、トランプ氏・マクマスター氏・ティラーソン氏の各人がアメリカに対して忠誠を誓う人物であると見立てたことの正当性を主張するためである。ジョン・ボルトン氏については、良く分からないと述べておく(。これは、単に、私が納得行くまで調べていないだけであるが、巷間の懐疑論者によれば、ボルトン氏は、大抵、クロ扱いされている)。

先に、本件とは直接関係のない話にはなるが、河野太郎外相が昨年11月にトランプ大統領について「良い警官と悪い警官のタッグ(Good cop/bad cop)」の比喩を用いた[2]ことを紹介しておく必要があろう。このバディ(buddy)システムの効用は、最早、誰もが知るところであろうから、説明を省略する。また、米国の大統領制が副大統領との組合せによって同様の効果を生じさせてきたことや、ロシアのプーチン大統領・メドベージェフ首相の体制が類似の構造を有していることは、広く指摘され支持されている社会的事実であろう。先の全人代(全国人民代表大会)において、中国政府も、習近平・王岐山の両氏による体制を明らかとした。例によって、典拠の検索と提示はサボるが、河野氏自身、官邸外交との相乗効果について指摘していたはずであり、この相乗効果が存在するという主張は、間違いなく正しかろう。ただ、この構造について河野氏自身が言及すべきではないことは、冷泉彰彦氏によって指摘されており、この点も、その通りであろう。河野氏は、日本語マスメディアに身を置く人物の中から、自身の信念に協力可能な人物を見出して、彼(女)の口を借りるべきであった。ただ、日本語メディアは、通信社を含めて、一個の企業だけで米国大統領府と世界の動きを理解するための必要十分な情報源とはなってこなかったから、河野氏の発言(あるいは失言)にも理由がない訳ではない。

トランプ氏が部下に自身の本音と異なる見解を押し立てさせながら、その事実を北朝鮮との交渉において利用するという手管は、米国内向けの方法として、有効かつ必要である。金正恩氏とトランプ氏の両者とも、武力行使があり得ないことを理解している。主要関係国のうち、ロシアと中国と北朝鮮の各国については、その関係は、安定的に推移するであろう(と、当事者たちが主張しているかのような、平穏な当局の報道ぶりである)。韓国は、米朝会談への足掛かりを構築した功績を認められてか、北朝鮮との交渉のためか、鉄鋼・アルミニウムともに関税の発動を免除された(が、この優遇措置は、日本との対比においてこそ、日韓両国内の世論を有効に喚起する)。日本は、従来の六カ国協議において、蚊帳の外であり、どの国に対しても、自身の望む影響力を発揮することができていない。以上の雑駁な状況理解を前提とすれば、北朝鮮「問題」の「解決」を左右する要素のうち、多くは、アメリカの国内政治「問題」に所在する。より踏み込んで解釈すれば、北朝鮮の「核配備」を「解決」するための主要課題は、「北朝鮮の現状を追認するようになるまで、アメリカ国内の政治論議・世論を沈静化させること」となる。このプロセスは、アメリカが単独覇権から降りるための儀式とも観ることができる。トランプ氏の腹積もりは、「狂犬」役に吠えさせながら、手綱を引きつつ後退するというものであろう。

以上のように考えると、あれこれ考え過ぎて「狂犬」役に徹しきれない(ようなキャラを故意に演じてきた)穏健派のサイドキック(=脇役的な相棒)であるマクマスター氏やティラーソン氏を、トランプ氏が「クビ」にせざるを得ないことは、アメリカ国内の事情に限定して配慮すれば、当然と言えよう。クビになった人々は、基本的には、皆がその処遇に納得していることであろう(。今後もクビになる人たちは出続けるであろうが、当人たちが戦争屋の走狗ではない限り、同様に納得ずくのことであろう。その割に、ティラーソン氏は沈痛な面持ちであった。が、これが諒解の上であるとすれば、役者として、ティラーソン氏はマスゴミの上手を行く)。クビは、トランプ氏の政治ショーを演出する上で、必要な「犠牲」である。この「犠牲」は、汚名を伴うが、人命が必要とされていない点、ヒューマニズムの極致であるということもできる(。この見立てが正解であるとすれば、両建て構造は、乗りこなされていることになる)。

