2017年5月9日火曜日

(メモ・感想)ジャパン・ハンドラーズなき後の日本はそれでもアメリカを選ぶのか

2017年3月25日の記事中に示した、リチャード・ターガート・マーフィー氏の『日本 呪縛の構図』[1]の出典を(一部)確認したので、本日、当該の記事を修正した。また、本記事の末尾に引用部分を掲載して、感想を示す。なお、題名への私の答えは、分からないというものである。

マーフィー氏の筆致は、日本における米国(人)の戦争屋、すなわち、(ニュー・)ジャパン・ハンドラーズ※1の役割を明記している。また、ハンドラーズのカウンターパートである(高級)官僚の役割についても、同書の中に十分な量の記述がある。マーフィー氏の示した日本の権力構造は、反発する向きもあろうが、世界的に発信されてしまったものである。社会科学分野における事実の解釈において、絶対的に覆すことのできない解釈というものはないが、限りなく優勢である有力説があるとは言うことができよう。今後の日本研究において、ジャパン・ハンドラーズとカウンターパートである高級官僚とが結託して鳩山政権を転覆させたという過去の実績は、周知の事実に対する解釈として、現在の政治情況理解の出発点に据えるべきであろう※2

ジャパン・ハンドラーズとそのカウンターパートたちの交友関係自体を陰謀説と片付けることは、最早、学術上は困難なことである。引用部分の末尾にある中国(の漁船)・北朝鮮(のミサイル発射実験)・太平洋プレート(による3.11)という三点の現象の要因に、ジャパン・ハンドラーズたちの積極的な関与を認めることはヒュミントの領域であり、その疎明も困難であろう。しかし、これらの重大な出来事を受けて、ジャパン・ハンドラーズたちがいかに活動したのかの検証作業は、LIHOP(Let It Happen On Purposeの略、未必の故意に相当)の観点からも必要な、陰謀論とは呼べない学術的探究となろう。たとえば、長島昭久氏の民進党の離党(2017年4月10日)も、この観点から批判的な検証の対象となって良いであろう。

ただ、マーフィー氏の日中関係に係る持論は、中国史における冊封体制を考慮しないものであるように見えるという疑問がある。マーフィー氏が下記の引用部分で「日本にとってアメリカを同盟国に選ぶのは合理的な選択」と結論する裏には、中国が若者たちの不満を処理しきれていないように見えていたという2000年代以降の傾向と、日本人の若年・中年層が中国のような暴動に走らなかったという現状との非対称性が隠されているのではないか。中国の若年世代にあまねく経済的な恩恵が及び、家族が持てる程度の暮らしを誰もが送れるようになったとき、日本の大多数の若年層の生活状況は、果たして、中国人の嫉妬を買うものであり続けているであろうか。近い未来に、中国人の若年世代は、自国の状況と日本人の同世代の生活状況とを、どのように比較するのであろうか。この対比を経ないことには、マーフィー氏の結論に即乗りする訳にはいかない。

現在、中国は、一帯一路を新たなフロンティアに見立てた土地本位経済・途上国開発経済に依存しようとしている[2]。しかし、少なくとも、(嫌中派の星とも言うべき存在であった)岡崎久彦氏[3]が2008年に予測したような大崩壊を起こしてはいない。今や経済規模で世界第一位となった中国は、周辺国の尊敬を得ることをも目的として、AIIBを通じて、一帯一路の経由国を対象に、新「マーシャル・プラン」を実施するであろう。アフガニスタン・パキスタン・イラン・イラク・シリアは、「戦後」直後である。この一帯一路における「対口支援」が、中国によるアフリカ開発について岡崎氏が揶揄していたような失敗に陥らなければ、その成功は、中国国民に自国に対する新たな誇りを与えることになろう。一帯一路的手法は、中東の産油地帯を越えても適用されるかも知れない。北アフリカは、カラー革命とリビア侵略の煽りを受け、やはり戦後状態にある。一帯一路は、大西洋を目指す円弧(great arc)を形成することを目的としているかも知れない、などと考えもできる。つまり、ハートランド理論に対する万里の長城としても機能しうることが目的とされているかも知れないのである※3

日本人が中国による一帯一路の成功を目の当たりにし、また、ジャパン・ハンドラーズの歴史的な搾取の構造を理解したとき、日本人は、米国との関係を再考するのではないか。過去、中国の朝貢外交がその時々の朝貢国の経済に対してどれだけの負荷を掛けていたものかは分かりかねるが、その支出が日本の大衆にとって合理的に見えるとき、中国への鞍替えは、容易に生じうるであろう。90年代以降、日本企業が中国に大々的に進出した一方で、その主力となった戦後のベビーブーマー(とその子世代)は、そのときの軋轢から、ネトウヨの主要論調を用意し、これに同調した同世代が広範なネトウヨ群を形成するに至った。この経緯に見るように、場当たり的かつ受動的に活動し、その都度、周囲の環境に対して感情的に反応する状態は、日本人の「膏薬」ぶりを示している。つまり、プリンシプルなく、どこにでも屁理屈とともにくっつけられる存在である。米国と中国との外交に係る日本の判断は、合理的で、先進国に生きる(真っ当な)市民からみて真っ当なものであれば、今後、いかなる見かけ上の事態が生じても、(福島第一原発事故を超えて目に見えるほどの)大きな問題には至らないであろう。しかし、現実には、エリートであるべき人物の判断と日本人の衆愚の意見とは、相似したものとなっている。