トランプ氏の相棒は、北朝鮮に対しては強硬派として振る舞いながらも一線を超えず、同時に、国内世論に対しては米国に対する北朝鮮のリスクを冷静に説明しなければならない。上司であるトランプ氏がトリックスターとしてのキャラを確立してしまっている以上、部下である彼(女)たちは、そのキャラに見合うように、ボケとツッコミの役割を目まぐるしく、柔軟に切替えなければならない。昨年冬辺りから台頭した日本のお笑い芸人の若手たちは、ボケとツッコミが目まぐるしく変わる高度な漫才を披露しているが、彼らレベルの技芸がホワイトハウス高官に要求されている。これは、相当に難易度が高いことであり、それがムリなら「クビ」という手がある、となる。なお、河野太郎氏の「トランプ氏=悪い警官」説と私の見解は、真逆のように見えるのであるが、河野氏の発言の根拠がアメリカ国内の情報源から得られたものであり、アメリカ国民向けには部下が「良い警官」として振る舞わなければならないと考えれば、そうそう矛盾するものではない。

トランプ氏の「お前はクビだ(You're fired!)」は、両建てを乗りこなすための手段である。北朝鮮とのチキンレースから降りることは、自分からハンドルを切った弱虫(chicken)であると国民から見られる危険がある。他方、対北強硬派とされる人物に部下のクビを挿げ替えていくことは、なぜか、トランプ氏も強硬派であるような見かけを大衆に与えるという効果を生じさせる(。もっとも、マクマスター氏に対する日本語マスコミの解説は、極めて好戦的というものであったが、この違和感は、私の従来からの主張にとって、有利に作用する)。この結果、なぜか、トランプ氏には、国内向けに切ることのできるカードが増えることになる。本稿に示した逆説は、シリアにおける昨年のトランプ氏の巡航ミサイル攻撃命令と同型である。北朝鮮に対しては、一方的な攻撃を加えることが不可能である。このため、アメリカとしては、国内問題において強行策(に見せかけた方針)を取ることが代替案となる。加えて、北朝鮮との交渉については、アメリカの理念の一つである「他者への寛容」を米国民向けの切り札に使う、という隘路を観取することもできる。「今まで我々アメリカ国民は、北朝鮮政府に騙されてきたが、今一度、恩赦を与えよう」というノリである。

頻繁な更迭劇は、トランプ氏に対しても、クビになった各氏に対しても、黒歴史感・ダーティな印象を与える。しかし、真に国益・国民益のためであることを各人が理解していれば、マスゴミに囲まれたホワイトハウスであるから、純情な陰謀論者の失望を買ったとしても、マスゴミを騙しながら、各人が職分を果たすべきというプリンシプルは、十分に共有されているであろう。この目的の共有という仮定は、高官における「アメリカ・ファースト」のスローガンの有効性によって、オシント使いにも検証可能である。シリアにおけるアメリカ軍の空爆は、このスローガンに対する背信行為であるように見える(が、このようなイレギュラーな事態は、軍の統制が取れていないか、戦争屋による偽旗作戦のために生じたと観ることも可能である)が、それ以外については、相撲で言えば、俵一枚というところであろう。彼ら真のエリートは、戦争屋との政争ゆえに、俵一枚のふりを続けるほかないのであろう。しかし、われわれ下々の者は、「ポスト米英時代」氏の言うとおり、スリルを楽しみながら、カウチポテトでマスゴミの狂騒ぶりを見ていれば良(。日本国内の事情も同様である。日本は、全体としては、TPP11を考慮すれば、強固な国際秘密力集団のフロント兼生贄として機能しつつある。しかし、わが国の与党政治家たちについてはともかく、表に出ない権力者たちは、どこに居を構えるのであろうか。というのも、彼らは、わが国の実力組織とは、本来的には対立関係にあることが十分に認められるからである。この対立関係は、現在の内閣と財務省の対立にも反映されており、実力組織を所掌する省庁は、内閣の側にある)。


ボルトン氏の登用は、国内向けのブラフである、が...。

ジョン・ボルトン(John Robert Bolton)氏の登用は、トランプ政権にとって、北朝鮮に向けて強硬姿勢を示すためのシグナルとして機能するとともに、ボルトン氏本人に対してメディアの矛先を向けさせるという効用を有する。ボルトン氏は、共和党がトランプ氏を大統領選候補に指名して以来、外交政策を指南してきたとされる[3]。ボルトン氏は、イラク戦争へと子ブッシュ政権を主導した一人と強く批判されており、金正日氏に対する暴言でも知られる。当人は元来から「保守」主義者であると言うが、「ネオコン」と表現されることがしばしばである。米国単独行動主義と対になる形の国連不要論で知られ、2005年、国連大使に指名されたが、民主党の議事妨害等により指名を辞退している(が、辞任と表現されている)。

ボルトン氏の就任は、大量破壊兵器の拡散防止の観点において、わが国に影響を与える可能性があり、その場合、福島第一原発事故の真相を考察する手掛かりをもたらすかも知れない。ボルトン氏は、子ブッシュ政権の『拡散に対する安全保障構想』(PSI)成立に尽力したとされる。その実効性や、イラクに対する判定の誤りについてはともかく、である。同時に、ボルトン氏の思想は、主に批判者によって、親イスラエル・ロビーであるとされてきた。このとき、ボルトン氏の指揮下における対日安全保障政策のあり方は、「ボルトン氏の立ち位置」・「福島第一原発事故の真相」・「トランプ政権の戦争屋との力関係」の三要素について、特定の組合せのみが整合的となるという結果を与える、と考えることができる。いかなる意味合いかを、生煮えであるが、提示しておこう。

福島第一原発「事故」後、大量の使用済み核燃料棒の所在は、「陰謀論」者によって、常に疑問視され続けてきたが、この好奇心は、ボルトン氏にも共有される可能性がある。ボルトン氏の登用は、このような日本向けの布石としての意味をも兼ね備えている。3号機の使用済燃料プールは、陰謀論者たちから、早く見せろとツッコまれてきた。3号機の使用済燃料プールの写真(とされるもの)は、偽装のために福島第二原発において撮影されたとも疑われてきた。現実の使用済み核燃料が地下深くに落ち込んでしまっているにせよ、どこか遠い外国に所在して利活用されているにせよ、ここらの機微がボルトン氏のチームによって、利用される可能性は、十分に認められる。わが国の現政権の核武装への意志に対して、ボルトン氏がストップをかける可能性は、マクマスター氏の就任時よりも上昇したと見て良かろう。わが国政府が先方の望む回答を提示することができなければ、イラク戦争は、わが国に対して再現されるやも知れない。この疑いに連座することになる外国政府がほかに存在するのか、という点は、かなり多くの世界の情報機関にとって、かなりの興味を持たれていよう。実際、このような興味を日本人に対して喚起するために、いくつかの国の情報機関は、日本語で情報を提供しているものと考えることもできる。本ブログは、一応、「福島第一原発事故の真相と影響と対策を提出するために、タブー抜きで考究する」という目的を有している。このため、本段落には、「福島第一原発事故の真相」についてだけ、勝手な妄想を付記した次第であるが、この妄想は、ボルトン氏の就任に先立ち形成されたものであるが、氏の就任によって、一層強化されたものでもある


日経は、相変わらず日本国民を偏向させんとするかのようである

なお、アメリカが単独覇権を降りようとする様子に対して、日本経済新聞の古川英治氏は、今月(2018年3月)20日の解説記事[4]において、ロビン・ニブレット(Robin Niblett)氏の言を借りて、暴力が支配する「ポリセントリック世界」が到来したと表現していた。ニブレット氏は、英王立国際問題研究所(The Royal Institute of International Affairs、いわゆるChatham House)所長である。記者が繊細な概念を自身の主張の良いように曲解することは、研究者なら体験したこともあろう※1が、古川氏は、この残念なカテゴリーに含まれる可能性が高い。というのも、この「多元(=多極)的世界」の語は、少なくとも「多元化」そのものは、ニブレット氏自身の名を冠した資料では、多元的チャンネルや国際的組織(=連合国=国際連合)を通じて外交力が発揮されるという肯定的な文脈によっても[5]、使用されているからである(。念のため、他者のいくつかの文書を確認もしてはいるが、そこはそれ、適当である)。古川氏は、2015年にウクライナ内戦とロシアのクリミア半島併合について、ニブレット氏の言によるとしながら、「多元化」を、前述の日経解説記事と同様、悲観的な意味で使用している[6]