※1 誤解なきように特記しておくが、マーフィー氏による「ニュー・ジャパン・ハンズ」の定義(p.208)は、あくまで、(当時の)鳩山由紀夫氏を敵と見做した米国側の知日派という意味しか有さない。しかし、これらの「知日派」は、偶然によるものか、本ブログによるところの「戦争屋」と人物ならびに集団が一致する。よって、日本の国民益を重視する考察者ならば、これらの語を互換的に使用可能である。本ブログでは、「戦争屋」の語を逐一定義し、名指ししたリチャード・アーミテージ氏とマイケル・グリーン氏については、根拠を添えた指摘をなしている。彼らの日本語マスメディアにおける取扱いは、公人と呼んで何ら問題のない程度にヘビーローテーションであり、重要人物扱いである。

※2 この理解が周知されれば、鳩山友紀夫氏と小沢一郎氏の名誉回復、彼らの名誉を失墜させた司法および行政活動に対する原因の究明、ならびに関係者の処罰は、今後の日本の政治活動を正常化する上で、望ましい正義と化すであろう。

※3 東の果てに魔界への入口が開いているだなんて、まるでスーパーファミコンの『ロマンシング サ・ガ3』(1995年, スクウェア)の世界であるが、まさか、ね。


[1] R・ターガート・マーフィー著, 仲達志訳, (2015年12月).『日本呪縛の構図 この国の過去、現在、そして未来』下巻, 東京: 早川書房, pp.222-223.(リンクはNDL-OPAC)

[2] 西村豪太, (2015年12月).『米中経済戦争 AIIB対TPP』, 東洋経済新報社, 第5章.(リンクはNDL-OPAC)

[3] 岡崎久彦・渡辺利夫, (2008年11月). 『中国は歴史に復讐される 繁栄か、崩壊か―赤い資本主義の全シナリオ』, 東京: 育鵬社.(リンクはNDL-OPAC)


〔#p.222〕沖縄県民が立ち上がったことで新たな現実に直面した日本にも二つの選択肢があった。一つ目は、日本政府が日米「同盟」が実際には真の同盟関係とは似て非なるものであることを公然と認めることだった。今の日本はアメリカの同盟国ではないし、過去に一度も同盟国だったことはない。それよりむしろ、日本はアメリカの保護国に近い存在と言っていい。国内統治に関してはある程度の裁量権を与えられているが、すべての重要な外交政策や安全保障上の問題、そして既存システムの改変につながるような経済政策の問題の扱いについては、必ずアメリカ政府の意思に委ねなくてはならないからだ。この事実を公然と認めれば様々な対応が必要になることは言うまでもないが、その一つとして沖縄の米軍基地の大半を本土に移転させ、米軍による「占領」の負担(そこには大規模な基地がもたらす騒音被害や混乱はもちろん、傷ついた国家の威信、主権の侵害、占領軍が必ずもたらす腐敗などが含まれる)を狭小な沖縄本島だけでなく、日本全土で公平に引き受ける必要が生じるだろう。

もう一つの選択肢は、日本が自らの運命を支配し、自らの手で国家を運営する能力を取り戻すことである。言い換えれば、それは一九三〇年代に日本が放棄した主権を回復することを意味する。当時の日本は根本的な政治問題に正面から向き合い、どんな政治体制においても最大の危険分子となりうる勢力(物理的な強制手段を自由に使える立場にある野心的で過激な若者たち)を抑えつけることを怠った結果、主権を手離してしまったのだ。だが、その回復に見事成功し、日本が真の意味で完全な主権国家に戻れるようなことがあれば、結果的にアメリカの本当の同盟国になったとしても〔#以下p.223〕おかしくない。実際に、そうなる可能性はかなり高いと言っていい。日本が新たに世界的な大国として台頭した中国とこれほど近い距離にあること、そして中国自体が自国の過激な若者たちを抑えつけるのに苦労していることを考えれば、現実主義の政治理論からして(単に常識で考えてもそうだが)、日本にとってアメリカを同盟国に選ぶのは合理的な選択と言えるからだ。だが、日本がアメリカ(あるいはそれ以外のどんな国でもいいが)の同盟国になるには、その前に真の主権国家になる必要がある。

これこそが民主党、とりわけ小沢〔#一郎〕という一人の政治家が把握していた日本の現状だった。鳩山が日米同盟の再交渉を持ち掛けた背景にはこうした現状認識があったのである。だが米国防総省とニュー・ジャパン・ハンズはまったく開く耳を持たず、凄まじい剣幕で怒りを爆発させただけだった。その一方で、日本では五五年体制の守護者であり、その主要な受益者でもある層、つまり自民党と官僚は「沖縄の乱」が意味する現実を頑として受け入れようとしなかった。彼らは塀から落ちたバンプティ・ダンプティを元に戻せるという幻想をいまだに抱いていたのだ。そこで彼らは暗黙裡に力を合わせて新政権を崩壊させる手筈を整えた。だが、その過程でまったく予想外の三つの方角から援護射撃を受けることになる。北京、平壌、そして太平洋の真下にある海洋プレートであった。




2017(平成29)年05月14日追記

本文中に「社会科学分野における事実の解釈において、絶対的に覆すことのできない解釈というものはないが、限りなく優勢である有力説があるとは言うことができよう。」と記したが、念のため記しておくと、私は、この文の中で、社会科学分野における事実そのものの当否については問うていない。表現をより限定すれば、ある出来事に係る真相は、その真相が誰にでも観察可能・後追い可能なものであるか否かはともかく、一通りしか存在しない。ある出来事と、その出来事を観察(しようと)する人物の解釈とを峻別することは、現代的な社会科学の基本である。

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