この一方で、田中宇氏は、2004年当初[7]こそ、「多極化」の語を悲観的なニュアンスを含む用語として、そのまま使用しているが、古川氏の論説に先立つ時期に、この語のニュアンスを中立的なものに徐々に変更してきた。当初、田中氏は、(これまた、チャタム・ハウスの)ニオール・ファーガソン(Niall Ferguson)氏に倣い、国連などを中心とする「国際協調主義(multilateralism)」に対置する概念として、「多極化(multipolarizm)」の語を使用した[7]が、現時点では、その限りではない(というようにしか読めない)。オバマ大統領からトランプ大統領にかけての時期においては、田中氏は、「多極化」の語に込められた不安定性を認めながらも、その先行きに対して、悲観的なニュアンスだけを込めるということはしていない。この点、田中氏は、使用の時期・ニュアンスともに、古川氏よりも、読者に対して、正確な理解を提供している。

古川氏の「多極化」の「誤用」は、古川氏自身またはニブレット氏が、各自の業務に係る過失または故意を犯したことを示す。ニブレット氏の研究者としての怠慢または能力不足は、言うまでもない(。日本人向けに、「多極化」の語に込められた意味合いを詳しく説明させるよう、古川氏を訓導すべきであった)。しかし、ニブレット氏と日本語読者との間に、古川氏がいる以上、ニブレット氏がいかなる心情を有しても、今回の「誤用」は、避けられなかったであろう。英国民の利益を考慮すれば、ニブレット氏の説明は、日本国民に対しても、複数のルートから提供されるべきであったろう(。日本人の弟子は、いないのか?というのは、皮肉のつもりである。日本語という辺境の地で編まれた「尖った」思索が、英語帝国の心臓部において気付かれないことは、ままあることではある)。田中氏の主張に先取権があることは、ネット上の無料のオープンソースだけによれば、揺るがすことのできない事実である。古川氏は、「日本でもこういう指摘がありますよ」とタレ込むべきであったろう。いずれにせよ、古川氏は、「ジャーナリスト」であるから、最悪、好き(で費用対効果を考慮してアクセス可能)な情報源(だけ)に依拠していれば良いのであるが、その場合、公正中立を建前とする「日本のメディア」の社是とは、相容れない行為に及んだことになる。良く言っても、古川氏の論説記事は、田中氏の「多極化」に背乗りした格好になっている。


※1 個人的体験によれば、7分の5、これは確率としてはゼロではないと主張するには厳しい数値であるが、他者からの見聞を合わせれば、ベイジアン的には確定的な事実であると主張して良かろう。ここでの言明は、「記者の中に、研究者の話を曲解する者が含まれる」というだけであって、「記者の皆が研究者の話を曲解する」訳ではない。念のため。


[1]

[2] 河野太郎外相「普通は親分が良い警官をやるのだが…」 米国は大統領が机をたたき、国務長官がカツ丼を出す-と比喩 - 産経ニュース
(記名なし、2017年11月10日18:28)
http://www.sankei.com/politics/news/171110/plt1711100030-n1.html

[3] 日刊ベリタ : 記事 : トランプの次期国務長官?  ジョン・ボルトン元米国連大使  平田伊都子
(平田伊都子、2016年11月16日15時04分)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201611161504103

[4] 共振する国家主義 中ロ、強権支配固める 民主政・自由経済に試練 :日本経済新聞
(モスクワ支局長=古川英治、2018年3月20日)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO28320640Z10C18A3MM8000/

英王立国際問題研究所のロビン・ニブレット所長は多元的を意味する「ポリセントリック世界」の到来を指摘する。超大国・米国の指導力が薄れ、各国が国益次第でときにぶつかり、ときに場当たり的に合従連衡する。自国の利益優先がはびこり、イデオロギーで二分された冷戦時代よりも世界は複雑さを増した。

[5] 20151019BritainEuropeWorldNiblettFinal.pdf
(Robin Niblett, 2015年10月20日, Britain, Europe and the World: Rethinking the UK's Circles of Influence)
https://www.chathamhouse.org/sites/files/chathamhouse/20151019BritainEuropeWorldNiblettFinal.pdf

[6] One year on: Ukraine crisis reveals changing global order- Nikkei Asian Review
(Eiji FURUKAWA、2015年2月23日03:33JST)
https://asia.nikkei.com/Politics-Economy/International-Relations/Ukraine-crisis-reveals-changing-global-order

The director of U.K. think tank Chatham House, Robin Niblett, points out that the world is entering a polycentric era, where countries act not on ideals or values, but shift their allegiance based on immediate national interests. The U.S. is losing its dominance on the global stage, and the Ukraine crisis is the embodiment of a new, chaotic system that is beginning to emerge.

[7] 岐路に立つアメリカの世界戦略
(田中宇、2004年10月27日)
http://tanakanews.com/e1027america.htm




平成30(2018)年3月28日10時20分頃修正

文言を多少修正したが、内容に大きな変更はないつもりである。

2018年3月11日日曜日

(一言・適当)官民パートナーシップ(PPP)の原型は勅許会社にある

TPP11の調印式[1]に対して、私なりの呪術を発するため、題名のとおりに指摘しておきたい。勅許会社(chartered company)とは、特定地域における経済・略奪活動に従事することについて権力者から勅許を得た企業を指す。17世紀ヨーロッパ各国のインド会社は、その端的な成功例である。汚れ仕事は民間に任せて、虐殺の責任はすべて手下や会社のせいであるとして、利益だけを上納させる訳である。構造上、従来のわが国の暴力団と変わるところがない。官民協働(Public-Private Partnership; PPP)のはしりが勅許会社であるとすれば、この仕組みが世界各国において、抑圧のために利用されることは、当然であった。パートナーシップという語の語感には、当初から、後ろ暗いところが存在し得たと言えよう(。拙稿では、事実の起源を探求しているのではなく、むしろ、読者の連想記憶の組替えを意図している。しかし、テストでこのように記すと、余程のことがなければ、罰点を付けられるであろう。学生は、注意して欲しい)。

おまけ1;TPP11は、2018年3月8日付で、仮訳文が政府から公開された(直リンク[2]ようである(。先月22日の拙稿では、和訳すら用意されていないことを指摘した)。

おまけ2;伊藤千尋氏の『反米大陸』[3]は、2007年の時点で、(書籍の帯でも、)日本の将来像を南米諸国に見出せると警告していた。チリ・サンディアゴで調印式が行われたことは、真に示唆的である。


[1] 環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)の署名 | 外務省
(2018年03月09日、2018年03月11日確認)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_005763.html

[2] TPP協定(訳文) | TPP等政府対策本部
(2018年03月11日確認)
https://www.cas.go.jp/jp/tpp/naiyou/tpp_text_yakubun.html

[3] 伊藤千尋, (2007.12). 『反米大陸 中南米がアメリカにつきつけるno!』(集英社新書0420D), 東京:集英社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000009189440


#引き続き、ブログ更新をサボりがちとする予定。

2018年3月7日水曜日

(書評)大抵の大卒者は沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』を読むべきである

沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』[1]は、岩波ジュニア新書であるが、大半の日本人が一読すべきであろう。論文の要件(インテグリティ)、事実と意見の区別、事実の収集方法、自説の整理方法、文章作法(パラグラフ・ライティング、段落書き)、ゼミへの参加と指導、といった基礎的で網羅すべき項目が、コンパクトにまとめられている。ある日本人が大学を卒業した実力があると主張するためには、同書に示された内容を修得している必要があろう。とりわけ、商業雑誌に良く見かけるような、体裁の乱れた文章を書いている多くの「研究者」にこそ、熟読してもらいたい。

もっとも、新聞を重要な情報源とすべしとの第2章第2節は、巧妙なウソとして誤読される可能性を持つ内容となっている。端的には、

しかし、新聞は、ジャーナリズムのルールに従って、事実と認めてよいと記者と編集者が判断した事柄のなかから、人びとに伝える価値があると認められるものを選んで記事にしています。〔…略…〕

という記述〔p.46〕は、現時点の典型的「ジャーナリズム」に対する誤解を避けるためには、「ジャーナリズムのルールなるものが金主の意向を反映するあまり、伝える価値のある事実を欠落させていることもある」旨の記述にまで、非難の調子を強める必要がある(。もっとも、この書籍に対して、ここまで啓蒙的な役割を求めるのは、期待し過ぎというものかも知れない)。

以上に見たように、新聞に係る記述の恣意性は認められるものの、沼崎氏の書籍は、たとえば、木下是蔵氏の『理科系の作文技術』[2]と比べても、段違いに有用である。私がかつて大学の学部生であった頃(平成6年度)、木下氏の著書は、大学生協に平積みにされており、私は、推されるままに同書を購入した。その後、同書のおかしさに対して、最近まで気が付かずに過ごしてしまったが、仮に当時、沼崎氏の書籍に先に触れることができていたならば、文章作法については、無駄な努力をせずに済んだかも知れない。というのも、木下氏は、段落の重要性について触れてはいる〔4章〕ものの、同書自体は、段落書きが徹底されていないからである。木下氏は、実のところ、段落書きの効用を十全に考察してはいない。というのも、パラグラフ・ライティングされた書籍は、速読に不慣れな読者の読書スピードを増加させ、結果として彼らの利便を増進するからである。段落書きされた文章は、この点、消費者本、消費者主権主義である。木下氏は、前掲書の第1章で主張していたほどには、読者の都合を執筆時に考慮していなかったと批判できよう。

木下氏の著書は、案外無視できないほどに広範な負の影響を、日本語論壇に与えているやも知れない。稚拙な文章の書き手が偉くなり、しかも多数派を形成しているとき、ろくでもない文章を読み落とした責任は、読者の側に押し付けられてしまう。読者が作品に不満を持っても、作品が低質であるとの認識が共有され、これらの作品を超えようとする良質な書き手が現れなければ、言論市場は変化する機運を持たないであろう(。この点、文芸作品の質には、恐れ入るばかりである。面白い作品が市場に溢れている)。木下氏は、段落書きの効用を将来の書き手に分かりにくく伝えたことにより、思わぬ負の影響力を日本語環境に対して発揮してしまったが、もはやこの世にいない。遺族にとっても出版社にとっても、売り続けることしか、この書籍から利益を引き出す方法がない。ここに、学術書についてのボトルネックがある(。この話は、ノンフィクションやエッセイについても、該当しうる)。

賞味期限が存在するにもかかわらず、著者によって引導が渡されなかった書籍は、ゾンビのようなものである。50年前なら50年前の事情を読み込んで(、一部に見られる表現によれば、「情報を抜いて」)、その書籍に当たれば良い。当時の事情を調査する必要のある学者やジャーナリストであれば、それらの書籍にも、遺物としての一定の価値を認めよう。しかし、商業原理ゆえに賞味期限切れの書籍が売り続けられるとすれば、ここで文章作法について見たように、日本語環境全体を汚染するという思わぬ副作用を生む。汚染された環境は、汚染された書き手を再生産する。汚染された多数の書き手は、特定言語の人間社会を停滞へと陥れる。この自家中毒は、ゾンビ・パンデミック(大流行)と呼んで差し支えないであろう。例外として、ビジネス書やソフトウェアの解説書、自然科学に関する書籍が挙げられよう。これらの書籍に賞味期限が存在することは、ほぼすべての読者に理解されているであろうからである。言論環境までを考慮したとき、出版社は、自身のビジネスに後ろ指を指されたくないのであれば、後継者の発掘と指導までを含まなければならないのかも知れない。この点、残念ながら、日本語という情報環境は、ゾンビ・アポカリプス(黙示録)後の世界にある

木下氏のダメ紙上講義の瘴気に当てられた実例としての私にも、読者としての責任のいくらかはあるが、木下氏の書籍を長く流通させた社会的構造に対しても、多少の恨み言をぶつけても構わないであろう。というのも、最近、エーリッヒ・フロム氏の著作を改めて能動的に読み進めてみるにつれ、『自由からの逃走』やその続編にあたる『正気の社会』については、段落書きが徹底化されてはいないものの、(木下氏の著書に先立つ)中後期の著作においては、エッセイであっても、完全な段落書きが実現されていることに気が付いたからである。教えてもらっていたならば、明らかに気が付けたであろう、という程度の明瞭さである。通常、私は、新書をベタ読みするのに2時間程度を要していたが、同程度の分量である『反抗と自由』などは、15分くらいで段落読みできるようになっている(。もちろん、飛ばし読みであるが、的確に飛ばし読みできるようになったと自覚できている)。

パラグラフ・ライティングという文章作法を信用することは、二点の理由から、リベラル的であると言える。まず、この言論システムを信頼することは、個人の野放図な論説の制作という自由を制限するが、システムに対する信頼そのものは、社会契約説を参照するまでもなく、リベラルであると言える。次に、論説における段落書きは、「この作法を知る読者」すなわち他者を思いやることにつながるから、ロールズ風のリベラルでもある。パラグラフ・ライティングが言論界で貫徹されていれば、言論人同士の誤読・誤配は少なくなろう。また、つまらない外野の声を雑音化することにも役立とう。「つまらない外野」の中には、文章作法のなっていない論者も含まれるということになる(が、そこは、論者自身が修正すべきことである。誰でも発信可能な時代において、「知識人」という旧来の権威が相対的に無力化されることは、避けられない)。

他方、日本のように、公用語の影響力が自国内に限定された国家においては、段落書きされた文章表現は、社会集団が効率よく情報を吸収できるという観点から、社会防衛主義的であると言うこともできる。わが国の事情は、ドイツやイタリアといった、遅れてきた帝国主義国家においては、共通するものであろう。旧植民地においては、高等教育が英語で行われる状態が標準的となっている。皆が統一された読書術・文章術を修得していれば、文章を効率よく、かつ的確に理解することが可能となり、結果、議論の正確性も向上しよう。そうであるべきところ、しかも日本語論壇に舶来ものをありがたがる風潮があるにもかかわらず、なぜか、文章作法だけは、未熟な状態に留まっている。自称「保守」や「国家主義者」の著者の大半が段落書きできておらず、その理由についても言及していないことは、社会防衛主義者から見たとしても、お粗末な事態である。この事態は、「保守」や「国家主義者」の大半がマウントを取りたいだけの権威主義者に過ぎないのではないか、という疑いをも抱かせる材料でもある(。もちろん、本稿は、「正しい知識」という観点からのマウント・ポジション狙いのものである)。

私は、効率的かつ効果的な読書体験を、日本語話者・日本人の生き残りに役立つものと考える。民族のサバイバルには、非常に広範な分野に散在する知識を集成し、知恵(知性)へと変化させることが必要となる。段落読み・段落書きは、各人が実践すれば、社会において、その作業効率が指数関数的に高まるという集合的効果を生じよう。また、段落書きされた文章は、国際秘密力集団の手口に通暁した上で、日本人に対して的確な助言を提供している人々の所在を示す手掛かりとなるやも知れない(。敵方もパラグラフ・ライティングされた書籍で効率的に学習している以上、民族独立の意志と知識との両方を兼ね備えた人々が、その知恵を伝達しない訳がない)。

ただし、読書体験の向上した社会に何が生じるのかは、私には分かりかねることである一方で、羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』[3]は、この帰結に対するヒントを与えているような気がする。同書は、ゾンビ物の例に漏れず、群像劇となっている。そのうちの一人、ビジネスマンの「浩人」は、映画を早送りで見るといった「時短」を習慣とする。彼は、ゾンビ映画を時短で見た後、ネットで他者の感想を検索・確認した上で、自身の感想を大勢のものへと修正する。挙げ句、関連事項を次々と検索し続け、時短で節約した45分間を浪費してしまう〔p.73〕。この先は、ネタバレとなるから、オチは、同書に譲ることとしよう。


[1] 沼崎一郎, (2018.1).『はじめての研究レポート作成術(岩波ジュニア新書865)』, 東京:岩波書店.
http://id.ndl.go.jp/bib/028725437

[2] 木下是雄, (1981.9). 『理科系の作文技術』, 東京:中央公論社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001522014

[3] 羽田圭介, (2016.11). 『コンテクスト・オブ・ザ・デッド = CONTEXT OF THE DEAD』, 東京:講談社.
http://id.ndl.go.jp/bib/027697574




2018年7月27日20時27分訂正

一部の表現や誤記を訂正した。